私の居住地である千葉市の幕張新都心は、昭和40年代に埋め立てられた湾岸地区のうち、幕張エリア(海浜ニュータウン幕張A地区)が住宅地から商業地区を含む副都心としての開発に変更されていった中で造成された住宅地区である。
幕張新都心は商業地区と住宅地区の他に、文教地区が設定され、県立幕張三校を皮切りに、放送大学などいくつかの学校が開校・開学していった。
1980 幕張三校③
1981 衛生短大②
1983 渋谷幕張高等学校・昭和学院秀英高等学校①
1984 若葉看護②
1985 放送大学②
1987 神田外語大①
1996 幕張総合高校③
(丸文字の数字はそれぞれ若葉地区の丁目に対応)
この文教地区に、早稲田大学を誘致していたという話を聞いていたが、結局それは実現せず、バブル崩壊と都心回帰志向、少子化などの条件もあり、文教地区としての整備が困難となり、住宅用地への転換を図ったのだ。
それが現在の若葉住宅地区で、次々とタワマンが建ち、私が住む幕張ベイタウンの高さ規制を超える高さであるため、京葉線の線路を挟んで幕張ベイタウンを見下ろす状況になっている。足下には幕張ベイタウンのテナント群では実現できない商業施設があり、併せて整備されている商業区画にはスーパーや外食店、100均なども入っている為、ベイタウン住民も利用している。
だが、この地区に限らずタワマンは将来の修繕が充分行い続けられるかに疑問があり、やがてスラム化する怖れもある。その点では、中層を中心とし、景観でブランドを形成している幕張ベイタウンとは異なる。
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話を戻し早稲田大学の誘致だが、失敗した跡地に渋谷幕張高等学校と昭和秀英高等学校(共に若葉1丁目)ができたという説が一部では唱えられていた。この説は主に同校出身者の間で語り継がれている様子がある。
一方、住宅地に転用された若葉三丁目が早稲田大学を誘致していた場所だとベイタウン住民は聞いている。上の地図が掲載されている日経の記事にもそのような記述がある。
誘致失敗前からある幕張三校が同じ地区の別区画に幕張総合高校として統合されたためその跡地がアジア経済研究所、インターナショナルスクールになり、同じ区画の南側は何故か学校でも研究施設でもないちょっと経路の違うJA共済研修施設(共済の事業内容に関する研修をしているらしい)が建っている。バブル崩壊後購入希望が少ない中、手をあげてもらえただけでもありがたかったのだろう。研究施設らしくアジ研図書館は一般に公開されているがJA施設は一般と接点がない。
私も、これら以外の若葉三丁目の空き地が早稲田大学誘致を目指していた土地と考えていた。
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現在ネットにある資料を紐解くと、いくらかのことが分かってくる。
① 神田外語大学の記事
この記事中では元々幕張の地に神田外語学院が外国語大学の開設を目指してたが、千葉県が早稲田大学を誘致していたため相手にされず、誘致失敗後の83年に購入に至った経緯が書かれている。
この記事では若葉1丁目に誘致していたかのような書かれようになっていて、81年に渋谷教育学園幕張高等学校が若葉1丁目の高等学校用地の募集に応じたことが知られており、それ以前から1丁目には進学校を誘致する計画があったと考えられるので、この地が早稲田大誘致の対象だったとは考えにくい。
また、神田外語大学の敷地(約138,000 m2)は渋幕秀英をあわせた程度の大きさであるが、早稲田大学の拡張に使うにしてはやや狭いとも考えられる。
参考までに、早稲田大学の所沢キャンパスは367,634 m2である。
② 早稲田側の動きに関する論文
存在しない大学史
-早稲田大学における幻の学部構想-
山 本 一 生
これによれば、早稲田大学村井総長時代にキャンパス拡張が計画された。候補地はいくつかあったが最有力として海浜ニュータウン幕張A地区(現在の幕張新都心)が想定され、海洋学部と生涯学習関連施設、医学部関係施設を展開する計画が立てられていたらしい。
しかし、理事会を経た成案ではなかったため、村井が2期目を終えた後に計画が大幅に書き換えられ、80年11月には所沢に新たなキャンパスを作る計画が発表された。この中で本庄に予定していた農学部と幕張に予定していた海洋学部の計画は消え、これでそれまで進行していた千葉県の早稲田誘致が正式に失敗したわけである。計画の大幅変更に異を唱えようとも相手にされずにいた村井は、所沢の決定を報道で知ったという。
幕張ではなく所沢になった理由には「都の西北」であるからという冗談みたいなものも聞かれるが、関係者の本音としても一段下にみている東京の東側に行くぐらいなら既に関係がある埼玉で都の西北の所沢の方がいいと言うことはあったかもしれない。
実質の理由としては、西武グループから所有の土地の提供を申し出られたためらしい。永続的に鉄道収入が期待できる西武グループとしてのメリットは大きなものがあるのだろう。村井以降の理事会が計画を大幅変更し突如それまでになかった所沢に決めているので、何らかの裏の動きが理事会と西武グループの間にあったのは想像に難くない。それは県企業庁+JR東日本からは得えられないメリットを含んでいたかも知れない。こうして所沢での反対運動を乗り越えてまで、積極的誘致をしていた幕張を蹴ったのである。
