2022年1月23日日曜日、愛知県北設楽郡東栄町振草と設楽町神田の間にある旧海老街道(振草道・ふりくさ道)の花丸峠の峠道のうち、設楽町神田側の峠道を探索してきました。
ここ花丸峠の峠道は、峠の北側である東栄町振草側については2020年5月30日に踏査済みなので、今回は南側である設楽町神田側を探索してみることにしたわけです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
国道473号の路肩に車を駐車し、東栄町月と設楽町神田の間に残る里道跡を歩いて、まずは無名の峠までやって来ました。
この場所から、愛知県道424号に指定されている徒歩道は、花丸峠へと向かって一直線に登っていくように地形図に描かれています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
いろんな方々がレポートしているので、答え自体は知っているのですが(笑)、やはり自分の目で見ないといけませんからね。
県道があるはずの斜面を見上げています。いくつものレポートのとおり、道らしきものは何も見当たりませんね…。
しかし、道は無くともこの斜面を登っていかないと花丸峠へはたどり着けません。正面に見えている斜面へと取り付いて尾根まで登り、そこから尾根筋をさらに登っていきます。
息を切らせつつ旧海老街道へと出てきました。
やはりと言うか、自分の目で確かめても地形図にあるような徒歩道は存在しませんでした。このようなケースはまま存在しますが、国の機関が発行している地図でも完璧に当てにできるわけではないということです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、ここから直接旧海老街道の峠道を下って探索を始めてもいいのですが、あくまでも今回の探索の起点は花丸峠なので、きちんと峠まで登ることにします。
ほんの2分ほど歩くと花丸峠に到着です。
場所はこちら。地形図が示す花丸峠と実際の花丸峠の位置も若干違いますね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
あろうことか、峠の石碑が台座から地面へと転がり落ちています。
この石碑は名号碑(みょうごうひ)と呼ばれるもので、「南無阿弥陀仏」と彫られています。石碑の側面には「元禄十三…」と年号があり、西暦で言うと1700年にこの峠に立てられたものとわかります。
寝転がっている石碑を軽く動かしてみたら、私でも持ち上げられそうだったので、「よいしょっと。」と腰を入れて持ち上げ、台座の上へと据え直しました。
この石碑は名号碑ですが、道標も兼ねています。「右ハ(は)月道」、「左ハ(は)粟代道」と刻まれています。行き先の下には、この石碑の施主名が彫られているようです。
刻まれている地名についてですが、「月」は東栄町大字月、「粟代」は東栄町大字振草の字ですが、現在は上粟代と下粟代があります。「月」は花丸峠から東方で田口(設楽町田口)と本郷(東栄町本郷)を結ぶ里道沿い、「粟代」は花丸峠から北方で旧海老街道沿いにあります。
峠の切り通しにもう一つ立っている石碑。「祖方良意禅男位」と刻まれています。
右側面には「明治三十年…」もしくは「三十一年…」、左側面には「富山縣富山市稲荷町」、「本名 玆原佐七事 ○○○○ 豊崎佐七 ○○四十一歳」とあります。以前にも書きましたが、どうしてこの奥三河の峠に立つ石碑にはるか遠い「富山市」の「佐七さん」の名が彫られているのか?佐七さんがこの峠道で亡くなり建てられたのか?佐七さんは旅行者だったのか?行商人だったのか?花丸峠を越えてどこへ向かおうとしていたのか?いろいろ謎は尽きないですねぇ。
花丸峠の全景です。左側の石垣に囲まれた区画には、かつて茶屋があったと言われています。
花丸峠では、旧海老街道と北設楽郡内の大きな街である本郷と田口を結ぶ里道(街道名が付されていたかは不明。)が交差していました。峠に茶屋があったとしても当然でしょう。
峠の観察はこれくらいにして、本題である設楽町神田側の峠道の探索へと向かいます。
無名の峠から県道424号の想定路沿いに登ってきた場所です。
岩場を越えていきます。
峠道が崩れてしまっています。多少歩きにくかったですが通過できました。
廃道には付きものの倒木。跨いで越えていきます。
岩場を削り込んだのか、道幅がしっかりと保たれています。
うっとうしい枯れ木(枯れ草)。押しのけて進めますが、邪魔なことには変わりありませんからね。
大岩の露頭の前を通過。
うっかりすると直進してしまいそうになりますが(倒木や薮が当たり前で、前方が塞がれていてもあまり気にしなくなってくるので(笑)。)、ここで左へとヘアピンカーブを下っていきます。
しばらく進むと今度は右へのヘアピンカーブがあります(実はこの写真を撮った時点では気付いていません。)。
ヘアピンカーブの周辺が枯れた薮に覆われていたので、その場に来るまで峠道の行き先がわかりませんでした。
また削り込まれた岩壁沿いを進んでいきます。
倒木と薮が絡んでいます。面倒くさいですが、薮を払いつつ倒木を一本一本跨いでいきます。
岩石が大量に転がる枯れ沢を横断していきます。
