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小林あにのブログ一覧

2025年04月17日 イイね!

設楽森林鉄道鰻沢線跡をちょっと歩く(9)

2024年9月21日(土)、森林鉄道段戸山線・田峯鰻沢線跡を歩いてきました。

余談ですが、この森林鉄道は通称「設楽森林鉄道」と呼ばれることが多いようです。

しかし、きちんと記録を調査している方によると、路線名は「森林鉄道段戸山線」が正式とのこと。ただ、この廃線跡を初めて探索した時のブログの表題に「設楽森林鉄道鰻沢線跡をちょっと歩く」と付けてしまったので、結局そのまま使っています。

今回歩いた区間は、2018年4月28日と2020年11月21日にも歩いているので、3回目ということになります。ここ最近、長い距離を歩いての探索をしなくなってきたので、気分転換と体が鈍らないようにと、勝手がわかっている場所で距離を歩こうと思って訪れたわけです。

さて、北設楽郡設楽町田峯の国道420号の駐車帯へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

それでは、森林鉄道跡へと取り付くために、国道から沢へと入り込みます。


沢を登っていくとコンクリート製の橋脚と石積み橋台が現れます。


ここの森林鉄道跡は、石積み橋台や石積み擁壁はけっこう残っていますが、残存している橋脚は少ないですね。


下流側を見下ろしての風景。国道420号が下方に見えています。


それでは田峯方面へと進んでいきます。




なかなか険しい地形に線路敷が切り開かれています。


国道の法面の上部を通っていきます。線路敷部分はきちんとスペースが確保されていて、柵も取り付けられています。


植林地の中を進んでいきます。




道路へ出てきました。


そのまましばらく進んでいくと、森林鉄道跡は左側へと分岐していきます。


沢を越えていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この沢には石積みの築堤が残っていますが、大きく損壊しています。災害で破壊されたのか、防災のため撤去しようとしたのか、どちらなのでしょうね。


薮をかき分けて進みます。


また植林地の中を歩いていきます。


石積み擁壁が見えてきました。


きれいに積み上げられていますね。


沢を横断する石積みの築堤が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

きれいな弧を描いていますね。




山側の石積みもきれいなままに保たれています。この沢では過去に土石流などは発生していないということでしょう。


線路敷が土砂で埋まってしまっています。安全のため山側を慎重に進みます。


眼下に国道420号が見えてます。森林鉄道跡と国道のこの高低差。ここの森林鉄道は無動力の貨車に木材を積んで坂を下っていくタイプだったので、終点まで下り坂が続くように高所を縫っていたのでしょう。


地形に合わせた形で石積みが組まれています。


大きな倒木。


ここもきれいな曲線の石垣が残っています。


岩を削った浅い切り通し。


路盤が崩落しています。


ここは崩落箇所の上部を迂回していきます。


先ほどの崩落箇所よりも深く抉れてしまっています。


ここは一旦斜面を下ってから登り直して進みます。


急斜面に石垣を築いて路盤を確保していますね。


線路敷の上部にも石積みの土留め壁が造られています。この森林鉄道では珍しいです。


切り通しを曲がっていきます。




廃線跡が途切れている場所に出てきました。


実はこの場所の直下に橋台跡があり、山側には別の線路跡が残っています。どちらが新線・旧線なのかは判断が難しいところですが。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山側に残る廃線跡を進んでいきます。


ちゃんと沢の水を流すための石組みの溝が設けられています。


振り返っての眺め。こうやって眺めてみると、特に線形に無理な感じは無いので、山側の廃線跡が新線なんでしょうかね。災害で橋が落ちてしまったので、山側に築堤で造り直したとか。


斜面が崩れて、多くの倒木が転がっています。


浅い切り通しを通過。


まだまだ高い場所を通っています。


倒木をかいくぐっていきます。




またまた切り通しを通過。


だんだん荒れている区間の方が多くなってきました。




こんな場所でもちゃんと踏み跡が残っているのはなぜでしょう。森林を巡回している方がいるんでしょうかね。


また切り通しを通過。もう何か所通過しましたかね(笑)。切り通しも廃線跡では立派な遺構の一つではありますけど、土を削った場所よりも岩を削った場所の方が目を惹きますよね。




久しぶりに石積み橋台が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸へ渡ってから振り返った眺めです。こちら側も橋台がきれいに残されています。


