2016年11月24日
今どきの掛け算順序問題
昔からある掛け算順序問題と違う、「数学的に掛け算には順番はないのに、算数教育では順番を強制している」と騒いでいる人たちがいる。ごく最近の話。
彼らには「算数教育では数学的に正しくない教育をやっている」という大前提があり、すべてこの前提で語られている。
まるで悪意があるが如く、何らかの陰謀があるが如く、算数教育を語る。ネットをその場にしている。
考え方の違う人間を罵倒したり嘲笑する。自分の主観で相手を見下げている。言動がネトウヨなどに非常によく似ている。
一方、彼らは、例え一瞬でも掛け算に順番を扱ってはならないと思っているらしい。
彼らは「掛け算に順番はない」という誰も反論できない数学上のことを本尊とし、現実世界では人間の認知や利便性の元に一定の順番を採用している事実を「異端の行い」として宗教裁判にかけたがっている。
数学も含め人間社会では人間の認知や利便性が優先していることを無視している。彼らはほとんど数学教カルトである。
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一方の現実にも、いくつかの問題がある。ここに彼らの乱暴な主張が広まりやすい原因がある。
実際の算数教育には陰謀も悪意もない。
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文科省は順番を強制していない。
教科書にも指導書にも強制はない。そもそもどちらにも指導方法についての強制力がない。
指導書を当てにするのは、せいぜい若くて経験のない教員だ。多くの教員では、指導書を見ることはほとんどない。
指導書は指導方法の参考書であり、幼い児童が掛け算を学ぶ上でより扱いやすいであろうという指導方法を例示している。ここで仮に古くからある日本語の順番に沿って考える方法を紹介している。
もちろんそこには強制などあり得ないし、掛け算に順序を定義などしていない。あくまで日本語すらおぼつかない児童が、文章から立式をするという難題を、取り組みやすくする手段として扱っているに過ぎない。
現在は小学校2年生で掛け算を導入し、掛け算という計算方法を、身近な事例に当てはめて扱えるようにトレーニングする。その2年生のうちに交換法則を扱うので、考えやすくするために扱った仮の順番は、あくまで仮のものでしかないことまで確認することになる。
古くからある掛け算順序問題は、文章題を式にしたとき、教師が想定している考え方と異なる考え方で立式している生徒がいるのではないか、と言う問題。だから、本人が掛け算を立式したとき、教師が想定している順番と違う順番を立式したとき、その順番にした理由が説明できるかどうかということを重視する。
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しかし、いくつかの問題がある。
一つは評価の問題。
日本の教育では「指導→指導効果の評価」を重視する。指導をしたらその指導の定着度合いを評価テストで確認することを重視する。
教材会社が作る評価テストが、指導書の指導方法を過剰に忖度して順番を評価ポイントに設定してしまっているものがあるらしい。
算数教育を十分理解していない教員がこの評価テストを盲信してしまい、一定の順でないものをことごとく×にしてしまうと言うことが起きている可能性がある。もちろん、これは古くからある掛け算順序問題であって、そのような評価方法には問題があることは当然意識されてきた。
指導とその評価という立場だけで見れば、指導した順番に沿わない順で答えているから×、というのもあり得る立場ではあるが、内容的には算数教育の考え方に沿わない評価である。
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同様な問題は、教材業者や通信教育会社等がつくる問題や参考書類で大きくなる傾向があるらしい。指導書の方法を絶対視して、それを学校の勉強を身につけるハウツーとして強調してしまうらしい。こんなものは算数教育でも何でも無い。
彼らの仕事は数学教育ではなく学校の指導に合わせたつもりの教材作成なので、こういうおかしなことが起こりやすい。
単純に数学の原理原則だけをあつかう一部の業者は、そもそも指導書と無関係に問題を作るので、こういうした問題は起こりにくい。
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一部の塾などでも同じ問題があるらしい。
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更に、何らかの理由で、掛け算では伝統的に順を決めて扱ってきていると主張するひとが存在する。
残念ながら、それは数学とは言いがたいローカルルールに過ぎない。
算数教育に関わる人たちの一部に、過剰に分類とルール化をしてしまっている人がいるようだが、どの業界でもそうであるように、一部に過ぎない。
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結局のところ、本来の算数教育には掛け算順序を強制したり、順序を定義して固定するような考え方は無い。
あくまで、導入時に仮に設定して、困難な課題である立式の助けにしているに過ぎない。交換法則があることを扱うので、それもまもなく仮のものに過ぎないことが分かるようになっている。
ただし、指導書などで順番を整理して統一すると児童が取り扱いやすいことが触れられていることがあり、薦めていることがある。もちろん、扱いやすさの上であって交換可能なことは大前提である。
こうしたものを「順番を強制している」ととり挙げていることがある。勘違いもいいところである。悪意すら感じる。
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指導書の仮の順番による指導を絶対的な順番であるかのような印象を持たせ、強制力のあるものであるかのように取り上げる。
評価テスト、塾や教材会社の製作物をあたかも算数教育の問題として取り上げる。
個人が頑なに順番があると信じてしまっているケースをあたかも算数教育の問題として取り上げる。
学校教育とは関係のない人たちの主張を算数教育の問題として取り上げる。
