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小林あにのブログ一覧

2025年02月09日 イイね!

新城市作手田原付近の旧挙母街道を歩いてきました

2024年7月28日日曜日、愛知県新城市作手田原付近の旧挙母街道を歩いてきました。

さて、現代の挙母街道である国道301号と旧挙母街道が分岐する地点へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく旧挙母街道だった路地へと進んでいきます。


道幅はご覧のとおり狭く、私の車だと車幅一杯になります。


左側へと分岐していく道のようなものがあったので、少し探ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少し踏み込んでいくと道跡であることがはっきりしてきました。




笹原が現れました。


その後、程なくして道跡はわからなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧挙母街道まで引き返してきたところ、分岐点に石仏が立っているのを見つけました。摩滅がひどく、合掌した立像なのがわかる程度です。古い時代から祀られていたことは間違いないでしょう。


ふたたび旧挙母街道を歩き始めると、たくさんの動物の足跡が道に付いているのを見つけました。イノシシのものでしょうか。


旧挙母街道は峠に向かって一直線に登っていきます。




間もなく峠に到着しました。何の変哲もない景色です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠の周辺を探してみると、やや離れた場所に石組みの祠がありました。


こちらは小さな石柱。表面が読み取れないので、馬頭観音碑のようなものなのか、標石の類なのか、識別できませんでした。


それでは峠を下ってきます。こちら側の道も一直線です。


視界が開けてきて、田原地区の広々とした田んぼを眺めることができます。


峠道を下り、国道301号へとふたたび合流しました。ここで右折して、もうしばらく旧挙母街道の痕跡を探して歩いてみることにします。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道301号の歩道を歩いていくと、「作手三弘法」とある石碑を見つけました。石碑が立っている路地へと入っていってみます。


お寺の門前へと出てきました。山門が石柱になっているのは初めて見ますね。


そして、山門の左側には大きな馬頭観音像が立っていました。


場所はこちら。


この付近の国道301号は、車に乗るようになってから数えきれないほど通行していますが、この場所にこんな大きな馬頭観音像があることには、今まで全く気が付きませんでした。


「明治廿七年秋季」の文言や奉納者の寄附額や氏名が読み取れます。明治27年は西暦1894年なので、130年前に建立された像だとわかります。


この地域の人々が立てたものか、街道を利用する運送業者などが立てたものなのか、そこまでは読み取れませんでしたが、街道を利用する人馬の交通安全祈願のために立てられた事は間違いないでしょう。

馬頭観音像の前を通る路地は、現在の国道301号が通る以前の古い道筋なのかもしれません(荷車が通るには少々狭い気がするので、疑問符は付きますが。)。


馬頭観音像のさらに左側には小さな祠。古そうな石仏たちも並んでいます。


さらに国道301号の歩道を進んでいくと、右側へと分岐している道が。国道301号から滑らかに細道へと分岐しているので、旧挙母街道かもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

里山の裾に沿って細い舗装道が続いています。




間もなく国道301号へと合流。この区間には、石仏などの街道を思わせる遺構は見当たりませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先は、地形図を見ても国道に沿うような細道が見当たらないので、ここで引き返すことにしました。まあ、「暑い!」というのも理由ですが(笑)。

旧挙母街道の峠を越えて、車へと戻ってきました。




今回探索したルートの全体図と、比較の旧版地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。

徒歩主体の時代には、少しでも距離を短くしたいために山の端を低い峠でショートカットしていたのでしょうが、荷車の利用が盛んになってくると、低い峠とは言え、一直線で一気に上り下りする坂道は難所となったことでしょう。

そのために現在の国道301号が通る、遠回りでも山を迂回するルートへと変更されて、このルートが現在の国道に踏襲されたのだと考えられますね。
Posted at 2025/02/09 08:23:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧挙母街道 | 日記
2025年01月28日 イイね!

