2015年03月30日
地域はとても難しい世界
地元の音楽ホールは、行政上は公民館の扱いで、設備は公民館のそれを遙かに超えるにもかかわらず、市が管理費用を特につけず、音楽ホールとしての運用もしてこなかったので、事実上もかなり単なる公民館講堂になってしまっている。設備の維持管理にかなり問題を生じており、照明の電球交換予算すらない状態。
千葉市の財政が厳しいことはあるが、それ以前に市が県から受け取った音楽ホールをあえてその特性を無視して運用してきたことが大きい。安全点検が必要な吊りものや昇降舞台、可動舞台類は全く点検を行っておらず、専任技術者どころか職員が指導も立ち会いもせず一般市民に貸し出すので、壊されたりすることもある。そもそも素人に扱わせる設備でなく危険。まずあり得ない運用管理体制だ。
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このホールについて、意識の高い、設立から関わった住民らは、何とか住民運営にして運用の改善を図りたいと考えてきた。
そんな折、千葉市長の発案で予算や人事を含め運営権の多くを住民に渡して地域管理をしようという話が進みかけていたが、実務担当部署は内容を大きく変えてしまい、極めて低予算で講座企画運営や窓口対応などの一部を住民に委託する(事実上住民を低予算で利用する、住民運営とはほど遠い形)しくみを導入しようとしている。
この市の提案は、導入にかなり困難があり、住民独自で低廉な人件費で動く人を確保しなければならず、確保できたとしても公民館の運営自体には大きく関わることは難しい。
この案についてようやく公にされたので広く住民で検討しようと言うところに来ていたはずなのだが……極めて妙な話になってしまっている。
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とある人物は、個人的に講座の企画運営を担いたいと考えていて、この市の提案を無視して自分と関係がある公民館サークルの関係者などをあつめて多数を形成し、独自に講座企画や運営の問題を考え市と交渉していくとしている。勝手連とでも呼ぼうか。
一方、街が県から市に移管されたことによる諸問題を解決することを志向している街づくりグループ(行政との話し合いを続けてきた、行政から地域の代表性を認められている団体)は、駐車場や公共施設などの管理委託を受けて、そこで生じた利益を街づくりに還元しようとしている。彼らは実際の利用者の声を反映させながらも街づくりの目的のために利益を上げることを重視している。街づくり派とでも呼ぼうか。
更に、音楽ホールを設立した当初の理想を可能な限り守り、単なる公民館ではなく、音楽ホールとしての施設の維持管理や運営を模索するものもいる。音楽ホール派とでも呼ぼうか。
この3者がそれぞれの思惑の違いもあって対立しつつある。街づくり派と音楽ホール派には対立点はないが、勝手連と他には対立点がある。また、どこも実現性に高いハードルがある。
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勝手連は内輪だけで何をやっても、市が受け入れない限り結果を出せない。そもそも自主的ではなく呼びかけられ集められたサークル代表なので、それぞれの思うところはかなり違い、主体的に関わりたいと思う人はごく少数。その中で義務を課せられてもついて行けず、自動的に崩壊していく気配が濃厚。サークル活動に支障を与えられかねないような圧力をかけられれば参加はするかも知れないが、意識の乖離はより大きくなり不満のあるものになるだろう。
また、サークル優位の集まりだと、結局どこにでもある様な、閉鎖的で外部には何をやっているのか分からない公民館という方向が強くなりそうだ。
そもそも住民が勝手連をつくって何かをやるのはこの街のあり方で、これを今まで通りやるだけなら、何も変わらない話。そこに個人的な思惑で市の予算を取って市民大学講座を入れ込もうとしてもなかなかね……。やりたい人が多数いるならともかく。それこそそういう人が集まって勝手連をつくって活動すればいい話。
街づくり派は、実利用者であるサークルと協調しないと成り立たないけれど、勝手連の中心人物は街づくり派への反発感が強いし、街づくり派の感心は公民館の運営にはないので、特にサークルユーザーとの意識のズレが大きい。行政からの業務委託がないなら全く関わる余地のないグループでもある。
