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小林あにのブログ一覧

2024年08月29日 イイね!

【豊根村】間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました(1)

2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。

こちらは戦前の地形図。赤線が今回探索を試みた峠道です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

さて、この峠道を探索してみようとしたきっかけです。以前に豊根村と旧富山村の村境にある「辞職峠」こと霧石峠の探索をしたわけですが、次は豊根村の中心地である下黒川と霧石峠を結ぶ道をどこか探索してみようかと思い立ち、手始めに間袋と小田を結ぶ峠道を選んだわけです。

あとは地形図を見て、この峠道の間袋側に「社坂」という名前が付されていたことも興味を引きました。

今回は間袋側から探索を始めることとしました。ここは愛知県道429号から間袋の集落へと出入りする道路の終点です。


場所はこちら。ちなみに、かつての峠道は現在の地形図には記されていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道路の終点から間袋の集落を眺めています。


間袋の集落について少々記します。豊根村誌によると江戸時代である延宝6年(1678年)の検地の記録では、すでに間袋村として存在していたそうです。峠を挟んだ小田とは、間袋が「本郷」、小田が「枝郷」の関係だったみたいです。

明治9年(1876年)に間袋村は近隣の大立村、小谷下村と合併し、その際に各村から1文字づつを取って「古真立村」となりました(旧村名と違う字を当てている部分もありますが。)。これが現在の豊根村大字古真立につながります。

それでは探索を開始します。戦前の地形図があるとはいえ、5万分の1では詳細な位置取りがわかるわけでもないので、まずは駐車場所から沢沿いに進んでいってみます。

斜面の上に小さな社が見えます。おそらくこれが「社坂」の由来となった社だと思われます。


しばらく沢沿いを進んでみましたが、やがて道筋らしきものが消えてしまったので、ひとまず斜面を登って峠道を探してみることにします。




社の背後まで斜面を登ったところで道筋を発見。辿ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

稜線を登っていくルートになりましたが、その稜線には蛇行した堀割道が付けられています。蛇行させることで距離を引き延ばし、その分、直登するよりも勾配を緩くする手法だと思われ、各地の峠の古道でよく見かけます。






この辺りから稜線を外れ、等高線に沿うようにして緩やかに斜面を登っていきます。崩れてしまってちょっと危ない個所もあります。




斜面の下方から作業用モノレールが合流してきました。モノレールはこの先でほどなく終点となりました。


厄介な崩落箇所に遭遇。写真だとあまり感じませんが、崩落部分が谷底まで到達しています。高い場所が嫌いな私は、横断を決意するまでにしばらく時間が掛かってしまいました…。


横断後に振り返っての眺め。ほんの数mの距離を横断できずに引き返す羽目になったことは何度もありますからね。


峠道が消えてしまいました。沢の対岸へ向かった様子も見られないので、もうしばらく頑張って斜面を進むことにします。


杉に巻き付いた太い蔦(蔦でいいのかな?)。


奥へと進むほど斜面が荒れていて、少し進むだけでも安全なルートを考えたり、足場を作ったりと、なかなか時間を要してしまいます。


ようやく沢へと出てきました。対岸に峠道の続きがあり、この場所で沢を渡って折り返していたようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸へと渡って登り始めると、またすぐに折り返しがあります。


ここからは急坂で一気に登っていくようですね。




道らしく見えますが、地面のあまりの荒れ方と急坂に段々と「このルートでいいのかな?」と疑念が湧いてきます。




見上げるような地形になったところで、つづら折りの道が見えてきました。その場へ行くまでは道である確証はないのですが(道のように見えて実は自然地形だったというのもまたよくある事なので。)、期待させる要素は十分です。


これは間違いなく峠道ですね。一安心です。


つづら折りの坂を登り詰めていきます。








「ここが峠なのかな?」という場所へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上へと上がるとまだ先へと登り坂が続いていました…。