「根尾谷地震断層観察館」と国道157号温見峠

2024年7月21日日曜日、弟の誘いで母と三人で岐阜県本巣市にある「根尾谷地震断層観察館」へ出かけてきました。

こちらは途中に立ち寄った道の駅に置いてあった樽見鉄道の車両の模型。


「根尾谷地震断層観察館」へとやって来ました。まあ、何回訪れたのかわからないくらい来てますけどね(笑)。我が家のドライブ目的地の一つとなっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

断層観察館の内部。明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震により出現した「根尾谷断層」を直接観察することができます。




さて、見学を終えてどういうルートで帰ろうかとの話になり、私は「国道418号で関市へ出て帰ればいいんじゃない。」と提案しましたが、弟が「このまま国道157号で福井県へ抜けて行こうよ。」と言うので、「え~、遠回りじゃん…。」と少々抵抗しましたが、「まあ、いいわ。」と弟のルート案で帰宅することに。

国道157号の本巣市根尾能郷側のゲートまで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

以前はこの場所に「落ちたら死ぬ!」という注意看板が設置されていましたが、無くなっていました。この先、しばらくは道幅が一車線分しかないし、ガードレールも設置されていない。そして谷側の路肩は河原まで高い崖…。そんな看板があったのもうなずける道路状況です。


「落ちたら死ぬ!」区間を無事に通過。次に現れるのは「洗い越し」。現役の国道に存在しているのは珍しいですね。




岐阜・福井県境にある温見峠に到着です。ここへ来たのは、多分これで3回目。以前に来た時は2回とも福井県側から岐阜県へと通り抜けました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

温見峠からは付近にある能郷白山への登山口があります。そのため、峠付近の路肩には登山者の路駐がけっこうあります。


峠から岐阜県側を向いてます。


上から見下ろしての眺め。


岐阜県側を遠望しています。ご覧のとおり、山深い景色が遠くまで続いています。温見峠に最も近い所にあった集落は、岐阜県側も福井県側も現在は廃集落となっているようです。


無住の谷をひた走り、真名川ダムへと立ち寄りました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

母も弟も疲れたのか車から降りようとしなかったので、一人でダムを眺めていました。








この後は国道157号で大野市まで出てから、中部縦貫道・国道158号を走行。白鳥ICから東海北陸道へと乗り、帰宅しました。
Posted at 2025/01/28 21:09:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2024年12月30日 イイね!

越前下山駅・旧下荒井隧道・冠山トンネル

2024年7月13日土曜日、岐阜県~福井県~岐阜県と通過するルートでドライブしてきました。

自宅を出発して、新東名の豊田東ICから高速に乗り、東海環状道・東海北陸道と経由。白鳥ICからは中部縦貫道油坂道路を走行し、越美通洞(トンネル)から先は九頭竜湖沿いに国道158号を進みます。

最初に立ち寄ったのは、JR越美北線の越前下山駅。付近の国道158号を走行している時、いつも気になっていたので、今回は立ち寄ってみました。


当駅は、トンネルとトンネルに挟まれた、わずかな「明かり」区間に立地しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

せっかくなので、駅ホームへと向かいます。


この駅の開業は昭和47年(1972年)12月15日。比較的最近の開業のため(それでも52年前ですが。)、高架化された路線のような簡素な造りのホームです。




旧国鉄駅には付き物の「名所案内」の看板。


しかし、越美北線の末端区間は一日4往復半しか列車が運行されていないので、わざわざ列車で名所案内に記載されている場所へ向かおうとする人は、ほぼいないでしょう。


越前下山駅の駅名板。


ちなみに、名所案内は錆び錆びになった古い駅名板を再利用しています。


越前下山駅の見物はこれくらいにして、移動を再開します。




昼御飯を食べるため、道の駅「越前おおの荒島の郷」へ立ち寄ります。


場所はこちら。


福井名物「ソースカツ丼」をいただきました。


さて、次に立ち寄ったのは、旧京福電鉄越前本線跡に残る旧下荒井隧道。こちらの廃トンネルも、TGRラリー恐竜勝山戦へ出場するために、付近の国道157号下荒井トンネルを通過するたび横目で気にしていた場所です(笑)。


