• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2022年08月28日 イイね!

山梨県北杜市高根町清里「ROCK」へ行ってきました

2022年7月30日土曜日、山梨県北杜市高根町清里にあるレストラン「ROCK」へ行ってきました。「プロトタイプ」のYZW店長さんから「久しぶりに『ROCK』へ集まって食事会をしませんか。」との話があり、お出かけした次第です。

愛知組の出席者はいつもの通り、弟と弟の友人の杉浦くんに私の3名。弟のレックスに同乗して出発します。時間に余裕があるので高速道路はほとんど使わず、下道で現地へと向かいました。

最初の寄り道は小渋ダム。長野県松川町と中川村の境を流れる小渋川に設置されているダムです。ダム堰堤の高さが105mとなかなかの規模です。












次に立ち止まったのは、大鹿村北川の国道152号に架かる北川橋。


駐車した場所が現道と旧道の分岐点になります。


去ること7月2日土曜日、その時も弟と連れ立って「ROCK」へと向かってのドライブ中、ここ北川橋の下流で廃橋を見つけてチェックしていました。その時に廃橋の架け替え橋と思われる上流の橋の橋名や架橋年月のチェックを漏らしていたので停まったわけです。








この後ものんびりと分杭峠~高遠~杖突峠と走って国道152号を北上。茅野市から国道20号、北杜市小淵沢から長野県道11号と走り、「ROCK」へと到着しました。

そして、18時頃から食事会。机の上にアクリル板の衝立があり、会話や料理の取り分けもままならぬ食事会でしたが、このご時世、そこは致し方ありません…。




食事後は長野県佐久市のビジネスホテルまで移動して一泊しました。


翌日も晴天(早朝は雲が出てましたが。)。


ホテル近くの道の駅「ヘルシーテラス佐久南」で各々お土産を購入して解散となりました。


私たちは帰りも寄り道。国道142号が新和田トンネルを越える現道と和田峠を越える旧道に分かれる分岐点で旧道に入り、すぐの場所で車を停めます。


中山道和田峠の男女倉口です。


山深い場所にはお約束の熊出没注意の警告板。


中山道を少し歩いてみます。


中山道を再整備した時に集められた石仏群。


停車場所近くの川にあった小さな堰堤。石張りの良い雰囲気のものだったので撮っておきました。


2か所目は、旧道をもう少し登った場所にある同じく中山道の遺構である「接待」。「永代人馬施行所」とも呼ばれます。11月から3月までの冬期、和田峠を越える旅行人へ粥と焚火を、牛馬に対しては小桶一杯の煮麦を提供していた場所です。


かまどで粥や煮麦を作り、旅人は壁際の長椅子に腰かけ、焚火で暖を取ったわけですね。


和田峠を越えて、最後に立ち寄ったのは諏訪大社下社秋宮。参拝客でなかなか賑わっていました。






祭礼の準備をしていたようです。


神社駐車場からの諏訪湖の眺め。


「プロトタイプ」のみなさんとは、弟の車のオイル交換などでお店では数か月に一度は会いますが、新型コロナ以降は一緒にドライブ旅行へ行くことが無くなってしまったので、お店以外で出会う機会は2年半以上ぶりとなりました。

こういう機会を設けるのはまだまだ難しいところですが、お互いにきちんと配慮しながら少しづつ増やしていければいいなと思います。
Posted at 2022/08/28 07:46:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | プロトタイプ | 日記
2022年08月23日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(4)

2022年7月23日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」へと行ってきました。ここ「北条坂」は2020年9月と10月の2回探索に訪れていて、私レベルでは全線踏破は無理と判断した廃道です。

さて、前回(3)で「北条坂」のルートのデータが取れたことでメインの目的は達成しました。ここからは、サブの目的である「北条峠」から下伊那郡松川町生田の「上峠」へとさらに続いていく廃道の踏査距離を少しでも伸ばしていきます。