どうやら幅のある尾根地形を進んでいるようです。




ふと、視界の右側に石碑が立っていることに気が付きました。


「名号碑か何かか!」と喜び勇んで接近したところ、「講和記念林」と彫られていました。昭和27年(1952年)の日付も彫られているので、おそらくサンフランシスコ平和条約締結を記念して植樹された植林地を示す石碑でしょう。


ちなみに私が住む安城市内には「講和記念」と親柱に刻まれた橋が存在します。

石碑の裏面は記念林の所在地と面積が記されていました。


「名号碑じゃなかったか…。」と少々ガッカリしつつ、先へと進んでいきます。




折り返しが現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頭上には高圧線の鉄塔が立っていました。


※その2へ続く。
Posted at 2024/08/29 18:13:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月27日 イイね!

高遠城址公園へお花見に行ってきました

2024年4月14日日曜日、桜の名所として知られる長野県伊那市高遠町の高遠城址公園へ家族4人でお花見へと行ってきました。

高遠城址は過去にも訪れたことがありますが、お花見シーズンに訪れたのは初めて。9時前にもかかわらず、駐車場は満車となっております。


市街地を通り抜け、高遠の市街地や中央アルプスを眺めながら、山の上にある公園へと坂道を登っていきます。




公園までもう一息ですが、桜がたくさん植えられている一角があり、小休止しつつ桜を眺めます。






ようやく公園に到着。たくさんの屋台が並び、多くの花見客で溢れかえっています。あまりにも人出が多いので、写真を撮るのにも気を遣います(笑)。










最後は公園の南側にある「絵島囲い屋敷」(写真撮り忘れ)を見物して、車へと戻りました。


車へと戻る道中、商店街で目に付いた布団屋さんへと立ち寄り、母や弟が枕などを買い物してました(笑)。


帰り道は中央道に乗らず、国道361号権兵衛トンネルを通り抜けて、国道19号で中津川市へと向かうルートを取りました。

おまけで立ち寄った木曽郡上松町にある小野の滝。落差は15mほどで、中山道の名所の一つとして知られていた滝です。国道19号沿いにあるので、駐車スペースから直接眺めることができます。




この滝、説明板にもあるとおり、直前を中央本線が跨いでいます。1909年(明治42年)のことだそうですが、現代なら「滝の景観を損なう!」とかいって反対運動が起きそうなものですけどね。




最後にもう1枚。
Posted at 2024/08/27 16:22:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2024年07月20日 イイね!

岡崎市切山町の旧挙母街道を歩いてきました

2024年4月7日日曜日、岡崎市切山町の旧挙母街道を歩いてきました。地形図を見る限り、旧街道は現在もほぼ道路として利用されているようなので、今回は「探索」ではなく「散策」というわけです。

さて、岡崎市切山町付近の旧挙母街道は、後身に当たる国道301号と違うルートを通過していました。こちらは戦前発行の旧版地形図です。赤色を付けた道筋が旧挙母街道になります。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。

こちらは現在の地形図。青色を付けた道筋が旧挙母街道になります。国道301号は川を挟んで北側となる豊田市黒坂町内を通過するルートへと変更されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、現地へとやって来ました。車は国道473号の路肩へと駐車。国道沿いに流れる小川を渡り、古道へと進入します(ここは旧挙母街道ではありません。)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側の山の斜面に石仏が3体立っていました。




1体は光背に年号が刻まれていて、読み取ったところ、おそらく「元治元甲…」だと思われます。元治元年は西暦で言うと、1864年3月27日から1865年5月1日に当たります。干支は「甲子」なので、間違いないでしょう。


