2010年04月05日
他力本願vs自力実現
< 一応オチはありますが、つまらないかも知れないので、適当に読み飛ばし推奨 >
お断り:他力本願は、元来の意味は仏教用語で、阿弥陀の力による成仏を意味しているのですが、ここでは一般的に使われる「他人の力を頼りにする」という意味合いで使っています。
私は割と地域社会に関わることが多い。マンション内もそうだが、もう少し大きな地域のレベルでも活動してきた。音楽イベントなどもそうだが、地域につくられる公共施設の設立に関与したり、予算不足から導入が不可能だったコンサート用ピアノを導入する旗振り役などをしてきた。自分が願うことは自分から動き、実現してきた。もちろん自分の熱意を理解して協力してくれるたくさんの力があってこそだった。
そんな活動が誤解されたりすることもたびたびだが、自分は純粋にボランティア・持ち出しでやっている。
まあ理解されなくても、仕方がない。疑う方の品性の問題だ。人間というのは面白いもので、自分の行動パターンを他人にも当てはめる傾向がある。売名行為と疑う人は自分が売名行為をよくする人だったり、業者からのリベート目当てと疑う人は、実際に業務の上でリベートを受け取りうる立場(←国家官僚でした)であったりする。
自分の場合は狭い世界に籠もりがちでな単純再生産だけが続く本業に限界を感じ、本業でなかなか得られないさまざまなスキルの獲得や経験の機会、やり甲斐を得ることを大切にしているので、広い意味では自分のための行為ともいえる。
しかし誰かが喜んでくれれば嬉しいという感情だって広い意味では自己利益だ。本当に何の利益もなく他人のために尽くす人は、極めて珍しいし、生いたちの問題で心に抱えている人もいる(親の支配が強かったために自己の幸せのために生きられない人がいるし、自分にもその傾向がある)。
そんな中で出くわすのが、他力本願な人たちだ。これがどうも理解できない。
同じマンションや地域に住みながら、あれが欲しいこれをしてくれと要求するばかりで自分から動こうとしない。多少動いてもちょっと障害にぶつかるとすぐ引っ込み、障害の突破を図ろうとしない。他人を非難して腹いせをするだけだ。そうした人たちは、自分の利益のために他人を利用しようとするし、他人に負担を押しつけようとする。
面白いことに、我が街ベイタウンではかつて、住民参加、自分達で何でもやろうという意識が高く、言い出しっぺが仲間を集め、行政や業者と交渉し何事かを実現していった。これは新しい街に夢を持って集まった人々が多かったためであるともいえる。
しかし、街開きから時間が経つにつれ、そうした気風は廃れ、外の力を当て込むような動きが目立つようになった。まあ、ふつうのマンション街に変貌した。
車で言えば、高額な車を買い、自分でメインテナンスどころか洗車もロクにせず、すべて業者任せで何かあればクレーマーに豹変するような人々の増加と言えばいいか。
こう言うことは新しい街で起こりがちだが、もっと小さな単位ではマンションレベルでよく起こる。
新築当初は自分達が創り上げようとする熱気があり、さまざまな活動に多くの人が参集するが、ある程度時間が経つと自分で動くのではなく、要求したり批判したりするものが目立つようになる。わずかな人だけがやむなく引き続きボランティアで高負担を引き受けて、他の人は利用するばかりと言うことも多い。結局活動が破綻したりもする。
結局は一時の熱気に過ぎないのだと思われる。新しいことに対しては「夢」「熱気」があるがこれは一時のもので、特に生活のことはドラマの中のような刺激がない方がむしろよい。そうして自分達の生活や自己利益をもとめ、労せず益を得ることが中心となっていくものなのだと理解した。苦労して自分で動かなくても得られるものがあればそちらにシフトするのは当然だろう。
一旦こうなってしまうと、よほどの大事件が起こらない限り、ほとんどの人は他力本願であり続けるようだ。少数の人が動いているうちは特に「誰かがやってくれる」と関心すら持たない。自分に不利益があればそんな少数の人を批判する。これでは終いにはだれも負担を引き受けなくなる。そして行政サービスにぶら下がるか、企業のサービスを利用するだけの状況に成り下がる。
そんな街に魅力があるとも思えないが、楽な暮らしは実現しているといえる。成熟社会とはそんな安定な社会でもあるといえるし、それはもはや老人の域と評価されるような状態だ。
人は波乱がなければ自ら動かない物なのだろう。
自分はいつも波乱の中にいて、自分が動かないとどうにもならない状況を沢山経験してきた。何かあれば自分で動くのがもはや習い性になっている。車のブログなのであえて言えば、古くていつ壊れてもおかしくない、しかも極めてまれな車を2台も所有するなど、能動的に何か解決する姿勢がないとほとんど不可能だ。万事にそんな苦労をあえてし続けてしまっている。そうすることで自分が高まることを信じている。
そんな自分には、自分を安全な場に起き、批判ばかりしている人が理解できない。
上手に取り入って地位を手に入れるようなことは姑息としか思われない。
自分の力で得られないものはないも同じという意識がある。
こういう人間だから、苦労ばかり背負い込む。そんな人間がいるから世の中はバランスがとれるという理解もあるかも知れないが、そんな考えはあまりにも受益側に都合のいい解釈だ。
そういえば、ちょっと前にアジア研究をしている人物の講演を聞いたが、「日本は老人、韓国は中年、中国は若者である」と言っていた。日本に活力はあるのだろうか。若者が夢も持たず守りの姿勢しかもてない社会では、縮小再生産しか起きない。生徒たちを見てもますます受験知識を詰め込むことだけをもとめて人間としての幅がますます狭くなっていると感じずにはおれない。
日本が再生するには起爆剤が必要だ。
こういう状況は、煽動者を生む可能性がある。と、よく考えれば劇場型政治家:小泉純一郎がそのものではなかったか。といっても彼は私怨に基づき郵政を破壊しようとしただけだった。同時に外資に巨額の利益を与えたり大企業優遇の結果日本社会に打撃を与えはしたが、戦争に駆り立てるといった類の煽動者ではなかったので、その点は幸いだったといえる。
ただ、他力本願が蔓延する老人様社会になってしまった中では、このまま衰退が続くか、起爆剤になる事件なり人物が登場し再生するか、煽動者に乗せられてさらに打撃を受けるかのどれかしかないのではないかと思う。
しかし、以前ならもっと自分ができることはないかと考えたものだが、今はそんな気持ちが湧いてこない。自分も老人になってしまったのかも知れない。
若い世代に期待したい……と言いたくなってしまうのは他力本願そのものか。
いつの間にか自分に忍び寄っている他力本願。最近の運勢的な谷が精神的老化の原因なのか、自分の精神的老化が谷を深めているのか。
ともかくも自分にとっては、まず自力実現の気持ちを取り戻すことが急務だと気づいた。何とか打開しなくてはならない。
そうだ、117クーペを買おう。あれなら苦労すること請け合いである。
(すみません、こんなオチでいいでしょうか?)
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Posted at
2010/04/05 01:18:04
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