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小林あにのブログ一覧

2024年09月16日 イイね!

【豊根村】粟世~山内~霧石峠~大立の峠道を探索する(1)

2024年4月28日日曜日、北設楽郡豊根村三沢粟世から山内~霧石峠~大立とつながる峠道を探索してきました。

スタート地点となる豊根村三沢粟世へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点での予定としては、まず粟世から山内へと至る峠道を探索し、時間に余裕があるようだったら、さらに山内から霧石峠へと至る峠道を探索してみます。

こちらは戦前の地形図。赤線が粟世と山内を結ぶ峠道となります。

※「ひなたGIS」より引用。

豊根村誌によると、伊那街道上津具宿(設楽町津具)から分岐し、霧石峠を越えて豊根村富山の河合(旧富山村のかつての中心地。佐久間ダムに水没。)とを結んだ「津具・粟世・河合道」と呼ばれる街道の一部にあたります。

それでは探索に向かいます。駐車場所から旧三沢小学校の前まで愛知県道74号を歩き、ここから路地へと入り込みます。


集落内の川を渡ります(河川名は不明。)。橋の名称は「粟世橋」。


正直、今回探索する峠道が粟世のどこから分岐しているのか明確にわからず、取りあえず、川に橋が架かっていたこの道を選んだだけでした。

この程度の橋だと銘板無しでも当たり前なのですが、それがわざわざ取り付けてあるということは、「もしかしたら相応の由来を持つ道かも。ここで正解だったのかな?」と勝手に想像してます(笑)。


廃屋の横から山の中と入り込んでいきます。


作業道よりはやや狭い感じの道が奥へと続いています。


もはや山仕事には利用されていない道なのか、荒れ放題となっています。




車が通れるような砂利道との離合もありましたが、気にせずにそのまま同じ沢筋を詰めていったところ、行き止まりとなってしまいました。

周囲を見渡しても斜面を登るような道筋は見い出せず、仕方がないのでこのまま直登していきます。


斜面の上部を通る車道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所から分岐していく豊根村道梨畑山内線へと進みます。おそらく山内へと向かう昔の峠道を由来とする村道でしょう。


普通の車でも走行できそうなフラットダートの村道を歩いていきます。




草地になっている場所から、斜め左側へと下っていく細道へと入り込みます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

想像していたよりもきれいな道筋が一直線に下っていっています。


左側はこの沢筋の源頭地になっているようで、湿地帯になっています。




このまま沢筋を進んでいくものかと思っていたら、いきなり沢筋を離れて、急斜面の只中を進んでいきます。






道筋が無くなってしまいました。ここで流れの無い沢を渡り対岸へと折り返して進みます。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

緩いヘアピンカーブを曲がっていきます。


ヘアピンカーブを曲がった先で、樫谷下(かしやげ)へと向かう峠道が右側へ分岐していきます。


戦前の地形図では、この地点の分岐になります。

※5万分の1地形図「根羽」:明治41年(1908年)測図・昭和8年(1933年)要部修正測図。

分岐を通り過ぎるとすぐ折り返しがあります。


砂防ダムの上へと出てきました。斜面が軽く崩れているので、通過に気を遣います。


ボロボロになった小橋を避け、小さな沢を跨いで越えていきます。




この辺りから先は、砂防ダムの建設工事によるものか道幅が拡がっています。ただし、所々薮になっていたり、路面も悪くなっています。




道を下っていくうちに、頭上に並行して平場が続いていることに気が付きました。少し戻って、平場へと登ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やはり、道のような平場が続いています。




凹地へと出てしまい、この場所で平場は途切れてしまいました。


凹地の中を眺めてみると、木材が突っ立っています。おそらく、かつてはこの場所に桟道が架かっていたのでしょう。


平場の幅の狭さや斜面の険しい場所を通過している点からみて、この平場は峠道の旧道ではなさそうです(そもそも、もっと低い沢沿いを進めるため。)。おそらくは、木材搬出のための木馬道の跡ではないかと思われます。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さらに下っていくと、斜面の上部に石垣が続いていました。やはり木馬道の跡である可能性が高そうです。


この分岐で左側へ進めば、先ほどの石垣の先へと行けそうでしたが、今回の本題ではないので、山内の集落へとそのまま下っていきます。


山内の集落へと出てきました。駐車場所を出発してから峠越えをして、2時間余りの行程でした。


そのまま集落内を進み、古真立川の橋を渡って県道426号へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は10時30分過ぎ。まだ十分時間があるので、このまま次の予定である山内~霧石峠の峠道を探索することにします。

※その2へ続く。
Posted at 2024/09/16 15:08:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月31日 イイね!