そのまま古道を進んでいきます。小川の対岸に見えている道路が国道473号です。


程なくして古道は終了。いったん舗装路へと出ます。


50mほど歩いたところで、左側へと分岐していく小径へと進みます。


この道は、おそらく先ほどの古道の続きだと思われます。


小径から国道301号を眺めます。黄色の線で示した道が旧挙母街道と思われます。まあ、本来のルートとは多少ずれているかもしれませんが。


小径はこの先で民家の庭先へと続く形になっていたため、一旦引き返して、あらためて舗装路を進んでいきます。

引き返した民家の山側を通過して下り坂を進んでいったところ、右側へと分岐していく道筋がありました。山すそに沿うように進んでおり、街道の名残りかもしれないので右側へと進入していきます。


砂利道を進んでいくと右側に常夜灯が立っているのを見つけました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

常夜灯には「秋葉山」と彫られています。これは東海地方ではよく見かける「秋葉山常夜灯」ですね。火伏の神を祀る秋葉山(現在の浜松市天竜区にあります。)への参詣道となる街道沿いに設置されたものです。この砂利道が旧挙母街道であった傍証にはなるでしょう。


「安政〇未十二月…」と彫られているようです(「〇」部分は読み取れませんでした。)。安政年間で未年は安政6年なので、安政6年(1859年)12月に設置されたものでしょう。


常夜灯の先にも砂利道は続いていますが、この先は民家の庭先へと突入しているように見えるので、一旦引き返すことにします。


街道が通過する小さな集落内を歩いていきます。




この小さな集落の内外にも石仏が点在しています。




集落を通り抜けると、ひときわ背の高い杉が現れました。愛知県指定の天然記念物「切山の大スギ」です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

なかなかの威容(異様とも言えます。)を誇る巨木です。


「切山の大スギ」から集落を振り返ります。この道が街道だった頃は、この巨木の下で休憩を取る通行人や旅人が居たのでしょうね。


大杉から先は川沿いのやや険しい地形を通過していきます。かつては危険な場所だったためか、この場所にも石仏が祀られています。




険しい場所を通り抜けたところで、道路から外れて直進していくU字型の窪みを見つけました。これはもしや…。


このU字型の窪みは街道の堀割り道のようですね。




路肩にはわずかですが土留めのためと思われる石積みもあります。この道跡が旧挙母街道だったのでしょう。


道路から外れて50mほどで国道301号へと合流しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道から振り返っての風景。今回の散策はこれにて終了です。


今回は特に下調べをしていないので、ここ岡崎市切山町付近の旧挙母街道が豊田市黒坂町側へと付け替えられた時期はわかりませんが、理由としては先ほどの山と川に挟まれた急傾斜地を避けたのだろうと思われます。

時期については、早ければ戦前から戦後にかけて自動車通行できるようにルート変更したか、遅くとも国道301号の改良工事で対向二車線化した際のどちらかでしょうね。
Posted at 2024/07/20 22:30:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧挙母街道 | 日記
2024年06月25日 イイね!

「やまだいち 登呂もちの家」へ行ってきました

2024年3月30日土曜日、弟の誘いで静岡市駿河区にある「やまだいち 登呂もちの家」へ行ってきました。2023年2月以来の訪問となります。


今回は「もりそばセット」をいただきました。




食事後は、隣接する登呂遺跡を散策。




まだ時間が早かったので、帰り道の途中で弟は行ったことがない(私は3回目になりますが(笑)。)浜松市の航空自衛隊浜松基地内にある広報館「エアーパーク」へ寄り道。航空機や館内の展示物を見物しました。




Posted at 2024/06/25 23:23:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2024年05月26日 イイね!

