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小林あにのブログ一覧

2023年10月29日 イイね!

万古集落跡と「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)を探索する

2023年9月16日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡と泰阜村我科の「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)を探索してきました。

さて、今回もやって来たのは泰阜村我科の万古隧道前。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は崩れて通りにくくなっている場所の整地をしようと、草取り用の柄の長い小さな鍬を持参。鍬で土砂を削って、長靴で地均し。多少は歩きやすくなりました(笑)。




万古集落跡の北側にある吊り橋。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落跡の中を通過し、集落跡内の峠「庚申ぼつ」に到着。前回、この地を訪れた時に、万古集落跡と名田熊集落をつなぐ峠道を少し探索しましたが、前回の引き返し地点よりも奥へと進めないかとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の中の一軒家を通り過ぎ、小さな切り通しの所まで来ました。この先から、峠道の状況は悪くなっていきます。


前回引き返した場所を通過。斜面に付いている踏み跡を通るのは不安だったので、上方へと高巻きしていきます。


踏み跡が二方向へと分岐している場所に来ました。取りあえず、同じ高さで続く踏み跡へと進みます。ただ、真っ直ぐ踏み跡へと踏み込むのは嫌な感じだったので、ちょっと上側へと回り道します。


そして、踏み跡の分岐点からすぐ先の地点で峠道がまた崩れていました。日がよく当たる場所のためか、地面が乾燥してカチカチになり長靴では足場を掘ることができません。

その硬い地面には砂が乗っている状態で滑る可能性も大。そして絡みあった倒木。ここは引き返します。


引き返してきて、今度は上へと向かう踏み跡へと進んでみます。


上側の踏み跡も同じような様子の斜面…。この先進んでいくと地形はどんどん険しくなるはずなので、ここで撤退することにしました…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここは「庚申ぼつ」寄りの崩落斜面。引き返した地点へと向かっている時、帰りのために鍬と長靴で踏み跡程度の道を造っておきました。引き返し地点の斜面も、ここみたいに削ることができるくらいの柔らかさがあれば、まだ何とかなったんですけどね。


「庚申ぼつ」まで戻りました。ここから万古集落跡へと下っていきます。


集落跡内の平地と平地の間にある崖道を避けるため、万古川の河原を歩いていきます。


そのまま吊り橋まで歩いてきました。


ふと見ると、吊り橋の下側に丸いものがぶら下がっていることに気が付きました。望遠で眺めるとスズメバチの巣でした。橋を渡っている時に攻撃されなくてよかった…。


吊り橋から坂を登り、木橋が架かる場所へと来ました。地形図で見ると、沢沿いに進む方向へと破線道が記されています。以前から秋葉道(中道)かもしれないと思っていたので、行ってみることにします。


ところが、沢沿いに入り込んでみると、道の痕跡らしきものが全然見当たりません。「増水などで土砂に埋もれたのかも。」と思い、さらに踏み込んでみましたが、岩肌剥き出しの沢となり、「これはどう見ても道を通す場所じゃないなぁ。」ということで引き返しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木橋まで戻り、さらに坂を登っていきます。


「我科村四辻」へとつながる稜線の一つに来ました。ここから稜線を辿って、「我科村四辻」方面へ向かう道筋がないか探ってみることにします。




道跡があるにはありましたが、頼りなげな雰囲気です。




違う道へと合流しました。


今歩いてきた細道と違って、それなりの幅広さがあるしっかりした道筋です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この先に石碑と石仏が立っていました。


馬頭観音碑と馬頭観音像です。どうやらこの道が秋葉道(中道)のようです。「我科村四辻」まで登ったら、後で下側の道跡を辿ってみましょう。


さっそく先へと進んでいくことにします。


盛土道がありました。元々の地形から道を盛り上げた様子がわかりますね。


ピークとは言えない程度の場所を堀割り道で進んでいます。


また盛土道が現れました。ここの盛土道は、路肩の角がしっかりと立っていますね。ここまで形がくっきりしている盛土道は初めて見ます。




路面が崩落しているので、ちょっと脇へと避けて進みます。


「我科村四辻」がある尾根に近づいてきました。


「我科村四辻」に到着です。正直、ここが「泰阜村誌」で言う「我科村四辻」なのかはわからないのですが、我科側へと下って行く道もありますし、勝手に「ここ」ということにさせていただきます(笑)。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

