2020年3月14日土曜日。戸倉峠の中腹に残る戦時中の未成隧道を探索し、未成隧道から連なる道路跡を歩いて、明治時代に開削された車道跡に出てきました。
ここからは、まず戸倉峠方面へ明治車道を追えるだけ追っていきます。
戸倉峠方面の道跡と路肩の石積み擁壁。
峠から下っていく方向の道跡と路肩の石積み擁壁。路肩は崩落していて擁壁も崩れています。
それでは峠方面へと進んでいきます。
すぐにヘアピンカーブがあります。2つ目のカーブは切り通しになっています。
山側に低い石積み擁壁。
沢を渡る部分は多くの石で路面が荒れています。
ここも山側に石積み擁壁があります。
崩落場所を通過。足元に注意しながら横断していきます。
同じ崩落場所を帰りに撮ったものです。
葉が落ちた木々の間を歩いていきます。例年であればまだ雪に閉ざされているはずです。
また沢渡りです。沢の部分の擁壁は崩れてしまっていますが、奥の方は残っています。
沢を抜けたらふたたび崩落個所。
踏み跡が付いていて、踏み締めてみた感じでは歩いていけそうではありました。
しかし、礫と土が混ざっていて崩れやすそうなこと、手前側10mくらいは谷側の斜面も崩落していて木々が無く、万一踏み外したら一気に滑落してしまうこと。ということで、ここは無理はせず引き返すことにしました。一番の理由は、下を見て「ダメだな。」と思ったことですかね。
そして、この辺りから今まで降り続いていた雨にみぞれが混じるようになってきました。
とっとことっとこと足早に歩いて、最初の分岐点まで戻ってきました。
今度はここから下っていく道跡を追っていくことにします。
山の斜面が急なためか石積みの擁壁が多い道です。
これは先ほど通った峠へ向かう道跡の石積み擁壁。
この程度の場所は難なく通過です。
ヘアピンカーブを下っていきます、
先に見える道跡にも立派な石積み擁壁が。
手前の沢には何本かの丸太が残っています。おそらくは丸太に横板を掛けて上に土を盛る「土橋」だったのでしょう。
廃道としての良い景色が続きます。これはもう引き返すに引き返せない…。危ないパターンではあります(笑)。この戸倉峠の車道が開削されたのが1883年(明治16年)から1885年(明治18年)にかけてのことらしいですが、1885年からとしても135年前。本当に鮮明に残っています。
ここも路肩に高い石積み擁壁があります。そしてこの道跡で初めて見るまとまった残雪。
小さな滝が連なる沢です。
沢の先にはまだまだ道跡が続いていますが、手前の沢を渡れるのか…。
谷側はけっこう深く抉れていますが、山側は渡れないことはないレベル。ここにも丸太が並んで落ちています。
また先へと進んでしまいます。
この後も崩落個所が現れますが、峠側で引き返した崩落を思えば全く支障なし。
今までの中で一番大きな石積み橋台です。
橋台から少し先の川べりまで、峠道が川に浸食されないように擁壁が続いています。
峠側の橋台を見ます。
しばらく川沿いを歩いたあとは、また木々の中へ。
開けたところに出たら道跡が削られています。真下に接近してきた旧国道の法面工事の際に削られたのでしょう。
また少し木々の間を通り抜けると、
旧国道の真上に出ました。現道(ここは旧道ですが。)の高い擁壁に路面を削られて道跡が消滅というのはよくあることですが、ここまで下ってくるとそれは非常に困ります…(戻るほうが面倒…。)。
「高巻きして迂回か…。」とも考えましたが、幸い、人が通れるくらいの幅が残されていたのでそのまま進むことができました。
旧国道の連続ヘアピン区間が見下ろせます。こういう道路線形も戸倉峠を難所にさせていました(新戸倉トンネルに入る前にもヘアピン区間が残っていますが。)。
最後の細道区間を通り抜けて、
旧国道につながる作業道へと出ました。これで安全に車まで戻れます。
標高の高いところは真っ白になっています。
旧国道に合流です。ここから車まではまだ遠いですが、二車線の舗装道路を独占して歩いていけると思えばこれも良い体験です。
はるかに見える戸倉峠もすっかり真っ白になってしまいました。
旧国道になってから24年ちょっと。路肩に立派な木が生えるようになりました(笑)。しかし、根っこはどこに這っているのか…。アスファルトを割って地面に潜っているのかな(いちいち確認はしていません(笑)。)。
S字カーブを望遠で撮ってみたら雪(みぞれっぽい)が雨のように写ってしまいました。
ヘアピンやきついカーブの所には背の低い中央分離帯が設けられています。センターオーバー防止なのか、ドリフト防止なのか。
二桁国道ではあまり見かけない30km/h制限の表示。
やっと車に戻ってきました。ここを出発してから2時間、旧国道に合流してから13分でした。車にはうっすらとみぞれが積もっていました。
これだけ山深く急峻な所(戸倉峠の標高は891m。)にある明治車道で道幅も軽トラサイズ以上あるというのは、当時の鳥取県令(今の県知事)が県議会の反対を押し切って建設しただけのことはあります(強行したのは、明治政府の有力者である山縣有朋の意向を県令が受けていたことが非常に大きいみたいです。)。
当時としては戸倉峠越えの若桜街道よりも、現在、鳥取道や智頭急行線が越えている志戸坂峠越えの智頭往来の方が栄えていたそうですが、戸倉峠は政府や有力者の意向を受けて、自動車の往来が出来なくても二桁国道(戦前は国道20号、戦後は国道29号)に指定され続け、戦後にようやくトンネルも開通しましたが、現在はふたたび志戸坂峠にその地位を奪われたというわけです(今の志戸坂峠は通過ポイントでしかありませんが。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※5万分の1地形図「大屋市場」:明治31年(1898年)測図・昭和7年(1932年)要部修正測図

※5万分の1地形図「坂根」:明治31年(1898年)測図・昭和7年(1932年)要部修正測図
私は歴史も街道も好きなので、こういう歴史背景がわかると廃道歩きもより楽しめるというものです。
さて、昼御飯も食べず、どんどん気温が下がる中(最終的に新戸倉トンネルの温度計で0℃でした。)、みぞれに濡れて歩いていたわけですが、帰り道の中国道安富PAでようやく昼御飯にあり付きました。
「ホルモン焼きうどん定食」熱々の鉄皿に辛めのホルモン入りの焼きうどん。「やっと生きた心地がしてきた…。」と、したたかに汗をかきつついただきました。