ちなみに、この廃トンネルを含む勝山駅〜京福大野駅間は、昭和49年(1974年)8月12日に廃止されています。

場所はこちら。


トンネル坑門に掲げられている扁額。一文字目はわかりませんが、あとの文字は「〇誠一貫」でしょうか。




この廃トンネルの延長は521.4m。坑口の前にいた時点でわかっていたことですが、トンネル内の靄が濃いです…。


どうやら、内部は全面コンクリート覆工されているようです。トンネルの開通は大正13(1924)年12月20日だそうで(実は2代目トンネル。)、煉瓦造からコンクリート造へと代替わりしていく時期のものですね。


入ってきた坑口を見返しています。今は壊れてしまっていますが、元々は木製の扉を造り付けて封鎖してあったようです。


退避坑。


奥へと進むにつれて靄は薄くなってきましたが、懐中電灯で照らすとまだまだ真っ白になってしまいます。


ふたたび退避坑。


反対側の坑口付近までやって来ました。こちら側には金網が設置されていました。試しに扉を動かしてみましたが、鍵が掛かっているようで、トンネル内を引き返すことが決定しました。


進入した側の坑口に近づいてきました。坑口付近は浅く水没しています。そして、天井アーチ部分にはコンクリート打設時の型枠の跡が無数に付いています。




天井アーチ部に大きな亀裂が入り、そこから水滴がボタボタと滴っています。水没しているのは、この雨のように滴る漏水が原因でしょう。


旧下荒井隧道の探索はこれにて終了。


また機会があれば、今度は初代トンネルを探索してみたいものです。

さて、旧下荒井隧道から走行すること約44km。今回の目的地である国道417号冠山トンネルにようやく到着しました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

冠山トンネルを含む峠区間は国道417号「冠山峠道路」と呼ばれ、令和5年(2023年)11月19日に開通しました。開通したことを知ってから訪れたいと思っていましたが、岐阜県側からも福井県側からも高速道路からのアプローチ距離が長く、何となく今まで行きそびれていました。


ちなみにトンネル延長は4,834m。


冠山峠道路の開通により、国道417号の岐阜・福井県境の未開通区間が直結され、冬期通行も可能になりましたが、冠山峠道路や徳山ダム建設による新規開通区間以外では、まだまだ狭小区間や線形不良区間も残っているので、大型車の通行には厳しい部分が残されています。

この後は国道417号を南下して国道303号へと合流。東海環状道大垣神戸ICから高速道路に乗って帰宅しました。
Posted at 2024/12/30 02:02:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2024年11月29日 イイね!

中央自動車道「談合坂SA付近の廃道」へ行ってきました。

2024年7月6日土曜日、弟の誘いで山梨県上野原市にある中央自動車道談合坂SA付近の高速道路の廃道を見に行ってきました。

当日は、豊田東ICから東海環状道に乗り、中央自動車道へと乗り継ぐルートで現地へ向かうことにしました。

さて、そのまま大月ICまで行っても良かったのですが、せっかくなので寄り道。一宮御坂ICで下りて、国道20号を走行。途中で山梨県道212号へと入り、笹子峠への旧道を登っていきます。

笹子隧道の甲州市側坑口に到着です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

笹子隧道の開通は1938年(昭和13年)。このトンネルが開通するまでは、笹子峠を自動車で越えることはできませんでした。


1938年という古い時代の開通ではありますが、甲州街道という幹線道路に造られたトンネルと考えると内径が小さいですね。幅3.0m、高さ3.3mしかありません。昔の車両が今よりも小型だったとしても、対面通行できるくらいのサイズで建設しても良かったのではと思います。


ただ、戦前に発行された「本邦道路隧道輯覧」には、有効高4.0m、有効幅員4.6mとあります。トンネルを見るとアーチ部分が二重になっており、後年に補強のためアーチ部の巻き立てを追加施工したのかもしれません。