【豊根村】間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました(2)

2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。

前回(1)では、高圧線の鉄塔下まで進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは鉄塔により改変された斜面に付いている細い踏み跡を進んでいきます。


鉄塔から先は進行方向を西へと変えて、しばらくは等高線に沿うような形で山腹を移動していきます。






落石です。転がっている石が白いので、割と最近の落石かもしれません。一応、斜面の上部を注意しながら通過します。


前方に浅い掘割道が現れました。ここからは尾根を通っていくようです。


分岐する道がありましたが、覗いてみたところどうやら作業道のようなので、このまま道なりに進みます。


浅い掘割道が続きます。


また分岐が現れました。戦前の地形図に沿うように進むために右折していきます(写真は逆方向から撮っています。)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは深い掘割道で一気に下り始めます。


この深い掘割道を歩き始めて、「もしかして作業道なのか?」と疑いましたが、戦前の地形図にある峠道とルートが似通っていること、自動車が通るには幅が狭く勾配が急なこと、路肩に生えている木々がそれなりに太いことなどから、牛馬が通りやすい新しい峠道として戦前期までには掘削された掘割道だろうと判断しました。










深い切り通しを通り抜けます。向こう側に山の斜面が見えているので、小田の集落は間もなくのようです。


小さな沢に出てきたところで折り返します。


ようやく小田の集落に到着です。路肩に立つ細い櫓に半鐘が吊るされています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋を渡ります。


橋の名前は「小田川橋」。「こだがわ」と呼びます。


橋を渡ると愛知県道74号(旧別所街道)に合流します。渡った先には馬頭観音などの石碑群がありました。


さて、帰りは先ほど通ってきた掘割道ではなく、旧道に当たるであろう徒歩道を探してみることにします。

掘割道から徒歩道らしきものが分岐していたのは確認しているので、当たりを付けて進入してみます(もっと入りやすい場所がありましたが、人家の前だったので止めました。)。


場所はこちら。


動物を捕獲するための檻が置かれています。その後方に道らしきものは無かったので、斜面を直登してみることにします。


登っていったところ、古道に遭遇しました。登ってきている方向からして、人家の前から分岐していた道のようです。辿っていくことにします。


しっかりとした掘割道が続いています。しかし、坂がキツイです(笑)。


集落を見下ろす古そうな墓地の脇に大木が生えていて、その根元に祠がありました。お供え物などは見当たらず、今も祀られているのかはわかりません。


段々と道筋が怪しくなってきましたが、雰囲気は残っているので、そのとおりに辿っていきます。




鹿の角が落ちていました。めったには見かけませんけど、角だけでなく頭蓋骨などの白骨を見ることもあります。


往路で通った深い掘割道へと出てきました。想定通りの場所だったので、今歩いてきた道が峠道の旧道で間違いなさそうです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう1か所、旧道と思われる道跡を辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小田の集落から上がってきた古道と比べると、道筋はすっかり痩せてしまっています。


折り返して尾根道となります。


進んでいくと深い掘割道が始まる地点へと出てきました。そのまま直線的に間袋方面へと繋がっているので、この部分の道跡も旧道と言えそうです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この後は元来た道をひたすら戻るだけです。こちらは間袋側の沢渡り箇所にあった小さな滝。


間袋の集落の小さな社の上まで戻りました。ここからは、どのように集落へ道が繋がっていたのかを確認します。


倒木が酷いですが、直線的に集落へと向かっているようです。


倒木をくぐり抜けながら進むと、間袋の集落の手前へと出てきました。本来はこのまま集落へ向かって道が続いていたのでしょうが、今は草むらになってしまっているので、階段で道路へと下りました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからはおまけです。時間にまだ余裕があったので、間袋と小谷下を結んでいた里道跡をちょっと探索してみます。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

駐車場所からすぐ南側にある沢を渡り、小さな切り通しを越えていきます。




里道跡は古真立川沿いのちょっとした崖地を通っていきます。まだまだ道幅があるので、このまま進んでみます。




崩落地に出てきました。すでに一つ探索を終えて多少疲れが出ていることもあり、リスクのある場所へと踏み込む気分ではありませんでしたが、もう少しだけ頑張ってみます。




木が生えている場所で一旦立ち止まって先を眺めてみましたが、前方はまだまだ崩落地が続いているようです。斜面の傾斜も更にきつくなっていたので、今回はこの場で引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、車に乗り込んで少し移動。愛知県道429号と間袋の集落をつなぐ橋「間袋橋」へとやって来ました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋のたもとには、青面金剛像と名号碑が立っています。石碑本体や笠石の意匠がそっくりなので、同一の石工が製作したと思われます。


