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小林あにのブログ一覧

2022年06月26日 イイね!

【飛騨市神岡】国道41号「吉ヶ原橋」の廃道区間を歩く

2022年5月7日土曜日、岐阜県飛騨市神岡町吉ヶ原にある国道41号「吉ヶ原橋」の廃道区間を歩いてきました。3月26日にこの辺りの国道41号をドライブした際にこの廃道を少し歩きましたが、もう一度進める所まで行って様子を確認してみたいと思い再訪問しました。

当日のメインは「吉ヶ原橋」の廃道区間でしたが、橋のたもとの駐車帯に車が何台か駐車していたため、ここは一旦スルー。国道41号をしばらく北上し、3月26日に寄り道した新猪谷ダムへとやって来ました。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

結局、国道41号をさらに北上して、富山県のJR猪谷駅前でUターン。飛騨市神岡方面へと引き返してきて、今度は国道41号「中之谷橋」のたもとに駐車します。


場所はこちら。


停まった理由は、「神岡軌道」の廃線跡をちょっと見てみたかったため。国道41号をJR猪谷駅から戻ってくる途中に何か所か廃線跡が目に入ってきたので、ふと停まっただけです。中之谷橋周辺に廃線跡があるのを確認したわけではありません。

中之谷橋のたもとにある「ずいたん地蔵堂」。


中之谷橋の旧橋台が残っているようなので確認してみます。




次に地蔵堂の境内にあった古そうな標石を確認。「逓信省」とあります。旧逓信省の標石は初めて見ます。


側面には「地下線」と彫られています。付近に電話線の地中ケーブルでもあるのでしょうか?


この後、中之谷橋の脇から沢沿いに上流へと登っていく道を歩き、周囲を探してみましたが廃線跡は見当たりません。

仕方なく国道まで戻り、何気に中之谷橋から下流側を覗いてみたら、「神岡軌道」の橋桁がありました。う~ん、無駄に体力と時間を使ってしまいました…。


気を取り直して、本来の目的地である国道41号「吉ヶ原橋」へと移動。駐車していた車もいなくなり、これで人目を気にする必要もありません。


さて、現在の国道41号は、この場所から「吉ヶ原橋」で高原川を渡り、左岸側へと移動します。しかし、かつての国道41号はこの地点では高原川を渡らず、そのまま右岸側を通過していました。