尾根にあった林道を南側へと少し歩いてみましたが、大勢の人の声が聞こえてきたので引き返しました。


さて、馬頭観音がある場所まで戻ってきました。ここからさらに下側へと、秋葉道(中道)を下っていくことにします。


ちょっと怪しい雰囲気になってきましたね。大丈夫かな…。


ここにも盛土道がありました。ひとまずは心配無さそうです。


尾根から逸れて、さらに下っていきます。




地形図を見ると急斜面な感じだったのですが、やはりつづら折りが始まりました。




つづら折りが終わると、斜面をトラバースしていきます。


またつづら折りです。




急坂を一直線に下っていきます。


尾根道に出ました。昔の道は、地形をうまく使って造られていますよね。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

尾根伝いの直線路が続きます。


ここで左側へと大きくカーブしていきます。


ここからは途中に崩落箇所を挟みつつも、とことんつづら折りが繰り返されます。そんな状況でも、できる限り道幅は確保しつつ、勾配も抑えようとしていた意図を感じられます。














どうやら万古川まで下りてきたようです。


万古川の河原へと出てきました。対岸正面が万古集落跡になります。これでは、万古集落跡側から眺めても、この場所に秋葉道(中道)があったとはわかりませんね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

万古川の河原に出てきてから35分後。ようやく車へと戻ってきました。


今回は、写真に撮っていない場面も含めると、4~5か所は埋まった道を掘り返していたので、いつもと違い上半身もだるいです…。万古集落跡へは何度も通うことになり、気になってしまってやりましたが、単発で訪れるような場所ではやりません(笑)。

今回歩いたルートの全体図です。


こちらは、今回歩いた秋葉道(中道)のルート図です。


谷京峠・万古集落跡を通る秋葉道(中道)の絡みで、繰り返しこの場所を訪問・探索してきましたが、これで万古集落跡と「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)のルートも判明したので、今回で一旦終了とします。

まだ、谷京峠へつながる他の道や、泰阜村内の秋葉道(中道)、以前に歩いた泰阜村の和田新道の未踏査区間など、この周辺でもネタとなる道はありますが、連続で何度も来てちょっと「飽きてきた」(笑)ので、一旦ここから離れることにします。
2023年10月25日 イイね!

【西尾市】茶臼山へ登ってきました

2023年9月9日土曜日。この日は夜に用事があったので、日中出かけることはせずに家でゴロゴロとしていたのですが、このまま体を動かさないのも落ち着かない感じだったので、午後から西尾市内にある茶臼山へ出かけて、頂上まで登ってきました。

やって来たのは、茶臼山の麓にある平原の滝の入口。


ここから山へと登っていきます。




まずは平原の滝に到着。入口の案内板から歩いてほんの5分程です。


滝とは言っても、水垢離のための樋が掛けられていて、そこをチョロチョロと水が流れ落ちているだけなので、滝といった趣きにはどうにも欠けていますね。




平原の滝までは遊歩道ですが、ここから先が登山の本番となります。


前回登ったのは8~9年前ですが、その時と比べると山の様相がだいぶ荒れています。やはり、多発する豪雨の影響によるものでしょう。




沢の源頭まで来たところで斜面へと取り付き、さらに登っていきます。


洞穴です。こちらは以前と変わりありません。


防空壕だとか高射砲陣地の弾薬庫だったとか言われていますが、ネットで検索してみた限りではよくわかりません。同様の穴が茶臼山の各所にあるようです。


見晴らしの良い場所へと出てきました。


山頂まではもう一息です。






茶臼山の山頂に到着しました。標高は291mです。


木々の切れ間から岡崎平野と三河湾を望むことができます(三河湾側を撮った写真はピンボケでした…。)。


時刻はすでに15時50分。長居は無用、すぐに下山します。


帰りは違うルートで下っていきますが、この茶臼山、いわゆる「里山」であるためか、縦横無尽に徒歩道や踏み跡が付いており、道案内の標識や登山用アプリでしっかり確認しながら歩いていかないと、すぐに迷子になってしまいそうです。






白いキノコ。目を惹きますね。


尾根筋から外れると、一気に下ってきます。


この階段区間を下っている時、道端で休憩していた老夫婦に「平原の滝はまだ上ですか?」と声を掛けられました。「えっ、平原の滝はもう通り過ぎているはずですよ。」と話をしたらびっくりされました。う~ん、確かにあの姿では滝と認識されなくても仕方ありません。

