2020年5月30日土曜日、北設楽郡東栄町大字振草字下粟代から花丸峠を越えて同じく東栄町大字月字枇杷沢に至る区間の古道を歩いてきました。あわせて、花丸峠から振草方面へと下る「ふりくさ道(海老街道)」の峠道も歩きました。
今回歩いてきた大字振草から花丸峠を越えて大字月に至る古道は、1934年(昭和9年)に設楽町田口の東側にある堤石峠に自動車が通行できる堤石隧道が開通するまで、設楽町田口と東栄町本郷という奥三河の街同士を結んでいた里道でした。そういう意味では、この道もまた国道473号の前身と言えます。
図中の赤色・緑色の線が歩いた区間になります。赤色の線が田口~本郷を結ぶ古道、緑色の線は「ふりくさ道(海老街道)」になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
歩いた区間のうち、花丸峠から東側の区間は先週歩いた廃道と並行する形になりますが、標高はさらに高い地点を通過しています。また、先週歩いた廃道と違い、花丸峠を越える前後の区間の全線が今も地形図に記載されています。
東栄町大字振草字下粟代へとやって来ました。古道の入口から近い路肩に車を停めておきます。
右側の林道のような道が古道になります。
林道と変わらない道を進んでいきます。
ちょっとした広場に出ますが、そのまま奥へと進んでいきます。
広場までの道には、軽トラとおぼしき轍が付いていたりしましたが、広場を過ぎた先の道は轍も無くなり、廃道らしくなってきました。
岩や石が露出して少し荒々しくなってきました。
車が通行できないほど道幅も狭くなってきます。
谷筋の反対側に大きな石積み擁壁が見えてきました。
この石積み擁壁の区間へ入る前に、容量が少なくなったカメラの電池を交換。当然、じっと立ったまま交換していましたが、その隙にヤマビルが1匹長靴にちゃっかりとくっついていました。
さっそく塩水を噴射。キュ~と体を縮めたところを枯れ枝で払って取り除きました。「やはり立ち止まっているとダメか…。」と電池を交換する間、円を描くようにグルグルと歩き続けていました(笑)。
まあ結局のところ、今回の道中でヤマビルが現れたのはここだけでした。
気を取り直して先へと進みます。
苔むした道。踏んだ感触は「グニュグニュ」とした感じ。
道が荒れてきました。
そして、ついに道が埋もれてしまいました(これは事前にわかっていました。)。かすかに踏み跡が付いていたので、そこを通って越えます。
道はすぐに復活しました。
花丸峠に到着です。車から25分でした。峠の名前によるものか、かつて交通の要衝だったためか、自動車をまったく寄せ付けない峠ながら、訪れる人がままあるようです。自転車を担いでやって来る方々もいるようです。
この峠には石碑かあるので、さっそく確認してみます(いろいろあるようですが、確認してみたのは切通しに建っていた2つだけ。)。
端正な形の石碑です。彫られている文字は「祖方良意禅男位」でしょうか?禅とあるので、禅宗に帰依していた方の供養塔(立地からみてお墓ではないでしょう。)なのでしょうか?