※5万分の1地形図「東茂住」:大正元年(1912年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

吉ヶ原橋の竣工年月を記した銘板です。昭和42年(1967年)12月とあるので、この頃までは旧道が国道41号として供用されていたと考えられます。


それでは、現在は廃道と化した旧国道を進んでいくことにします。


歩き始めてすぐに橋が現れます。


橋の名称は「岩之谷橋」。


旧地形図に記載されているこの橋マークが「岩之谷橋」です(先に言ってしまうと、この先の道中には橋が存在しないため間違いなし。)。


銘板によると、橋の竣工は昭和28年(1953年)10月。増大し始めた自動車通行に対応するためにコンクリート橋梁へ架け替えられたのでしょう。


橋の高欄。長方形のシンプルなデザインです。




吉ヶ原橋方向を振り返っての眺め。


岩之谷橋をくぐる枯れ沢。雑草でわかりにくいですが、全面に石が貼られています。


ちなみに、3月26日に訪れた時はこんな様子でした。


その時は岩之谷橋の上もほとんど雑草は生えていなかったのに、1か月ちょっとで一気に木々の葉っぱや雑草が繁茂。この先の状況が思いやられます…。


それでは、岩之谷橋の先へと進んでいきます。倒木があったりしますが、道跡ははっきりしていて雑草も想像したよりは少なく、今のところは大丈夫そうです。






土砂で道跡が完全に埋まっています…。「いきなりかよ…。」という感じです。


土砂の上に登ってみました。瓦礫がゴロゴロしていますが靴で足場は作れるので、一歩一歩慎重に横断していきます。


崩落斜面から高原川を見下ろします。路肩まで土砂に埋まっているので、もし滑ったら直接高原川の河原まで落ちてしまいますね。


無事に崩落斜面を横断しました。安全のため、実際の路面の高さよりも高い場所まで迂回しています。


いよいよ薮が深くなってまいりました。


雑草の少ない山側の擁壁に沿って進んでいきます。




背の低い灌木帯。こういう場所は体で押し切って進みます。


山側の石積み擁壁、石の大きさがバラバラ。巨石まで混じっています。時代が新しくなると、ある程度大きさを整えた石を使っていますから、これは古い時代に造られた擁壁かもしれません。


また深い薮です。直線路なのに少しでも薮の薄い場所を探して、ジグザグに進むこともよくあります。


対岸を通る国道41号。


また崩落地です。先ほどのものよりも規模は小さいですが、倒木が絡んでいるので、通過に少々手こずりました。


擁壁の上に設置されていた落石防護ネットを支える鉄柱。ネットは無くなり、鉄柱だけが落石を受け止めています。


ここまで緑が濃くなっているとは本当に誤算でした。進めないことはないので、どんどん奥へと歩いていってしまうわけですが。


谷積みで積まれた石積み擁壁。廃道で見かける遺構としては、コンクリート製のものよりも石積み・石垣の方が私は好みですね。


こちらはコンクリート造りの擁壁。


この場所は枯れ草がペシャンコにつぶれているので、遅くまで積雪が残っていたようです。


またまた深い薮…。


薮を抜けると、草刈りがされたような状態になりました。反対側からこの辺りまで人が入ってくるのでしょうか。




落石などで路面は荒れていますが、道跡を塞ぐほどの薮や雑草は無くなり、気楽に進んでいきます。


玉石積みの擁壁。


ここまで歩いてきて、川側の路肩に駒止めやガードレールの痕跡が全く見当たりません。高原川から高い場所を通っているので、せめて駒止めくらいはあっても良さそうなものですが。


対岸を通る国道41号のロックシェッド。


道跡を塞ぐようにビニールひもが一本張られています。地形図を見ると、この廃道は最終的には「神岡鉱業」の敷地内へ入っていくことになります。「立入禁止」の印と受け取って、ここで引き返すことにしました。


それでは廃道を吉ヶ原橋まで戻っていきます。


吉ヶ原橋のたもとにある駐車帯まで戻ってきました。


おまけで、吉ヶ原橋付近に残る「神岡軌道」のトンネル跡2か所をチェック。




今回は片道約800mと短い距離の廃道でした。往復時間は1時間20分ほど。実際に歩いてみて一番の遺構は廃道の入口付近にあった「岩之谷橋」。あとはひたすら道跡を辿るだけの探索となりました。

廃道に駒止めやガードレールが現れなかったことから、現国道に付け替えられるまで未舗装路のままだったかもしれません。昭和40年代以前の国道41号は、こんな貧弱な道路だったと確認できたのが成果と言えますかね。

最後に帰宅途中、高山市清見町上小鳥に残る旧国道158号の廃橋、「上小鳥橋」に立ち寄りました。現国道の「新上小鳥橋」の真横にある小さな橋です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋の上には害獣捕獲用の檻が置かれています。


橋の先にはかつての国道の跡が残っています。


橋の全景と親柱。竣工年月は、昭和31年(1956年)11月とあります。








ここからはオマケの話。

帰宅してから着替えようと上着を脱いだところ、右腕の上腕部に何かくっついているのを発見。よく見てみると「マダニ」が皮膚に頭を突っ込んでいました。痛みは全然無くて、気が付きませんでした。


「ついにマダニに喰い付かれてしまったか…。」とちょっとショック。マダニと言えば、ひと頃騒がれた「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」を筆頭に、死に至るケースもある各種感染症の原因です。