それから「では、山頂まではどのくらいありますか?」とも聞かれたので、「まだ距離がありますし、けっこう坂がきつい所もあるので、この時間から行くのはお勧めしないですね。」と返事をしておきました。

平原の滝まで戻ってきました。


16時を回っているのに、ここでも山を登っていこうとする小さな子どもを連れた親子連れとすれ違い、「失礼ですけど、この山は登られたことがありますか?」と思わず声を掛けてしまいました。

「だいぶ前にあります。」と返事をされましたが、「この時間から登るのは、もう止めておいたほうがいいと思いますよ。」とだけ言っておきました。

老夫婦とすれ違う前にも、山の中で遊んでいる外国人の親子連れを見かけましたし、みなさんもうじき夕暮れになるということを気にしないんでしょうかね…。

後半はいろいろありましたが、無事に平原の滝の駐車場まで戻ってきました。低い山という手軽さもあり、往復2.3kmを1時間ほどで歩いてきました。適度に汗もかいて、良い運動になりました。


そして、夜の用事はドライバーやすい氏と元同僚F氏との飲み会。せっかく運動した意味を帳消しにするほど飲み食いました(笑)。
Posted at 2023/10/25 22:25:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 山登り・山歩き | 日記
2023年10月22日 イイね!

【豊根村】茶臼山までドライブしてきました

2023年9月3日日曜日、弟と二人で愛知県豊根村の茶臼山までドライブしてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は弟が珍しく「山頂まで登る。」というので、山頂へ向かう遊歩道を一緒に歩いていきます。


初めのうちは草原を歩いていくので、暑い陽射しを受けて汗が止まりません(笑)。




いい眺めです。


茶臼山の山頂部が近づいてきました。


林に入るといきなり階段が始まります。登山道の階段は、足を持ち上げるのを強制されているようで苦手なんですよね。


草むらに覆われた展望台。このまま朽ち果てていきそうです。


展望台を過ぎると、段々と登山道らしくなってきました。けっこう上り坂がきつくて息が上がります。




山頂へ続く稜線へと出てきました。茶臼山高原スキー場がある萩太郎山が眼下に見えています。


笹をかき分けて山頂へと向かいます。


茶臼山山頂に到着しました。




こちらは二等三角点「茶臼山」。標高は1,415.77mです。


山頂展望台からの眺め。奥三河の山々が連なっています。


さて、茶臼山の帰り道にちょっと寄り道。ここは新城市愛郷の山の中にある棚田。普通、茶臼山から安城市へ向かうのに、こんな場所は絶対に通りません(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

以前、ここの道を通った時に、棚田の石垣に穴が設けられていることに気が付き、そのうち寄りたいなと思っていたのです。


不整形な石をうまくアーチ形状に組み上げてあります。一体何の目的でわざわざ穴を設けたのでしょうか?


中を覗いてみると、耕運機のものと思われるタイヤやボロボロの木材が転がっていました。田んぼ仕事の物置として使っていたんですかね。


ここの棚田は全て休耕田になっていました。もう耕作する人がいないのでしょうね。
Posted at 2023/10/22 19:24:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2023年10月17日 イイね!

【設楽町】キビウと椹尾の間の峠道を探索しました(2)

2023年9月2日土曜日、北設楽郡設楽町松戸のキビウと椹尾(さわらお)の間の峠道を探索してきました。

前回(1)では、峠を通過して、背の高い倒木を乗り越えるところまで来ました。


倒木を越えると堀割り道が始まりました。




堀割り道のまま折り返していきます。


堀割り道がこれだけ続くのは、あまり見たことがないですね。


小刻みにつづら折りを繰り返して下っていきます。




つづら折りが終わると、過去に斜面が崩落した場所なのか峠道そのものが無くなり、所々に組まれている石垣の上を伝って歩いていきます。




椹尾側の沢へと出てきました。傍らに「田口小学校部分林」の標柱が立っています。


「部分林とは何ぞや?」と思い、ネットで検索してみたところ、「国有林野に契約によって国以外の者が造林し、その収益を国と造林者が分けあう林地。設定区部分林・旧慣部分林・学校部分林・各種記念部分林・その他部分林の五種がある。」とありました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは、沢に沿って峠道を下っていきます。