それでは「北条峠」を出発します。


最初のうちは十分な幅員が残る道跡が続いています。




しかし、ものの数分も歩かないうちに怪しい場所が現れ始めます。それでもまだまだ余裕はあります。


1回目の探索時に引き返した場所に来ました。1回目は一応偵察だったので、あまり奥までは入り込みませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この浅い切り通しの先から、いよいよ廃道が牙をむき始めます…。


道跡が流失した場所が現れました。でもまだ落ち着いて通過すれば大丈夫です。




振り返っての眺めです。




ここも道跡が無くなり、斜面と面一になっています。しっかりした踏み跡が付いていますが、木の横で谷側に体を傾けるのを嫌って、木の山側を通過します。




ふたたびしっかりと幅が残る道跡が現れました。こういう場所で気分をリラックスさせます。




2回目の探索時に一番の難所だった場所に来ました。その時は、枯れ沢の真ん中で滑り落ちそうになり、四つん這いで必死に道跡まで戻る羽目になりました。そして、あらためて対岸へと渡るのに15分も時間をかけてしまいました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道跡が完全に流失して岩盤が剥き出しになっています。その岩盤に踏み跡のように付いているわずかな段差を伝って対岸へと渡っていきます。


一番底となる場所を通過していったん立ち止まり、眼下を見下ろしています。


丸印の場所から見下ろしています。


対岸へと渡り、振り返っての眺めです。




次から次へと休む間もなく難所が現れます。それでも、先ほどの一番の難所に比べれば緊張の度合いはあんまり高くありません。








2回目の探索時に引き返した場所まで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その時は、枯れ沢の先にあるこの斜面を越えようと何度かアプローチをしてみましたが、どうしても足場が崩れて進めず、気持ちが折れてしまい引き返してしまいました。


今回は斜面に付いている踏み跡を素直に辿ることにしました。土砂が脆くてゆっくり歩いていると踏み跡が崩れてくるので、バランスを崩さない程度に素早く歩いて通過していきます。


ようやく難所を越えた所ですぐに次の難所が現れました。今回通過できた中では最大の難所です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

うっすらと踏み跡が付いてはいますが、どうにも信用できません。この場所で立ち止まり、進むべきか引き返すべきか、しばらく考え込んでいました。

ようやく進む方向で気持ちが固まり、踏み跡よりもやや高い所に左足で新たな足場を作りながら渡っていきました。結局、渡るために5分を費やしました。


振り返っての眺めです。こちらの写真の方がこの場所の様子が多少わかりやすいです。もしも踏み跡が崩れたら、下へと5mくらい投げ出されて、そこから急斜面を滑落というような場所でした。


正直、「もう二度と通りたくない…。」と思いました(笑)。


そして、何事もなかったかのように道跡が復活しました。「もう最後までこのまま道跡が続いてないかなぁ。」と思いましたが、絶対にそんなことはあり得ないこともわかっていました…。


そして、今回の探索の終着点となる場所にやって来ました…。




道跡が切れ落ちている場所から「あれが道跡なんだな。」と眺めていました。


ただ、まだこの時点では引き返すことになるとは思っていませんでした。下巻きして迂回できるルートがあるかもしれないと思っていたからです。

少し戻った場所に沢底へと下っていく踏み跡を見つけていました。これを下ってみることにします。


踏み跡の先が崩落しているのが見えてきました。


「こんなん絶対無理だろう…。」。呆然としました。上側の岩盤が下側の岩盤に覆いかぶさるような形で段々になっていて、足場になりそうな場所が見当たりません…。


実はこのブログを書くにあたり、「大鹿村 北条坂」でネット検索してみました。最後に何か付け加えられるような新しい情報が上がっていないか確認するためです。

そうしたら、検索結果の中に今までに読んだことがない、比較的最近にこの廃道を縦走した方のブログがありました。山登りの経験が豊富な方で、「きわどい部分もあるが楽しい峠道だった。」というような感想を残されていました。

その方はここをどうやって越えていったのだろうか…。登山経験に関して「ど素人」の私には、現地で越えていけるようなルートはまったく見い出せませんでした…。


今回の探索の最終到達地点の地形図です。結局、2回目の訪問時に引き返した場所から100mほどしか先へ進めませんでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これ以上進めなければ引き返すのみです。「もう二度と通りたくない…。」と思った場所を気持ちを奮い立たせて越えていきます(大げさですけどね…。)。