体は膨らんでいなかったので、「そんなに血を吸われていないのかな?」と思いつつ、熱さに驚いて離れてくれればと、小さな金属棒をコンロで熱してマダニに当てます。金属棒が触れた瞬間に少し動きましたが、何度も当てているうちにまったく動かなくなりました。どうやら死んでしまったようです。

マダニを軽くつまんで動かしてみても皮膚が引っ張られて外れる様子はなし。完全にくい込んでいます。無理に取るのは良くないと知ってはいたので、その日は取るのを諦めました。

結局取り除けたのは月曜日になってから。近所の総合病院の皮膚科で診察してもらい、「本当にマダニだね。」という感じ。処置としては、マダニを周囲の皮膚ごと抉り取りました。局所麻酔をしたので痛みはありませんでした。


各種感染症の最長の潜伏期間が14日間だったので、5月21日が過ぎるまで様子見。無事、何も発症せずにすみました。腕に開けられた穴もちゃんと塞がりました。

今回は探索中、思ったより暑くなって腕まくりをして薮を歩いたのが仇となったようです。夏ならばメッシュの長袖を着て歩くのですが、油断が招いた事故でした。また喰い付かれた時に次も無事でいられる保証はないので、注意しないといけませんね。
Posted at 2022/06/26 23:53:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年06月25日 イイね!

長野県白馬村「姫川源流自然探勝園」へ行ってきました

2022年4月30日土曜日、姉の誘いで母と私の3人で長野県北安曇郡白馬村神城にある「姫川源流自然探勝園」へ行ってきました。

姉の軽四に乗り、自宅を5時半前に出発。新東名豊田東ICから高速に乗り、東海環状道、中央道、長野道と乗り継いで安曇野ICへ。安曇野ICからは、長野県道310号・306号で高瀬川沿いを走行し大町市へ。大町市からは国道147号・148号を走行して現地へとやって来ました。

こちらは最寄りの駐車場となる隣接するスキー場の駐車場。自宅から現地まで4時間かかりました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道148号を横断して、自然探勝園へと向かいます。




自然探勝園入口の案内板。


この先は未舗装の徒歩道を歩いていきます。




駐車場から歩くこと10分強。姫川源流に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所のような湧水地や清流のせせらぎをのんびり眺めていると、心が落ち着きますね。










4月末日ですが、遠方に見える白馬連峰の山々はまだまだ真っ白です。


源流地帯の見物はこれくらいにして、自然探勝園内の他の場所へと移動します。




湿原が見えてきました。


「親海湿原」です。案内板によると、湿原への水の供給は湧水のみで、川による水の流入・流出は無いそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

湿原内に設置された木道を散策します。湿原と言っても、水に浸かっているのは半分くらいでしょうか。陸地化している部分もけっこうあるようです。










「親海湿原」を後にして、車へと戻ります。


ゴールデンウィークということでそこそこ人出があるかと思っていましたが、「姫川源流自然探勝園」を訪れる人は少なく、のんびりマイペースで風景を楽しむことができ、良いリフレッシュになりました。

さて、まだ時間があるので次はどこへ行こうかという話になり(毎回、2か所目以降の訪問先を決めないでドライブへ出発していることがほとんど…。)、姉が「糸魚川市に『フォッサマグナミュージアム』というのがあるから行ってみよう。」ということになりました。

「フォッサマグナミュージアム」


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実は、私自身は2021年8月14日に弟と訪れているのですが、化石とか珍しい鉱石とか楽しめる展示物があるので、「まあいいか。」と特に異論は挟みませんでした(笑)。2度目なので展示物の写真はありません。

せっかく日本海側の糸魚川市まで出てきたので、帰りは国道8号で親不知・子不知を通り抜けて、富山県へと出ることに。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

北陸道朝日ICから高速に乗ろうと考えていたら、姉から「舟川という川から立山連峰を眺められるそうだから、寄ってみよう。」と言われ、朝日ICを通過して眺望スポットにある「舟川べり桜並木駐車場」へと来ました。

場所はこちら。


眺望スポットからの後立山連峰と立山連峰の眺め。








山並みを見終えて、朝日ICから北陸道へ。有磯海SAで眠気が出てきて姉と運転を交替。この後はずっと助手席でウトウトしてました。
Posted at 2022/06/25 19:40:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2022年06月19日 イイね!