沢の対岸に長い石垣が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸の橋台を眺めます。


黄線を引いた凹みが橋台部分になります。


森林鉄道跡は田峯駅跡へと向けてまだまだ続いているわけですが、この先は何か所も崩落箇所が現れますし、時刻も15時15分となっていたので、ここで引き返すことにしました。


引き返した場所から歩くこと約1時間15分、駐車場所へと戻ってきました。


今回歩いたルート図です。国道に並行しつつ、常に国道よりも高い場所を通過していたことがよくわかります。


こちらは比較用の戦前の旧版地形図。ちなみに森林鉄道の路線はまだ掲載されていません。地形図の右側には旧田口鉄道の路線があり、図中に駅のマークだけ描かれています。これが田峯駅で、森林鉄道はここまでつながっていました。


こちらは近くの道の駅に保存されている豊橋鉄道旧田口線(かつての田口鉄道。)の電車です。
2025年04月14日 イイね!

【2024年】第45回神大ラリーに参戦しました

2024年9月14日・15日、兵庫県豊岡市日高町にある奥神鍋スキー場駐車場を拠点に開催された「第45回神大ラリー」へ参戦してきました。今回は近畿地区で開催のラリーなので、今年参戦している「JMRC中部ラリーチャレンジシリーズ」のポイントは対象外です。

実は同シリーズのポイント対象となるラリーは、6月に参戦した「いなべ東近江ラリー」の後は、10月開催の「シロキヤラリー」となるため、4か月も間が空いてしまいます。

そのため、ドライバーやすい氏から「練習を兼ねてTGR唐津か神大ラリーに出ようと思うけど、どっちがいい?」と尋ねられ、「少しでも近い方がいいから神大ラリーで。」と返事をしたところ、そのまま参戦することとなりました。

佐賀県唐津市よりはぐっと近いとは言え、兵庫県豊岡市も愛知県からはけっこうな距離があります。9月14日土曜日は朝7時頃に現地集合と約束していたので、深夜1時15分頃に自宅を出発。

途中で休憩を挟みつつ、朝6時40分頃、今回のサービスパークとなる奥神鍋スキー場駐車場に到着しました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しばらくしてドライバーやすい氏も到着したので、設営とレッキに向けての準備をします。


レッキ(下見走行)前のブリーフィングでは、本ラリーには関係の無い質問事項で紛糾。この日は直近に開催されるTGRラリーへの申込受付開始日だったのですが、レッキで山の中に入るとスマホがつながらず申込手続きができなくなるため、あるドライバーさんが「2回実施のレッキを1回だけでも良いか?」と質問。

事務局は「事情は察しますが、安全のために規則書通りに2回実施してください。」と回答。「不利益となるこちらが承知しているのだから、いいじゃないか!」と押し問答となり、他の参戦者は苦笑いや白けムード…。

そういう案件は、全員のいる場で質問するのではなく、個別に事務局へ相談してほしかったですね。

ともかく解散となって各自レッキへ。

このレッキがまた疲れたのなんの…。通常ならレッキ用のショートカットルートがあったりしますが、SSコースが設定されている場所が急峻な山の尾根の上を通る林道のため、ショートカットできるルートが無く、本番とほぼ同じ距離を走行する羽目に。

制限速度を遵守しつつ、ペースノートを作りながらの走行のため、当然本番よりも時間がかかります。コースを2周回して走行距離140kmに対して、時間は5時間もかかり、暑さもあって二人ともグッタリでした…。


サービスパークへと戻ってきたら車検。こちらはいつも通りにトラブルもなく通過いたしました。


そして、地方選手権は車検が終わってからの時間が長くて、ドライバーズブリーフィングが17時45分開始…。ペースノートの清書をしたりしてテントでボーっとしていました。




ブリーフィング終了後は宿泊先へと移動。ホテルの近所にあった鉄板焼き屋で軽く飲みつつ、地元の但馬牛などを堪能いたしました。






9月15日日曜日ラリー本番。昨日の晴天から打って変わり、雨も予想される天気となりました。SS距離が長い上に、砂や泥や石が多いコースなので、何とか持ってほしいところです。


今回の0カーはシトロエンDS3R3。「豊田しもやまラリー」と「いなべ東近江ラリー」に参戦していた車ですが、今回はコースカーとしての登場でした。


さて、SSコースへと向かうリエゾン(移動区間)には移動時間が指定されていて、各車TC(タイムコントロール)に何時何分に入るというターゲットタイムがあるわけですが、今回のラリーはサービスパークからSS1・3への移動時間の設定に余裕があり過ぎて、TCの前で相当待たされました。


