2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。
前回(1)では、高圧線の鉄塔下まで進んできました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
まずは鉄塔により改変された斜面に付いている細い踏み跡を進んでいきます。
鉄塔から先は進行方向を西へと変えて、しばらくは等高線に沿うような形で山腹を移動していきます。
落石です。転がっている石が白いので、割と最近の落石かもしれません。一応、斜面の上部を注意しながら通過します。
前方に浅い掘割道が現れました。ここからは尾根を通っていくようです。
分岐する道がありましたが、覗いてみたところどうやら作業道のようなので、このまま道なりに進みます。
浅い掘割道が続きます。
また分岐が現れました。戦前の地形図に沿うように進むために右折していきます(写真は逆方向から撮っています。)。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここからは深い掘割道で一気に下り始めます。
この深い掘割道を歩き始めて、「もしかして作業道なのか?」と疑いましたが、戦前の地形図にある峠道とルートが似通っていること、自動車が通るには幅が狭く勾配が急なこと、路肩に生えている木々がそれなりに太いことなどから、牛馬が通りやすい新しい峠道として戦前期までには掘削された掘割道だろうと判断しました。
深い切り通しを通り抜けます。向こう側に山の斜面が見えているので、小田の集落は間もなくのようです。
小さな沢に出てきたところで折り返します。
ようやく小田の集落に到着です。路肩に立つ細い櫓に半鐘が吊るされています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
橋を渡ります。
橋の名前は「小田川橋」。「こだがわ」と呼びます。
橋を渡ると愛知県道74号(旧別所街道)に合流します。渡った先には馬頭観音などの石碑群がありました。
さて、帰りは先ほど通ってきた掘割道ではなく、旧道に当たるであろう徒歩道を探してみることにします。
掘割道から徒歩道らしきものが分岐していたのは確認しているので、当たりを付けて進入してみます(もっと入りやすい場所がありましたが、人家の前だったので止めました。)。
場所はこちら。
動物を捕獲するための檻が置かれています。その後方に道らしきものは無かったので、斜面を直登してみることにします。
登っていったところ、古道に遭遇しました。登ってきている方向からして、人家の前から分岐していた道のようです。辿っていくことにします。
しっかりとした掘割道が続いています。しかし、坂がキツイです(笑)。
集落を見下ろす古そうな墓地の脇に大木が生えていて、その根元に祠がありました。お供え物などは見当たらず、今も祀られているのかはわかりません。
段々と道筋が怪しくなってきましたが、雰囲気は残っているので、そのとおりに辿っていきます。
鹿の角が落ちていました。めったには見かけませんけど、角だけでなく頭蓋骨などの白骨を見ることもあります。
往路で通った深い掘割道へと出てきました。想定通りの場所だったので、今歩いてきた道が峠道の旧道で間違いなさそうです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
もう1か所、旧道と思われる道跡を辿ってみます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
小田の集落から上がってきた古道と比べると、道筋はすっかり痩せてしまっています。
折り返して尾根道となります。
進んでいくと深い掘割道が始まる地点へと出てきました。そのまま直線的に間袋方面へと繋がっているので、この部分の道跡も旧道と言えそうです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この後は元来た道をひたすら戻るだけです。こちらは間袋側の沢渡り箇所にあった小さな滝。
間袋の集落の小さな社の上まで戻りました。ここからは、どのように集落へ道が繋がっていたのかを確認します。
倒木が酷いですが、直線的に集落へと向かっているようです。
倒木をくぐり抜けながら進むと、間袋の集落の手前へと出てきました。本来はこのまま集落へ向かって道が続いていたのでしょうが、今は草むらになってしまっているので、階段で道路へと下りました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここからはおまけです。時間にまだ余裕があったので、間袋と小谷下を結んでいた里道跡をちょっと探索してみます。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行
駐車場所からすぐ南側にある沢を渡り、小さな切り通しを越えていきます。
里道跡は古真立川沿いのちょっとした崖地を通っていきます。まだまだ道幅があるので、このまま進んでみます。
崩落地に出てきました。すでに一つ探索を終えて多少疲れが出ていることもあり、リスクのある場所へと踏み込む気分ではありませんでしたが、もう少しだけ頑張ってみます。
木が生えている場所で一旦立ち止まって先を眺めてみましたが、前方はまだまだ崩落地が続いているようです。斜面の傾斜も更にきつくなっていたので、今回はこの場で引き返すことにしました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、車に乗り込んで少し移動。愛知県道429号と間袋の集落をつなぐ橋「間袋橋」へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この橋のたもとには、青面金剛像と名号碑が立っています。石碑本体や笠石の意匠がそっくりなので、同一の石工が製作したと思われます。
両方の石碑とも左側面には「〇貞享五戌辰〇十月吉日」と彫られています(〇部分はそれぞれ違う文字。)。
貞享5年は西暦1688年に当たりますので、これらの石碑は336年前のものということになりますね。
ただし、ウィキペディアで調べると「貞享」は貞享5年9月30日に「元禄」へと改元されていますので、実は貞享5年10月は存在しないのです。「石碑に年月を彫っておいたら年号が変わってしまったけど、彫り直しもお金がかかるし、そのままでいいや。」ということなのでしょう。
右側面には、「三州賀茂郡足助庄 大立村 間袋村」とあります。
ちなみに「足助」は、この地を遠く離れた現在の豊田市足助町周辺を指します。しかし、「賀茂郡足助庄」(「庄」は「荘園」のこと。)がどの範囲まで拡がりをもつ荘園だったのかはネット検索ではわかりませんでした。
あらためて、この碑文になぜ「賀茂郡足助庄」と表記したのか不勉強でわかりません。確かに昔々は、現在の豊根村の範囲は「賀茂郡(加茂郡)」の所属でした。しかし、16世紀には現在の北設楽郡の元となる「設楽郡」へ郡替えされているそうです。そして、荘園制はこの石碑を立てた頃にはすでに消滅しています。
なので、この石碑には本来「三州設楽郡 大立村 間袋村」と彫るべきところ、なぜか旧来の所属を名乗っているわけです。これは、現代の私たちが、「三州」だの「信州」だのと昔の地名を使ったりしているのと同じようなものなんですかね。
それではおまけの2つ目、この石碑の横から始まる間袋と大立を結んでいた里道跡を辿ってみます。
戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行
道筋はしっかり残っていますが、廃道ゆえに放置された倒木が散見されます。
5分ほどでかつての橋跡に着きました。何橋と呼ばれていたかはわかりませんが、現在の間袋橋の先代に当たります。なかなか立派な石積み橋台です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
間袋橋の駐車場所まで戻ってきました。これで今回の探索は終了です。
今回探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
比較用で戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行
小さな集落同士を結ぶ峠道なので、豊根村誌やネット検索でもこれといった歴史・地理に関する記事は見当たらず、深い掘割道の建設理由や時期なども含めて峠道のこと自体は何もわかりませんでした。
ひとまずは「峠道」という実物を辿ることはできたので、その内、何か資料が見つかるといいですね。