旧津具村南部 愛知県道80号の前身道を探索する

2022年4月16日土曜日、旧津具村(現:北設楽郡設楽町津具)の南部を通る愛知県道80号東栄稲武線の前身道を探索してきました。

今回探索してきた周辺の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道80号は、旧津具村の南隣となる東栄町側から来る場合、東栄町内は鴨山川沿いをゆるゆると登ってきますが、町境を越えると一気に急な登り坂となり、旧津具村の高原地帯へと出てくるルートとなっています。町境の標高が505m、旧津具村の高原地帯へと出る地点が659mと、約2kmの間で標高差が150m余りあります。

こちらは戦前の地形図。見比べるとわかりますが、県道80号の前身道であるこの当時の街道は、県道よりも直線的なルートを通って旧津具村の高原地帯へと登ってきています。今回はこの前身道を探索するわけです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

現地へとやって来ました。駐車場所は、県道80号が旧津具村の高原地帯から東栄町方面へと坂を下り始めた辺りです。


参考とする戦前の地形図は現在の地形図に比べると精度が甘く、地形の表現もあいまいなので、地形が谷側へと突出している怪しい場所を2か所ピックアップして、しらみつぶしにしていく作戦です。

1か所目。駐車場所から県道を旧津具村方面へと歩き、左側(谷側)へと入り込んでみます。


ここはハズレですね。急斜面で道のようなものはまったく見当たりません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

2か所目。さらに旧津具村方面へと歩き、再び左側(谷側)へと入り込みます。


ここは先ほどの場所よりもなだらかな斜面ですが、街道が通っていたような形跡はありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道80号へ戻ってきました。


さて参りました。仕方がないのでもう一度地形図を見直すと、現在地からさらに西側、半場地区の先、地形の突出部に道の記載がないのに家屋の記号が連なっている場所があります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは怪しいですね。廃道化により道の表記だけが無くなっているのかもしれません。行ってみる価値ありと判断して、さらに西側へと歩いていくことにします。

半場地区を通る細い道へと合流します。谷側へ向かう道も存在していますね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

進んでいくと石仏群がありました。他所にあったものの寄せ集めの可能性もありますが、道に向かって立てられているものも何基かあり、どうやらこの道が県道の前身道である街道で間違いなさそうです。




舗装路は左へと曲がっていきますが、真っ直ぐにも道(道跡)が続いているのが見えます。


もう間違いないですね。確定です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ただ、ここの獣害防止柵、扉が付いていません…。たいていは廃道・古道であっても、人の出入りができるよう扉が付いているものですが、これは困りました。

無事に柵の向こう側へとやって来ました。一旦、柵が途切れる場所まで引き返して、山の斜面を伝ってこの場所へと出てきました(笑)。


害獣捕獲用の檻ですね。これも廃道ではよく見かけます。廃道なんて基本人間はもう通らないですから、動物にとっては安心・安全に通行できる道ですよね。


路傍にちらほらと石仏が見えますね。


馬頭観音碑(右側)と判読不能の石碑。判読不能の石碑は地面にうつ伏せになっていました。形状からして供養碑の類と思われます。


三体の石仏。


左側から見ていきます。これは馬頭観音ですね。光背には明治廿六年(明治26年、1893年)とあります。


顔の摩滅が酷いですが、この石仏も頭上に馬頭と思しきものを乗せているので、馬頭観音でしょう。光背には天保十四年(1843年)とあります。


こちらも馬頭観音です。光背には「明治卅六年」(明治36年、1903年)とあります。


判読不能の石碑(左側)と石仏。


前述の石仏群もそうですが、村への出入口となる重要な場所なので、多くの石仏・石碑が寄進されて祀られているのでしょうね。

さて、石仏群の前を通り過ぎると道が二手に分かれます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側へと分岐する道を少し歩いてみます。尾根部を一気に下っていっているので、この街道の旧道といったところでしょうか。