坂を下って行くと、結構広い平場がありました。何か建物が建っていたのか、耕作地だったのか…。


椹尾川へと出てきました。川を渡った対岸が椹尾になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

緩傾斜地が広がっていますが、全面植林されていて、これといった遺構は残っていないようです。


椹尾を通る林道へと出てきました。この林道はかつての森林鉄道の跡だそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまず下流方向へと向かうと、林道の交差点がありました。分岐していく方の林道には「松尾線」の標識が立っていましたが、私が歩いてきた方向の林道には標識が見当たりませんでした。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

歩いてきた林道を引き返していきます。

林道から緩傾斜地を見下ろしていますが、やっぱりこれといった遺構を見つけることができません。


林道の山側には石垣が残っています。


林道をさらに進んでいくと廃屋がありました。


廃屋の軒下に中部森林管理局の標柱が立っています。国有林の管理に関わる建屋だったのかもしれません。ちなみに、廃屋の左側には大量のビール瓶が転がっていました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧宮内省帝室林野局の標石。赤い部分に「宮」の字が刻まれています。この周辺がかつて御料林であった証ですね。森林鉄道段戸山線の田峰鰻沢線を探索した時にもよく見かけました。


杉林とシダが生い茂る緑の世界です。


防火用水の跡でしょうか。


ここで椹尾の緩傾斜地は終わりとなるので引き返します。


かつて椹尾の地にあった秋田木材製材所の痕跡を見に行きます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

痕跡と言っても、かつて使用されていた機器類の土台であるコンクリートの塊が、シダの群落の中に点在しているだけです。








ネットで検索すると大正時代の製材所の写真を見ることができます。


製材所跡をもうしばらく歩いてみましたが、コンクリートの土台以外の遺構は無さそうでした。マムシらしき蛇も見たので、あまり長居はせずに林道へと脱出します。


最初に到着した緩傾斜地の植林地の中も、あらためて歩き回ってみましたが、本当に何も残っていません。まあ、かつての椹尾集落の状況が具体的にわかる資料は無いので、土場だったのか田畑だったのかなど確認のしようがありませんね。


「山火事注意」の看板から山側へ斜面を登ると墓碑がありました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

墓碑に彫られている日付を確認すると、右側から弘化四年十二月十二日(1848年)、文政八酉〇月十九日(1825年)、寛政二戌十一月十一日(1790年)とありました。弘化四年の墓碑については「設楽町誌」に記述があり、小椋文左衛門さんという段戸山周辺や松戸村周辺で活動していた木地師の墓だそうです。

ここで、段戸山周辺の木地師集落及び椹尾集落についての余談を。記述する内容は基本的には「設楽町誌」及び「設楽町誌 村落誌編」に拠ります。

ウィキペディアからの抜粋ですが、「木地師」とは、「轆轤(ろくろ、轆轤鉋)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。」とあります。

また、「幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。」ともあります。

まず、段戸山周辺で木地師によって開墾されたといわれる場所には、椹後(さわらご)、松戸のキビウ、田峯の古田・平野、三都橋の落目、豊邦(桑平)の一部があるそうです。

段戸山は御林(江戸幕府直轄の山林)であったため、木地師の特権が行使できず活動が制限されていたようですが、前述のように段戸山の周辺地域では開墾された集落の存在により、木地師としての活動があったことが確認できます。

「田峯日光寺過去帳」によると、承応元年(1652年)から安永四年(1775年)の123年間に38人(男21人、女17人)の木地師が記帳されているそうです。過去帳にある38人の居住場所は、大滝7人、「古田3人」、出来山3人、「椹吾2人」、金床2人、「キビウ4人」、バラゴ1人、「落目4人」、野平12人です。

過去帳に記載があった木地師の子孫は、天明年間(1781年~88年)以降は存在が消えてしまっているそうです。一番の理由は、天明二年(1782年)から始まった大飢饉が、食糧生産者ではない木地師の生活をまともに襲い、いくつかの木地師集落が消滅したためといわれています(居住者が亡くなったか、他所へ転出していったと思われる。)。

続いて本題の椹尾集落ですが、こちらは木地師の亦兵衛さんによって開かれた土地だそうです。亦兵衛さんとその一派も、どこか見知らぬ土地から木工品の材料を求めて椹尾の地へと分け入って、この地を切り開いていったのでしょう。

椹尾の土地は開拓されたことを受けてか、元禄2年(1689年)に検地を受け、12石9斗5合の石高が定められます。集落の本村は、キビウ集落と同じく松戸村(現:設楽町松戸)となります。

