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小林あにのブログ一覧

2022年02月27日 イイね!

旧伊那街道「知生坂」を探索する(2)

2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。

その1の終わりは、旧伊那街道「知生坂」の区間で、一番高い所を通る林道へと出てきた場面でした。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道へと左折し、しばらくこのまま林道を歩いていきます。


この林道はいわば「知生坂」の峠部分に当たるので、ここから峠の反対側へと下っていくポイントを探します。

林道の両脇を見渡しながら「街道の跡はないなぁ。」とつぶやきつつ進んでいったところ、林道の右側に落ち込んでいく沢筋がありました。

そこは、まるで人の出入りができるように路肩が抉られていて、その部分に「設楽町」のコンクリート製標石が立っています。


覗き込んでみると、道跡のような平場が下方へと続いていっています。


現地点はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「違っていたら引き返せばいいし、取りあえず辿ってみるか。」ということで、道跡と思しき平場を進むことにします。


歩いている平場の真下にも道跡と思しき平場が並行して続いています。これはあとで確認することにします。


進んでいくと、さらに奥へと向かって平場が続いています。道跡であることは間違いなさそうです。


深い切り通しが現れました。この道跡が旧伊那街道で間違いなさそうです。街道ではない単なる山道では、わざわざこんなに深く切り通しを造るような事はしません。


切り通しを通り抜けると、先ほど真下に見えていた別の道跡へと合流していくのが見えました。


合流地点にも「設楽町」の標石が立っていました。ただ、この標石が旧伊那街道のルートがたまたま町道となっているので立ててあるのか、町有地の境界などを示しているものなのかは不明です。


合流地点で右折して坂を下っていき、前方に見えている沢を渡って対岸へと進んでいきます。




沢の右岸を進んでいきます。斜面が急傾斜のためか、道跡の一部が崩落している箇所もあり、注意して進みます。




また深い切り通しを通り抜けていくと、次の沢が現れます。




沢で街道跡は折り返し、さらに中腹を進みます。ここの沢は大きな石が転がっていないために、一見すると沢筋が街道跡に見えてしまいます。




街道跡の道幅が細くなってきています。


街道跡の真下に県道10号が並行してきました。


直線的な坂を下り切ったところで作業道と交差。この地点で街道跡があいまいな状況になってしまいました。




ここまで県道が近づいてきているので、もう県道へと出ても良かったのですが、行ける所まで直線方向へ林の中を突っ切ることにします。






県道10号へと出てきました。右側の山の斜面には道跡らしき平場は見い出せなかったので、旧街道はこの辺りへと出てきていたのでしょう。


合流地点からすぐ先にある県道10号の境橋へ来ました。


橋から境川を眺めると旧橋の橋台が残っていました。


さらにその右側には石積みの橋台が残っていました。これは予想外でしたが、明治時代の旧伊那街道の車道改修時に架けられた旧旧橋の橋台でしょう。


河原から見上げた旧旧橋の橋台です。


これで旧伊那街道「知生坂」のルートを踏破することができました。この時点で時刻は15時20分。今いる場所は日陰側になるので、薄暗くならないうちに峠まで登り返します。


峠の反対側も登り返していくと、けっこうな急坂であることを実感します。


旧伊那街道と並行していた道跡との分岐点まで戻ってきました。ここからは真っ直ぐに並行していた道跡へと入っていきます。


急坂である旧伊那街道の迂回路として造られた道かとも思っていましたが、この雰囲気は林業用の作業道が廃道化したもののようです。


真相は不明ですが、自分としては一気に興醒めしました(笑)。


分岐が現れました。私としてはとにかく山の上へと登りたいので、左側の道跡を進んでいきます。


道跡は稜線部を通過する林道へと合流する気配もなく右側へとカーブしていくので、ここからは林道まで直登します。


日が陰る前に知生地区の遠山家まで戻ってこられました。


そして16時半頃、車へと戻ってきました。


今回踏破したことで確認できた旧伊那街道「知生坂」のルートはこちらです。






旧伊那街道が知生坂を通っていたことはけっこう以前から知っていましたが、出入口が判然としないというような話をどこかの本で読んだ記憶があり、ずっと手付かずでした。県道10号で付近を通過するたびに斜面を見上げては、道跡が無いかと気にしていたものです。

これでまた一つ、愛知県内の旧街道の峠道を確認することができました。今回は訪れた方の記録が確認できたことで、大いに助けられました。


※ここからは余録です。

旧伊那街道「知生坂」には、江戸時代の物騒な事件の記録が残されています。「設楽町誌」と「奥三河郷土館」の「郷土館発」という記事で詳細が紹介されています。

弘化4年(1847年)7月4日、信州飯田町(現在の長野県飯田市。)の銀兵衛の伜である丈兵衛(29歳)が、知生峠で三人組の盗賊(綱吉、熊次郎、源治郎)に殺されるという事件が発生しました。信州飯田の商人である丈兵衛は、所持する商取引の集金を三人に狙われて殺害され、そのうちの二人は逃げ失せましたが、綱吉は田口十箇村(現在の設楽町田口周辺の十の村々のことか。)の人々の協力により逮捕されました。

