先日、豊田市と北設楽郡設楽町の境、国道420号新段戸トンネル区間の旧旧道にあたる「阿蔵峠」の峠道を歩いてきました。
その絡みで、阿蔵峠を越える道(国道420号の前身の道。)について調べようと図書館で設楽町誌・下山村誌・足助町誌・作手村誌と読んでみたわけですが、せっかくなので、調べてわかったこと・知ったことを書き留めておこうかと思った次第です。
国道420号が通過する旧足助町・旧下山村・設楽町域の「道」については、江戸時代以前については記録に乏しいそうで、それなりに詳しく書かれているのは、やはり明治時代に入ってからです。
最初に確認できるのは、明治9年(1876年)の太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」に基づき、明治9年以降に(明確な年は不明。)足助~安実京~葛沢~梨野~阿蔵~宇連野~南設楽郡境の経路を通る道が二等里道「下山街道」に認定されたことです(下山村誌より。認定は東加茂郡内のみの模様。)。
ちなみに、現在の国道420号とは違うルートを経由している区間があり、安実京~梨野の間で東大見ではなく葛沢を経由しているのと、阿蔵から先のルートが阿蔵峠を越えて北設楽郡へと向かうのではなく、宇連野を経由して南設楽郡へと向かっているところです。特に阿蔵から先は、国道420号ルートと全く違うルートになっています。
では、郡境を越えた南設楽郡内の道はどのように指定されていたかというと、郡境~旧作手村菅沼~旧段嶺村~旧鳳来町海老となっていたようで、その内、旧段嶺村内の一部区間だけが国道420号ルートに重なっていたと思われます。ちなみに海老側からは、足助への道なので「足助道」と呼ばれていたようです(作手村誌より。)。
実際、何を読んだのかは忘れてしまいましたが、海老の人が役所への申請のために、足助まで歩いて向かったという話を見たことがありますので(一時、海老の辺りの管轄を足助の役所がしていたためらしいです。)、その時はこの道を歩いていったのでしょう。
続いて、明治22年(1889年)1月から工費を全て沿線の村々(足助、安実京、山ヶ谷、葛沢、東大見などとある。)が村費で賄うとして改修工事に着手したことが書かれています(足助町誌より。)。
この改修工事の間の明治22年10月に沿線の村々(足助は除く。)が合併して金沢村が誕生。この金沢村の区間については、明治24年(1891年)5月に竣工したとあります。が、費用が賄えず、拠点である足助町に援助を仰いだ村(安実京など)や、金沢村になってからは県に陳情したりもしたようです。
この記事には、改修した橋が地名付きで書かれていて、金沢村大字葛沢と山ヶ谷の間の神尾川橋(国道420号神越橋の場所か。)、大字葛沢字仙戸の美枝橋(現在の字仙ノ戸か。神越橋から現在の豊田市葛沢町の集落までの間の地名。)、大字東大見字市平の川折橋(場所は不明。字名から神越橋のすぐ上流にある大見橋付近か。)が出てきます。
ここに出てくる地名からわかるのは、明治22年の改修工事の時点では、まだ葛沢を経由するルートのままだろうということです。
次の記事は、「下山街道」が明治29年(1896年)に東加茂郡の重要里道に認定(下山村誌より。)。明治30年(1897年)には、「足助道」も南設楽郡の重要里道に認定されます(作手村誌より。)。
明治31年(1898年)に「下山街道」の路線変更及び改修が行われ、足助町から富義村阿蔵までが竣工とあります(足助町誌より。)。変更された区間について何も書かれてはいませんが、この時におそらく安実京~葛沢~梨野の山越えルートから安実京~東大見~梨野の大見川沿いの現国道ルートへ変更されたと思われます。
最後に大正9年(1920年)の旧道路法の施行により、「下山街道」のうち、足助~阿蔵が「県道足助新城線」に認定されます。阿蔵から先の区間は、阿蔵~宇連野~南設楽郡境が県道に認定されず、代わりに阿蔵~阿蔵峠(北設楽郡境)~段嶺村が県道に認定され、ようやく旧足助町~旧段嶺村区間が現国道ルートとなりました。
この後は、県道田口下山足助線から県道設楽下山足助線になり、そして国道420号になるわけです。