両方の石碑とも左側面には「〇貞享五戌辰〇十月吉日」と彫られています(〇部分はそれぞれ違う文字。)。


貞享5年は西暦1688年に当たりますので、これらの石碑は336年前のものということになりますね。

ただし、ウィキペディアで調べると「貞享」は貞享5年9月30日に「元禄」へと改元されていますので、実は貞享5年10月は存在しないのです。「石碑に年月を彫っておいたら年号が変わってしまったけど、彫り直しもお金がかかるし、そのままでいいや。」ということなのでしょう。

右側面には、「三州賀茂郡足助庄 大立村 間袋村」とあります。


ちなみに「足助」は、この地を遠く離れた現在の豊田市足助町周辺を指します。しかし、「賀茂郡足助庄」(「庄」は「荘園」のこと。)がどの範囲まで拡がりをもつ荘園だったのかはネット検索ではわかりませんでした。

あらためて、この碑文になぜ「賀茂郡足助庄」と表記したのか不勉強でわかりません。確かに昔々は、現在の豊根村の範囲は「賀茂郡(加茂郡)」の所属でした。しかし、16世紀には現在の北設楽郡の元となる「設楽郡」へ郡替えされているそうです。そして、荘園制はこの石碑を立てた頃にはすでに消滅しています。

なので、この石碑には本来「三州設楽郡 大立村 間袋村」と彫るべきところ、なぜか旧来の所属を名乗っているわけです。これは、現代の私たちが、「三州」だの「信州」だのと昔の地名を使ったりしているのと同じようなものなんですかね。

それではおまけの2つ目、この石碑の横から始まる間袋と大立を結んでいた里道跡を辿ってみます。


戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

道筋はしっかり残っていますが、廃道ゆえに放置された倒木が散見されます。




5分ほどでかつての橋跡に着きました。何橋と呼ばれていたかはわかりませんが、現在の間袋橋の先代に当たります。なかなか立派な石積み橋台です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

間袋橋の駐車場所まで戻ってきました。これで今回の探索は終了です。


今回探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

比較用で戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

小さな集落同士を結ぶ峠道なので、豊根村誌やネット検索でもこれといった歴史・地理に関する記事は見当たらず、深い掘割道の建設理由や時期なども含めて峠道のこと自体は何もわかりませんでした。

ひとまずは「峠道」という実物を辿ることはできたので、その内、何か資料が見つかるといいですね。
Posted at 2024/08/31 15:20:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月29日 イイね!

【豊根村】間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました(1)

2024年4月20日土曜日、北設楽郡豊根村大字古真立の間袋と小田を結ぶ峠道を探索しました。

こちらは戦前の地形図。赤線が今回探索を試みた峠道です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

さて、この峠道を探索してみようとしたきっかけです。以前に豊根村と旧富山村の村境にある「辞職峠」こと霧石峠の探索をしたわけですが、次は豊根村の中心地である下黒川と霧石峠を結ぶ道をどこか探索してみようかと思い立ち、手始めに間袋と小田を結ぶ峠道を選んだわけです。

あとは地形図を見て、この峠道の間袋側に「社坂」という名前が付されていたことも興味を引きました。

今回は間袋側から探索を始めることとしました。ここは愛知県道429号から間袋の集落へと出入りする道路の終点です。


場所はこちら。ちなみに、かつての峠道は現在の地形図には記されていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道路の終点から間袋の集落を眺めています。


間袋の集落について少々記します。豊根村誌によると江戸時代である延宝6年(1678年)の検地の記録では、すでに間袋村として存在していたそうです。峠を挟んだ小田とは、間袋が「本郷」、小田が「枝郷」の関係だったみたいです。

明治9年(1876年)に間袋村は近隣の大立村、小谷下村と合併し、その際に各村から1文字づつを取って「古真立村」となりました(旧村名と違う字を当てている部分もありますが。)。これが現在の豊根村大字古真立につながります。

