2022年7月23日土曜日、長野県下伊那郡大鹿村桶谷に残る廃道「北条坂」へと行ってきました。ここ「北条坂」は2020年9月と10月の2回探索に訪れていて、私レベルでは全線踏破は無理と判断した廃道です。
さて、前回(3)で「北条坂」のルートのデータが取れたことでメインの目的は達成しました。ここからは、サブの目的である「北条峠」から下伊那郡松川町生田の「上峠」へとさらに続いていく廃道の踏査距離を少しでも伸ばしていきます。
それでは「北条峠」を出発します。
最初のうちは十分な幅員が残る道跡が続いています。
しかし、ものの数分も歩かないうちに怪しい場所が現れ始めます。それでもまだまだ余裕はあります。
1回目の探索時に引き返した場所に来ました。1回目は一応偵察だったので、あまり奥までは入り込みませんでした。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この浅い切り通しの先から、いよいよ廃道が牙をむき始めます…。
道跡が流失した場所が現れました。でもまだ落ち着いて通過すれば大丈夫です。
振り返っての眺めです。
ここも道跡が無くなり、斜面と面一になっています。しっかりした踏み跡が付いていますが、木の横で谷側に体を傾けるのを嫌って、木の山側を通過します。
ふたたびしっかりと幅が残る道跡が現れました。こういう場所で気分をリラックスさせます。
2回目の探索時に一番の難所だった場所に来ました。その時は、枯れ沢の真ん中で滑り落ちそうになり、四つん這いで必死に道跡まで戻る羽目になりました。そして、あらためて対岸へと渡るのに15分も時間をかけてしまいました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
道跡が完全に流失して岩盤が剥き出しになっています。その岩盤に踏み跡のように付いているわずかな段差を伝って対岸へと渡っていきます。
一番底となる場所を通過していったん立ち止まり、眼下を見下ろしています。
丸印の場所から見下ろしています。
対岸へと渡り、振り返っての眺めです。
次から次へと休む間もなく難所が現れます。それでも、先ほどの一番の難所に比べれば緊張の度合いはあんまり高くありません。
2回目の探索時に引き返した場所まで来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
その時は、枯れ沢の先にあるこの斜面を越えようと何度かアプローチをしてみましたが、どうしても足場が崩れて進めず、気持ちが折れてしまい引き返してしまいました。
今回は斜面に付いている踏み跡を素直に辿ることにしました。土砂が脆くてゆっくり歩いていると踏み跡が崩れてくるので、バランスを崩さない程度に素早く歩いて通過していきます。
ようやく難所を越えた所ですぐに次の難所が現れました。今回通過できた中では最大の難所です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
うっすらと踏み跡が付いてはいますが、どうにも信用できません。この場所で立ち止まり、進むべきか引き返すべきか、しばらく考え込んでいました。
ようやく進む方向で気持ちが固まり、踏み跡よりもやや高い所に左足で新たな足場を作りながら渡っていきました。結局、渡るために5分を費やしました。
振り返っての眺めです。こちらの写真の方がこの場所の様子が多少わかりやすいです。もしも踏み跡が崩れたら、下へと5mくらい投げ出されて、そこから急斜面を滑落というような場所でした。
正直、「もう二度と通りたくない…。」と思いました(笑)。
そして、何事もなかったかのように道跡が復活しました。「もう最後までこのまま道跡が続いてないかなぁ。」と思いましたが、絶対にそんなことはあり得ないこともわかっていました…。
そして、今回の探索の終着点となる場所にやって来ました…。
道跡が切れ落ちている場所から「あれが道跡なんだな。」と眺めていました。
ただ、まだこの時点では引き返すことになるとは思っていませんでした。下巻きして迂回できるルートがあるかもしれないと思っていたからです。