ただでさえ暑いのにところへ前日の長距離移動の疲れも加わり、待機中に居眠りしたくなるところですが、時間管理をするコドラとしてはそれもできず、ペースノートを読み返したり、車の周りをウロウロしたりして時間をつぶしました。

それでは走行タイムと簡単なラリーの内容について。

SS1「MikawaⅠ」13.04km:13分46秒7(56.7km/h)。クラス1位。
スタート地点で0カーのシトロエンDS3R3がコースオフし転落したことを告げられ、ちょっとした衝撃(笑)。
距離が長くてアップダウンが多い、路面が汚い、道路工事現場もあるという悪条件の中で、お約束のペースノートのロスト…。それでも何とか復帰しましたが、それよりも段差へのコーションの読み上げが遅れてしまって、アンダーガードを強打させてしまったことが痛かったです…。

SS2「OkuyamaーTokose Rev.Ⅰ」4.69km:4分57秒5(56.7km/h)。クラス1位。
SS1と比較すると至って「普通」の上り基調の山道コース。特にトラブルはありませんでした。

午前のループが終わってサービスに戻ってきました。さっそく車を上げて、アンダーガードを外して異常がないか確認。幸い、車へのダメージはありませんでした。


SS3の前にあるTC3でもまた長時間待機…。テンションが落ちてしまいます…。


SS3「MikawaⅡ」13.04km:14分04秒8(55.5km/h)クラス3位
このSSでもペースノートをロスト。しかもSS1と違って復帰に手間取ってしまいました。

ただ、そういうことがあったとしてもSS1よりは乗れていたので、そんなにタイムロスはしていないだろうと二人とも思っていたら、何とSS1のタイムから18.1秒もの遅れ…。「???」という感じでした。

SS4「OkuyamaーTokose Rev.Ⅱ」4.69km:5分08秒3(54.7km/h)クラス2位
SSゴール付近で、道路を横断する排水溝に設置されていたグレーチングが完全に外れていることを発見したドライバーやすい氏が急ブレーキ。ゆっくりと排水溝を横断して走行を再開してゴール。

ストップ地点でオフィシャルにグレーチングが外れていることを伝えましたが、反応がいまいち…。ドライバーやすい氏「まあ、あの程度の幅ならスピードを乗せていけばそのまま跨げるだろうからなぁ。ただ、失敗して足回りを壊した時のことを考えると、この車(AE92)ではできないよ…。」

神大ラリーの結果はトータルタイム37分57秒3でクラス2位。今回はポイント対象外なのであくまで「練習」の位置づけ。相変わらずミスがあって悔やまれるところですが、今までで一番長い13kmのSSでの経験を積めたわけですし、また次戦へとつなげていければなと思う次第です。
Posted at 2025/04/14 22:48:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 中部・近畿ラリー選手権 | 日記
2025年04月13日 イイね!

豊田市梨野町内の古道を少し歩いてきました

2024年8月24日(土)、豊田市梨野町内の古道を下見がてら少し歩いてきました。

さて、もともとこの日は特に予定はなく、「ぶらっと三河の山の中をドライブしてくるか。」と出かけてきました。自宅から額田郡幸田町・岡崎市本宿町と経由して、豊田市阿蔵町までやって来ました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここの国道沿いには、古そうな石碑が立っております。ずっと昔から存在は知っていましたが、いつも素通りしていたので、今回は立ち寄ってみました。


まず一つ目。「丹後国文殊芥」と彫られています。何を表すのかはわかりませんが、「丹後国・文殊」で検索すると「日本三文殊」の一つである「智恩寺」がヒットします。もしかしたらこのお寺へ参拝したことを記念した石碑なのかもしれません。


二つ目は「奉納 四国 西国 秩父 坂東 神社佛閣順拝供羪塔」。いわゆる百八十八番供養塔と呼ばれるものですね。四国88か所、西国33か所、秩父34か所、坂東33か所の合計188か所の霊場を巡礼した記念に立てられる供養塔です。


