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小林あにのブログ一覧

2022年07月29日 イイね!

萬世大路「二ツ小屋隧道」へ行ってきました

2022年7月16日土曜日、福島県福島市飯坂町中野の旧国道13号「萬世大路」に残るトンネル「二ツ小屋隧道」へ行ってきました。「萬世大路」を訪れるのは、2008年9月11日以来です。

さて、ここ「萬世大路」は廃道好きならばほとんどの方に知られている廃道であり、またその歴史もよく知られているところですが、少々ここへ書き出してみたいと思います。

「萬世大路」は、旧来、福島県福島と山形県米沢を結んでいた板谷街道に代わる新たな幹線道路として1876年(明治9年)から順次建設が開始され、1881年(明治14年)10月3日に明治天皇を迎えて開通式が行われました。「萬世大路」とは、「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」との思いを込めて明治天皇により命名されたものだそうです。

開通後は福島と米沢を結ぶ交通路として盛んに利用されたそうですが、1899年(明治32年)に福島~米沢間に奥羽本線が開通したことにより、旅客・貨物輸送とも鉄道に奪われていき、「萬世大路」の利用は徐々に衰退していきました。

時代が進み、大正時代になると自動車が普及し始め社会へと浸透していきます。これに伴い、「萬世大路」を馬車道から自動車道へと改修しようとする機運が起こります。これを受け、1933年(昭和8年)から道路拡幅・道路の付け替え・トンネルの道床切り下げ・橋梁の架け替えなど、自動車通行に対応するための改修工事が行われ、1937年(昭和12年)に完成しました(昭和11年とする記事もあります。)。

戦後は国道13号に指定された「萬世大路」ですが、奥羽山脈の山深い峠を越えることにより冬季閉鎖が5か月にも及ぶという道路環境や、戦前の改修による道路施設の老朽化や路面の未舗装という状況が、戦後の増大していく交通量に対応できなくなっていき、新たな道路建設が望まれました。

そして1966年(昭和41年)5月、新たに栗子峠を越える東栗子トンネル(延長:2,376m)と西栗子トンネル(2,675m)の2つの長大トンネルが開通し、明治14年に与えられた「萬世大路」の幹線道路としての役目は85年目に終焉を迎えました。その後、県境の栗子隧道の落盤や道路の損壊・自然回帰による廃道化が進み、現在に至っているわけです。

こちらは周辺の戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「關」:明治41年(1908年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図。

こちらは周辺の現在の地形図です。現在はさらに東北中央自動車道の栗子トンネルが開通し、8,972mのトンネルで一気に福島~米沢間の奥羽山脈を通過しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

7月16日土曜日の1時50分頃に自宅を出発。国道13号東栗子トンネルの福島側坑口前の駐車帯に12時30分頃到着しました。


国道13号 東栗子トンネル。愛知県在住の私ですが、このトンネルは子供の頃にトラック運転手だった父の仕事についてきて以来、何度も通過していますね。


付近に立っている国道13号の標識。地名板に「二ツ小屋」とあります。


東栗子トンネル前から分岐するこの道を登り、二ツ小屋隧道へと向かいます。


整備され直した道路の終点に建つ「栗子トンネル換気塔」。この場所から東北中央道の栗子トンネルまで2.6kmの斜坑でつながっていて、トンネル内換気に利用されてるそうです。元々は栗子トンネル掘削用の斜坑だったのかもしれませんね。


二ツ小屋隧道へ向かう道は、換気塔の手前で右折していきます。


ガードレールに貼られていた注意書き。


今までの舗装路から砂利道へと変わりますが、この道自体は「萬世大路」ではありません。今も使われているのか、ナンバー無しの軽トラが2台置かれています。


東栗子トンネルを見下ろしています。


木々の間に立つスキー用リフトの支柱。今歩いている道は、昔この場所に存在した飯坂スキー場の作業道だったそうです。


スキー場跡地は、もうすっかり森林へと帰っています。


こういう薮は野生動物が出てきそうで怖いですね。


東栗子トンネル前から歩くこと約20分。「萬世大路」に合流です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「萬世大路」に入ってから振り返っての景色です。元作業道の方が完全にメインの道路になっています。