それでは探索を開始します。戦前の地形図があるとはいえ、5万分の1では詳細な位置取りがわかるわけでもないので、まずは駐車場所から沢沿いに進んでいってみます。

斜面の上に小さな社が見えます。おそらくこれが「社坂」の由来となった社だと思われます。


しばらく沢沿いを進んでみましたが、やがて道筋らしきものが消えてしまったので、ひとまず斜面を登って峠道を探してみることにします。




社の背後まで斜面を登ったところで道筋を発見。辿ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

稜線を登っていくルートになりましたが、その稜線には蛇行した堀割道が付けられています。蛇行させることで距離を引き延ばし、その分、直登するよりも勾配を緩くする手法だと思われ、各地の峠の古道でよく見かけます。






この辺りから稜線を外れ、等高線に沿うようにして緩やかに斜面を登っていきます。崩れてしまってちょっと危ない個所もあります。




斜面の下方から作業用モノレールが合流してきました。モノレールはこの先でほどなく終点となりました。


厄介な崩落箇所に遭遇。写真だとあまり感じませんが、崩落部分が谷底まで到達しています。高い場所が嫌いな私は、横断を決意するまでにしばらく時間が掛かってしまいました…。


横断後に振り返っての眺め。ほんの数mの距離を横断できずに引き返す羽目になったことは何度もありますからね。


峠道が消えてしまいました。沢の対岸へ向かった様子も見られないので、もうしばらく頑張って斜面を進むことにします。


杉に巻き付いた太い蔦(蔦でいいのかな?)。


奥へと進むほど斜面が荒れていて、少し進むだけでも安全なルートを考えたり、足場を作ったりと、なかなか時間を要してしまいます。


ようやく沢へと出てきました。対岸に峠道の続きがあり、この場所で沢を渡って折り返していたようです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸へと渡って登り始めると、またすぐに折り返しがあります。


ここからは急坂で一気に登っていくようですね。




道らしく見えますが、地面のあまりの荒れ方と急坂に段々と「このルートでいいのかな?」と疑念が湧いてきます。




見上げるような地形になったところで、つづら折りの道が見えてきました。その場へ行くまでは道である確証はないのですが(道のように見えて実は自然地形だったというのもまたよくある事なので。)、期待させる要素は十分です。


これは間違いなく峠道ですね。一安心です。


つづら折りの坂を登り詰めていきます。








「ここが峠なのかな?」という場所へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上へと上がるとまだ先へと登り坂が続いていました…。


どうやら幅のある尾根地形を進んでいるようです。




ふと、視界の右側に石碑が立っていることに気が付きました。


「名号碑か何かか!」と喜び勇んで接近したところ、「講和記念林」と彫られていました。昭和27年(1952年)の日付も彫られているので、おそらくサンフランシスコ平和条約締結を記念して植樹された植林地を示す石碑でしょう。


ちなみに私が住む安城市内には「講和記念」と親柱に刻まれた橋が存在します。

石碑の裏面は記念林の所在地と面積が記されていました。


「名号碑じゃなかったか…。」と少々ガッカリしつつ、先へと進んでいきます。




折り返しが現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

頭上には高圧線の鉄塔が立っていました。


※その2へ続く。
Posted at 2024/08/29 18:13:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 豊根村 廃道 | 日記
2024年08月27日 イイね!

高遠城址公園へお花見に行ってきました

2024年4月14日日曜日、桜の名所として知られる長野県伊那市高遠町の高遠城址公園へ家族4人でお花見へと行ってきました。

高遠城址は過去にも訪れたことがありますが、お花見シーズンに訪れたのは初めて。9時前にもかかわらず、駐車場は満車となっております。


市街地を通り抜け、高遠の市街地や中央アルプスを眺めながら、山の上にある公園へと坂道を登っていきます。




公園までもう一息ですが、桜がたくさん植えられている一角があり、小休止しつつ桜を眺めます。






ようやく公園に到着。たくさんの屋台が並び、多くの花見客で溢れかえっています。あまりにも人出が多いので、写真を撮るのにも気を遣います(笑)。










最後は公園の南側にある「絵島囲い屋敷」(写真撮り忘れ)を見物して、車へと戻りました。


車へと戻る道中、商店街で目に付いた布団屋さんへと立ち寄り、母や弟が枕などを買い物してました(笑)。


帰り道は中央道に乗らず、国道361号権兵衛トンネルを通り抜けて、国道19号で中津川市へと向かうルートを取りました。

おまけで立ち寄った木曽郡上松町にある小野の滝。落差は15mほどで、中山道の名所の一つとして知られていた滝です。国道19号沿いにあるので、駐車スペースから直接眺めることができます。




この滝、説明板にもあるとおり、直前を中央本線が跨いでいます。1909年(明治42年)のことだそうですが、現代なら「滝の景観を損なう!」とかいって反対運動が起きそうなものですけどね。




最後にもう1枚。
Posted at 2024/08/27 16:22:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2024年07月20日 イイね!