この逮捕劇に動員された人員は田口十箇村だけで千二百人以上だそうです。その後にやって来る検視役人の接待も田口十箇村が担い、その準備に苦慮し、出費も大変だったようです。また、この事件の裁判のために江戸から出頭命令が来て対応したのも、やはり田口十箇村としてだったそうです。田口十箇村の区域内で事件が起きたばっかりに、とんだとばっちりを受けてしまいました。

事件が発生した知生峠がある向林村(当時)は、現在の福島県いわき市に拠点があった磐城国平藩の飛び地領の一つでした。三河国内の飛び地領支配のための陣屋が宝飯郡国府村(現在の豊川市国府。)にあり、そこから検視役人はやって来ました。また、被害者である丈兵衛の出身地である信州飯田藩からも役人が出向いてきました。

一方、丈兵衛の遺体は峠から引き揚げられ、7月7日に塩漬けにされたそうです(検視に供するために遺体の防腐処置として施されたのでしょう。)。その後、丈兵衛の遺体は国府陣屋の役人の検視を受けて、綱吉は連行されていったようです。

そして、丈兵衛の遺体は、村内の寺へ仮埋葬されたそうです。

この事件から、当時、信州と三河の間を商人が普通に行き来していたこと(しかも、丈兵衛さんは「集金」のために信州から三河まで出向いてきている。)、当然、物資の往来も盛んであったであろうことが伺えます。だからこそ、往来する商人を狙う盗賊が山深い峠に出没したわけです。
Posted at 2022/02/27 21:59:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記
2022年02月23日 イイね!

旧伊那街道「知生坂」を探索する(1)

2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。

まずは前置きから記していきたいと思います。

さて、この付近では愛知県道10号が「伊那街道」の通称で呼ばれることがありますが、この県道10号は設楽町八橋の谷合橋から設楽町津具字簀ノ子の境橋まで、旧来の伊那街道とは違ったルートを取っています。

これは、伊那街道の車道改修(馬車が通行できるようにするもの。)の際に勾配のきつい「知生坂」を避けて、付近を流れる境川の渓谷に沿って新たに道路が開削されたからです。いつ頃改修されたかについてははっきりとした資料は無いようで、「明治10年代から20年代にかけて。」とか「明治の中頃。」のようなあいまいな記述しか見当たりません。

「知生坂」付近の現在の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

明治時代以前の伊那街道がわざわざ「知生坂」を越えていたのは、一つには境川沿いの渓谷が険しく、街道の建設とその後の維持が困難だったためと考えられます。同じポイントで昔の街道は山の上の峠道を通っていて、現代の道路は勾配の緩い川沿いや海沿いを急斜面や崖を掘削して通過しているのはよくあることです。

あとは、交通手段の違いもあるでしょう。明治時代以前はもっぱら徒歩・牛馬といったところであり、通行時に地形から受ける制約は馬車や荷車(さらには自動車。)に比べればずっと少ないものです。その上、移動速度は遅いわけで、それならば勾配を嫌っていたずらに迂回した街道で余計な時間がかかるよりも、急坂であっても短絡的なルートを選択するのもありなわけです。

ここ「知生坂」に関しては、遅くとも明治中頃には境川沿いの新街道へと交通が移行し、峠を越える旧街道は寂れていったようです。

それでは探索時の内容について入っていきます。

やって来たのは設楽町八橋の谷合橋から知生地区へと向かう細道へと数百m入り込んだ場所。時刻は13時です。


車を駐車した場所から谷合橋側へとやや移動し、旧伊那街道が分岐する場所へと来ました。


この場所から探索を始めることにしたのは、事前にインターネットで探索した方がいないか調べてみたところ、「知生坂」を歩いた方の記事が1件だけヒットし、その方が峠からこの場所へ出てきたことが特定できたからです。