それでは「萬世大路」へと歩を進めていきます。


ショベルカーが停まっています。有志による「萬世大路」整備用のものでしょうか。


山側の路肩に石積み擁壁が露わになっています。これは草木を刈ってきれいにしたものでしょう。


ほんのわずか視界が開け、山深さを垣間見せてくれます。


この辺りも石積み擁壁が山側に連綿と設けられています。






地面が露出しているのは車1台分ほどの幅ですが、本来の道幅は草に埋もれてしまった部分にまで広がっています。


ヘアピンカーブです。


ここのカーブの内側に明治時代の切り通しが残っています。急カーブなので、自動車道への改修の際にカーブを外側へと緩く造り直したのでしょう。




降り続いた雨により山から流れ出た水が石垣を洗っています。


この辺りも元の道幅がよくわかります。馬車道から自動車道へと拡幅したとはいえ、今の感覚で言うと1.5車線程度の狭い道です。これではトラックやバスの通行には支障が出たことでしょう。


いよいよトンネルが見えてきました。




二ツ小屋隧道に到着です。東栗子トンネル前から45分かかりました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

開通は1881年(明治14年)9月(明治13年10月という記事もある。)。その後、道床の掘り下げによるトンネル内部の拡大化やコンクリート巻き立てなど、自動車用トンネルへの改修工事を受けて竣工したのは1934年(昭和9年)12月12日のこと(「本邦道路隧道輯覧」(1941年(昭和16年)3月内務省土木試験所発行)及び「福島県直轄国道改修史」(1965年(昭和40)3月建設省東北地方建設局福島工事事務所発行)による。)。


扁額です。扁額には「昭和九年三月竣功」とあり、記録上の竣工年月と一致しません。


二ツ小屋隧道の改修工事は昭和8年5月16日に着手し、同年度中の竣工を予定していました。そのため、扁額用の石材へ彫る日付は、年度の最終月にしておいたのだと思われます。しかし、実際には人手不足や掘削上のトラブルにより、工事は翌9年度へと持ち越しとなります。「福島県直轄国道改修史」によると、坑門の工事は昭和8年(1933年)10月2日に起工し、同年12月15日に竣工したとあります。扁額は坑門が完成した時点でそのまま取り付けられ、その後、竣工年月の修正はされなかったということなのでしょう。

ここでトンネルの少し手前に戻ります。こちらは「鳳駕駐畢之蹟」碑。天皇の行幸一行が途中で御駕籠を止めて休憩することを鳳駕駐蹕(ほうがちゅうひつ)と言うそうです。この場所については、明治天皇が休憩した場所ということになります。


側面には「明治十四年十月三日 御通輦」とあります。


こちらは「山神」の碑。


それでは二ツ小屋隧道へと入っていきます。


一部コンクリートの巻厚が厚くなっています。坑口から程ない場所に破砕帯があったようで、その補強のためかもしれません。


さらに進むと各所で壁面が破れ、岩石が崩れ出しています。この状態でも通行させてもらえるのは、ある意味すごいと思います(笑)。


崩れた壁面を見ると一応鉄筋が入っていることがわかりますが、何とも細くて弱そうな鉄筋です。


トンネル内部の路面はコンクリート舗装です。


山の内部を見学するための観察窓かというくらい、あちらこちらに盛大に穴が開いています。








今度はナンバー無しのジムニーが停まっています。この車も道路整備に使われているんでしょうかね。


反対側の坑口が近づいてきました。


こちらが二ツ小屋隧道の名物、トンネル内の滝です(笑)。雨が降ったおかげで、山からの水が盛大に流れ落ちています。


水浸しとなったトンネル坑口を進んでいきます。


滝から沸き上がったしぶきが靄となって、トンネル坑口から流れ出しています。


扁額です。


このまま坂を下って、次の遺構である橋を目指します。






烏川橋です。これといった特徴のないコンクリート造りの桁橋です。


場所はこちら。


親柱の銘板はすべて剥ぎ取られています。写真の親柱は、少しだけ銘板のかけらが残っていました。


高欄もボロボロになって、鉄筋がむき出しになっています。


対岸へと渡って振り返った眺め。


高欄の鉄筋の編み方がよくわかります。




それでは二ツ小屋隧道へと戻ります。


靄があふれ出る二ツ小屋隧道を再びくぐっていきます。


トンネルを通過し、この地点まで戻ってきました。


トンネルへと向かっていた際、ここから分岐していく平場がどうにも気になっていました。明治14年開通当初からの「萬世大路」の道跡で間違いないはずなので、入り込んでみることにします。


※つづく。
Posted at 2022/07/30 00:35:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年07月26日 イイね!

