人間同士の関係では、どうしても必要になることが何らかのコミュニケーションだ。
動物であれば、
・フェロモンのような物質的コミュニケーション
・ダンス行動のような行動的コミュニケーション
・ホタルの明滅信号のような光信号コミュニケーション
・婚姻色のような色彩的コミュニケーション
・鳴き声による音響的コミュニケーション
など様々なものがある。
植物でも物質によるコミュニケーションがある。
ではヒトではどうか。
ヒトは視覚が発達しているため、視覚に関わるコミュニケーションが多い。
表情、目の動き、身振りなどを読み取っている。
しかし、何といっても強いのが言語コミュニケーションであろう。これはヒトが行う非言語コミュニケーションの曖昧性を取り払う強力な機能を持っている。
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日常的な人同士の関係では多くの言語的コミュニケーションがなされている。
家族でも夫婦でも、恋人同士でも、友人同士でも。
ただ、その中で言語コミュニケーションが極端に減ってしまうことがある。
「言葉にしてくれなきゃわかんない」
これはもっともな要求である。
ところが皮肉なことに、その言葉を最も必要としている場面ほど、相手は言葉を失っていることがある。
人間は高度な言語コミュニケーションを持つ。しかし、それはいつでも同じように使えるわけではない。
例えば、
・不安や緊張が高まる時
→言葉を選ぶ能力が落ちる
→説明する能力が落ちる
→修正する能力が落ちる
といったことが起こる。
その結果、
・視線や表情や接近・回避など、より即時的な反応が前面に出る
つまり「言葉が足りないから関係が不安定になる」だけではなく、関係が不安定だから言葉が出なくなることもあるのだ。
我々は言語コミュニケーションを重視するあまり、「ちゃんと話せばいい」とつい言ってしまう。もちろんそれはかなり正しい。言語を用いないことによる誤解を防ぐことは極めて重要だ。
しかし、それを可能にする「安心」そのものが失われている場合があることには注意が必要だ。
この「安心」は単に「この人は信用できると思っている」というだけではない。
この「安心」とは、身体が働き、自分の外部への注意を向ける機能、言語機能がきちんと働ける状態をも含む。
要するに、
・安心とは、ただ心地よいだけのものではなく、コミュニケーションの性能を支える条件でもある。
そういったものがそろってはじめて言語化ができることも多いと考えられる。
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言語によるコミュニケーションはヒトが持つ極めて強力なコミュニケーション手段である。
一方で言語を使うことで、曖昧さを回避することが困難になるという面もある。
例えば
「好き」
とコトバにした瞬間に、すべてが確定してしまう。もう逃げることができない。誤魔化すこともできない。関係性がそこで固定してしまい、さらなる近接か拒絶か、といったことが確定していくことになる。
それを避けたい心理は働きやすい。
だが、曖昧な非言語コミュニケーションで「察して」を要求し続けることで、自分は曖昧な場に安住することができるかもしれないが、相手はいつまでも確定できない関係性に悩み、ついにはその関係を清算することを決断したりもする。
「安心」が言語化の重要な背景であることは多いが、安心できない状況を乗り越えてでも言語化が必要になることがある。
自分が安心して言葉にできるようになるまで待っているうちに、相手の側が安心を失ってしまうこともある。
安心できるから伝えられる。
しかし、伝えることでしか作れない安心もある。
「安心」の供給源が、言語化がなされないことで不安定化していく、離れていくこともまた多い。
人間どうしのコミュニケーションは、結局双方向なのである。
それを理解することで、共に生きる、支え合える関係が成立するのだろうと思う。
Posted at 2026/08/18 08:32:32 | |
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