旧版地形図で見ると、椹尾の周辺はほとんどが旧段嶺村(現:設楽町)に属していますが、椹尾の集落(旧版地形図では「澤尾」。)付近だけは突出した形で旧松戸村が合併した旧田口町(現:設楽町)の町域となっています。これは椹尾集落の本村が旧松戸村であった名残りと考えられますね。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

椹尾集落は、本村である松戸村から離れていることと、自然条件に恵まれていないこともあって、日照りなどによる飢饉で離村がしばしば行われたそうです。

その証拠の一つとして、寛政3年(1791年)に清右衛門さんという人によって集落が再開発されていたことが石碑から確認できるそうです(石碑の場所は未確認。)。よって、残っている墓碑は、再開発以降の時代のものだとわかります。

また、キビウ集落の余談でも書きましたが、天保8年(1837年)8月の大風雨が原因で、穀類の収穫が皆無となり、また馬での賃稼ぎもできなかったことで集落の2戸が「潰れ」、椹尾とキビウを合わせて4戸が病死または転出を余儀なくされています。

キビウ集落と違い、江戸時代の戸数の記録は残っていないようですが、明治4年(1871年)の戸数は、わずか1戸のみとなってしまいました。

しかし、明治以降になると様相は一変。今度は豊富な原木を目当てにした「炭焼き師」が入山し始め、最盛期には30世帯以上が椹尾集落で生活していたそうです。

椹尾集落で生産された木工品や炭製品は、今回私が歩いてきた峠を越えてキビウ、呼間を経由し海老方面へと出荷されていましたが(ここでも新城市海老が出てくる。)、道路事情の改善に伴い、森林鉄道の開通前後の頃には田口経由で出荷されるようになったそうです(おそらく椹尾川沿いの道が、運搬に使えるようになったのでしょう。)。

そして、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線が昭和9年(1934年)に開通し、段戸山御料林の森林開発が本格化。御料林の造林事業の推進によって、伐採された原木を利用する「秋田木材製材所」が設立されます。

ちなみに、「設楽町誌」では、「秋田木材 所在地:田峯字裏谷 稼働期間:大正初期から昭和10年頃 工員数:200名 動力源:水力」とあります。秋田木材製材所があった場所は、旧段嶺村(現:設楽町田峯)になるため、同じ製材所で間違いないと思われます。

ただし、すでに大正時代から稼働は開始しており、その後、森林鉄道が椹尾まで開通して1~2年の内に稼働停止していることになります。秋田木材製材所が稼働停止した理由は記述されていませんが、森林鉄道が開通したことで原木のまま大量に搬出できるようになり、現地で運搬しやすいように加工する必要が無くなったのかもしれません。

椹尾集落から上流側にあった製材所周辺には人家が集まり、また営林署の事務所も開設されたことで営林署関係者も住み込み、最盛期には集落内に雑貨店が一軒できるほどの賑わいをみせたそうです(お店一軒で賑わいというのも何ですが、それほど山奥なのです。)。

その後の経緯についての記述はありませんが、製材所の稼働停止、森林鉄道の廃止、営林署事務所の閉鎖、林業の不振などで椹尾集落は過疎化・消滅へと向かっていったのでしょう。

最後に「さわらお」という地名についての疑問。旧版地形図では集落があった場所は「澤尾」(さわらお)と記しています。現在の地名も、集落跡付近は設楽町大字松戸字沢尾となっています。

しかし、川の名前は椹尾川、川が流れる谷の名前は椹尾谷。江戸時代はひらがなで「さわらおう」でしたが、明治15年の愛知県への地名調査の報告では、松戸村の「さわらおう」は「椹尾」(サワラヲ)と報告されています。隣接する段嶺村側には、類似する地名の報告はありませんでした。

明治15年の報告が誤っているのか、報告以降に地名表記を改めたのか、よくわかりません。ネットで検索すると、昭和34年(1959年)発行の地形図を載せている記事があり、そこには旧来の集落が「澤尾」、製材所付近の集落が「椹尾」と分けて表記されています。

さらに、森林鉄道段戸山線の田口椹尾線では、「椹尾」を「さわらご」と読むとありました。「設楽町誌」内でも原典によって表記のブレがあるようで、前述のように「椹後」や「椹吾」といった表記もあります。「さわらお」も「さわらご」も当地の呼び名としては間違いではないことを伺わせますし、地名の書き文字にいろいろな「当て字」を使っていた面もあるのかもしれません。