岡崎市切山町の旧挙母街道を歩いてきました

2024年4月7日日曜日、岡崎市切山町の旧挙母街道を歩いてきました。地形図を見る限り、旧街道は現在もほぼ道路として利用されているようなので、今回は「探索」ではなく「散策」というわけです。

さて、岡崎市切山町付近の旧挙母街道は、後身に当たる国道301号と違うルートを通過していました。こちらは戦前発行の旧版地形図です。赤色を付けた道筋が旧挙母街道になります。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。

こちらは現在の地形図。青色を付けた道筋が旧挙母街道になります。国道301号は川を挟んで北側となる豊田市黒坂町内を通過するルートへと変更されています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、現地へとやって来ました。車は国道473号の路肩へと駐車。国道沿いに流れる小川を渡り、古道へと進入します(ここは旧挙母街道ではありません。)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側の山の斜面に石仏が3体立っていました。




1体は光背に年号が刻まれていて、読み取ったところ、おそらく「元治元甲…」だと思われます。元治元年は西暦で言うと、1864年3月27日から1865年5月1日に当たります。干支は「甲子」なので、間違いないでしょう。


そのまま古道を進んでいきます。小川の対岸に見えている道路が国道473号です。


程なくして古道は終了。いったん舗装路へと出ます。


50mほど歩いたところで、左側へと分岐していく小径へと進みます。


この道は、おそらく先ほどの古道の続きだと思われます。


小径から国道301号を眺めます。黄色の線で示した道が旧挙母街道と思われます。まあ、本来のルートとは多少ずれているかもしれませんが。


小径はこの先で民家の庭先へと続く形になっていたため、一旦引き返して、あらためて舗装路を進んでいきます。

引き返した民家の山側を通過して下り坂を進んでいったところ、右側へと分岐していく道筋がありました。山すそに沿うように進んでおり、街道の名残りかもしれないので右側へと進入していきます。


砂利道を進んでいくと右側に常夜灯が立っているのを見つけました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

常夜灯には「秋葉山」と彫られています。これは東海地方ではよく見かける「秋葉山常夜灯」ですね。火伏の神を祀る秋葉山(現在の浜松市天竜区にあります。)への参詣道となる街道沿いに設置されたものです。この砂利道が旧挙母街道であった傍証にはなるでしょう。


「安政〇未十二月…」と彫られているようです(「〇」部分は読み取れませんでした。)。安政年間で未年は安政6年なので、安政6年(1859年)12月に設置されたものでしょう。


常夜灯の先にも砂利道は続いていますが、この先は民家の庭先へと突入しているように見えるので、一旦引き返すことにします。


街道が通過する小さな集落内を歩いていきます。




この小さな集落の内外にも石仏が点在しています。




集落を通り抜けると、ひときわ背の高い杉が現れました。愛知県指定の天然記念物「切山の大スギ」です。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

なかなかの威容(異様とも言えます。)を誇る巨木です。


「切山の大スギ」から集落を振り返ります。この道が街道だった頃は、この巨木の下で休憩を取る通行人や旅人が居たのでしょうね。


大杉から先は川沿いのやや険しい地形を通過していきます。かつては危険な場所だったためか、この場所にも石仏が祀られています。




険しい場所を通り抜けたところで、道路から外れて直進していくU字型の窪みを見つけました。これはもしや…。


このU字型の窪みは街道の堀割り道のようですね。




路肩にはわずかですが土留めのためと思われる石積みもあります。この道跡が旧挙母街道だったのでしょう。


道路から外れて50mほどで国道301号へと合流しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道から振り返っての風景。今回の散策はこれにて終了です。


今回は特に下調べをしていないので、ここ岡崎市切山町付近の旧挙母街道が豊田市黒坂町側へと付け替えられた時期はわかりませんが、理由としては先ほどの山と川に挟まれた急傾斜地を避けたのだろうと思われます。

時期については、早ければ戦前から戦後にかけて自動車通行できるようにルート変更したか、遅くとも国道301号の改良工事で対向二車線化した際のどちらかでしょうね。
Posted at 2024/07/20 22:30:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧挙母街道 | 日記

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何シテル?   08/22 23:09
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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