今頃になってようやくTVシリーズの完結編となる『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza』を観た。
相当説明を加えないと観たことがない人には理解不能かと思うが、説明はなるべく抜きに。
うまくメンタルモデルの心の成長や恐怖、揺れる想いを描けていたし、ピンチに次々とかつての敵が仲間となって現れる王道展開もぐっと来るものがあるし、メンタルモデル イオナが実は沈められたヤマトのユニオンコアを受け取ったが故に生成できた存在で、ヤマトの復活と同時に存在が消滅するというもの悲しい設定にも感じるものがあった。
まあ、細かいところは置いておいて。非常に面白い良作だったと思う。全くと言っていいほど3Dさを感じさせない3Dアニメーションの出来も秀逸。
結局のところ、ラストでイオナは復活しているのかいないのか分からない曖昧な終わり方で余韻をもたそうという演出が、個人的には不満というか、自分も受け手の解釈に任せるということはよくやって来たけど、引っかかってしまう。
復活と解釈している人がネット上で見る限り多いようだけど。
もともと【サブマリン707】という古い漫画の影響で潜水艦が好きで、イ-400は潜水空母として気に入っていただけに、本作ではイ-401が重要な役割を演じていて、それだけでも結構楽しめた。
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ここからは実につまらない考察。
■ メンタルモデルと人間に恋愛が成立するのか
そんなことに引っかかった人もいるのかも知れない。
メンタルモデルというのは、演算と言うところから見ると高度なコンピューターのようなものによって作られた人間に似せたインターフェースらしい。
そもそもメンタルモデルを作り出した『霧』と呼ばれる存在は、突如地球上に現れた、出自不明の高度な演算システムによってコントロールを行う艦隊で、そもそも生命ではないらしい。意思や感情は存在するようだが、全く謎の存在。
その演算システムが作り出したメンタルモデルの一つがイオナ。当初は機械的な冷たい印象であったが、徐々に人間的な感情を獲得していき、兄弟が消滅する悲しみ自身が消滅する恐怖などを味わう。
そして、明らかに描写されているのが群像への思慕の念だ。それを象徴するのがカメオを買ってもらうときのやり取りから、その後のカメオの扱いだ。
群像に執着するのはイオナだけではなく、タカオも同様だ。
この作中では、霧のメンタルモデルはどんどん人間のようなものへと変わっている。高度な学習が行われていると言うことなのだろうし、そういう柔軟性を最初から持っていたのだろう。
人間の方は、二次元どころか文字情報にすら恋愛感情を抱けるので問題ない。恋愛感情とは、外部情報に対して脳が作り出す幻影に過ぎない。
対メンタルモデルでも、人間としか見えない実体があり、可愛らしく、共に多くの困難を乗り越え一緒に過ごしてきたイオナに対して群像が感情を抱いてもなんの不自然さもない。群像の想いは、イオナが消滅するシーンの、普段の冷静さを全く欠いた群像の描写によく現されている。
結局機械の演算たるイオナの想いが本物かどうかと言う話になってしまうが、人間の恋愛感情だって繁殖行動をとらせるために脳が作り出すイリュージョンであることを考えれば、何が本物と言えるのか分からなくなる。
繁殖が伴うかどうかで言えば、人間とメンタルモデルではかなり困難がありそうだ。だが、繁殖可能性がなくても人間間では恋愛は成立しているので、その定義には無理がある。
ただ、普通は恋愛と繁殖はもともとセットなので、男性の恋愛対象が実はニューハーフだったとかと言うことになると大変な事になるし、結婚してみて、遺伝的に完全な女性でも不妊の人とか、精巣性女性化症とか、ターナー症とかの外見は女性だが妊娠不能な人なんかでも離婚に至ることはままあるようだ。職場に男性が元男性の女性を受け入れにくい傾向の背景には、おそらく繁殖不可能な女性のイミテーション、という繁殖対象にならないまぎらわしい存在への拒否感があろう。
恋愛が双方の想いによって成立するというのは、少なくとも人間の脳が相手が自分を受け入れていると感じさせることが起こればよく、メンタルモデルがその点で不自然さのない対応ができれば成立するはずだ。メンタルモデルの中でどのようなプログラムが働いていようが、入力に対してそれらしい出力があれば問題ない。
かなり高度に人間の感情を模すことができているメンタルモデルと人間なら、恋愛自体は全く問題なさそうだ、
本人が相手が人間ではないことに不満を感じれば、それで終わりかねないものではあるが、恋愛感情なんてものは人間相手でも、その程度に脆弱なものでしかない。
■ イオナのカメオ問題
イオナが復活しているかどうかにつながる重要な問題。
群像に買ってもらった、イオナが大切に身につけてきたカメオが、イオナの消滅シーンで大きく映され、消滅と共に落下している。

↑消滅していくイオナの一方ではっきりと残っているカメオ

↑大写しになる3Dのカメオ

↑横からのカメラに切り替わり、消えゆくまさにその時、カメオが下に落ちていく(静止画だと分かりにくい)
そのカメオが、なぜか群像の両親の墓標がある横須賀の慰霊墓地の、墓標の下に落ちている。消滅したはずのイオナがここに来たということを匂わせているわけだけど。

↑墓標の草地に落ちているカメオ。これは手描きかな。
イオナがその場にいるのなら、大切なカメオを身につけてないとおかしい(下に落としているなんて、運ぶことで精一杯と言うこと? まるで幽霊だ)。
自分がいることを気付かせるにしても、下に落としておくのは変。汚れるし、下手すりゃ踏まれて壊される。だいたい、イオナの性格からしてまず声をかけそうなものだ。「ぐんぞー」って。
細かいことを言うと、ヤマトの主砲の砲身の先端から下に落下したカメオが無事なわけがない。カメオは貝殻とか大理石で作るので脆い。無事なら誰がどうやって回収したのか謎。
ただ、絵を見る限り同一のように見えるので、誰かか何かが回収したのだろう。401クルーが回収したものをいたずらで置いておくなんて悪趣味なことをするとは考えがたい。イオナ自身が落としたものを慌てて回収したぐらいしかなさそう。そうなると、イオナは実は消滅したわけではなかったとかになるが、じゃあ何故消えて見せたのか分からない。
要するに、考えるだけ無駄というやつだという結論になる。
カメオ自体が群像の脳が作り出した幻に過ぎないのかも知れないし、それが一番物理的に無理がない。
幻の根拠は下にも求められる。
墓参りのシーンは夕方で、群像の背中側に太陽がある。

カメオは群像の視線から、群像と墓標の間に落ちていたとみるのが自然だが、カメオのアップシーンではカメオの影が見えないので光はカメオの正面から差していて夕方の光の差し方には見えない。また、群像の影がかかっていないので群像の足下から墓標の方向ではなさそう。
さらに、カメオの上には木の陰があるが、群像の正面には空があるだけ。木は群像の背後にある。
カメオが一体どこにあるのか全く分からない。カメオは墓参りシーンとは別録りなのだ。
絵だけで判断すれば、カメオは群像の頭の中のイリュージョンと考えざるを得ない。
ま、一枚の絵の中ですら光の方向がばらばらなので、こんなことを考えること自体無意味なんだけどね。
まさに考えるだけ無駄。
映画を観てその時感じたことで楽しめばいい。検証なんて野暮なことはやるべきではないのだ。