それでは街道跡を辿っていくことにします。




歩き始めて5分ほど。石積み橋台が現れました。


大人でないと一抱えできないような大きさの石を積み上げています。


歩いてきた方向を振り返っています。「知生坂」では一番目立つ遺構でしょう。


石積み橋台の先へと進んでいきます。


谷の中に突き出している小高い尾根へと登っていきます。






川沿いへと出てきました。街道跡の下の斜面が崩落しているため、道幅が狭くなっています。注意しながら通過していきます。




街道跡が折り返していきます。


折り返しを登ったところで行き止まりになってしまいました。下調べの時点でわかっていましたが、完全に埋め立てられていますね。


この行き止まり地点の右側に石仏があります。設楽町誌村落誌によると「庚申塔」とのことです。石仏はおそらく青面金剛、石台に彫られているのは三猿だそうです。


埋め立て地の斜面を登っていきます。


埋め立て地を横切り、ひとまず奥に見えている道路へと向かいます




道跡らしきものをなぞりつつ道路へと出てきました。写真に書き込んであるとおり、正面方向の道が旧伊那街道になりますので、そちらへと進みます。


坂道を登っていくと大きな家屋があります。見たところすでに誰も住んでいないようです。


設楽町誌村落誌によると「知生のはずれ、遠山宅横に茶店があり、知生峠を往来する人の憩いの場で、五平餅などを商いしていたようである。」とあります。この大きな家屋に掛かる表札には「遠山」とあり、おそらく設楽町誌に記述されている遠山宅そのものでしょう。

あと、この知生地区については、「伊那街道で搬送馬の往来が盛んだったころは、馬宿をする家も多かったらしいが…、明治の中ごろに現在の県道ができ、馬車が通るようになるまでは賑わったそうである。」と記述されています。

インターネットでヒットした「知生坂」の記事は10年くらい前のものでしたが、添付の写真には遠山家以外に何軒も住宅が写っていました。しかし、今はこの遠山家以外、住宅は見当たりません。

さて、旧伊那街道は遠山家の家屋を囲むように進んでいきます。


古道の中にはどう見ても人様の家の敷地にしか見えない場所を通っている場合もあるので、念のためひと声かけるのが肝要ですね。

遠山家の裏山を登っていきます。




崖崩れで街道跡が途絶えてしまいました。


大木の下をショートカットして、一段上の街道跡へと移動します。




街道跡が荒れてきましたね…。


またしても途切れて行き止まりです。


どうやら、進行方向に対して右側の折り返し部分が、ことごとく崖崩れに巻き込まれてしまったようです。


さらに伐採地になって、その後にきちんと再植林されなかったのか、周囲が荒れ放題になってきました。街道跡は目で追えますが、忠実に通過するのがとても厳しい状態です…。






何とか荒れ地を通過し、地形図で軽車道表記されている道との交差地点に出ました。見たところ、廃道化した林道のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃林道との交差地点を直進していきますが、周辺が緩斜面となって明瞭な道跡を見い出すのが難しくなってきました。


地表にわずかに残る連続したU字型の窪みを探して、林の中を進んでいきます。


何か違和感を感じる木。切り株?でも断面が見えてなくて、樹皮が頭頂部を包むように被っています。枝葉もない。何でこうなってるの?


街道跡を進んでいくと、またしても崖崩れで途切れて行き止まりに。




地形図にきちんと表記されているほどの大きな崩落地のようです。


崖の端を歩いて迂回して、街道跡の続きへと出ます。


深く掘り込まれた切り通しが連続して現れます。










再び林道との交差地点に出ました。旧伊那街道はここで左折します。


場所はこちら。この林道付近が「知生坂」の一番高い地点になります。なので、この付近のどこかが「知生峠」と呼ばれていたのでしょう。


ここからしばらくは林道を進むことになります。林道の左右を見渡しながら歩きましたが、旧伊那街道の痕跡はわかりませんでした。おそらく林道建設時に破壊されてしまったのでしょう。


※その2へ続きます。
Posted at 2022/02/23 17:16:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧伊那街道 | 日記
2022年02月21日 イイね!

ブログに書いてない訪問場所が溜まってきた…

取りとめもない話ですみません。夜中に目が覚めたので、つらつらと書いています。

私のみんカラのブログは、「カーライフ」という趣旨からはやや外れた廃道・廃線探索をメインにしております(出かけた先での車の写真を載せることで、名目を保っているつもり(笑)。)。

それとして、現在、みんカラに書き込んでいるブログの内容は、現実と大体1か月半くらいずれています。以前は訪問当日か翌日には書き込んでいたものですが、最近は筆が重たくなってきました。

あくまで自分の記録のために始めた事なので、「読み返してそこそこわかればいいじゃないの。」というものですが、どうしても高じてきてしまうのです。

自分のレベルでですが、撮ってきた写真を選別してパソコンで加工して、パソコンで地形図を呼び出して加工して、インターネットで他の方の訪問記録や参考資料を検索して、地元の図書館へ行って市町村史・誌で訪問案件の関連記事がないか探してとか、色々とやっていると段々とズレていくわけです。