笹子隧道の扁額。


トンネルの延長は239m。この狭さなので、反対側から車両が来ていないことを確認してからでないとトンネル内へと進入できません。


トンネルの少し手前には、旧甲州街道が県道を横断しています。


少し旧甲州街道へと入り込んでみます。


石仏がありました。


峠へと向かって、幅広な掘割道が続いていました。今回はここで引き返します。


大月市側の坑口へとやって来ました。


こちら側の坑門は西洋風なデザインとなっていて、ピラスター(壁柱)も装飾されています。開通当時も煉瓦調の色彩を施されていたのかは不明です。


大月市側の扁額。


笹子隧道の説明板。




笹子隧道はこれくらいにしまして、本来の目的地である談合坂へと向かいます。

時刻は13時過ぎ。中央自動車道談合坂SA付近の高速道路廃道に到着です。ここは廃道の東側末端部になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応、高速道路らしい雰囲気が残っていますね。しかし、暑い…。


左側が高速道路の廃道、右側が高速道路の現道になります。


階段を下りて、廃道下のガードへと来ました。鬱蒼としていますね…。


「相模湖16」のプレートが付いています。


通行人がいそうな場所ではありませんが、このガードも内部はきれいです。しかも照明が点灯しています。


反対側へと出てきました。周囲に目に留まるようなものは特になかったので、すぐに引き返しました。


最初に駐車した場所から西側へと移動してきました。


跨道橋から廃道を眺めます。先ほどの場所よりも、より強く高速道路の面影が残っていますね。そして、左側を並行する道路は、高速道路の車線をそのまま転用したわけではなく、やや位置をずらして敷設されたことがわかります。


廃道の西側末端部を眺めます。廃道と現道をつなげてみると結構な急カーブになりますね。この急カーブは廃道部分が廃止された理由の一つなのかもしれません。


こちらは道路脇に残された注意看板。「この先急カーブ」とあり、東側の合流地点も急カーブだったことが窺えます。


これくらいにして、現地から引き揚げます。名神高速道路今須トンネルの廃道よりも見どころはありましたが、ワタクシ的には、特別印象に残るという場所でもなかったですかね。

それよりも、中央自動車道が通過しているルートに寄り添うように、旧甲州街道が通っていたとわかったことの方がインパクトがありました(笑)。

こちらは旧甲州街道の恋塚一里塚跡。




場所はこちら。現在の甲州街道である国道20号からは、随分とかけ離れた場所に存在しています。というか、同じ地形図内に国道20号は通っていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは戦前発行の地形図。赤線が旧甲州街道ですが、山の中腹を縫うように通過していたことがわかります。何らかの事情があって桂川沿いを避けたのか、距離短縮のために山の中腹を通過していたのか。どういう理由だったのでしょうかね。

※25,000分の1地形図「上野原」:昭和4年(1929年)測図。

最後の寄り道は、大月市にある「日本三奇橋」の一つ「猿橋」。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋は「刎橋」(はねばし)と呼ばれる形式で架けられています。橋台部となる岩に穴をあけて木材を重ねるように差し込み、上の木材をよりせり出させることで、橋脚を建てることが困難な深い渓谷でも架橋することができる技術です。




現在の橋は1984年(昭和59年)に鉄骨造りで架け替えられたものですが、ネット検索すると木造時代の猿橋の写真を閲覧することができます。

こちらは、猿橋の下流側に架かる八ツ沢発電所第一号水路橋と国道20号新猿橋。


上流側に架かる旧国道の新猿橋。1934年(昭和9年)の架橋です。新猿橋が架橋されるまでは、猿橋が国道の橋としても利用され続けていたわけです。


八ツ沢発電所第一号水路橋。この水路橋は、大正期に建設された大規模な水力発電施設である八ツ沢発電所の施設群の一つとして、重要文化財に指定されています。






さらにこの場所には、旧中央本線の廃トンネルも残っています。どうやったら接近できるのか確認はしていませんが。


帰りは大月から国道139号を通り、本栖湖からは国道300号に入って身延へと出て、中部横断道・東名高速道路を通って帰宅しました。

晩御飯はお決まりの牧ノ原SAで(笑)。
Posted at 2024/11/29 00:00:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2024年11月26日 イイね!