長野県大鹿村北川「鹿塩川の廃橋」

2022年7月2日土曜日、弟の誘いで山梨県北杜市高根町清里にあるレストラン「ROCK」へとドライブに出かけてきました。

普段ですと中央道小淵沢ICまで高速を走って、そこから山梨県道11号「八ヶ岳高原ライン」で清里へと向かうところですが、今回は弟の希望で中央道松川ICで下りて長野県下伊那郡大鹿村へと向かい、そこからは国道152号「秋葉街道」で諏訪盆地を目指すルートを取りました。

大鹿村で国道152号へと入り北上。大鹿村北川を走行していたところ、弟が「川の中に壊れた橋が見えるぞ。」と言い出したので停車。


国道152号に並行して流れる鹿塩川の川岸へと降りていき対岸を眺めると、確かに壊れた橋が見えます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、地形図を拡大すると廃橋が構造物として地形図上に描かれていました(笑)。初めは「建物なんてあったっけ?」と思い、グーグルマップでも位置を確認してみたところ、廃橋そのものであることがわかりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸から廃橋を眺めるだけで、鹿塩川を渡れそうな場所が見つからなかったので、一旦あきらめて車へと戻り始めました。


そうしたら弟の呼ぶ声が聞こえたので、再び川沿いへ行ってみたところ、渡れる場所を見つけたとのことで、二人して対岸へと移動します。

対岸にも道があったので、そこを歩いて廃橋へと向かっていきます。


ちなみに、この道には白骨化しバラバラになったカモシカの死骸が2体と、標本のように整った形のまま白骨化した鳥の死骸がありました。なんでまとまって死骸が転がっていたのか理由はわかりません。

廃橋にやって来ました。「破壊された橋の一部が残っているのか?」と眺めていたら、弟が「この状態で橋が全部残ってるんじゃないか?」と話し掛けてきます。


言われてよく見てみれば、川岸との接続部分である橋台とその翼壁が、橋の両側とも付いたままになっています。これはどうやら橋の全体が残っている様子。




ということは、もともと鹿塩川はこの廃橋の真下を流れていたことになります。




でも現在の鹿塩川の流れは廃橋の真下ではなく、かつて川岸の左岸側だった場所を流れています。

どうしてこのような状態になったのか考察してみましょう。

廃橋の造りから見て、戦前から戦後間もない頃の架橋と思われることと、車を停車した場所近くにあった国道の橋が昭和39年(1964年)架橋だったので、昭和39年以前に周辺で大規模な水害が発生していないかネットで検索してみました(山奥でしたが幸い電波が繋がったので。)。

検索でヒットしたのが昭和36年(1961年)6月下旬に伊那谷周辺で発生した「三六災害」と呼ばれる大規模水害。廃橋がある大鹿村北川地区は、6月27日に土石流に襲われ、集落は数戸を残し壊滅したそうです。

この情報から、「もともとは廃橋の下を鹿塩川は流れていたが、昭和36年の「三六災害」により発生した大規模な土石流により、廃橋の両側の川岸が流失。現在の鹿塩川の流れは廃橋の左岸側(東側)へと変わり、廃橋があった場所は河原となりそのまま取り残された。国道(当時は県道)はこの場所に橋を再建せず、さらに上流に橋を付け替えた。」と弟と二人で結論付けました。

※後日、同村内で探索した「他の峠道」の資料確認のために飯田市中央図書館を訪れて「大鹿村誌」を読む機会がありましたが、「他の峠道」の記述を探すのに夢中になり、この廃橋と「三六災害」との関連の裏付けを取ることをすっかり忘れていました…。

廃橋は親柱が無くなっていたので、橋名や架橋年月は特定できませんでしたが、今思うと上流の橋に名前が引き継がれていたかもしれません(素通りしてしまった…。)。




そして、大水害に遭ったことを考えると、橋台の上流側の損傷が激しいのも納得がいきました。








ほんの寄り道のつもりでしたが、昔の大災害の証拠となる興味深い物件でした。

こちらは水害前の国道(当時は県道)の推定ルート。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現地に滞在したのは45分程。この後ドライブを再開し、「ROCK」へと向かいました。


※2022年7月30日土曜日にドライブで再度同地を通る機会があり、上流側に架橋された橋を確認してきました。

名称は「北川橋」。昭和39年(1964年)12月竣工とありました。同地の地名が大鹿村北川であるので、廃橋となった旧橋の名称も「北川橋」だったかもしれません。




Posted at 2022/07/26 21:59:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年07月24日 イイね!