【豊根村】富山漆島から始まる霧石峠への峠道を探索しました(踏破)

2024年3月10日日曜日、北設楽郡豊根村富山漆島から始まる霧石峠の峠道を探索してきました。この峠道については、2月18日に峠道の入口と入口付近の峠道を下見。3月2日に下見を踏まえて峠までの探索を試みましたが、下見時に引き返した小崩落地を越えられず撤退しています。

豊根村富山漆島の駐車場所へとやって来ました。この場所に駐車するのは3回目ということになります(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駐車場所から歩くこと1時間。前々回、前回と引き返した小崩落地へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上にも下にも迂回できなかったこの小崩落地。今回は万古集落の探索時に道修繕で使用した草刈り用の鍬を持参。「斜面を掘っては足踏みして地固め。」という作業を地道に繰り返して道を造作。50分ほどかかりましたが、安心して通過できる道ができ上りました(笑)。




3回目にしてようやく小崩落地の先へと進むことができました。ただし、この先はもう安心して進んでいけるという保証は全く無いんですよね…。


と言いつつも、まずは順調に進むことができています。




ガレ場が現れました。でも、踏み跡もありますし、この程度の傾斜なら問題はないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ガレ場の先にちゃんと道筋が続いているのが見えていることも安心材料です。


利用されなくなってから長い年月が経っているので、道筋が残っていても細く歩きにくい箇所が次々と現れます。


ふたたびガレ場が現れました。


先ほどのガレ場よりも傾斜はややキツいですが、ここも踏み跡が付いていて何とか進めそうです。




ガレ場を見上げると、相当上部まで石で埋め尽くされています。


ガレ場に対岸に来ましたが、道筋が瘦せていて取り付くのが面倒そうです。


谷側(右側)はけっこう落ち込んだ地形になっています。


ここも軽く崩れていますね。でも奥に道筋が続いてはいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

で、足元は路面が崩落しています…。「ここで終了か?」とも思いましたが、よく見れば岩には足場になる段差があり、太くて手すり代わりになる根っ子も露出していたので、ゆっくり慎重に下りて通過することができました。


通過してから振り返って撮った写真です。たまたま通過できましたが、こういう場面はもう出てきてほしくないですね…。


見上げるような急坂を登っていきます。


木々の隙間から山々を眺めます。


唐突ですが、前々回で霧石峠の別名が「辞職峠」ということを記しています。

富山村へ赴任する役人や教員などは、別所街道(奥三河の主要街道)が通る隣村の豊根村から徒歩で向かったと思われますが、豊根村の中心地から富山村へ向かうには、最短ルートでも小田峠、小田~間袋の間の峠、霧石峠と3つの峠を越える必要があります。

最後、村境となる霧石峠を登り、それでもなお奥深い山々が連なるこの景色を見れば、霧石峠で辞職を申し出たくなるのも仕方がないのかなと感じました。

さて、道筋がはっきりしない斜面へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

正面方向に道の跡らしき薄い踏み跡が付いています。


一方、折り返す方向にも、細いながらも前方よりは明瞭な道筋が付いています。ここはひとまず折り返し方向へと進むことにします。


少し歩くと道筋がはっきりしてきました。こちらの方向で正解だったようです。


地面に落ちていた碍子。電柱とか見当たらないですけどね。


岩場の中を通り抜けて道筋を進んでいきます。




厄介な場所が現れました。細い踏み跡は残っていますが、踏み外すと危険な斜面です。しかも地面が硬くて、切り拡げたくても持参の鍬では歯が立ちません。


この場所を帰路で通る時のことも考えて、長靴で地面を何度も蹴っ飛ばして足場を作っておきました。


道筋は斜面を巻いていくように進んでいきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この場所に苔むした木造の電信柱が1本残っていました。昔はこの峠道が豊根村と富山村を行き来する唯一のルートだったので、この峠道に沿って電話線などが通っていたとしても当然の事だったと思います。


斜面に小さな水の流れが亀裂のように付いている場所をいくつか越えていきます。このような場所もけっこう越えるのが厄介でした。


標高が高く日陰のために地面が凍っていたからです。これまた持参の鍬が役に立たず、ここでも長靴の踵で地面をキックして足場を確保しながら、一歩づつ慎重に進むしかありませんでした。


谷底を流れていた沢にだいぶ近づいてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸に石垣で囲まれた区画が見えます。お堂が建っていたのか、避難小屋でもあったのか。


