物理の公式も、もちろん数学的に交換可能であって入れ替えても表す意味は変わらないことが多い。
人間の認識や扱いやすさの都合で一定の順で表す公式を決めているに過ぎない。数学の公式も日本人がある程度共有している順序があるはず。文字はアルファベット順にすることが多いとか、変数はx、y、zをつかうとか,人間らしいルールが見えるはずだ。
数学的には全く意味が無いルールであるのは言うまでもない。定数なり変数なりは区別さえつけばいいし、順序も問わない。どんな形に変形してあっても数学的には意味は同じ。
それでも普通はシンプルでルールに沿い、扱いやすい形を公式として扱う。
人間にとって扱いやすいと言うことにすぎないが、人間だから扱いやすくしたいということがまたある。
そんな事実は無いと主張するなら、現在日本で出版されている教科書や書籍、論文等において、二次方程式の解の公式のバリエーションを示して欲しい。
ほとんどの場合、使う文字も順番も分数の形になっていることも同じで、おまけに2つの式を合体した形で表すことも共通していることだろう。本来数学的には多様な形にできるはずにもかかわらず。
だいたい文字そのものも演算子も、人間が了解しやすくするために作ったもの。数学の概念そのものとはかけらも関係のない記号に過ぎない。われわれが10進数を使うのも、単にわれわれの手の指が10本だったと言うことに過ぎない。
掛け算の概念と記号の「×」は本来関係ないものだが、人間の都合でひも付けしたにすぎない。
概念を人間の認識できる形の中に置く営みがあって今がある。
数学概念を人間独特の認識を経ずに獲得した者は神をのぞいていないだろう。
(もっとも旧約聖書においては人間は神を真似て作ったことになっているので、神も人間のような認識手段をとっているのかもしれないが)
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算数教育は、子供たちが新たな概念を発見し拡張させていくことを手助けすることを目指しているはずだ。最初からすべての概念を発見することはできない。自分の理解を徐々に広げていく。
子どもによってペースが違っても段階を踏んでいくのは当然のことだろう。何も算数に限った話ではない。
子供たちは多くのことを経験することで徐々にこの広い世界を「発見」していくのだ。
一部の人たちは子供たちがはじめて掛け算の概念を学ぶ段階から交換可能であることを扱えと主張しているのかも知れないけれど、それがどうやったら可能になるのかを提案しているのだろうか。
変えるか変えないかが問題だった安保法制と違い、これは今のものがダメというなら代替案でよりよい方法を競うべきケース。さまざまなことを考慮して成り立っている(それで算数の概念を身につけ、国際的にも高い成績を収めてきた)現在の算数教育をただ否定するだけではどうしようもない。
よりよい方法があるのであればそれを提案すべき。
はじめて掛け算を学ぶ段階で、
・単に手続きを覚えさせるのではなく、掛け算の概念を身につけさせる。
・交換法則を最初からとり入れる。
・日本語の文章で多数の数字が入っているものから正確に計算に必要な数値を抜き出して立式するところまでいけることが必須。
ぜひこれらを満たす方法を提案してもらいたいものだ。
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ネットで話題になったのは、特に順序に関する取り決めがないと思われる問題で、掛け算の数字を入れ替えたら×にされたケースであったように思う。本当にそうだったのかどうかは分からないが、そう思える情報だからこそ反発が大きかったようだ。
だが、文章などから「かけられる量×かける量」といった一定の順序で式を組み立てる初歩のトレーニング自体を否定している人がどれぐらいいるのだろう。
おそらく日本人のほとんどがこのやり方で掛け算を学び、掛け算の概念を習得してきた。そこになにか数学上の概念を獲得を失敗させてきたという実績でもあるのだろうか。
掛け算に順序はないから算数教育で順序を教えてはならないという声が聞こえるのだが、そこでは
数学の概念の獲得に成功している者が、獲得最中のものに最初から全能を要求しているような気がするのだが、気のせいだろうか。
実際の現場の指導でどこまで可能かは分からないが、個別の概念の獲得状況に合わせてどんどん先に進んでも構わない。もしそれを否定する教育が行われていると言うことがあれば(現場で算数教育を理解しないまま指導してい教員がいないとも限らない)、その教員の問題ではないかと思う。