それでは、左側の道を下っていくことにします。道の流れからして、こちら側がこの街道の最終期の「本道」でしょう。


分岐から少し下った所にも石仏がありました。破損して頭部がありません。台座が2つあるにもかかわらず、もう一体は見当たりませんでした。


山肌を巻くように下っていきます。


路肩がコンクリートで補強されています。道としての補修ではなく、治山工事によるものでしょう。


古道の証しとも言えるU字型の道跡が続いています。


道跡は山肌に沿ってさらに右へと巻いていきます。


このカーブ、違和感ありますね。道が山肌から離れて造られていて、その内側に窪地があります。窪地の部分に水でも湧いていたのか、元々あった山肌が崩落し整地してこのような状態になったのか。




この辺りから岩肌が露出する斜面がちらほら現れてきます。


岩の中へと根が張れず、岩を包むように根が這っています。


つづら折りが連続します。




ようやく川沿いまで下りてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここから先は林道化されているようです。が、ご覧のとおり倒木がひしめいており、思わずため息が出ます…。間伐した木々をそのまま放置してあるのでしょう。


林道化されているのを見て、半ば興味は薄れてしまいましたが、県道80号へどのように合流しているか、道中に街道の名残りは残っていないかを確認するため、先へと進むことにします。




まるでマングローブのような根の張り方です。愛知県内で幹を宙に浮かせるような生え方をしている木を見たのは初めてです(他県でも見たことはないですが。)。


ここまで林道はおおむね道形がきれいに残っていますが、自動車の轍は全く見られません。


高圧線鉄塔の巡視路標識。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

簡易トイレがあります。全く使われている様子はありませんが、かつてこの辺りまではそこそこ出入りがあったのでしょう。


川側の路面が削れてしまい、道幅が3分の1くらいになっています。


対岸に石積みを発見。どうやら橋台ではなく、護岸のためのもののようです。


この川沿いを歩くこと25分、橋の遺構が現れました。石積みの橋台と橋脚があります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

増水時のことを考慮していないようで、橋台・橋脚とも背が低いですね。見た目どおりの古い時代のものかもしれません。


橋脚の上流側は水切り形状になっています。


川を渡渉して対岸へと回りました。はっきりとした道跡が残っています。


そして急なヘアピンカーブで折り返していきます。このヘアピンカーブの形状からして、この付近は馬車道への改修がされている可能性はあります。


そして間もなく県道80号の法面に埋もれてしまいました。


そのまま法面を歩き、林道の橋へと出てきました。橋の名称は段戸橋。川の名前は段戸川とありました。


ようやく県道80号と合流です。ちょうど設楽町と東栄町の境界になります。


ここからは県道の坂を登って車まで戻ることにします。


県道に合流して歩くこと約2km、25分で車に到着しました。


今回探索で歩いたルート図です。歩行距離は4.6km、時間は2時間30分でした。



最後にこの県道80号の前身道についての経歴を記載しておきます。資料元は旧津具村が発行した「津具村誌」になります。道の呼び方や名称は旧津具村側のものとなります。

江戸時代は古戸道(古戸は「ふっと」と呼びます。)と呼ばれていたようです。古戸は現在の東栄町大字振草字古戸になります。
「津具平の南はずれから古戸村方面へと南下している道。水田の乏しい古戸・川合方面から津具平への出作り道でもあり、上津具・下津具や信州平谷・根羽の人たちが遠州秋葉山詣でに通行した重要な道。」

明治時代に入ると、遠州街道と呼ばれたようです。
「上津具村で伊那街道より分岐し、下津具村を経て振草村に入り、別所街道に接続する郡道。幅員3m弱だが一部に荷馬車が通行できな箇所があった。上津具・下津具の林産物の10%はこの道路を利用して搬出され、逆に遠州で産出された織物、楮などがこの道を経由して長野・岐阜両県へ運ばれた。」