名神高速道路「今須トンネル廃道」と関ケ原鍾乳洞

2024年6月30日日曜日、弟の誘いで岐阜県不破郡関ケ原町にある名神高速道路の廃道を見に行ってきました。

この廃道は、現在の名神高速道路今須トンネルの旧道に当たります。途中に半径280mの急カーブが存在するために、1964年(昭和39年)の開通以降、交通事故の多発地帯となっていました。1978年(昭和53年)、新たに現在の今須トンネルを経由するルートが完成したことにより廃止されました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

弟によると、今回この場所を訪れることにしたのは、YouTubeでこの廃道を紹介した動画を見て、行ってみたくなったからだそうです。

現地へとやって来ました。あいにくの雨模様ですが、散策する分には問題ないでしょう。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、現在の地形図には残存しているガードが表記されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

盛り土部分は取り払われて、コンクリート構造物が露出した状態となっています。


車1台が通過できる程度の幅ですね。


「彦根117」のプレートが残されています。


反対側の出入口には木が茂っているので、現状、車での通行には難ありです。


こちら側にも「彦根117」のプレートが残っています。


車では反対側へと出られない状態ですが、ガードの内部は利用されているかのように、まずまずきれいな状態を保っています。


この場所から徒歩でかつての高速道路のルートをだどってみます。


坂を下った所で右折するとコンクリート擁壁があります。これも高速道路の構造物の名残りなのでしょうか。


ふたたび直進ルートへと戻り、先へと進んでいくと橋を渡ります。舗装路の左側の砂利道がある高台が、かつての高速道路になります。


これといった遺構が見当たらないまま歩を進めていくと、廃鉄道車両を見つけました。


車掌車と貨車の合造タイプですね。形式はわかりませんけど。




名神高速道路との合流地点まで来ました。結局、「彦根117」ガード以外、はっきり遺構だとわかるものは確認できませんでした。


合流地点にある現道のガードは「彦根114」。ということは、廃道区間にあった「114」から「116」のガードは撤去されたということなのでしょう。


これにて廃道区間の散策は終了。車へと戻ります。


「まだ時間も早いし、どうするかね。」ということで、同じ関ケ原町内にある「関ケ原鍾乳洞」へ行ってみることにしました。

こちらは鍾乳洞への道路の路肩に立つ「立哨台」。実は鍾乳洞がある敷地、戦前までは陸軍の火薬庫がありました。




こちらは周辺の戦前の地形図ですが、火薬庫の記載はありません。軍事施設なので、載っているはずがありませんけどね。

※25,000分の1地形図「關原」:大正9年(1920年)測図。

こちらは第5火薬庫。


表に説明板が立っています。


見学できるので中へと入ってみます。雨天のため、庫内はかすかに靄っています。


庫内に設置されている各種説明板。








火薬が保管されていた庫内を覗きます。火薬があっただけのはずですが、戦前の軍事施設だと思って見てしまうと、何とも言えない気分になります…。


外側を振り返って見ています。人が出入りした区画の壁面は白く滑らかに塗られていますが、当時のままなのか補修されたものなのか。


さて、それでは本題の鍾乳洞へと潜ります。子供の時以来ですかね。もうはっきりとは覚えていません。昔はテレビCMもやってました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここは、洞内がとにかく狭い・低いです。あとは、人工的に掘削した区間が長いみたいですね。




洞内の様子です。










外へと戻ってきました。店舗が昭和チック丸出しで、ある意味和みます(笑)。


店内で地元の方々が作っている蕎麦をいただきました。


この後は、関ケ原町からいなべ市へと抜けて伊勢湾岸道で一旦帰宅。あらためて弟と二人で行きつけの焼肉屋へ出かけて、晩御飯を食べました。


Posted at 2024/11/26 21:08:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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