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(4)

2022年5月28日土曜日、三重県津市美杉町奥津と上多気の間にある峠、旧伊勢本街道「飼坂峠」の南方を山越えする廃道を探索してきました。

今回は題名からするとおまけの内容となりますが、廃道探索を終えて車へと戻るために越えた旧伊勢本街道「飼坂峠」の峠道を簡単に紹介していきます。

前回(3)で無事に上多気側の林道へと合流。


林道を歩いて上多気の集落を目指します。


歩くこと約15分。上多気集落の西の端へと出てきました。ここで旧伊勢本街道に合流し、左折します。


規模は小さいながらも旧伊勢本街道の宿場町であった上多気集落。集落の端ですが、古めかしい建物が沿道に残っています。




集落を通り抜けた場所に飼坂峠についての案内板が立っています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この後の峠の道中、案内板に記載されている小唄「お伊勢参りして怖いとこどこか、『飼坂』、櫃坂、鞍取坂、津留の渡しか宮川か」とあるのが伊達でないことを、疲れ切った体に思い知らされることになります(笑)。

それでは飼坂峠の峠道へと進んでいきます。


序盤は林道を登っていきますが、すでにこの時点で急坂で、全然ペースが上がりません…。


林道が終わり、つづいて「これ本当に街道?」というような細い道を少し歩きます。


伐採地へと出てきました。峠道が伐採用の作業道でかく乱されてしまい、ここで少し道を探す羽目に。上多気方面には誤進入防止のロープがあったり、案内板が立っていたりしましたが、峠方面にはそのようなものが一切なくて参りました。


峠道の続きを見つけて、再び飼坂峠へと登っていきます。


一つの谷全体を伐採していますね。


峠まで繰り返しつづら折りが現れ、場所によっては伐採されたために裸地となった急斜面の上を通過していきます。








峠へ向かう最後のつづら折り。このヘアピンカーブ一つとっても、けっこうな急坂であるのが見てわかると思います。とにかく短距離で一気に峠まで登り詰めるスタイルの峠道です。


飼坂峠に到着です。峠の入口にあった案内板には峠まで1.3kmとありましたが、登り切るのに37分もかかりました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠から上多気側の眺め。あまり眺望は利かないですね。反対の奥津側は高い木々に覆われてしまい、まったく見えません。


峠の茶屋跡に建つ東屋。


峠にある案内板。


それでは奥津側へと峠道を下っていきます。




岩の崖地を通過するため、路肩は石垣を積んで補強してあります。


奥津側もなかなかの急坂で、これでもかというくらい何か所もつづら折りが現れます。まあ、飼坂峠はどちら側から登ってもキツい峠なわけです。












ここは道に石段が設置されていました。石畳がある峠道はたまに見かけますが、石段が設置されている峠道は初めてですね。




そしてまたつづら折り。


長い階段の急な下り坂です。おそらく雨水で地面が削れたために土のうで階段が築かれているのでしょうが、ここも元々は石段が設けられていたようです。


沢沿いへと出てきました。


立派な橋台が残っています。かつては木橋でも架かっていたのでしょう。


こちらは石材を並べた石橋。


奥津側の峠の入口に立つ案内板。現在は近畿自然歩道としてハイキングなどに利用されているようで、道中も危険に感じるような箇所はありませんでしたね。


国道368・369号飼坂トンネルの前を横断していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先は川沿いの道路を奥津へと歩いていきます。この辺りではけっこうフラフラになって歩いていました…。


車へと戻ってきました。今回歩いた距離は9.4km、6時間35分の行程でした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


今回の探索の行程図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

歩いてみて、飼坂峠は車道改修された様子が全く見受けられない徒歩道でした。というか、仮に道幅が確保できても、あの急坂では荷馬車や荷車はとても通行できないでしょう。

さて、今回探索した「建設された目的や利用状況が全くわからない」峠越えの廃道。規模から見て、相当の費用と人員を投入して建設したはず。なのに、記録に残らず地元からも完全に忘れ去られて、ただただ崩落して消失していくのみなんて、何とも残念な話です。

せめて現地に開通記念碑的なものでもあれば良かったのに…。
Posted at 2022/07/24 14:12:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年07月18日 イイね!