三つ目は「三峰神社」。これは埼玉県秩父市三峰にある「三峯神社」のことでしょう。石碑の下部には同社の信仰を象徴する「山犬」が彫られています。


石碑を見終えて、「ここまで来たなら、ついでに梨野からの古道を少し探ってみるか。」と思い立ち、豊田市梨野町へと移動。梨野の集落から少し外れた場所から、古道が通っていたと思われる林道へと入り込んでみます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみにこちらは戦前の旧版地形図。現在の国道420号は、梨野から豊田市足助町へ向かって大見川に沿って進んでいますが、梨野から足助方面へはさらに並行するように尾根道が通っていて、これを少し探ってみようという訳です。

※ひなたGISより引用。

林道をしばらく歩いていくと、古道らしい道が分岐しているのを見つけ、そちらへと進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

思っていたよりもきれいに道筋が残っています。




ふたたび林道へと出てきました。おそらく古道はこの林道と交差する形で通っていたはずなので、右側へと分岐していく道筋を探します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道に切り崩された斜面に道筋らしきものが残っていたので、入り込んでいきます。


しばらくすると、ふたたびはっきりした形で掘割道が現れました。周囲の地形に対して道筋が深く掘り込まれていて、かつてはこれだけの労力をかけるだけの利用があったことが想像されます。






ちょっとした峠に出てきました。ここから先は作業道へと改変されていました。


峠からしばらく歩くと、右側へ踏み跡と思しき窪みが分岐していたので、少し辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、道らしき浅い窪みが続いていましたが、やがて消えてしまったため、作業道へと戻りました。


そして、歩いてきた作業道も林道へと合流。


この先はしばらく林道が続くようで、前方では山仕事をしている作業音が聞こえていたこともあり、この交差点で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道入口の駐車場所まで戻ってきました。


今回はドライブのついでにちょっと立ち寄っただけなので、軽装で靴も普段履きのままでした。この古道を踏査しようとすると10km以上は歩くことになるので、次回はきちんとした格好で、必要なものも持参した上で来る必要があります。

ただ、林道への改変が進んでいるようなので、歩き通すより、地形図に載っていない箇所で古道をつまみ食いする方が面白味があるかもしれませんけどね。
Posted at 2025/04/13 17:13:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年03月09日 イイね!

白河関跡・白河ラーメン・境の明神

2024年8月10日(土)、弟と弟の友人の杉浦くんに私の3人で、福島県白河市にある「白河ラーメン 岩松」さんを再び訪れました。

今回は自宅を0時頃に出発。前回訪問時と同じく、東名・首都高・東北道と高速道路を延々と走っていく計画です。

途中、何度かの休憩をはさみつつ、午前6時過ぎに首都高速の用賀料金所を通過。そのままPAにて小休止。すでに渋滞が始まりつつあります。


お盆休みの期間中ということもあり、東北道へと進むと情報掲示板には鹿沼IC付近から先の長い距離の渋滞情報が表示されるようになります。

結局、ゴールデンウィークの時と同じパターンで、鹿沼IC手前の都賀西方PAのスマートICで高速道路を下りて国道293号を進んでいきますが、ちらっと見えた東北道の様子から「流れてるかな?」と思い、上河内SAのスマートICから再び東北道へ。

ストップ&ゴーの状態で快適な流れとは言えませんでしたが、今さら下道へ戻るのも面倒だったので、そのまま白河ICまで乗っていくことになりました。その足で「白河ラーメン 岩松」さんへと向かいましたが、お店が混雑していたので出直すことに。

近場で適当な時間つぶしができそうな場所ということで、私の趣味的な意向で「白河関跡」へとやって来ました。今までに何度も白河を訪れていますが、「白河関跡」へは行けるような機会がなく、ようやく訪れることができたわけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「白河関跡」の説明板と案内板。




奈良時代から平安時代にかけて、関東と奥州の往来を厳重に監視する重要な役目を負った関所の跡ですが、今は神社となっているようです。


神社も古くから存在しているようで、境内には巨木が立ち並んでいました。








関所の防衛のために設置されていた空堀の跡だそうです。平安時代には役目を終えて消滅してしまった関所の跡なので、目立った遺構は空堀跡くらいでしたね。




江戸期の関所を再現した建物。江戸時代にはこの場所に関所は存在しておらず、白河関跡とは全く関連の無い建物のようです。


「そろそろ行ってみようか。」ということで白河関跡を13時半頃出発。14時前に再び「白河ラーメン 岩松」さんを訪れ、ようやくラーメンを食することができました。


この日の夜は新白河駅前のホテルに宿泊。合流したプロトタイプのみなさんと一緒に焼き鳥店で飲み会となりました。以前、棚倉町を拠点にした全日本ラリーが開催されていた頃は毎年でしたけどね(笑)。