明治42年(1909年)の「上津具・下津具村組合統計」に記載されている道路一覧には「振草街道:下津具村中央ヨリ古戸界ニ至ル」とあります。

大正期には郡道「上津具本郷線」と呼ばれました。大正9年(1920年)に旧道路法が施行され、道路が国道・府県道・郡道・市道・町村道の5種に分けられているので、その際に指定された路線名と思われます。
「上津具で県道「豊橋飯田線」から分岐して、下津具村を経て振草村古戸で県道「本郷飯田線」に接続して本郷(現:東栄町本郷)に至る道路。」

大正12年(1923年)の郡制廃止後は町村道へ格下げになったようです。そのため、大正12年と大正15年(1926年)に県道昇格の請願書が提出されています。特に大正15年は沿線の上津具村・下津具村・振草村・御殿村・本郷町・下川村の六町村長連名で提出されましたが、実現しなかったようです。

その後の経歴は不明ですが、現在の愛知県道80号に認定されたのは、昭和34年(1959年)12月15日です。

一方、道路改修に関する記述は、
「下津具村と振草村は、監督庁の認可を得て大正11年(1922年)以降改築工事に着手し、同14年(1925年)に至り延長6.3kmを竣工した。従って余すところ3kmほどになった。」
とあるだけです。この改築工事の目的は不明ですが、時代的には自動車通行も視野に入れた改築工事であった可能性はあります。

この工事が地形的に容易と思われる振草村古戸側から進められたとして、国道151号(旧別所街道)分岐から県道80号で距離を測っていくと、現在の設楽・東栄町境で約6kmとなります。残り3kmを旧街道経由で測っていくと、終点は下津具の中心地入口となります。

この結果から、少なくとも昭和初期は今回探索した旧街道がまだ使われていたと考えるのが妥当でしょう(あくまでも憶測に過ぎませんが。)。
Posted at 2022/06/19 12:51:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年06月05日 イイね!

富山県「雨晴海岸」までドライブに行ってきました

2022年4月10日日曜日、姉の誘いにより家族4人で富山県高岡市の雨晴海岸までドライブに行ってきました。姉が自分の軽四を出そうかという話でしたが、大人4人で軽四は狭いので、私の車で行くことにしました。

前日土曜日は「カンバンタ山道」探索で、その疲れも残る中、自宅を朝5時過ぎに出発。新東名豊田東ICから高速に乗り、東海環状道、東海北陸道のルートで進んでいきます。

高速でこのまま進んでいくのも面白味が無いので、白川郷ICで一旦降りて、そのまま道の駅でトイレ休憩。


次の五箇山ICまで国道156号を走り、そこから再び高速道路へ。

能越道で高岡市内まで進み、そこからは下道へ。高岡市内の大きな通りは、TGRラリーのリエゾン区間で何度も通っているので、SSにも使われる眺望の良い二上山万葉ライン(スカイライン)なども寄り道しつつ、雨晴海岸へと進んでいきます。

10時頃、雨晴海岸に到着。最寄りの道の駅は駐車場が満車。駐車スペースを探してしばらく付近をウロウロすることに。

国道415号沿いに小さな駐車場があったのでそこに車を駐車。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しばしこの場から海を眺めておりました。




さて、姉としては、この海岸から富山湾を挟んで眺める立山連峰という景色を期待していたようですが、立山連峰方面は写真のとおりの春霞。まったく遠望が利かず、どうも期待外れだったようです…。

それではどこへ行くかという話になり、姉としては「魚津市にあるチューリップ関係の施設に行きたい。」という話でしたが、「ここから魚津市は遠い。」と私が却下。「明日は月曜日なんだから、せめて帰宅する方角で考えてくれ。」と決め直してもらいます。