同論文の中では、幕張地区のその後として、海洋学部候補地に渋幕・秀英が開校したと書かれている。神田外語大学が候補地に建てられたとは書かれておらず、別の扱いとなっている。これは神田外語大学側の記述と整合しない。
わざわざ渋幕開校を取りあげたのは渋幕はその後シンガポール校を設立し2002年に早稲田の係属校になったことから、早稲田と幕張つながりのネタとして取りあげたに過ぎないようだ。このため、私学2校の土地=海洋学部候補地と捉えるのは早計だろう。
そもそも、著者は千葉県企業庁の資料は一切見ておらず、早稲田側の資料のみ参照している。2019年に書かれた論文であるのに、80年の幕張三校、95年の幕張総合高校、99年のアジア経済研究所、09年の幕張インターナショナルスクールの存在には一切触れていない。おそらく若葉3丁目の存在を知らなかったのだろう。文教地区で誘致できる空き地は1丁目だけと思いこんでいた可能性がある。
③ 誘致は若葉のどこだったのか
若葉2丁目は衛生短大、若葉看護、放送大学が誘致失敗に先行しているので候補ではない。
残る1丁目と3丁目だが、正式失敗の80年の翌年に県は2校分の敷地を私立高等学校誘致をして渋幕(81年4月)・秀英が応じているが、開校が83年である。たったの2年で設計・建築を終え学校としての体面をととのえ開校することができるのだろうか。ヒラの専任教員の募集に1年はかかる。それ以前に学校としてのシステム作りをスタートしていないとならない。実務だけなら開校発表から2年で開校できるらしいが、それは事前の準備あってこそだ。水面下では81年より以前に計画は始まっていたものと考えた方が自然だ。
一方、県は海浜幕張駅前を通るメインストリート、国際大通り沿いから整備を進めていた様子が有り、先行して始まった文教地区では前述の通り若葉2丁目の衛生短大等から開学・開校が進んでいる。放送大学の予算通過は78年なので、2丁目は明確に早稲田誘致とは別に進んでいたのは間違いない。それに並行する形で早稲田大誘致も1丁目から進めていた可能性が充分あり、既に私立高校の計画を進めていたなら神田外語の地が海洋学部の誘致地であった可能性は否定できない。
しかし、県立の幕張高校を公園をはさんだ3丁目に既に開校しており、こちらには広大な土地があったため、県としてはどちらでもよかったはずだ。
幕張に医学部設置と関連して病院を作り、生涯学習施設をととのえる計画であったので、1丁目と3丁目のどちらかと言うことであれば3丁目であった可能性が高くなる。
両方にまたがる可能性もあるが、一つにまとめるのが普通だろう。
これ以上の資料がないのではっきりしないのだが、おそらく70年代から始まっていた早稲田誘致を最優先し、場所については若葉の何処かというざっくりしたものであったのかも知れない。
神田外語が購入希望を出しても認めなかったのは、早稲田の件が決着していなかったためらしいが、渋幕・秀英開校の83年にずれ込んだのは、誘致失敗後に即1丁目の計画を大幅変更したにしてはずいぶん遅い。このことからも、私立高校2校の計画は事前に進んでいたのではないかと考えられ、早稲田のためにリザーブしていたいくつかの土地の売却先については改めて計画を練り直したのではないかと考えられる。早稲田決定前に神田外語に好きな土地を取らせるわけには行かなかっただろうことは想像に難くない。
なお、渋谷教育学園の本家に当たる学校法人は、規模は大きいが上位進学校を擁するものではない。昭和学院も歴史はあるが千葉の中堅に過ぎない。有力な進学校が千葉市周辺にはあまりない中、国際都市を目指す幕張の地に国際性のある確実な進学校を作りたかったはずだ。県学事課と密接な昭和学院はともかく、経営実態のない他地域の学校法人の人間が手をあげて即決定にはなるとも思えない。80年以前から私立高校を設置する計画を進めていたとしか思えない。
現神田外語の土地が海洋学部候補地だったとして、誘致失敗後公式に募集を始めたかもしれないが、以前から手をあげていた法人に売却するまでに2〜3年かかっているのはいかにも遅い。
専門学校の神田外語学院が外語大学を作るという一種の冒険に、県はすぐに応じかねたため時間がかかった可能性はある。他の候補をみてからと考えた可能性は否定できない。
しかし、高校設置にも慎重であるはずであるので、高校は事前に話が進んでいたし、神田外語の土地が海洋学部誘致対象で、失敗後方向転換したと考えた方が不自然ではない。
千葉県の資料を探してみないと分からないのではあるが、その後の記事や状況から考えると、早稲田を誘致していたのは若葉1丁目と3丁目のどこかであり、具体的にはここと決められる状況ではなかったのではないかと思われる。
と言うのは、住宅地区に転用されるにあたり早稲田誘致がうまく行かなかったことが取りあげられ、日経の記事にすらなっていることで、3丁目も候補だったことが疑われるのだ。
もし、明確に場所が決まっていたのであれば、県企業庁は神田外語にもっと早く売っていたはずなのだ。早稲田誘致がかなり有力になっていたものの、具体的な段階になく、規模も決まらない中で、切り売りができない状態にあったのだろうと推察される。
そんなことで、私は、既に計画が進んでいた若葉2丁目以外の文教地区で、県立幕張三校(幕張東・北・西)と私立2校分の用地以外の土地が対象になっていたのだろうと考えている。
Posted at 2025/09/21 16:32:09 | |
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都市開発 | 日記