少し戻った場所に沢底へと下っていく踏み跡を見つけていました。これを下ってみることにします。
踏み跡の先が崩落しているのが見えてきました。
「こんなん絶対無理だろう…。」。呆然としました。上側の岩盤が下側の岩盤に覆いかぶさるような形で段々になっていて、足場になりそうな場所が見当たりません…。
実はこのブログを書くにあたり、「大鹿村 北条坂」でネット検索してみました。最後に何か付け加えられるような新しい情報が上がっていないか確認するためです。
そうしたら、検索結果の中に今までに読んだことがない、比較的最近にこの廃道を縦走した方のブログがありました。山登りの経験が豊富な方で、「きわどい部分もあるが楽しい峠道だった。」というような感想を残されていました。
その方はここをどうやって越えていったのだろうか…。登山経験に関して「ど素人」の私には、現地で越えていけるようなルートはまったく見い出せませんでした…。
今回の探索の最終到達地点の地形図です。結局、2回目の訪問時に引き返した場所から100mほどしか先へ進めませんでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
これ以上進めなければ引き返すのみです。「もう二度と通りたくない…。」と思った場所を気持ちを奮い立たせて越えていきます(大げさですけどね…。)。
無事に「北条峠」まで戻ってこられました。これでようやく安心できます。
「北条峠」からさらに45分程かけて車へと戻ってきました。
今回も「お前のレベルじゃこの廃道は無理だ。」と突き付けられてしまいました。でも、私としてはそれでいいんです。
ラリーで知り合った日本アルプスも登る方に「もうロープとか持っていった方がいいよ。」とか言われたことがありましたが、私はロープを自在に扱えるような登山経験を積んで、さらなる危険地帯を越えてまで廃道探索しようとは全然思っていません。
言い訳がましいですが、楽しい趣味の範囲で十分なんですよ。今回のように多少無茶な所も行きますが、それでも「長靴」履いて歩いていける範囲ですから。そもそも高い場所が苦手という致命的な欠点がありますし(笑)。
そういうことで、この廃道を「北条峠」側から進む目は完全に潰えました。あとは松川町生田側から行くしかないですが、生田側からの道跡も状態は大概ひどいようなので、どうしたものでしょうかね。これでまたしばらくは塩漬けです…。
あらためて、今回の「北条坂」探索のルート図です。本来のルートの半分も進めませんでした…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さてここからは、長野県の飯田市立中央図書館で閲覧した「大鹿村誌」からの引き写しになりますが、私が探索した「北条坂」が開削されるまでの、大鹿村と伊那谷側とを結んでいた道の歴史を振り返っていきます。
当然、大鹿村への出入口は、秋葉街道の分杭峠など他にもいくつかの峠がありますが、今回は「北条坂」へとつながる部分だけに絞っています。
読解力の無さや文章を端折ったところからくる正確さを欠いた部分があります。それから地形図に書き込んだ各街道については憶測で描いているので、その点はご容赦ください。
まず、古来からの道は、大西山を越える道だそうです。中道街道とも呼ばれ、大鹿村の中心地である大河原から大西山を登り、中道峠(現:唐松峠)を越えて、豊丘村の河野や神稲へと通じていたそうです。大西山までは、現在も登山道として利用されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
江戸時代に入り、文政11年(1828年)に満水(洪水のことか?)があり、小渋川に架かる高橋(場所不明)が流失し、往来に支障をきたしたそうです。
※ここで高橋が架かる小渋川沿いの街道がどのような道・ルートであるかの記述はありませんが、中道街道とは別の街道であるかと思われます。当時は、今の県道22号松除橋以西で小渋川沿いを通る街道は無かったようで、どこの峠を越えていたのでしょうか?