そうしてやって来たのが、砺波市の「砺波チューリップ公園」。弟は花に興味は無いので「車で寝てる。」とのこと。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

せっかくやって来ましたが、残念なことにここでも空振り…。チューリップのシーズンにはまだ半月から1か月早かったようで、花壇のスペースには何にも植わっていないか、違う種類の花がちらほらとあるのみ。

公園内を散策するのみでした。




お昼はそのまま砺波市内の和食店にて。


砺波市から白川郷までは、庄川沿いの国道156号を走っていくことに。

途中で立ち寄った小牧ダム。1930年(昭和5年)完成のダムで、国の近代化産業遺産に登録されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

他の家族はみんな車の中で休憩。一人でダム堰堤を歩き回っていました。












小牧ダムから上流は、庄川沿いの深い渓谷をいくつものトンネルやロックシェッドをくぐって通り抜けていきます。

道中、庄川の対岸の山の中腹にはずっと林道が並走しており、ところどころで大規模な崩壊を起こしているのがよく見えています。弟が「すごい道だな。」ということを話しかけてくるので、「相当ヤバい廃道らしいわ。」と返事。二人してずっと目で追いかけながら車を走らせていました

さて、南砺市祖山の国道156号沿いのトイレ付駐車帯でトイレ休憩。


場所はこちら。


庄川の渓谷の下流方向を眺めています。国道156号が山の急斜面に張り付くように通っていることがよくわかります。


雪解け水が豪快にロックシェッドの屋根から流れ落ちていました。


この後は白川郷ICから東海北陸道へ。何度か休憩を取りつつのんびり帰りましたが、19時には帰宅できました。
Posted at 2022/06/05 15:29:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2022年06月04日 イイね!

「カンバンタ山道」を探索しました

2022年4月9日土曜日、愛知県新城市四谷の山道、「カンバンタ山道」を探索してきました。「カンバンタ山道」は、旧海老街道仏坂峠道と現在の新城市海老の街を結ぶ間道です。仏坂峠の峠道から分岐して、カンバンタ(地形図に記載が無いため、具体的な場所は不明。)、川売と経由して海老へと向かう経路だそうです。

カンバンタ山道が通過する地域の旧自治体である旧鳳来町が発行した「鳳来町誌」には、同山道に関する記述はありません。存在が確認できる資料と言えるのは、「愛知県の峠」という本に「カンバンタ峠」として地図無しの短い記述があることと、仏坂峠の峠道に立てられている道標くらいでしょう。

旧海老街道(ふりくさ道)仏坂峠への新城市四谷側入口へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからしばらくは、旧海老街道を歩いていきます。


「カンバンタ山道」との分岐点に来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからカンバンタ山道へと入り込みますが、まだしばらくは先週4月2日土曜日の夕方に歩いた区間となります。


なかなかの急坂を登っていきます。


細い道ながら、所々の路肩に補強のための石垣が積まれています。


細い沢筋を進んでいきます。


先週に確認した石積み橋台の跡まで来ました。


場所はこちら。


黄枠で囲った部分が石垣になっています。


橋台跡の写真です。






さらに奥へと進んでいきます。


この付近も石垣で路肩が補強されています。


明確な道跡が残る区間の最終地点へと来ました。


場所はこちら。


この周辺は、四方から小さな沢筋が集まってくる地形になっており、比較的なだらかな地形をしていますが、その表面は多くの岩石で埋め尽くされてしまっています。

先週訪れた時は、この地点から直線的に奥へと進んでみましたが、道跡は見い出せませんでした。

今回は、この地点から左側の斜面を登っていってみることにします。


こちら側も道跡を見つけることができません。それでも何か痕跡があることを期待して、斜面をどんどん登っていきます。


枯れ滝にぶつかりました。


場所はこちら。


この周辺の山は、尾根まで上がろうとすると必ずこのような岩盤が露出した場所へと遭遇してしまいます。このような岩場を越えて山道が通っていたならば、細いなりにも道を開削した跡が残っているはずです。ですが、どこにもそのような痕跡が発見できません。