正面方向が行き止まりとなったため、沢を渡って対岸へと移動します。




先ほど見ていた石垣の区画の上の斜面を登っていきます。


斜めに残る細い道筋と霜柱に埋め尽くされた硬い斜面に泣かされながら進みます。


ガレ場が現れました。今までで一番傾斜がキツいガレ場です。


石が散らばる硬い斜面。非常に厄介です…。ここも長靴で地面を蹴り飛ばして足場を築きながら、少しずつ前進していきます。


10分かけて、ようやくガレ場を通過。


またガレ場が現れましたが、この程度なら大丈夫ですね。


石がゴロゴロする斜面。杉の枝も覆いかぶさり、石と杉の枝の両方に足を取られます。ヨタヨタしながらも、転ばないようにゆっくりと歩いていきます。




深く抉れたガレ場に出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ガレ場を横断してみましたが、その先には道筋を見い出すことができませんでした。真上を林道が通っているので、林道からの土砂で埋もれてしまったのかもしれません。


峠道の探索はここで断念。急斜面を直登して、林道へと脱出しました。


廃道と化した林道を歩くこと15分。霧石峠に到着しました。周囲は鬱蒼とした植林地で展望は無く、ここまで苦労した割には特に感慨はありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は14時50分。日暮れとなる17時30分頃までには車へと帰着する必要があります。しかし、あの状態の峠道を戻ることはもうしたくありません。

この時点で迂回路案は2つ。1つは林道豊富線を北へと進んで霧石トンネルまで行き、そこから県道を漆島まで戻る。もう1つは林道豊富線を南へ進み、途中から東へと方向を変えてニセ日本ケ塚山へと至り、そこから登山道で漆島へと戻る方法です。

検討した結果、距離を考えてニセ日本ケ塚山経由で戻ることにしました。地形図では、ニセ日本ケ塚山へと向かう途中で道路の表記は消えてしまいますが、なだらかな尾根が道路の末端とニセ日本ケ塚山の間をつないでいるので、行けると判断しました。

霧石峠から40分ほど歩いてきました。奥にニセ日本ケ塚山が見えています。「まだあそこまで歩くのか…。」と少し気持ちが萎えました(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

細尾根もありましたが、歩くには十分な幅があり助かりました。


ニセ日本ケ塚山への取り付き。しがみつくように登る斜面でしたが、新しいロープも張られており、地形図に無くとも一応登山ルートにはなっていたみたいです。


16時10分、やっとニセ日本ケ塚山に到着です。しかし、残雪があるのは誤算でしたね。無事に降りられるのか…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頂上で危惧したとおり、尾根道部分はアイスバーン状態…。平らな部分はまだいいんですが、この登山道の坂区間は急峻過ぎて、木々にしがみつきながら必死に下っていくしかありませんでした…(もちろん写真を撮る余裕など無し。)。


1時間20分かけて無事に登山口へ到着。なんとか日暮れ前に麓にたどり着きました。


登山口からもう少しだけ歩き、ようやく車に戻ることができました。


今回の探索のルート図です。探索距離9.8km、行動時間7時間30分と、久しぶりにハードワークな探索行になりました…。でも、距離的には復路となる部分が4分の3占めていますけどね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、ここからは霧石峠に関する地誌類の記述などを記しておきます。まずは「豊根村誌」です。

霧石峠を通る道については、「津具・粟世・河合道」として紹介しています。この道は、「伊那街道の上津具宿(現:北設楽郡設楽町津具)から分岐し、見出ー柿ノ沢宇連ー坂宇場(現:豊根村坂宇場)を経て宝地峠に登り、粟世(現:豊根村三沢粟世)で下街道(遠州街道または金指道。後世の別所街道の旧道。)と交差して、山内ー霧石峠を経由して漆島に達する道である。」とあります。