無事に「北条峠」まで戻ってこられました。これでようやく安心できます。


「北条峠」からさらに45分程かけて車へと戻ってきました。




今回も「お前のレベルじゃこの廃道は無理だ。」と突き付けられてしまいました。でも、私としてはそれでいいんです。

ラリーで知り合った日本アルプスも登る方に「もうロープとか持っていった方がいいよ。」とか言われたことがありましたが、私はロープを自在に扱えるような登山経験を積んで、さらなる危険地帯を越えてまで廃道探索しようとは全然思っていません。

言い訳がましいですが、楽しい趣味の範囲で十分なんですよ。今回のように多少無茶な所も行きますが、それでも「長靴」履いて歩いていける範囲ですから。そもそも高い場所が苦手という致命的な欠点がありますし(笑)。

そういうことで、この廃道を「北条峠」側から進む目は完全に潰えました。あとは松川町生田側から行くしかないですが、生田側からの道跡も状態は大概ひどいようなので、どうしたものでしょうかね。これでまたしばらくは塩漬けです…。

あらためて、今回の「北条坂」探索のルート図です。本来のルートの半分も進めませんでした…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


さてここからは、長野県の飯田市立中央図書館で閲覧した「大鹿村誌」からの引き写しになりますが、私が探索した「北条坂」が開削されるまでの、大鹿村と伊那谷側とを結んでいた道の歴史を振り返っていきます。

当然、大鹿村への出入口は、秋葉街道の分杭峠など他にもいくつかの峠がありますが、今回は「北条坂」へとつながる部分だけに絞っています。

読解力の無さや文章を端折ったところからくる正確さを欠いた部分があります。それから地形図に書き込んだ各街道については憶測で描いているので、その点はご容赦ください。

まず、古来からの道は、大西山を越える道だそうです。中道街道とも呼ばれ、大鹿村の中心地である大河原から大西山を登り、中道峠(現:唐松峠)を越えて、豊丘村の河野や神稲へと通じていたそうです。大西山までは、現在も登山道として利用されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

江戸時代に入り、文政11年(1828年)に満水(洪水のことか?)があり、小渋川に架かる高橋(場所不明)が流失し、往来に支障をきたしたそうです。

※ここで高橋が架かる小渋川沿いの街道がどのような道・ルートであるかの記述はありませんが、中道街道とは別の街道であるかと思われます。当時は、今の県道22号松除橋以西で小渋川沿いを通る街道は無かったようで、どこの峠を越えていたのでしょうか?

そこで大河原村(現:大鹿村)では、柄山(現:松川町生田)へ通じる道を中道峠から作れば容易であるとして、文政13年(1830年)に至って村内評議の上、同道の開削を決定。天保2年(1831年)春頃に中道峠から尾根伝いに徒歩道の「柄山新道」が完成しました。

中道峠から柄山まで「尾根伝いの道」で開通したとの記述により、全くの憶測で描いた「柄山新道」の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、ネット検索すると、憶測のルート上である大西山から白沢山を縦走した登山記録がヒットします。内容を読むと登山経験が豊富な人でないと縦走は困難なようです。

そこを踏まえると、本当にこのルートで良いのか疑問符が付くところですが、後年に開通した別ルートの街道により「柄山新道」は30年程度しか利用されなかったと考えられることや、利用が途絶えてからも160年近く経過しているので、徒歩道だった街道の痕跡はもはや残っていない可能性が高いでしょう。

中道街道から柄山新道へと物流の道は代替わりしていきますが、高い尾根を険しい徒歩道で長距離移動することに変わりはなく、ふたたび違う街道を開削することを模索し始めます。

すでに文政13年(1830年)3月、大河原村が中道峠から柄山へ通じる道路開削の交渉を長峰(現:松川町生田)・柄山とした時に、柄山総代が「北条の道の内、と沢(砥沢)辺(辺り)にて手入れいたし候えば、近道出来候間…。」と話を持ち出しています。ここで初めて北条を通る街道の話が出てきます。