場所はこちら。峠からここまでの間でも、地形図の破線道(徒歩道)とGPSアプリで記録した歩行ルート(赤線)にずれがありますね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
沢を渡る部分の谷側の路肩には、土留めのための石垣が積まれています。
枯れ沢の上部を見上げています。この岩石が一気に崩落してきたらたまったもんじゃないですね。
真下には県道424号が見えています。この付近も一応車道改修された区間ですが、一般的な乗用車は入ってこないほうがいいでしょう。
杉木立の中の峠道を辿っていきます。
すぐ真下に県道が迫ってきました。
ついに峠道が県道に削り取られてしまいました。これ以上進むことができません。5~10mくらいの崖になっているので、県道へと下りることもできません。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
仕方ないので、県道へと下りられる場所まで引き返すことにします。
結局、岩石がゴロゴロ転がる枯れ沢まで戻ってきました。ここから県道へと下ります。
峠道が削り取られた場所まで戻ってきました。
すぐ先で峠道が復活していたので、峠道まで登り直して、行き止まりの箇所まで戻ってみます。
あらためて峠道を辿っていきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この先は酷い倒木があったり、崩落箇所があったりと、今までよりもさらに荒れた状況となっています。
崩落箇所の上部にある土留め擁壁を伝って先へと進んでいきます。
もはや峠道を辿っているのかどうかもあいまいになっていますが、とにかく進める場所を選んで歩いていきます。
細いながらも峠道が復活してきました。
低い堀割りを越えて進んでいきます。
細尾根の土手道です。
土手道を渡った先にある山桜。
山桜の下、折り重なる岩の隙間に石仏がありました。歩いてきたルートは旧海老街道で間違いないようで一安心です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この石仏は頭に馬頭を乗せているので、馬頭観音で間違いないですね。光背には、「寛政十二申年」、「閏四月吉日」と刻まれています。寛政12年4月は西暦1800年5月に当たるようで、約222年前の石仏ということになります。
石仏を過ぎると尾根道は終わり、折り返して下り始めます。
ふたたび荒れ始めた峠道を下っていきます。
ようやく国道473号へと出てきました。戸口橋のたもとになります。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
峠道を振り返っての風景です。
ついでに戸口橋の周りに街道跡や旧橋跡が無いか探してみましたが、それらしい痕跡は発見できませんでした。
これでおおよそ確定できた設楽町神田側の旧海老街道花丸峠道のルート図です。
さて、ここ旧海老街道の最盛期は明治・大正期で、多い時は一日に二百頭近くの荷馬が往来していたそうです。しかしながら、それだけの交通量がある物流上の重要な街道でありながら、実際に踏破した峠道の道幅は狭く、峠付近は地形も急峻です。
利用が盛んだった頃は、峠道の維持ももっとしっかりと成されていたのでしょうが、それでも「荷物を背負った馬同士が鉢合わせた時には、どうやってすれ違っていたのだろうか?」などと単純な疑問を抱いてしまいます。
道が狭い上に、花丸峠・仏坂峠と険しい峠が2つもある旧海老街道が利用されていたのは、信州・奥三河から新城・豊橋方面への短絡路であったことと、現在の国道151号である旧別所街道の与良木峠という隘路の存在がありました。
しかし、与良木峠の直下に大正10年(1921年)、本郷隧道(トンネル)が開通したことで峠の隘路が解消。これを契機に、旧海老街道を通行していた荷馬は、もともと県道として車道規格の整備が進んでいた別所街道経由へと一気に流れていき、旧海老街道は重要な街道としての地位を失いました。それも当然だったかと納得させられる峠道でした。
それから、地形図に記載されている旧海老街道と思われた破線道(徒歩道)のうち、設楽町神田寄りの後半区間はまったく関係ないものでした。
岩石がゴロゴロしている枯れ沢付近で地形図上の破線道(徒歩道)と離れていったわけですが、ほかの徒歩道があるのかと思い、枯れ沢を少し登っていって周囲を見渡してみましたが、とても徒歩道があるような地形ではありませんでした。
さて、国道へと出てきた時点で時刻は16時半過ぎ。夕闇が迫る中、小雨もパラついています。予定では県道424号で登り直してもう一度里道跡を経由し、車へと戻るつもりでしたが(その方が川沿いに迂回している国道473号を通るよりも距離が短くて済む。)、さすがに薄暗がりの中、照明も無く里道跡を歩いていくのは危険なので、大人しく国道を歩いて戻りました。
車に戻ったのは17時15分。ご覧のとおりすっかり暗くなってしまいました。
日曜日なので次の日はもちろん仕事。少しでも早く帰宅したいところでしたが、疲れてしまって途中で30分くらい寝てしまい、帰宅したのは20時過ぎでした。