霧石峠については、「特に険阻で、『辞職峠』と呼ばれたほどである。霧石峠から郡役所(北設楽郡役所。設楽町田口にあった。)までは35km近くあった。」とあり、ここで「辞職峠」の別名が出てきます。

また、郵便輸送について、「豊根村では明治9年(1876年)4月に現在の豊根郵便局の前身にあたる中久名村郵便取扱所が大字下黒川字下中に県内百二十番目の曲として開局された。(中略)郵便局の開設により本村と本郷(現:北設楽郡東栄町)・市原(現:豊根村富山市原)の間に、郵便脚夫による一日一往復の郵便物の逓送便が設けられた。」とあり、おそらくこの逓送便の脚夫は霧石峠を往来していたでしょう。

続いては、「失われた祭」という富山村教育委員会が平成3年(1991年)2月に発行した本です。

「(前略)明治以降の状況はかなり明確に知られているが、道路は人と人の背による交通運輸のみで、霧石峠越えの豊根方面を第一にして、東又越えの新野(現:長野県下伊那郡阿南町新野)方面を第二とした。その他、佐太地区から坂部を経て天龍川沿いに満島(現:下伊那郡天龍村)に出るもの、川(天竜川)を渡って水窪(現:浜松市天竜区水窪町)方面と交通するものがあった。行商のほとんどは豊根方面から入り、新野方面からは米が人の背で入れられたが、こうした道路利用は鉄道開通後激減した。」

旧富山村の最寄り駅となる三信鉄道(現:JR飯田線)大嵐駅が開業したのが昭和11年(1936年)12月。それまで旧富山村が他村と交流するためには、人しか歩けないような峠道を往来するしかなく、その中の一つとして霧石峠越えの道があったわけです。

ここで本題から少し外れますが、鉄道が通っていたのは天竜川対岸のため、どうしても橋を渡る必要がありました。この橋が人一人通れるだけというものだったそうで、やはり人の背で運べる以上の輸送手段は利用できず、鉄道開通がただちに旧富山村の交通事情の全面的な解決に役立ったという訳ではなかったようです。

その他には、旧富山村の主要な集落の一つであった河内地区(佐久間ダムの完成により水没。)の概況の文章に、「この河内集落への主な出入口は三箇所。一つは漆島側からのもので、集落の北側にあり、道路としては最も古いものであった。豊根村・東栄町などの郡内、さらには新城・豊橋などの三河国へと繋がる道であり、河内郷を拓いた多田氏が曽川から入って来たのもここであったろう。ところが、この道は、辞職峠といわれた難所な山道であったことと、経済に直結する市場などにも遠かったことから、近世以降行政の連絡路としては重要であったが、一般的には利用されることが少なかった。」とあります。

霧石峠越えの道は歴史的に古く、北設楽郡内や隣町村をつなぐ行政上の連絡路としては重要だったようです。しかし、一般的な利用は前述のように行商が往来するくらいで、近世以降は天竜川の水運や鉄道が主だったのかもしれません。

そして、昭和31年(1956年)に佐久間ダムが完成。このダムの完成により旧富山村は主要集落の水没という大きな損害を受けたわけですが、それと引き換えに村外と直接往来できる自動車道が天竜川沿いに開通したと思われます(豊根村のホームページには湖岸道路(現在の県道1号)の完成は昭和45年(1970年)とある。)。

それから、霧石峠にもようやく昭和49年(1974年)に峠の北方4~5kmの場所に霧石トンネルが完成。これで豊根村と旧富山村は直接自動車で往来できるようになったわけです。

それを考えると、単純に50年前には霧石峠を歩いて往来する必要は無くなり(たぶんもっと以前から途絶えてはいたでしょうが。)、その後はただただ荒廃して現在の峠道の姿になったのでしょうね。

※ひなたGIS引用


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2024/05/26 12:11:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記

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「旧倉吉線廃線跡と倉吉白壁土蔵群を訪れました http://cvw.jp/b/1796277/48784301/
何シテル?   11/24 21:37
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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