前述のとおり「柄山新道」がまず開削されたので、「北条からの近道」が具現化するのは33年後の文久3年(1863年)。砥沢付近から曲折して白沢山を登り、白諏神社(白沢山にある神社)下を通り、峠(現:松川町生田)・柄山・長峰方面へ通じる新道として開削されました。

この地図の新道ルートもあくまで憶測です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の上を通る距離は短くなってきましたが、白沢山という急峻な山を上り下りする必要がある点では不便な道でした。

明治時代に入り、大鹿村と生田村(現:松川町生田)が協議して、生田村中山耕地「ませのたを」から大鹿村字北条まで新道を開削することになり、明治12年(1879年)秋に開通しました。この道路は大鹿側は北条から「北条坂」と呼ばれた曲折した道路で北条峠へと上り、白沢山の中腹を通過し、村境の鵜飼沢で天竜川河畔から福与・中山(両地とも現:松川町生田)を経て上峠へと上ってきた生田村側の道路と直結していました。開通後は大鹿村の主要な物資移出入路になりました。

左半分は推定ルートになりますが、明治12年開通の新道の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここでようやく私が探索した「北条坂」の道が現れました。「大鹿村誌」を読むまでは、もっと古い由来のある道だと思っていました。そして、現在の状態からは想像できませんが、開通から60年近く、大鹿村と村外とを結ぶ主要路線の役割を担っていたのです。

明治29年(1896年)、分杭峠から鹿塩(現:大鹿村)を経て落合(現:大鹿村)に至り、そこから桶谷、北条を通り生田村境に至る道路を「大鹿線」とし、改修工事が始められました。

「大鹿線」の桶谷の砥沢から生田村境の鵜飼沢までの間にある「北条坂」の改修はことのほか困難で、多額の工事費が必要でしたが、村費負担だけでは間に合わず、県費補助の申請をして改修工事が進められました。

「大鹿線」はその後、大正8年(1919年)に郡道(路線名はおそらく飯田大鹿線)、大正12年(1923)に県道粟沢時又線となりました。

県道へと認定されましたが、相変わらず生田村の上峠から大鹿村の桶谷までは悪路で、幅員も6尺(1.8m)~9尺(2.7m)であり、中でも北條坂の曲折が交通上の障害となり、荷馬車が通行することができませんでした。

それでも飯田方面との主要な物資移出入路であることに変わりありませんでした。大正末期には、飯田の商人が自転車で北条坂を通って大鹿村で商用を行って一泊し、帰りは自転車を押して北条坂を登り、飯田へと帰っていったという記述もあります。

そして「北条坂」の隘路を解消すべく、ようやく昭和7年(1932年)新たに「岩洞自動車道」の開削に着手しました。現在の長野県道22号にあたります。この道路は昭和11年(1936年)12月に完成しましたが、落石や道路の崩壊が続き、安全な自動車道になるまでなお数年を要したそうです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当にざっくりですが、大鹿村と村外を結ぶ街道・道路にはこんな変遷の歴史があったわけです。「大鹿村誌」は交通の項目に多くのページを割いています。地形的に閉鎖されていた大鹿村としては、伊那谷を流れる天竜川の河畔(舟運がある。)や街である飯田(現:飯田市)、赤穂(現:駒ヶ根市)とを結ぶ峠道はまさに生命線であり、村誌の記事としても重要度の高い項目だったのでしょう。


最後のおまけ。「大鹿村誌」に掲載されている工事記録の関係記事の中に「大正三年(1914年)砥沢橋より生田村境に至る間、春季修繕を金十七円にて北条猪之吉に渡したり。」という記述がありました。

これを読んだ時、「『北条 猪之吉』さん、なんか見覚えのある名前だな。」と思いました。「北条峠」にある道祖神の石碑を奉納した方でした。

※2020年9月20日撮影


※2020年9月20日撮影


※2020年9月20日撮影
Posted at 2022/08/23 23:28:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記
2022年08月21日 イイね!