音楽ホール派は、音楽ホールとして広く人々が利用するものにしたいというその理想を求めていくと、かぎられた空間の取り合いになり、確実にサークルユーザーとぶつかってしまう宿命がある。公民館の運営が当初の音楽ホール重視のイベント中心主義から、汎用的な公民館運営・サークル重視にシフトして長い時間が過ぎた流れに逆らうことはもはや困難。ホール設立当初目指していたような運営を支える組織作りも今となっては難しいし、文化施設は金銭的な支えを自治体がやらない限り運営は不可能だが市にはその意思が全くないのでそもそも成立しない可能性が高い。市が公民館施設を他のカテゴリーの施設に転換することを認める可能性はほぼない。
意識の高い住民が主導権を握らない限り、公民館は一部の人たち(公民館のユーザーは、住民に占める割合としてはかなり少ない)だけがつかう閉鎖的な方向にしか行かなさそう。そうなると、市がお荷物と考えている音楽ホール設備は、サークルユーザーからも過剰設備としてしか捉えられず、適切な維持管理は遠のくばかり。設備は壊れても更新されず、公民館講堂としての最低限の設備の維持だけに向かってしまいそう。ホールとしての機能と価値は目減りする一方。
基本的に多数派が主導を握るであろうから、実際の多数派の意識が高くない限り通常のサークル主体の運営から変化しそうにない。
日本でもレアな、住民が大きく関与して実現された公共施設だが、公民館となりその意をくまない運営がなされた結果、かなり残念なことになりそうだ。
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まあいろいろあって書くのをためらわれるけれど。
今までいろんなケースを見てきたけれど、この地域以外も含めて、地域の問題は地域の人間関係が大きく影響し、住民間のパワーバランスの問題に帰着してしまうこともある。地域のボスみたいな存在が問題を起こしてしまう例もあった。
既存のボスが他の人が力を持たないように工作するみたいなこともありがちだし。
更に、穏健派が多い地域では、地域内でなるべく問題を起こしたくないという圧力も働くので、ジャッジを避け、結果やったモン勝ちになる例も見てきた。
高い理想を失い狭い範囲しか見なくなった地域活動は、過去の実績を利用するだけで実態は自分たちの利益を追い求めるみたいなものになってしまいかねず、そうなると正論が通じなくなって手に負えなくなる。
人間って結局はそういうところに落ち着いていくのだなあと思うばかり(ため息)
都市計画的な視点で理想の街づくりを追い求め住民参加の気風を人工的につくっても、行政がそれをバックアップするどころか壊していくようでは、継続は難しい。
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個人的には、行政が住民に行政機能の何かを任せるなら、きっちり行政がお金を出して意識の高い人間を雇用し、身分保障をしながらやらせるべきだろうと思っている。
そうでないと、結局時間やお金のあるシニア中心のあり方・やり方になってしまうし、対価がなければ人的新陳代謝がおこりにくくなり継続性が低くなる。また、主婦層を中心として、単に労働力を提供させられるものになりかねない。
更に、たまたま参加できた個人に依存し、継続的なしくみができなくなってしまう。有能な人は他で力を発揮するので、地域には関わらない。
今の行政は、働かない公務員の雇用はがっちり守ったまま、公務員を充分働かせられず、その分お金を出さずに地域の人的資源を都合よく利用しようという流れ。
住民と言っても有能な人はいそがしいし、お金に余裕のある人は地域や行政に関わる動機があまりない。
意識が高くても生活ができなければそんなことには関われるわけもない。
地方公務員は基本的に意識が低いことが多い。役所内の有能な人は組織防衛や利権確保の方向に向かいがちだし、それに反する人は有能でも評価されにくい。
高い意識を持つ優れた人材を地方行政が使役できる可能性は構造的に低いように思われる。
選挙でトップが変わることである程度構造を変えることはできるが、抵抗も大きいしね。
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Posted at
2015/03/30 13:50:02
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