そこで大河原村(現:大鹿村)では、柄山(現:松川町生田)へ通じる道を中道峠から作れば容易であるとして、文政13年(1830年)に至って村内評議の上、同道の開削を決定。天保2年(1831年)春頃に中道峠から尾根伝いに徒歩道の「柄山新道」が完成しました。
中道峠から柄山まで「尾根伝いの道」で開通したとの記述により、全くの憶測で描いた「柄山新道」の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ちなみに、ネット検索すると、憶測のルート上である大西山から白沢山を縦走した登山記録がヒットします。内容を読むと登山経験が豊富な人でないと縦走は困難なようです。
そこを踏まえると、本当にこのルートで良いのか疑問符が付くところですが、後年に開通した別ルートの街道により「柄山新道」は30年程度しか利用されなかったと考えられることや、利用が途絶えてからも160年近く経過しているので、徒歩道だった街道の痕跡はもはや残っていない可能性が高いでしょう。
中道街道から柄山新道へと物流の道は代替わりしていきますが、高い尾根を険しい徒歩道で長距離移動することに変わりはなく、ふたたび違う街道を開削することを模索し始めます。
すでに文政13年(1830年)3月、大河原村が中道峠から柄山へ通じる道路開削の交渉を長峰(現:松川町生田)・柄山とした時に、柄山総代が「北条の道の内、と沢(砥沢)辺(辺り)にて手入れいたし候えば、近道出来候間…。」と話を持ち出しています。ここで初めて北条を通る街道の話が出てきます。
前述のとおり「柄山新道」がまず開削されたので、「北条からの近道」が具現化するのは33年後の文久3年(1863年)。砥沢付近から曲折して白沢山を登り、白諏神社(白沢山にある神社)下を通り、峠(現:松川町生田)・柄山・長峰方面へ通じる新道として開削されました。
この地図の新道ルートもあくまで憶測です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
山の上を通る距離は短くなってきましたが、白沢山という急峻な山を上り下りする必要がある点では不便な道でした。
明治時代に入り、大鹿村と生田村(現:松川町生田)が協議して、生田村中山耕地「ませのたを」から大鹿村字北条まで新道を開削することになり、明治12年(1879年)秋に開通しました。この道路は大鹿側は北条から「北条坂」と呼ばれた曲折した道路で北条峠へと上り、白沢山の中腹を通過し、村境の鵜飼沢で天竜川河畔から福与・中山(両地とも現:松川町生田)を経て上峠へと上ってきた生田村側の道路と直結していました。開通後は大鹿村の主要な物資移出入路になりました。
左半分は推定ルートになりますが、明治12年開通の新道の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここでようやく私が探索した「北条坂」の道が現れました。「大鹿村誌」を読むまでは、もっと古い由来のある道だと思っていました。そして、現在の状態からは想像できませんが、開通から60年近く、大鹿村と村外とを結ぶ主要路線の役割を担っていたのです。
明治29年(1896年)、分杭峠から鹿塩(現:大鹿村)を経て落合(現:大鹿村)に至り、そこから桶谷、北条を通り生田村境に至る道路を「大鹿線」とし、改修工事が始められました。
「大鹿線」の桶谷の砥沢から生田村境の鵜飼沢までの間にある「北条坂」の改修はことのほか困難で、多額の工事費が必要でしたが、村費負担だけでは間に合わず、県費補助の申請をして改修工事が進められました。
「大鹿線」はその後、大正8年(1919年)に郡道(路線名はおそらく飯田大鹿線)、大正12年(1923)に県道粟沢時又線となりました。
県道へと認定されましたが、相変わらず生田村の上峠から大鹿村の桶谷までは悪路で、幅員も6尺(1.8m)~9尺(2.7m)であり、中でも北條坂の曲折が交通上の障害となり、荷馬車が通行することができませんでした。
それでも飯田方面との主要な物資移出入路であることに変わりありませんでした。大正末期には、飯田の商人が自転車で北条坂を通って大鹿村で商用を行って一泊し、帰りは自転車を押して北条坂を登り、飯田へと帰っていったという記述もあります。
そして「北条坂」の隘路を解消すべく、ようやく昭和7年(1932年)新たに「岩洞自動車道」の開削に着手しました。現在の長野県道22号にあたります。この道路は昭和11年(1936年)12月に完成しましたが、落石や道路の崩壊が続き、安全な自動車道になるまでなお数年を要したそうです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
本当にざっくりですが、大鹿村と村外を結ぶ街道・道路にはこんな変遷の歴史があったわけです。「大鹿村誌」は交通の項目に多くのページを割いています。地形的に閉鎖されていた大鹿村としては、伊那谷を流れる天竜川の河畔(舟運がある。)や街である飯田(現:飯田市)、赤穂(現:駒ヶ根市)とを結ぶ峠道はまさに生命線であり、村誌の記事としても重要度の高い項目だったのでしょう。
最後のおまけ。「大鹿村誌」に掲載されている工事記録の関係記事の中に「大正三年(1914年)砥沢橋より生田村境に至る間、春季修繕を金十七円にて北条猪之吉に渡したり。」という記述がありました。
これを読んだ時、「『北条 猪之吉』さん、なんか見覚えのある名前だな。」と思いました。「北条峠」にある道祖神の石碑を奉納した方でした。

※2020年9月20日撮影

※2020年9月20日撮影

※2020年9月20日撮影