日付けが変わって翌11日(日)。ホテルの部屋からの眺めですが、良い天気ですね。


プロトタイプのみなさんとはホテルで解散。私たちも9時20分頃に出発しました。


帰りも白河市内で行ってみたい所へ寄り道。「境の明神」へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

目の前の道路は国道294号。江戸時代の奥州街道になります。この場所は福島県と栃木県の県境となります。江戸時代の呼び方ならば陸奥国と下野国の国境ですね。


ここに立つ石碑には、「従是北白川領」と彫られています。「これより北、白川(白河)領」という訳で、国境より北側は白川(白河)藩領だということを示しています。


道路を挟んだ反対側の斜面にも小さな石碑が立っているのが見えます。あとで確認してみましょう。


こちらが「境の明神」こと、境神社です。この社殿は陸奥国側にありますが、下野国側にも対になる「境の明神」があるそうです。






神社に掲げられていた算額。レプリカですが(本物は江戸時代のもののようです。)、和算に関わる神様でも祀られているのでしょうか。


「明治7甲戌年」との銘が入った灯篭。明治7年は1874年なので、150年前のものということになりますね。


先ほど道路わきの斜面に見つけた小さな石碑を確認してみたところ、福島県と栃木県の県境を表す石碑でした。旧漢字が使われているので、明治期から昭和戦前期に立てられたものでしょう。近寄ってしっかりと確認したかったのですが、斜面が急だったので止めておきました。


この後は渋滞を避けつつ迷走(笑)。栃木県塩谷町の道の駅、日光宇都宮道路の日光口PAと休憩を挟みつつ、「華厳の滝へ寄ってみるか。」という話も出ましたが、渋滞・混雑が酷くてスルー。このまま中禅寺湖畔を通り過ぎ、金精峠を越えて沼田市へ出ることに。

こちらは途中で撮った男体山と湯ノ湖。


沼田ICからは関越道・上信越道・長野道と経由し、19時半過ぎに梓川SAでようやく晩御飯。


この後も休憩をはさみつつ、12日(月)0時過ぎに無事帰宅いたしました。
Posted at 2025/03/09 19:13:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年02月15日 イイね!

【岡崎市】千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索

2024年8月3日土曜日、岡崎市の千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索をしてきました。

やって来たのは、岡崎市千万町町にある愛知県道333号の駐車帯。ここから千万町坂・寸五郎坂と巡っていく予定です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは旧千万町小学校。現在は廃校となり「千万町楽校」と名付けられ、地域再生の拠点施設として利用されています。


県道333号と334号の交差点へ来ました。ここで右折し、県道334号へと進んでいきます。


路肩に10%の勾配標識が現れました。この先から始まる「千万町坂」は、愛知県下にある激しい急勾配の坂の一つとして、自転車乗りの方々に愛用されるコースとなっているようです。時々、自転車乗りの方が峠付近の路肩でへばっていたり、寝転がっているのを見かけます(笑)。


峠付近は深い切り通しとなっています。これだけ深い切り通しだと車道開通以前の旧道がありそうですが、見つけることはできませんでした。


さて、切り通しを通過したところで県道334号を外れて、右側の路肩へと入り込んでいきます。この地点を旧道が通過していたという確信は全然無いのですが、取りあえず突っ込んでみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何となく道筋らしいものが見えているので、辿っていってみることにします。




砂防ダムが現れました。よく書いていることですが、砂防ダムは土砂の堆積により周囲の地形をかく乱してしまうので、廃道探索的には困ってしまいます。


砂防ダムの下流側を眺めると、道筋らしきものが見当たらなくなってしまいました…。まあ、本当にこの沢筋を千万町坂の旧道が通過していたのかは不明なのですが。


砂防ダムの表面には型枠の板の跡がくっきりと残っていて、設置時期は古そうです。銘板を見ると昭和43年(1968年)設置でした。


険しい沢筋が続くだけで、道筋らしきものの痕跡はありません。


炭焼き窯らしき窪みが残っていました。


また砂防ダムが現れました。


砂防ダムを越えると道筋が現れました。ただ、千万町坂の旧道だという確証は得られません。


またも砂防ダムに遭遇します。


砂防ダムから左側へと道筋が付いていたので、そちら側へと進んでいきます。


結局、千万町坂の旧道を見つけることができないまま、県道334号へと再合流しました。ここは素直にあきらめて、このまま寸五郎坂へと進むことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