算数教育の歴史の中で、掛け算順序問題は長く議論されてきた。今に始まった問題ではない。
おそらく、単に手続きを覚えさせることでも掛け算の操作自体は習得できる。これは当然交換法則込みでできる。掛け算の九九を覚えること自体は実際ほとんどの子ができるのと同様にだ。
しかし、初学者が数字の操作手続きを記憶することと、掛け算の概念を獲得できるかどうかは話が別だろう。概念の獲得をうまくやれるかどうかがカギになる。
暗算の達人が高度な数学を扱えるとは限らないのと似た話だ。暗算は手続きそのものであって、数学の概念とは関係なく身につけられる。
単なる手続きの暗記ではない、いい方法を提案して欲しいものだ。
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個人的には面積の取り扱いは掛け算の概念を作る上でやりやすそうなのだけれど、掛け算では面積だけではなく個別の物体も取り扱えなければいけない。現実の取り扱いはほとんどがこちらだからだ。
何個の何倍という取り扱いができないと、現実の掛け算の取り扱いに差し支えるだろう。
小学生が極めて早い段階で60進法を学ぶのと同じく、発達の状態だけでなく現実の要請もあり、なにを優先して学ぶかを考える必要もある。
要は、子供たちがいる現実世界に、どうやって数学の概念を取り入れていくかという話であって、最初から現実と関係のなく論理だけを学ばせることはかなり困難だという話だ。
算数教育において、日本語での語順に沿った立式も含め、現実を無視して概念獲得できるというのなら、是非そう言う教授法を開発し実践して欲しいものだ。
人間が数字や文字、演算子、グラフなど人間に理解しやすい形にするツールを用いて数学概念をとらえている以上、数学概念だけですべてを取り扱うことは不可能だ。
人間に分かりやすい形で数学概念をとらえていくステップをどう考えたらいいか、数学概念万能と思っている人たちが自分たちも人間特有の認識法を通じて数学概念を獲得し、今も利用していることに気付けば、少しは考えやすくなるのではないだろうか。
もし人間を超越することができれば文字もグラフも使わずに数学概念だけですべてを処理できるかも知れない。そう言う存在になればもはや算数教育に介入しようなどと考えることはなくなるだろう。
美しい論理だけの世界を堪能する存在になるのだろう。
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一部では、日本語の語順は入れ替え可能だから一定の式に当てはめさせるのはおかしいという主張をしている人もいるようだけれど、【公式】にあてはめるという操作に該当するということで了解できないのだろうか。
仮に一つの語順に沿った順序を決めて立式すると。これが公式に相当する。
その公式は【何個のもの】を【何倍する】という順序で扱う。
実際のものの操作や日本語の文章の中から、それぞれにあてはまるものを選び出せば公式への当てはめが完成する。
そう言う作業から、掛け算の「何倍」という概念の具体的操作を身につけていく。
一つの順序を仮に決めるという前提なら日本語の語順が入れ替え可能だと言うことは全く関係がない。もちろん英語の語順に沿うことも可能だが、そうする必然性は全くない。
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現実は数学のように一定順序で取り扱う慣習はないと主張しているようだけれど、現実の「現実」はある程度順序を決めて取り扱いやすいやり方で扱っていることが多い。
領収書の明細などのように、会計の世界で一般的に慣れ親しんだ順序は確かに存在するし、物を買うときにお金のことを考えれば、1個100円のチョコレートを2つ買うと考えるのが普通だろう。
思考言語のシンプルな形で考えるのが普通だろう。
仮にいつも入れ替えた形で思考しているとすればそれはその人にとっての決まった語順だ。
件の数学者はランダムであるという主張のようだから、語順も一定していないと証明する必要がある。
もし現実世界では一定の順序で計算することがないと主張するのであれば、まずは事例を多く集めることから出発すべきだろう。
きちんとデータとして積み上げて、そこから傾向の有無を言うべきだ。
数学概念では交換可能であるからと言って、勝手に現実世界に計算順序が存在しないなどと決めつけることは許されない。
少なくとも私は会計関係では明確に順序が決まっていることを大手文具会社の製品や大手会計ソフト、領収書サービス、行政のフォーマットから示して見せた。レシートが一見ばらばらに見えても、スペースの節約のために必要でない情報を印字しないだけで、一般的な領収書明細フォーマットに沿っていることを示した。