長野県大鹿村桶谷の「北条坂」を探索しました(3)

2022年7月23日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」へと行ってきました。ここ「北条坂」は2020年9月と10月の2回探索に訪れていて、私レベルでは全線踏破は無理と判断した廃道です。

今回は、登山用アプリを使用して「北条坂」の正確なルートを把握することをメインの目的とし、サブの目的としては、「無理」と言いながらも「北条峠」から先の廃道の踏査区間を少しでも伸ばすことです。

当日9時半過ぎ。「北条坂」への取り付き場所へとやって来ました。以前訪れた時には空き地だった場所に仮設の工事事務所が立っていましたが、今日は休業なのか無人のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回も目印となる「秋葉山大権現・金毘羅大権現」の石碑の脇から峠道へと取り付いていきます。


過去2回はすぐに山の斜面へと向かっていましたが、今回はできる限り「北条坂」のルートをトレースしたいので、まずは横を流れる「砥沢」に沿って、架橋していたと思われる場所を目指して上っていきます。

架橋地点と思われる場所に来ました。周辺の植生が濃いので対岸の状況は確認できませんが、橋台の付属物と思われる石造物もあるので、間違いはないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

架橋地点から折り返して、小渋川の方向へと斜面を進んでいきます。この辺りの斜面は上部からの崩落により落石や土砂をかぶっているため、「北条坂」の道がどの場所を通っていたのか全くわかりません。ひとまず真っ直ぐ進んでいきます。


100mほど歩くと道跡が見えてきました。


道跡に小屋が立っています。その傍らには石碑もあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小屋の正面に回って様子を見ると、いくつかの木製の祠が置かれていました。ただし、中身は全てもぬけの殻。付近にあった桶谷集落が無くなった際に回収したのかもしれません。

また、小屋の傍らに立つ石碑のうち、笠石が乗っているものが1335年に起きた中先代の乱で知られる「北条 時行」の墓だそうです。

架橋地点から歩いてきて1か所目のヘアピンカーブです。


かろうじて残っている道跡を真っ直ぐ進んでいきます。


斜面に刻まれた「雨裂」に遭遇しました。道跡が抉られています。ここは上側へと迂回をして反対側へと進みます。


架橋地点から2か所目のヘアピンカーブです。周りは杉木立に囲まれ、道跡は不鮮明です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山側に石積みの擁壁が設けられています。


ふたたび雨裂を越えて、谷側に点々と石積み擁壁が残る道跡を辿っていきます。


また崩落斜面を横切っていきます。


道跡の上に大きな落石が転がっています。


ようやくはっきりとした道跡になってきました。


路肩には石を乱積みした擁壁。


架橋地点から3か所目のヘアピンカーブ。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何度も横断している崩落斜面の上部になります。道跡は残っていますが、土砂が積もり、路面が谷側へと斜めになっています。


下で遭遇していた雨裂が随分と深くなっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方がないので、上部の渡れる場所へと迂回します。




架橋地点から4か所目のヘアピンカーブに来ました。ちょうどカーブの地点に枯れ沢が重なっているため、道跡は崩壊しています。




小さな落石が転がる道跡を進んでいきます。


そしてまた雨裂です。ここは一旦下へと下りてから反対側へと渡ります。


この雨裂、大雨のたびにどんどん周りの斜面を削り取ってしまうんでしょうね。


「砥沢」沿いの斜面を離れ、ややなだらかになった場所を進んでいきます。


初めて来た時はこの辺りで道跡を見失ってしまい、上段を通る道跡へと直登していましたが、今回は見逃すことなく道跡を辿って進みます。




枯れ沢を渡っていきます。


倒木が折り重なっています。くぐったり跨いだりして通過していきます。


架橋地点から5が所目のヘアピンカーブになります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

幅は狭いながらも、道跡がしっかりと残っています。


先ほど渡った枯れ沢の上部を進んでいきます。


初めて来た時に道跡を見失った場所から、この枯れ沢を渡る辺りまでは、今回初めて歩き通したことになります。初めて来た時は、上側からこの枯れ沢辺りまで下ってきて引き返しています。その際にこの道跡については「(取り付き場所が違う)『北条坂』の新道かもしれない。もしくは関連ない木馬道か。」というような事を書きましたが、今回で「北条坂」そのものであることがわかりました。