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(3)

三重県津市美杉町奥津と上多気の間にある峠、旧伊勢本街道「飼坂峠」。その南方の山中にある廃道を2022年5月28日土曜日に探索してきました。

今さらですが、廃道周辺の戦前の地形図を載せておきます。ご覧のとおり、飼坂峠の南方を越える本廃道は、戦前の地形図には記載されていません。また、飼坂峠を越える旧伊勢本街道は「道幅1m以上の町村道」として記載されており、馬車道改修されたようには思えません。

5万分の1地形図「二本木」:明治25年(1892年)測図の縮図・昭和12年(1937年)第二回修正測図及び修正測図の縮図

参考に現在の地形図ももう一度。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

それでは、その(2)からの続きとなります。

いくつもの崩落地を越えて、ようやく廃道の峠に到着しました。


峠の切り通しから登ってきた奥津側を眺めています。周囲は植林地に囲まれているので、眺めは悪いです。


切り通しの周囲を見渡してみましたが、「日本の廃道」にもあったとおり、石仏・石碑の類や開通記念碑のようなものも見当たりませんでした。

さっそく峠から上多気側へと廃道を下っていくことにします。廃道は峠から右へと曲がって下っていきます。


そしてすぐに折り返して、峠の直下を通過していきます。


上多気側は今のところ馬車道に相当する道幅がしっかり残っています。




路肩が崩れた場所に石積み擁壁が見えています。


まだまだしっかりと道幅が残る道跡が続いています。




少し怪しくなってきました。


また道幅が復活しました。戦前の地形図に載っていない本廃道ですが、今までに何か所も歩いたいわゆる「明治車道」の雰囲気を感じさせます。




倒木の先が明るくなっています。これは嫌な予感がします(笑)。


廃道の上に土砂が積もっています。まあ、これくらいなら大丈夫。踏み跡も付いているので、足を滑らせないように注意して乗り越えていきます。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

引き続いて路盤が崩落している場所が現れました。幸い、岩壁に沿って歩いていけるだけの幅が残されていたので、岩壁に寄り添いながら進んでいきます。




ちなみに、一番幅が狭い場所はこんな感じです。


通り抜けてから振り返って撮影した写真。峠から奥津側の廃道の崩落地に比べれば、全然問題なく通過できます。




ふたたび平穏な景色となった廃道を進んでいきます。


沢を渡っていきます。


渡った先の路肩に残る石積み擁壁。


何度も書いてますが、幅はあっても全体が谷側へ傾斜している場所は何となく歩きづらいです…。感覚的なものなんでしょうけど。


2つの沢が合流する地点を通過する場所に来ました。事前情報のとおり廃道は崩落して荒れています。廃道は写真を撮った場所よりもさらに奥へと進みます。


沢まで出て、対岸に残る橋台を眺めています。


沢を渡り、今度は峠側の橋台を眺めています。峠側の橋台の方が崩壊度合いが大きいです。


少しだけ残っている廃道を進みます。


そうすると、この廃道に残る中で一番規模の大きな橋台が現れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢へ下りて、橋台を見上げます。石の隙間をモルタルなどで埋めていない空積みです。積み方も何となく谷積み(石を斜めに組んで積み上げる積み方。)のように見える部分がありますが、規則性のない乱積みと言えるでしょうか。


峠側の橋台。沢の中に突き出すように設置されているためか、破壊が進んでいます。


橋台の脇を登って、廃道へと復帰します。


この後も荒れたりしている場所はありますが、廃道好きからすれば比較的平穏な路面状態となります。






枝打ちされた枝と間伐で切り倒された幹。連続した平場である廃道は、こういったものを溜めるのにちょうどいい場所なんでしょうね。通り抜ける身からすれば、これも一種の難所なんですよね…。