ここからは、実際に踏査するかどうかは置いておいて、「下山街道」の安実京~葛沢~梨野の旧ルートについて、ちょっと考えてみます。前述したとおりなら112年前には「街道」を外された道です。
明治時代発行の地形図は手元に無いので、毎度の戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「足助」(明治24年(1891年)測図、昭和3年(1928年)要部修正測図、昭和6年(1931年)発行。)。
赤い線が現在の国道420号のルート。青い線が神尾川橋から葛沢へのルートです。神尾川橋から葛沢へのルートは、これ以外にはないでしょう。
問題なのは、葛沢からどのようなルートで山を越えて、現国道ルートである大見川沿いへと繋がっていたのかという点です。
戦前の地形図でも、使われなくなった道は当然抹消されているはずですが、この当時は歩いて山越えをすることはまだまだ普通でした。実際、赤い線で記した県道足助新城線と地図左側の巴川沿いの道以外は、自動車もろくに通行できない道の表記ばかりです。
なので、「街道」から格下げされたとしても、地元の生活の道として使われていたはずで、記載が残っていてもおかしくないと思います(だいたい、大本は明治24年測図なわけですし。)。
そこで想定したのが2つの道。一つは緑の線の道。葛沢から山を横断して短距離で大見川へと下っています。もう一つは黄色の線で、こちらは山の上部を縦断して、より梨野に近いところで谷へと下るルートです。両方とも戦前の地形図には徒歩道として記載されています。
2つのルートを現在の地形図に書き込んでみました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
もっと明確に峠でもあれば予想も立ちますが、この地形では、正直、どちらのルートを通っていたのか判断のしようがありません。まあ、管理上の正解は一本しかないわけですが(本当はさらに違う道かも。)、通行に関しては、人の好みでどちらの道も使われていたというのが事実のような気がします。
あと、現在の地形図に書き込んでみてわかったのは、現在の地形図に記載の道(徒歩道も含めて。)と微妙に違うルートを取っているところ(縮尺の違いや書き込みによるブレはありますが。)。
そして、昔の道は尾根を通っている部分が多い。特に緑線のルートは、葛沢の集落を過ぎると大見川に下るまで、今は道が記載されていない尾根筋をできる限り通っている気がします。
古道は、眺めが良くて危険を察知しやすく、川沿い・沢沿いではないから水害の影響もない尾根道が多いそうです。
実際、尾根道が歩きやすいのは事実なんですよね。岡崎市内にある古道「千万町街道」は里山の尾根をつないでいく典型的な尾根道ですが、今もきれいに道が残っていて、急坂もあまりなく(地形的にどうしようもない場所は別ですが。)、散策気分で歩くことができます。
「実際に踏査するかどうかは置いておいて。」と書きましたし、両方を踏査したところで本当に旧「下山街道」であるのかは全然わからないと思いますが、単に歩いてみたいなと思っているところはあります。何より、こういう事を考えてみるのが面白いわけです。
しかし、事前情報が何もない所なので、草木が繁茂する夏から秋はアタックしないほうがいいですね。そもそも入口を見つけられない可能性も高いですし。冬になって行く気があったら覗いてみますか。
つらつらと「それがどうしたの?」的なことを書いてきましたが、私としては、地理・歴史が好きで、街道も好きで、山をぶらぶら歩くのも割と好きで(登山は体力的にも技術的にも無理ですが(笑)。)、ここ十年来は廃道・廃線探索もやって、特に最近は新旧の地形図を見比べたり、図書館で調べものもするようになったので、実際に探索する時は、マイナーな案件でもより面白味を感じている気がします。
自動車道や荷車道の廃道というと条件的に存在がけっこう限定されるのですが、徒歩道の廃道ははるかに膨大。廃古道まで首を突っ込むと、終わりの無い「沼」に嵌まる可能性が高い…。ほどほどにはしないといけませんね(笑)。