さらに輪をかけて、土曜日は大体「お出かけ」だけはしているので、未書き込みの案件は着実に増えます。

そこで何とか日曜日に書き出そうと思うのですが、「何か疲れたなぁ。」とか言って、夏休みの宿題よろしく先送りをするわけです。

今現在、書き込もうと思いつつ溜めている案件は次のとおりです。繰り返しますが、一応、書くつもりではいます(笑)。

1月8日(土)旧伊那街道 知生坂


1月9日(日)根道・信玄道


1月15日(土)伊勢神峠・大多賀峠周回


1月16日(日)佐久間ダム・道の駅新野


1月23日(日)東栄町月〜設楽町神田の里道跡・花丸峠・旧海老街道 花丸峠道 設楽町神田側


2月12日(土)旧片平橋・旧大岨隧道・桜沢橋梁


2月20日(日)旧伊那街道 アンザの坂


まずは「旧伊那街道 知生坂」を2月23日の祝日にでも書ければなと考えていますが、どうなりますかね(笑)。
Posted at 2022/02/21 02:50:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記 | 日記
2022年02月13日 イイね!

天城山隧道と韮山反射炉へ行ってきました

2022年1月2日日曜日、弟と一緒に静岡県伊豆市の天城山隧道と伊豆の国市の韮山反射炉へ行ってきました。

最初に訪れたのは天城山隧道。周辺の地図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道414号から旧道が分岐する地点にある駐車場に車を停めて、ここから徒歩でトンネルへと向かいます。


普通はバイパスルートができると旧道は国道から格下げされるものですが、この道は国道指定されたままのようです。


1車線から1.5車線幅の旧道を歩いていきます。旧道は砂利道となっていますが、元々は舗装されていたものを、トンネルの文化財指定に伴う整備の際に剥がしたようです。






乱積みされた石垣。明治時代の旧道建設時のものでしょうか。


駐車場から約35分、天城山隧道に到着しました。旧道は車両通行止めになっているわけではないので、ここまで乗り入れてきた車が停まっています。


あらためて天城山隧道です。トンネルは現地の説明板によると1905年(明治38年)の開通(文化庁のデータベースでは1904年(明治37年)。)。川端康成の「伊豆の踊子」に出てくるトンネルとして知られています。


総石積みで建設されたトンネルでは国内最長であり(現地説明板は446m、文化庁データベースでは444.5m。)、貴重であるということで国の重要文化財に指定されています。


トンネル上部に掲げられている扁額。「天城山隧道」と陽刻されています。


こちらは現地に設置されている説明板。


冬期の路面凍結や氷柱の落下に注意するよう案内板が設置されています。訪問時も坑門から氷柱がぶら下がっていました。


坑口からすぐの側壁も凍り付いています。沢のすぐ横にトンネルがあるので、地中からの漏水が多いのでしょう。


それではトンネル内を歩いていきます。明治期の道路トンネルで延長が400m以上あるのは珍しいと思います。道路での往来のほとんどが徒歩や牛馬車である時代、重要な街道の峠だとしてもここまでの規模のトンネルを掘削するのは躊躇するでしょう。


ちなみに鉄道トンネルではほぼ同時期の1903年(明治36年)に開通した中央本線笹子トンネルが延長4,656mと当時日本一の延長を誇ります。

内部は照明が設置されていますが、雰囲気を損なわないようにするためか、光量の少ないものが点々と設置されているだけです。


なので、暗闇が苦手な方は懐中電灯を持参した方がよいかもしれません。


河津町側の坑門です。伊豆市側の坑門とデザインには特に違いは感じられません。






愛嬌のある踊り子の絵が描かれた案内板。


トンネルの上に登ってみました。上に登れそうなトンネルには何気によく登っています。そこに発見があったりもしますので(笑)。


河津町側の扁額。こちらは陰刻となっています。


それでは車へと戻っていきます。






車に戻ってきたのは13時半過ぎ。伊豆半島とは言え、高い峠の山中でもっと冷え込むかと思いましたが、穏やかな天候で助かりました。


一旦、修善寺まで下りて、コンビニで腹ごしらえ。このまま帰っても良かったのですが、せっかくなので、私の希望で韮山反射炉へ行くことにします。

地図はこちら。


韮山は鎌倉幕府執権の北条氏の遺構などもありますが、今回はこちらにしました。

韮山反射炉です。江戸幕府の命により建設され、1857年(安永4年)に完成。鋳鉄製及び青銅製の大砲の製造工場として活用されました。


明治時代に入り使われなくなったようですが、1908年(明治41年)に陸軍省により補修され、1922年(大正11年)に史跡指定されました。早い時期に保存対策が成されたため、良好な状態を保っているそうです。


反射炉の説明板です。「反射炉」というのは、ドーム型の炉内の天井で熱や炎を反射させて一点集中させることにより高温を発生させる仕組みの炉のことだそうです。


今回の正月休みのドライブは2か所回っただけでしたが、なかなか良いドライブでした。
Posted at 2022/02/13 13:30:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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