きちんとデータで示さなければ単なる思いこみに過ぎない。
ましてや自分で証明をしていないことを思いこみと指摘され、証拠もなく事実で無いと決めつけ謝罪を要求するなどもってのほかである。さらには証拠を見せられても知らん顔とは。
店頭でたまに見かける
「1個400円、3個で1000円でお得!」
みたいなポップも、ごく素直な計算順序に沿っている。1個400円が3個で1200円と計算させて、それより安いことを了解させ、お値打ち感を感じさせている。
これに反するような事例をどれだけ集められるのか、是非やってみて欲しい。
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反原発の人たちが、陰謀論や科学的根拠のない思いこみをまき散らしていたけれど(震度とマグニチュードの区別もつかない作家が、ある場所での震度が別の地震より小さかったから東日本太平洋沖地震のマグニチュードが9.0などあり得ないという主張をしていたりもした)、そうしたものを見て、根拠がいかに大切かが多くの人が理解しているはずだ。
何か一定の主張をするのであれば、人を納得させられるだけのデータが必要。
サイエンスの人たちは常にこれを一生懸命やって来た。
早野先生達の福島での仕事は、まさにデータで証明する仕事だ。
もちろん、影響がなかったことを証明するためではなく、影響があったかなかったかという客観的なデータをとることこそが目的だ。最初から何らかのバイアスに基づいていたらサイエンスの客観性が失われる。
そうしたものものなく、「現実には順序のある計算はない」という証明していない仮構を前提にして人をより分け(この時点で算数教育の人間はシャットアウトだろう)、その特定の価値観を持つ人間だけで議論をしても最初から極端な話にしかならないのは目に見えている。
最初から同じ価値観の人間だけを集め、他の価値観を矮小化し排除しているので、自分たちと違う主張を理解する気がないようにしか見えない。
STAP細胞はあります、の世界そのものだろう。
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この件はこれ以上扱わないつもりだ。どう扱っても算数教育ではない話になってしまう。
所詮無名の人間の個人的な落書きなので、内容が自分の考えとあわなかったとしても適当に受け流して欲しい。
関連エントリー
https://minkara.carview.co.jp/userid/441462/blog/37256089/
追記:
最近の算数掛け算順序問題には、明らかに2種のとらえ方があるらしい。
一つは、最近ネットで話題になった、「立式順が指定されていないにもかかわらず、掛け算の数値を入れ替えたら×にされた」という、正解を間違いとして扱われることへの怒り。
二つ目は、一つめをきっかけにし、そもそも算数教育が掛け算に順序があるものとして取り扱うこと自体がおかしいと主張するもの。
一つ目については、算数指導を理解していない現場の教員の問題か、そもそも立式順が指定されているにも関わらず従っていないために×にされたことを一面的に伝えたための誤解である可能性がある。
二つ目については、古くからの掛け算順序問題と独立して発生し、少し前からある、現実の掛け算の取り扱いには順序はない、日本語は語順の入れ替え可能なので一つの形に立式するのはおかしい等と主張に同調している様子がある。しかし、そもそもの前提に疑問があり、大きな勢力になっているわけではなさそうだ。ネットでの声はでかいか現実世界には実効性がないらしい。
この二つは同一視されやすいが、明確に区別した方が良さそうだ。
一つ目は状況が明確になれば比較的容易に解決するだろう。
二つ目は算数教育における「仮に一つの形で立式するトレーニング」そのものを否定しているように見え、従来の掛け算順序問題(出題に解釈の余地があるから順番は一定にならない)とも主張が異なるようにも見える。仮構を前提としていることからもまともな議論になりそうもなく、そのサイドからは飽きるまで攻撃が続きそうだ(ただしネットで。だから何の実効性もない)。
追記:
算数掛け算問題の関連エントリーの中で紹介させて頂いたわさっきさんから、記事に対する突っ込みや補足等々を頂いたので、本件に関心をお持ちの方は是非ご覧頂きたい。
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20160201/1454277814