それでは話を戻します。

墓石の下側には狭い段々地が並んでいます。おそらくこの場所に住居があったのでしょう。


墓石から上流側の隣地には広い平地が残っています。平地の山側には土留めのためと思われる石垣が巡らしてある箇所もあり、ここがかつての営林署の事務所だったのではないかと考えられます。


墓石のあった場所から真っ直ぐ椹尾川へと向かっていきます。


道らしい雰囲気があったので歩いてみましたが、川にぶつかってそのまま終わってしまいました。これが本来の峠道の跡かと思いましたが違ったようです。


これで椹尾での探索を終了し、峠を越えて戻ることにします。


峠を越えて庄ノ津川へと出たところで、すぐにキビウ集落へは向かわず、上流側に続く徒歩道を歩いてみることにしました。






この徒歩道も段戸山へと入り込んでいく道ですが、目的もなくダラダラと入り込んでいっても無駄なので、倒木に塞がれている場所で引き返しました。


キビウ集落への入口まで戻ってきました。


呼間川には、こんなにたくさん小さな滝があるとは知りませんでした。ネットで調べてみると、沢登りを楽しんでいる方々もいるようです。


町道大滝菅平線の脇にあった砂防ダム。


おそらく田んぼの跡。今も水が流れ込んでいるので、多分そうかなと思います。


田んぼ跡の上にある、住居跡と思われる平場に残る小さな庭園跡とその流水路と思しきもの。




車に戻ってきました。今回は6時間45分、歩行距離10.5kmの探索となりました。呼間川大滝からスタートしたことと、椹尾で歩き回ったことで距離が伸びてしまいましたね。


今回の探索ルート図です。青線は復路で寄り道した時のルートです。


探索する時は、現地でどれだけ「拾い物」ができるかが大事になります。よく写真に撮っている石仏・石碑は年代を確認するのに良い資料となりますが、今回は墓碑がその対象となりました。

今回、事前にネットで下調べした中で、「椹尾は明治時代以降の集落。」という情報を得ていたので、江戸時代の墓碑が残っていることに混乱しましたが、「墓があるということは江戸時代にも人が住んでいた時期があったが、何かあって明治時代まで無人になったのだろう。」という大まかな推測はできました。その後に「設楽町誌 村落誌編」を図書館で読んで、「飢饉による離村があった。」という記述を見つけ、推測の裏付けができたわけです。

私のように地元史誌を読むくらいで、あまり深堀りしない人間には、探索しても大体はわからないことだらけで終わってしまいますが(万古集落跡は地元村誌に記述があまりなくて、まさにそんな感じでした。)、たまにはこんなふうに裏付けまで取れることもあるので、そこもおもしろいところですね(今回もわからないまま残った事柄もありましたけどね)。
Posted at 2023/10/17 23:46:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年10月15日 イイね!

【設楽町】キビウと椹尾の間の峠道を探索しました(1)

2023年9月2日土曜日、北設楽郡設楽町松戸のキビウと椹尾(さわらお)の間の峠道を探索してきました。

まずは、今回探索してみようと思った理由について記します。

椹尾にはかつて段戸山の御料林からの木材を搬出するための「森林鉄道段戸山線」の田口椹尾線(こちらは「さわらご」と読むようです。)が通っていました。1934年(昭和9年)に開通し、1961年度(昭和36年度)中に撤去されたようです。

私が普段見ている戦前発行の旧版地形図は、まだ椹尾に森林鉄道が開通する以前のものなので、当然、図中に森林鉄道の記載はありません。ただ、その森林鉄道が通っていた椹尾川沿いには、道の記載も全くありませんでした(地形図に記載されるような道が無かっただけで、椹尾川沿いにも古くから道はあったようです。)。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

椹尾からの道は、集落の南側にある峠へ行く道のみ。峠からは、東側に向かい松戸集落を経て田口の街へと行く道と、峠の南側へキビウ集落を経由して田内で伊那街道へつながる道がありました。これらが地形図上では椹尾が外界とつながりを持つための道でした。

森林鉄道開通後、キビウと椹尾の間にある峠道は徐々に使われなくなってしまい、現在の地形図には峠道の記載は全くありません。そこで、今も峠道の痕跡が残っているのか確かめてみたくなり、探索することにしたわけです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やって来たのは、設楽町の呼間川大滝の近く。本当はキビウ集落辺りまで車で入り込みたかったのですが、細道のようで心配だったため、ここに駐車していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく出発しますが、せっかくなので呼間川大滝へちょっと立ち寄ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