千万町坂で最も急勾配であることを示す16%の勾配標識。


寸五郎坂の入口へとやって来ました。ここで右折します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

舗装されていますね。路肩に「聖子花姫大神奥宮水神」と書かれた案内板が立っています。この先に神社でもあるのでしょうか。


舗装路ですがとんでもない急坂です。なまじ路面が滑らかなので、足を水平に置ける取っ掛かりが無く、歩いて進むにはかえって辛い状況です(笑)。


車道の終点に来ました。ここから先は徒歩道となるようですが、地道ではなくコンクリート舗装されています。


徒歩道になっても急坂が続きます。




橋が現れました。橋の下には石積みの橋台がありますが、現在架かっている橋に比べて幅広なので、かつてはもう少し立派な橋が架かっていたのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋を渡った先からは地道になります。


この橋を渡るとすぐに右側へと登っていく階段があります。この階段を登ると寸五郎坂の入口に立っていた案内板の神社へ行けるようです。この橋まで舗装されていたのは、神社への参拝客の利便を図るためなのでしょう。

この沢筋にも砂防ダムがありました。右側の斜面へと取り付いて、砂防ダムを越えていきます。


砂防ダムを越えると、寸五郎坂はすぐにつづら折りとなっていました。




道筋の前方がシダ類で覆われています。以前に斜面が崩れたことがあるのでしょう。


寸五郎坂はここで沢筋を離れ、折り返して斜面を登っていきます。






ここは幅広の道筋がきれいに残っています。


また折り返して進みます。


峠までもう少しです。


寸五郎坂の峠に到着しました。峠の名前は不明です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠にある「宮崎音頭」の碑。裏面に彫られた碑文によると、昭和10年(1935年)に立てられたようです。宮崎は現在の岡崎市宮崎町になります。


この寸五郎坂、かつては峠の西側にある木下(きくだし)の集落の子供たちが、宮崎にある学校へと通うための通学路として利用されていたそうです。

山の子供たちが通学路に使っていたという峠道は、往々にして険しい道のりであることが多いですが、この道もまたご多分に漏れない道ですね(笑)。

通学路として使われている訳ですから、木下と宮崎の間の日常の交流にも当然利用されていたわけで、このような石碑が峠に立てられていても何ら不思議はありません。

大きなヤマザクラの木。


峠方向を振り返っています。私は右側の道から歩いてきましたが、左側の道を通っても再び寸五郎坂へと合流することができます。


山の中にこのような石積みが残っていると炭焼き窯の跡かと思ってしまいますが、これはどうも違うような感じがします。


ふたたび舗装路になった寸五郎坂を進んでいきます。峠から木下側は、宮崎側と違って緩やかな坂となっています。




県道333号へと出てきました。あとは県道を歩いて車へと戻っていくだけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩に祠がありました。


石仏を眺めます。


路肩にヤギの群れがいました。多分、「草刈り」用に放牧されているのでしょう。


また石仏が立っていました。この県道も何度も何度もドライブで通っていますが、路肩にこれだけ石仏が立っていたとは気が付きませんでした。








木下の集落にある秋葉山常夜灯と火の見櫓。


ラリージャパン開催時にはレッドブルのゲートが立てられていたコーナー。2024年開催時はSSルートが変更されたため、設置されなかったようです。


またまた石仏を見つけました。これも今まで全然気が付きませんでした。




県道から右斜めに細い道が分岐しています。旧版地形図によると、どうやらこの道は川沿いを通る県道の旧道に当たる道のようです。ショートカットにもなるので、確認してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠へ向かい直線的に道筋が続いています。




峠まで出ることができました。きちんと切り通しも設けられています。




緩やかに登ってきましたが、峠から進行方向を見下ろすとけっこうな高さがあります。


一気に県道近くまで下ってきました。この先で県道へと飛び下り、車へと戻りました。


今回探索したルートの全体図です。


今回、千万町坂の旧道についての探索は失敗でした。どうやら、私が道を外れた場所よりもさらに進んだ場所から旧道は分岐していたようです。

寸五郎坂は随分以前から存在は知っていましたが、他の訪問者のブログなどで道の概要を知っていたので、なかなか訪れることはしませんでした。今回ようやく訪れて、知っていた情報を追試したといったところですね。
Posted at 2025/02/15 23:57:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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