遠くまで見通しの利く長い直線路を歩いていきます。


先ほどとは違う雨裂に遭遇しました。規模はさらに深いものです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雨裂の先に6か所目のヘアピンカーブがあるはずですが、さすがにこの深さは渡れないので、さらに上段を通る道跡へと迂回します。


小石が散らばる道跡。歩きにくいことこの上ないですね。


杉にビニールテープが巻かれています。鹿などの食害を防ぐためのものでしょうか。


炭焼き窯の跡。


杉の植林地から落葉樹の林へと植生が変わってきました。


アカマツが並木のように揃っています。


架橋地点から7か所目のヘアピンカーブです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブの先で、一直線に北条峠を目指す旧道と緩やかに登っていく新道が分岐します。


北条峠まででは最後となる、架橋地点から8か所目のヘアピンカーブ。




「北条坂」の峠、「北条峠」に到着です。


この場所で旧道と新道が合流します。


登山用アプリで取得したGPSの軌跡から書き起こした駐車場所から北条峠までの「北条坂」のルート図です。


こちらは戦前の地形図。当たり前と言えば当たり前ですが、ヘアピンカーブの数やルートはおおむね合っていますね。

※5万分の1地形図「大河原」:明治43年(1910年)測図・昭和5年(1930年)修正測図。昭和7年(1932年)発行。

一方、こちらは2020年9月20日に初めて訪れた際の歩行ルートを帰宅後に想像で描いたルート図。全然違いますね(笑)。地形図を持参してチェックしながら歩いたわけではないので、こんなものなんでしょう。


さて、峠にある石碑・石仏群を見に行きます。


様子に変わりはないようで何よりです。


ここからは、山の中腹を縫って上峠方面へと進む道跡を行ける所まで辿っていきます。
Posted at 2022/08/21 20:57:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大鹿村 北条坂 | 日記
2022年08月17日 イイね!

日中線記念館(旧熱塩駅)に立ち寄りました

2022年7月16日土曜日、福島県福島市飯坂町中野の旧国道13号「萬世大路」に残る「二ツ小屋隧道」と「烏川橋」を訪れ、その足で「二ツ小屋隧道」から「新沢橋」へと至る廃道区間を歩いてきました。

廃道を歩き終えて、東栗子トンネル前の駐車帯へと戻って来たのが16時15分。


当初の予定としては、このまま国道13号で米沢市へと出て、南陽市から国道113号に入って新潟県方面へと進みつつ、小国町の「綱取橋」にも立ち寄ろうかと考えていました。

しかし、この時間からでは小国町に着く頃には夕闇が迫り、廃道に入り込むのにはよろしくない状況になりそうです。

ということで、「綱取橋」を訪れることはあきらめて、国道121号で会津若松へと出て、磐越道で新潟県へと向かうことにしました(新潟県へ向かうことはあきらめていない(笑)。)。

国道13号で東栗子トンネル・西栗子トンネルを通過し、米沢市街からは国道121号へと進み、山形・福島県境にある大峠トンネル前の駐車帯までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらが大峠トンネルです。


トンネルの銘板によると、竣工は1985年(昭和60年)9月。トンネル延長は3940mです。


少し余談です。現在の国道121号である大峠道路は、平成4年(1992年)8月に一部区間の供用が開始され、山形・福島県境を往来できるようになりました(大峠トンネルの竣工から大峠道路の一部供用が開始されるまで、さらに7年が経過していることに、トンネル前後の道路建設に相当苦労したことが想像されます。)。

それまでの国道121号は、大峠トンネルからさらに南東側にある「大峠」を越えるルートを取っていました。この峠道は狭隘の屈曲路であり、冬季通行止めが5か月間も続く難所でもありました。現在は事実上の廃道となっています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大峠から福島県側に入った、特に屈曲している区間の戦前の地形図。