右側面は「明治三十(か「三一」)年 六月五〇」(1897年か1898年)。
左側面は、「富山縣富山市稲荷町」と住所があり、
さらに「本名 茲原佐七事 ○○○○ 豊崎佐七 ○○四十一歳」とあります。
「茲」で正当なのかはわかりませんが、本名ともう一つ名前を持っていたのはどういう理由なのでしょうか?それから、なぜ富山市の方の供養塔?が奥三河の峠に建っているのか?この峠で亡くなられたのでしょうか?疑問は尽きません…。
もう一つの石碑。南無阿弥陀仏碑です。「南無阿弥陀仏」の文字の左右に「左は 粟代 右は 月」とありますので、道標でもあったわけです。
右側面には「元禄十三年」とあります。これは西暦1700年にあたりますので、320年前からこの峠に建っていて、行き交う人々を眺めていたのでしょう。
こちらは、設楽町大字神田へと下っていく「ふりくさ道(海老街道)」。さらにこの先、仏坂峠を越えて、現在の新城市海老に出て伊那街道と合流。新城、豊橋へとつながっていきます。
石垣に囲まれた平場。かつての峠の茶屋の跡らしいです。二つの街道が交わる峠ですから、往時は賑わっていたのでしょう。
それでは、東栄町大字月への古道をさらに進んでいきます。
峠からしばらくは、このような穏やかな道が続きます。
まあ、倒木が多いですが…。
こちらの道にも石積み擁壁が現れました。
また倒木が続きます。跨いだり潜ったりと面倒この上ないです…。
ここは何気に厄介な場所です。傾斜した硬い地面に小石が散らばっているので、注意しないと滑って落ちてしまいます。
いよいよ険しい地形へと踏み込んでいきます。
ここは、背丈よりも低い位置まで木々が覆いかぶさっていたり、路上に薮があるので、中腰でかき分けながら進みます。路盤がしっかりしているのは幸いです。
先週通った廃道ほど鋭くはないですが、こちらもなかなか峻険な道です。
開けた場所へと出てきました。
遮るものが無くなり、良い眺めです。日射しはきついですが、乾いた風が当たり心地よいです。
はるか眼下を通る国道473号。高低差は地図読みで170m程あります。法面に設置されている落石防護ネットの上端に、先週通った廃道があるはずです。
写真の中央部に谷底を流れる御殿川が小さく写っています。
視界が開けていたのはここだけ。
ふたたび急傾斜地の林の中を黙々と歩いていきます。
山の上までビッシリと石で埋まっています。なんか怖いですね。
道幅が広くなりました。ようやく林道に改修された区間へ出てきたようです。
状況確認のため、もうしばらく進んでみます。
完全に林道然となってしまいました。興ざめしてきたので、花丸峠へと引き返すことにします。
帰りの道中の写真。
花丸峠まで戻ってきました。
帰り道は、花丸峠から粟代・振草へと向かう「ふりくさ道(海老街道)」を下っていきます。この道は、愛知県道424号でもあります。
斜面を左右に大きく移動しながら下っていきます。今の峠道を見ると、最盛期の明治・大正期には一日に二百頭ほどの荷馬が行き来していた街道とは思えません。
振草村誌によると、1921年(大正10年)に東栄町本郷の別所街道与良木峠の直下に本郷隧道が開通したことで、振草から海老の間に花丸峠と仏坂峠の2つの峠が存在するふりくさ道(海老街道)ルートは運送業者から敬遠されてしまい、次第に寂れていきました。
それでも、鉄道の終点が豊川鉄道(現在のJR飯田線)大海駅だった頃は、別所街道沿いの人々が鉄道を利用するために峠を通行していたそうですが、それも1923年(大正12年)に鳳来寺鉄道(これも現在のJR飯田線)がさらに奥地の三河川合駅まで開通したことで、人の流れも別所街道に向かうことになり、完全に廃れてしまったそうです。
道の先に大穴が開いてしまっていますが、直前で左方向に向かう細い迂回路があります。
大した高低差はありませんが、S字カーブで勾配を少しでも緩やかにしています。荷馬の通行に配慮したものでしょうか。
沢を渡って直進します。
地面をU字型に掘った道があります。これも勾配を緩やかにする手段ですね。
石碑がありました。「一観良〇禅門」とあります。これも供養塔でしょうか?文政三年(1820年)の年号が彫られています。
こんな感じで路傍に立っていました。
川沿いの道に合流します。
分岐地点はこんな感じ。花丸峠への道は左側になります。
川沿いを進んでいきます。
対岸には石垣に囲まれた平場が段々になって続いています。かつては家でも建っていたのでしょうか。
町道との合流地点に着きました。この先も「ふりくさ道(海老街道)」は川沿いに進み、振草で別所街道(現国道151号)へと合流します。
橋を渡ってすぐにの所に車両通行止めの標識が立っています。
橋の名前は「花丸下橋」。花丸峠の下の橋ということですかね。
橋を渡って直進する道が県道ですが、パッと見には右側の道の方がよっぽど県道らしいです。
車へと戻ってきました。花丸下橋から30分ほど(道沿いの滝へちょっと寄り道していたので(笑)。)、全行程3時間半ほどでした。
今回の古道もなかなか良い道でした。先週歩いた廃道に比べて目立った危険箇所もなく、山歩きに慣れている方なら手頃な廃道ハイキングができそうです。ただ、ヤマビル嫌いの方は冬に来たほうがいいですね(笑)。