ようやく上多気側の林道が見えてきました。


最後に2つのヘアピンカーブを通り抜けます。




もう真下に林道が見えています。


やっと本廃道を踏破しました。車からここまで約4.6km、3時間30分かかりました。私が歩いた中では、一回の探索で一番多くの崩落地を突破した廃道かもしれません(笑)。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先は林道を歩いて上多気の集落へと出て、旧伊勢本街道飼坂峠を越えて車へと戻ります。おそらく飼坂峠を越えるほうが体力的にはきついですが、単純にもうこの廃道で引き返したくないだけです(笑)。

飼坂峠南方を越える廃道のルート全体図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

馬車道・荷車道である以上、勾配を抑える必要があるためにどうしても距離は長くなってしまいますが、全体図で見るには奥津と上多気を行き来するのに、飼坂峠を通っても廃道を通っても極端な違いはないように感じられます。

記録が残っていない以上、この廃道の素性はわかりませんが、急峻な飼坂峠を迂回するために造られた馬車道と言われても納得はできるかなと思いました。

その(4)へと続きます。
Posted at 2022/07/18 20:44:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年07月17日 イイね!

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(2)

三重県津市美杉町奥津と上多気の間にある峠、旧伊勢本街道「飼坂峠」。その南方の山中にある廃道を2022年5月28日土曜日に探索してきました。

その(1)からの続きとなります。前回最後の地点はこちら。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

折り返しから進んでいきます。この付近は表土が薄いのか、杉の根っこが地面にもぐれずに地表を這っています。


崩落地の上部を廃道が通過する箇所へと来ました。


その(1)でこの崩落地を横断した時に見上げた様子がこちら。


廃道まで崩落の影響は無くて無事に通過。通り抜けた場所を振り返ります。


また廃道の路盤が崩落しています。踏み跡を頼りに通過していきます。


石積みの擁壁が残っています。


道幅がしっかり残っている部分も、斜面上部からの土砂が積もり、路盤は全体的に谷側へと傾斜しています。


また石積み擁壁が現れました。わずかに残っています。


ここから私レベルでは難所となる路盤の崩落箇所が連続して現れます。このような場所が現れるたびに横断ルートを考え込むため、ただ歩いて進むよりもおのずと時間が掛かることになります。




さらに状況のひどい崩落地。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

固い地盤に小石交じりの崩土が乗り、足元は切り立った急傾斜地。頼りとなる樹木などが無い場合、距離が短くても横断するのに非常に神経を使います。




一難去ってまた一難。次々に現れる崩落地を横断していきます。


ようやく廃道の路盤が復活しました。


と安心するとまたも崩落地。崩落地の上部に付いている靴の横幅ほどの踏み跡を慎重に進みます。


枯れ沢を横断。


岩の露出が目立つようになり、廃道が残っていても道幅が狭まってきています。


枯れ沢に残っていた石造暗渠。


長めの石積み擁壁が路肩に残っています。


蔓にぐるぐる巻きにされてしまった木。


山の突端部を巻いていきます。


沢に出てきましたが、立っている場所から沢を渡っていたと思われる場所までの路盤が跡形もなく消失しています。写真中央部にある石群が、橋台か擁壁の残骸だと考えられます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃道が通過していた場所での横断はあきらめ、少し引き返して手がかりのある斜面を沢底まで下り、対岸の斜面を登り直して沢の先へと迂回しました。


この崩落地の横断も泣けてきました。石積み擁壁の一部が残っているので、元々の道幅が推測できます。




うっかり足を滑らせたら、何十mも下の谷へ向かって恐怖の滑り台を滑り落ちることになります。


崩落地を振り返って撮った写真。こちら側からの方がこの場所の危うさがわかりやすいかと思います。


ふたたび路盤が復活です。


道の折り返し。ヘアピンカーブの部分が埋もれてしまい、上下の道のつながりがわかりにくくなっています。


植林地から自然林へと樹相が変わります。




崩落地の最上部の一つを横断していきます。まだ幅に余裕があるのでいいですが、全体的に谷側へと傾斜しているので、やはり横断には気を遣います。


どんなに山の上であっても、水が湧く場所があるとぬた場ができますね。


細い道跡が奥へと続いてきます。


細い道跡すら消えかかってきたところで、ようやく峠に到着しました。事前情報どおり深い切り通しになっています。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その(3)へ続きます。
Posted at 2022/07/17 21:51:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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