呼間川大滝から先は、町道大滝菅平線を進んでいきます。


ちょっとした平場に石垣が続いています。耕作地の跡ですかね。


山の中らしい電線への注意看板ですね。


町道の前身道と思われる道跡へと入っていきます。


呼間川に出てきました。橋の跡のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川を渡り、呼間川の左岸に沿って古道を進んでいきます。




ふたたび橋の跡に出てきました。ここから呼間川の右岸へと戻ります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸に耕作地の跡が見えています。もうすぐキビウ集落があるはずです。


橋の跡がありました。石積みの橋台・橋脚が残っています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

キビウ集落の家屋が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

キビウ橋を渡り、右折します。




キビウ集落のバス停。


空き家のようですが、手入れはされているみたいです。


ここでキビウ集落についての余談を。内容は「設楽町誌 村落誌編」に拠ります。

キビウ集落についての古い記録は、『寛文5年(1665年)に「きびう、なしくぞ山、山ノ神」が検地され、天正18年(1590年)の検地(いわゆる太閤検地ですね。)で43石だった松戸村の石高へ6石4斗4升2合が加増された。』というもの。それまで「きびう」には人が住まず、田畑が無かったのかは不明です。

戸数の変遷は、正徳3年(1713年)は2戸、明和8年(1771年)は4戸になりますが、弘化4年(1847年)には1戸になってしまい、明治4年(1871年)に2戸となります。明治以降の記述はありません。

一時、戸数が1戸となってしまった原因は、天保8年(1837年)8月14日の大風雨(台風のことか。)。これが原因となり、「さわらおう」(椹尾)では諸穀類は収穫皆無となり、また馬による賃稼ぎもできなくなり、当時あった2戸が「潰れ」、「きびう」と「さわらおう」合わせて4戸が病死または他所へ退転してしまったそうです。

「キビウ」は、地名表記がカタカナ表記ですが、明治15年(1882年)の愛知県による地名調査(明治政府からの指示による。)に対して、当時の北設楽郡役所は松戸村『「紀尾宇」(キヒウ)』と漢字表記・読み仮名を報告しています。実際にキビウ集落の住民が漢字表記を使用していたのかは不明ですが、戦前の旧版地形図ではふたたび「キビウ」と表記されています。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

それでは、キビウ集落から先へと進んでいきます。ここからは、庄ノ津川の左岸へと進んでいきます。


キビウ集落への橋の横に、旧橋の名残りと思われるものがありました。どこからか持ってきたレールを橋桁に再利用していたようです。


増水時に川の水で洗われてしまうのか、道跡はあいまいです。


落差5mくらいの滝にぶつかりました。これでは進めないので、川を渡って対岸の林道へと移動します。


椹尾への峠道の分岐点と思われる場所へ来ました。ここでふたたび川を渡り、いよいよ峠道へと進入していきます。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

細い沢筋を跨いでいきます。


そして、すぐに折り返し。


この後も折り返しを繰り返しながら、斜面を登っていきます。






堀割り道を進みます。


薮に遭遇。薮が濃くて、そのまま峠道を進むのは厳しかったので、左側の路外へと出て道跡を追っていきます。




この辺りは、輪切りにされた間伐材があちらこちらに転がっていて足場が悪く、進んでいくのになかなか難儀しました。




また薮が現れました。ここはそのまま突入です。




峠のある尾根の下を通る林道へと出てきました。しばらく峠道の続きを探して歩くことになります。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道の路肩には峠道の続きが見当たらず、仕方ないので、峠と思われる鞍部が見えている場所から薮の中へと突っ込んでいきます。




峠道の続きを発見しました。やはり、林道により削り取られていました。


峠に来ました。周囲を確認してみましたが、この峠には石仏・石碑の類は無いようです。椹尾への道は左へと曲がっていきますが、松戸へ向かう道を少し歩いてみることにします。


緩やかな地形の山の頂上を進んでいくとすぐに下り坂になったので、それ以上進むのは止めて引き返しました。


峠へと戻り、椹尾への道へと進んでいきます。


椹尾側も道は残っているようです。


と思ったら、峠道が背の高い大木に塞がれてしまっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

斜面の傾斜がきついので迂回するのは止めて、そのまま慎重に倒木の上を歩いて進んでいきます。




ふたたび堀割り道が現れました。


※その2へ続く。
Posted at 2023/10/15 14:30:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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