2022年1月8日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町八橋地内に残る旧伊那街道「知生坂」の峠道を探索してきました。ちなみに「知生」は「ちしょう」と読みます。
その1の終わりは、旧伊那街道「知生坂」の区間で、一番高い所を通る林道へと出てきた場面でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
林道へと左折し、しばらくこのまま林道を歩いていきます。
この林道はいわば「知生坂」の峠部分に当たるので、ここから峠の反対側へと下っていくポイントを探します。
林道の両脇を見渡しながら「街道の跡はないなぁ。」とつぶやきつつ進んでいったところ、林道の右側に落ち込んでいく沢筋がありました。
そこは、まるで人の出入りができるように路肩が抉られていて、その部分に「設楽町」のコンクリート製標石が立っています。
覗き込んでみると、道跡のような平場が下方へと続いていっています。
現地点はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
「違っていたら引き返せばいいし、取りあえず辿ってみるか。」ということで、道跡と思しき平場を進むことにします。
歩いている平場の真下にも道跡と思しき平場が並行して続いています。これはあとで確認することにします。
進んでいくと、さらに奥へと向かって平場が続いています。道跡であることは間違いなさそうです。
深い切り通しが現れました。この道跡が旧伊那街道で間違いなさそうです。街道ではない単なる山道では、わざわざこんなに深く切り通しを造るような事はしません。
切り通しを通り抜けると、先ほど真下に見えていた別の道跡へと合流していくのが見えました。
合流地点にも「設楽町」の標石が立っていました。ただ、この標石が旧伊那街道のルートがたまたま町道となっているので立ててあるのか、町有地の境界などを示しているものなのかは不明です。
合流地点で右折して坂を下っていき、前方に見えている沢を渡って対岸へと進んでいきます。
沢の右岸を進んでいきます。斜面が急傾斜のためか、道跡の一部が崩落している箇所もあり、注意して進みます。
また深い切り通しを通り抜けていくと、次の沢が現れます。
沢で街道跡は折り返し、さらに中腹を進みます。ここの沢は大きな石が転がっていないために、一見すると沢筋が街道跡に見えてしまいます。
街道跡の道幅が細くなってきています。
街道跡の真下に県道10号が並行してきました。
直線的な坂を下り切ったところで作業道と交差。この地点で街道跡があいまいな状況になってしまいました。
ここまで県道が近づいてきているので、もう県道へと出ても良かったのですが、行ける所まで直線方向へ林の中を突っ切ることにします。
県道10号へと出てきました。右側の山の斜面には道跡らしき平場は見い出せなかったので、旧街道はこの辺りへと出てきていたのでしょう。
合流地点からすぐ先にある県道10号の境橋へ来ました。
橋から境川を眺めると旧橋の橋台が残っていました。
さらにその右側には石積みの橋台が残っていました。これは予想外でしたが、明治時代の旧伊那街道の車道改修時に架けられた旧旧橋の橋台でしょう。
河原から見上げた旧旧橋の橋台です。
これで旧伊那街道「知生坂」のルートを踏破することができました。この時点で時刻は15時20分。今いる場所は日陰側になるので、薄暗くならないうちに峠まで登り返します。
峠の反対側も登り返していくと、けっこうな急坂であることを実感します。
旧伊那街道と並行していた道跡との分岐点まで戻ってきました。ここからは真っ直ぐに並行していた道跡へと入っていきます。
急坂である旧伊那街道の迂回路として造られた道かとも思っていましたが、この雰囲気は林業用の作業道が廃道化したもののようです。
真相は不明ですが、自分としては一気に興醒めしました(笑)。
分岐が現れました。私としてはとにかく山の上へと登りたいので、左側の道跡を進んでいきます。
道跡は稜線部を通過する林道へと合流する気配もなく右側へとカーブしていくので、ここからは林道まで直登します。
日が陰る前に知生地区の遠山家まで戻ってこられました。
そして16時半頃、車へと戻ってきました。
今回踏破したことで確認できた旧伊那街道「知生坂」のルートはこちらです。
旧伊那街道が知生坂を通っていたことはけっこう以前から知っていましたが、出入口が判然としないというような話をどこかの本で読んだ記憶があり、ずっと手付かずでした。県道10号で付近を通過するたびに斜面を見上げては、道跡が無いかと気にしていたものです。
これでまた一つ、愛知県内の旧街道の峠道を確認することができました。今回は訪れた方の記録が確認できたことで、大いに助けられました。
※ここからは余録です。
旧伊那街道「知生坂」には、江戸時代の物騒な事件の記録が残されています。「設楽町誌」と「奥三河郷土館」の「郷土館発」という記事で詳細が紹介されています。
弘化4年(1847年)7月4日、信州飯田町(現在の長野県飯田市。)の銀兵衛の伜である丈兵衛(29歳)が、知生峠で三人組の盗賊(綱吉、熊次郎、源治郎)に殺されるという事件が発生しました。信州飯田の商人である丈兵衛は、所持する商取引の集金を三人に狙われて殺害され、そのうちの二人は逃げ失せましたが、綱吉は田口十箇村(現在の設楽町田口周辺の十の村々のことか。)の人々の協力により逮捕されました。
この逮捕劇に動員された人員は田口十箇村だけで千二百人以上だそうです。その後にやって来る検視役人の接待も田口十箇村が担い、その準備に苦慮し、出費も大変だったようです。また、この事件の裁判のために江戸から出頭命令が来て対応したのも、やはり田口十箇村としてだったそうです。田口十箇村の区域内で事件が起きたばっかりに、とんだとばっちりを受けてしまいました。
事件が発生した知生峠がある向林村(当時)は、現在の福島県いわき市に拠点があった磐城国平藩の飛び地領の一つでした。三河国内の飛び地領支配のための陣屋が宝飯郡国府村(現在の豊川市国府。)にあり、そこから検視役人はやって来ました。また、被害者である丈兵衛の出身地である信州飯田藩からも役人が出向いてきました。
一方、丈兵衛の遺体は峠から引き揚げられ、7月7日に塩漬けにされたそうです(検視に供するために遺体の防腐処置として施されたのでしょう。)。その後、丈兵衛の遺体は国府陣屋の役人の検視を受けて、綱吉は連行されていったようです。
そして、丈兵衛の遺体は、村内の寺へ仮埋葬されたそうです。
この事件から、当時、信州と三河の間を商人が普通に行き来していたこと(しかも、丈兵衛さんは「集金」のために信州から三河まで出向いてきている。)、当然、物資の往来も盛んであったであろうことが伺えます。だからこそ、往来する商人を狙う盗賊が山深い峠に出没したわけです。