5万分の1地形図「熱塩」:大正2年(1913年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図及び同修正縮図。

この峠道は、福島県側からは米沢街道と呼ばれていました。旧来は大塩峠・蘭峠・檜原峠という3つの峠越えをして会津若松と米沢を結んでいましたが、「会津三方道路」事業により、米沢街道を大峠経由ルートへと付け替えるべく明治15年(1882年)に着工。明治17年(1884年)に完成しました。工事には住民が延べ73万4千人動員され、文字通り住民の血と汗と涙の苦労の末に出来上がった道路だそうです。

ちなみに大峠から山形県側の峠道は明治17年に着工し、明治19年(1886年)に完成。これにより牛馬車での峠越えが可能となったそうです。

その後、不景気対策の一環として行われた「農村振興土木事業」により、昭和7年(1932年)〜9年(1934年)にかけて自動車道へと改修されました。

同じく大峠から福島県側の屈曲路区間。こちらは現在の地形図に旧国道を青線で表示したものです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、国道121号大峠トンネルを通過し、ふたたび福島県へ。時刻はもう18時30分を回っていますが、まだ空は明るく、最後にもう1か所立ち寄ることにしました。

やって来たのは、福島県喜多方市熱塩加納町にある日中線記念館。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

日中線記念館は、旧国鉄日中線の終端駅であった旧熱塩駅を保存した施設です。もうすぐ19時になろうかという時刻なので、施設にはすでに誰もいませんでした。
























この後は会津若松まで国道121号を走行し、会津若松ICから磐越道に乗って新潟県方面へ。新潟中央JCTから北陸道に入りましたが、ここでどうにも眠気が酷くなり黒埼PAにて仮眠。目が覚めたら3時間経っていて、日付けが変わってしまいました。
Posted at 2022/08/17 22:48:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2022年08月13日 イイね!

「萬世大路」二ツ小屋隧道から新沢橋を歩く(2)

2022年7月16日土曜日、福島県福島市飯坂町中野の旧国道13号「萬世大路」に残る「二ツ小屋隧道」と「烏川橋」を訪れ、その足で、「二ツ小屋隧道」から「新沢橋」へと至る廃道区間も歩くことにしました。

その(1)で短い区間残っていた萬世大路の「明治道」を通り抜け、車を駐車してある東栗子トンネル前へと抜け出る作業道との分岐点に来ましたが、このまま萬世大路を直進していきます。


降り続いていた雨は上がりましたが、雨のおかげで道跡には水が流れ、ところどころ泥でぬるぬるになっています。


作業道から入り込んでの序盤。まだ道跡には轍が残っています。






轍が消え、道跡全体に浅く土が被ったようになってきました。


濃い草むらが現れました。まあ、足元にうっそうとしているだけなので、ひとまず進んでいくことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

草むらの先には沢があり、見たところコンクリート製の簡素な橋が架かっていました。念のために、橋の左右やたもとから覗き込んで、穴が開いていないか確認。問題なさそうなので、橋を渡っていきます。




橋を渡った先も轍は消えてしまっています。


道跡が泥でぬたぬたになっています。うかつに足を置いたら予想以上に滑り、転びそうになりました。


この場所の山側には階段があり、後述する「殉職警察官之碑」が立てられていたようです。


分岐点から1つ目のヘアピンカーブを曲がっていきます。自動車道へと改修されたこともあり、「明治道」のヘアピンカーブに比べて、緩い曲率半径になっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頭上が開けている場所は地面まで日光が届くので、どうしても濃い草むらになってしまいますね。