こうしたことが非常に多く見られ、あたかも小学校の算数教育が掛け算の順番を強制するものであるかのような印象がネット上で形作られているらしい。
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掛け算を取り扱うときに、一切順番を採用してはならないと主張する人たちがいるが、では導入時にどのように扱えばよいと考えているのかは不明だ。
たとえば公式は仮の順番を示しているが、それを示すことにも拒否感を示す人がいる。では順序を仮に決めずに様々な形で示すことによってなにか利点があるのであろうか。
掛け算には順序はないという極めてシンプルなことを過剰なまでに重視し、我々が交換可能なことを前提として取り扱っている順番を一切否定するやり方は、異様だ。さらにはそれらを強制と宣伝することは理解ができない。一般的に流通しているフォーマットがあるのにその事実を無視して一般的な順番など存在しないと主張するに至っては唖然とするよりほかない。
レシートなど、ほとんどのものが領収書のフォーマットに準じていて、わずかにそれと逆を採用しているものがある。しかし、それをすべてばらばらであるかのように示すのは、明らかに作為がある。
領収書にフォーマットがあることを指摘されると行政が悪いと言い放ち、フォーマットがあることを無視するなど言語道断である。
順番はどんな場合でも仮のものであることは、小学校の段階で学ぶ。
交換ができるということが了解されているからこそ、公式等を一定の形で扱っている。
人間の認知上扱いやすい形、慣れ親しんだ形などがある。そうしたものが実際に広く使われているが、交換可能なのは大前提である。
これを無視して、あたかも順序が強制されているかのように取り上げるのは、単なるミスリードに過ぎない。
一部のものが自信満々で語っているが、証拠とするものの中には主観的なバイアスが見られる。
指導書が一般には入手困難であることを、あたかも秘密の陰謀のように語ることすらある。しかし、指導書が絶対的強制力など全く持たない単なる参考書である上に、一般の人であっても購入できる取次書店もあるし、全国に数多あるものが全くアクセス不可能と言うことはない。指導書は高価なので、そもそも学校でも購入しないこともある。
しかしあたかもそれらが証明された事実のように示されるので、算数教育が順序を強制するものであるかのような印象がネットを通じて広まりつつある段階であるかのように見える。
内容があまりにシンプルで誰もが知っている掛け算の交換法則だけに、おかしなことが起きていると証拠を見せられれば多くの人が驚くし、攻撃がおこりやすいことがあるだろう。
しかし、ミスリードがある可能性は常に意識しておいた方がいい。実際に主観に基づいた主張を行うものがいるのだから。
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以上についての、コメント等はお受けしておりません。内容についても間違いを含む可能性があり、ご自分でご確認の上ご自分の責任において取り扱い下さい。
私本人の主張は、「ミスリードがある可能性は常に意識しておいた方がいい。実際に主観に基づいた主張を行うものがいるのだから。」にポイントがあります。情報リテラシーの観点からの警告です。
追記:
順番を仮に決めて立式を練習している中でそれに沿わないものがあれば、それは×がついてもやむを得ない。しかしその前後を切り取ってあたかも小学校で順番を強制しているかのように見せているケースがある。
前提条件がある限り、立式の順は拘束を受ける。前提条件が一切無ければ自由である。
追記:
子供の自由な発想を重視すべきなのは言うまでもない。
順番が指導と違うからと×にされたという話がネットで支持されやすいが、それと順番は一切あってはならないとする一部の主張は似て見えて微妙に異なるので注意が必要。
追記:
児童生徒の考え方を教師が認めない、と問題にするケースが多いが、個人的にはそんなことは多く経験してきたし、自分の中の結論としては学校は学校、自分は自分であった。評価されようがされまいが関係がない。学校外で遙かに進んだ研究を行ったり自学していた自分には、学校で扱うことはどうでもよかった。もちろん誰もがそう言う考え方をできるわけでもないが。
追記:
研究者まで扇動されているのは情けない。掛け算に順番はなく強制してはいけないのは間違いないのだけれど、それを小学校の算数教育がやっていると言う認識はまさに扇動による。
追記:
一部では、指導と違う順で答えたら×をされたという問題があり、それは大きな問題であるわけだけど、それを「いかなる場面で順番を扱ってはならない」と主張している連中は利用している。異なる問題と切り離さないと、政治権力が関わってきたりして変な圧力をかけられて現場が指導困難になるなど、極めておかしなことが起こりかねない。「いかなる場面でも順番を扱ってはならない」という主張は現実を無視した害悪でしかない。
追記:
世の中のヒトは、指導書を絶対視しているようだが、上でも述べている通り、単なる参考である。全く指導書なんか見ないことも多いし、自分の経験でも参考にしたのは小学校の教育実習ぐらいだ。中高に至っては、プリント用の図とかのデータ類を多少使ったことがある程度だ。
ベテランはまず見ない。内容的にもそれほど参考にできるものがないことが多い。考え方が違うと感じるものもある。
指導書に左右されるのは、経験の少ない人に限られそうだ。
出版社や教材会社は学習指導要領準拠、○○出版教科書準拠にしなければならないので、指導書を絶対的に考えざるを得ないという問題がある。
指導書を教員が従うべき絶対の基準の思い込んで攻撃している人たちは、思いこみを捨てた方がいい。
追記:
掛け算を問題としていろいろとデータを提示しているものの中に、かなり主観や思いこみによるものが見られる。意図的かどうかは不明だが、およそ自然科学の客観性とは別物の価値観が明確に見られるものがあることに注意。
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Posted at
2016/11/24 19:31:18
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