あきらめずにさらに上へと斜面を登っていきます。


斜面に石垣が築かれているのを見つけました。確認してみるに山道の普請のために造られたものではなさそうです。斜面の土留めのためか、田畑の造成のためのものでしょう。


この辺りで斜面に道跡を探すことはあきらめ、尾根へと登ることを優先します。一気に尾根まで登り、地形図で峠と推定される鞍部を目指すわけです。


大きな岩壁の下へと取り付きました。尾根へと登っていけそうな場所を探し回ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上へ上へと登り詰めていきましたが、岩壁が険しく、尾根へとたどり着く前にこれ以上登れなくなってしまいました。


一旦引き下がり、土砂崩れを起こした後の沢を横断して、右隣の山筋へと移ります。


峠と推定した内で、一番東側の鞍部へと到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

なだらかな地形で悪くないですが、肝心の山道と思えるような踏み跡がありません。せいぜい獣道レベル。その獣道も、鞍部を越えた先の急傾斜地で消えてしまいます。


仕方がないので、次の推定地へと向かいます。

646mピークへと一旦登り、ここから西側の急斜面を一気に下っていきます。


2か所目の推定地へと来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

探索を始める前に推測した際には、この鞍部がカンバンタ山道が越える峠の最有力候補と考えていました。しかし、この鞍部に付いている踏み跡は、間道だったとは言え、人がそれなりに往来した道の跡とはとても思える状態ではありませんでした。

普通、地形が険しければ険しいほど、道を通せる場所の選択肢は狭まるので、おのずと答えは見つけやすくなるものです。それがアプローチしやすそうな(それでも疑問符だらけでしたが。)鞍部が2つありながら、どちらもカンバンタ山道が峠越えをしていた場所だととても断言できない状況だったわけです。

「一体、『カンバンタ山道』はどこを越えていたんだ?」

3つ目、最後の推定地へと来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

鞍部の両サイドは一気に切れ落ちるような地形で、ここもとても「峠」として使えそうな地形ではありませんでした。

2つ目の鞍部へと戻ってきました。尾根に凹みが付いてますが、人工的に掘削した「切り通し」ではありません。鞍部へと連なるような道跡も見出せません。




この場所の斜面を少し下っていくと岩場の上へと出ます。岩場に道跡と思しきものなく、徒手空拳のまま下っていけるような場所ではありません。


足場・手がかりのある斜面をもう少しだけ強引に下ってみましたが、そこも最後は10mぐらいの崖地になり万事休す。仕方なく鞍部まで登り返しました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

完全にお手上げです。久しぶりに成果無しの探索となってしまいました…。

さて、ここまで登ってくるのもけっこうハードでしたが、今度は安全に下っていけるルートを探さないといけません。元来たルートを帰れば一応は安全に帰れますが、646mピークへと登り直すのがとてもきついので…。

地形図を頼りに少しでも緩そうな傾斜地を進んでいきます。

下へ行くほど急傾斜になる沢の上を横断。沢へ滑り落ちて止まらなかったら、最後は岩場の枯れ滝でダイブですね。


ようやく安心して降りられそうな沢へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

岩の隙間に足を落とさないよう、足元を確認しながらゆっくりと沢を下りていきます。


旧海老街道まで出てきました。


無事に仏坂峠の峠道の入口へと帰ってきました。


今回探索したルートはこちら。


以前に設楽町内で探索したグミンタ峠の里道跡は、峠からのルートを確認することで里道跡全体のルートも特定することができましたが、今回は峠の場所が特定できず、結果、峠へ向かう山道の確認もできませんでした。

正直、すぐに再アタックするだけの価値が見い出せないので、当面はこのまま放置案件ですかね。

もし再アタックするとなれば、今度は峠の南側である川売地区からしかないですね。それでも、峠直下のルートが発見できるかわかりませんが…。
Posted at 2022/06/04 16:28:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記

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