2つ目のヘアピンカーブ。




路上を小さな川が流れています。この水の流れと泥場と草むらを右へ左へと避けながら進んでいきます。


道跡の右側から3分の2が草木に覆われています。全然見えませんが、道跡が軽く崩落しているのかもしれません。


右下に道跡が見えてきました。直にヘアピンカーブが現れそうです。




3つ目のヘアピンカーブです。


先ほど見下ろしていた場所を見上げます。


雨は止んでいますが、路上を流れる水の量が増えてきています。


4つ目のヘアピンの山側に擁壁があります。


石を「谷積み」したものですね。隙間(目地)もコンクリートで埋められたポピュラーなタイプですが、ここまでほとんど人工物を見かけていなかったので目を引きます。


4つ目のヘアピンカーブ。


ぬたぬたの泥場を越えていきます。とはいえ、ここまでの区間は歩きやすい廃道と言えます。身をよじりながら薮をかき分けて進む廃道を思えば、快適な散策路です。


5つ目のヘアピンカーブへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

このヘアピンカーブの頂点からは、ふたたび「明治道」が分岐していきます。私はこのまま「昭和道」を進んでいきます。




今さらですが、周りは新緑のような鮮やかさに彩られています。本当に落葉樹の森は心地よいです。これが愛知県の山中だともっと濃い色のような気がします。


6つ目のヘアピンカーブ。






ようやく眼下に国道13号が見えてきました。


道幅が広く取られています。そして山側には石積みの擁壁。ここの擁壁は目地を塞いでいない「空積み」ですね。


「殉職警察官之碑」が見えてきました。この碑は、明治21年(1888年)1月に福島警察署飯坂分署二ツ小屋巡査駐在所勤務の警察官が、飯坂分署から駐在所への帰途の際に雪により遭難したことにちなむ慰霊碑だそうです。


ようやく「新沢橋」に到着しました。草に覆われていて、親柱が1基見えるだけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

草むらを通り抜けていきます。


橋上に出ました。橋の上からでは何の変哲もない風景しか見えません。


元々の高欄は撤去されてガードレールに付け替えられています。そのガードレールも支柱が四角の古いタイプですが。


床版に大きな穴が開いています。コンクリートの厚みが薄いですね。それから鉄筋もまるで針金のよう…。昭和戦前期に建設された橋梁ですから、現代のような大型車やトレーラーなど、優に10トン以上を積載する重量車両が通行することはまったく想定していないはずですからね。


穴の脇を通り抜けて、対岸へと来ました。ここで旧国道13号は右折していきます。そして、山の中で分かれていった「明治道」がここへ合流してきます。




こちら側の親柱はボロボロ。銘板は外されていました。


橋から右折した先の眺め。もうしばらく廃道は続いているようですが、今回は新沢橋で引き返しました。




せっかくなので、「明治道」へ少し入り込んでみます。


すぐに小さな沢にぶつかり、大きな石積みの橋台が残っていました。この橋台の先も、いろいろな方たちが踏査して、内容をインターネットにアップしています。


「新沢橋」の眺め。深い谷を渡るため、コンクリート造りのアーチ橋です。床版に大穴が開いているので、そう遠くないうちに渡れなくなるかもしれません。


今回の探索はこれにて終了。慰霊碑の前から伸びる参拝用の小径を通って、国道13号へと下ります。




「新沢橋」から歩くこと約1km。車を駐車してある東栗子トンネル前の駐車帯へと戻ってきました。




その(1)とその(2)で歩いたルート図です。青色の線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは今回歩いた全体のルート図です。歩いた距離は8.6km、時間は3時間半かかりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あいにくの天気の中でしたが、約14年ぶりに「萬世大路」の遺構を見たり廃道を歩いて、少しスッキリしました。廃道歩きを始めた頃に1回歩いただけでしたから、「いつかは再訪しないと。今までいろいろ経験した目線で、もう一度歩いてみたい。」という気持ちがありましたからね。

まあ、「萬世大路」の本命は、「二ツ小屋隧道」から「栗子隧道」へと至る区間で、それを考えるとまた出直しする必要はあるわけですが、雪が降る前の晩秋に訪問できたらいいですよね。

それが今年になるのか来年になるのかそれ以降なのかはわかりませんが(笑)。
Posted at 2022/08/13 07:06:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2022/8 >>

 123 456
789101112 13
141516 17181920
2122 2324252627
28293031   

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(4) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/04/19 15:50:49
甚目寺と名鉄築港線東名古屋港駅 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/04/19 15:27:31

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation