2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の阿智村側にある駐車帯から出発し、平谷村靭(うつぼ)まで断続的に残る廃道・旧道を歩き、ふたたび治部坂峠まで戻ってきました。
この時点で時刻は13時40分となっていましたが、そんなに時間はかからないだろうと踏んで、さらにもう一つの道跡を探索しに行くことにしました。旧国道ルートの前身である「旧三州街道」の治部坂峠への峠道です。
ちなみに旧街道の峠道に関する事前情報は全く無し。旧三州街道を歩いた方々のブログなどを探して読んでみた限りでは、国道153号の旧道・廃道を歩いて治部坂峠を越えたという内容のものばかりでした。
車道(荷馬車道)改修以前、まだ徒歩道だった街道が峠越えするルートは、峠付近までは谷沿いを通り、峠の直下まで来たら一気に峠へ向かって登っていくパターンが多い気がします。
そこで治部坂峠付近の地形図を見ていて私が推定したルートは下図のとおり。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
谷筋から峠へと登っていくルートは、一気に登っていくとは言っても、緩斜面があるならそこを通った方が少しでも楽だろうという見当によるものです。
まあ、もともと旧街道の峠道は今回探索するつもりはなかったのですが、前話の最後に歩いた旧国道の切れ端が残っていた場所がちょうど推定ルートにした緩斜面の上部だったので、「ついでに探してみるか。ハズレなら戻ってこればいいし。」という程度の感覚でのスタートです。
旧国道から少し斜面を下りてみると、明らかに人為的と思われる凹みがすぐに見つかりました。「これは旧街道によくあるU字型の堀割り道だよねぇ。」
ちょっと話は逸れますが、私のブログはよく旧道・廃道の写真を載せているわけですが、弟に時折「こんな木や林ばかり写っている写真なんか見ても、どこに何があるか全然わからん。」ということを言われます。
そこで、今回は写真に目印となる線などを書き込んでみました。黄色の線で描いたルートに道跡が見受けられます。
「これは期待できそうだから、もうしばらく下っていってみるか。」とさらに斜面を下りていくことにします。
なにぶん緩斜面なので、はっきりと言える程の道跡は残っていませんが、微妙な地形の凹凸や木々の生え方などを見極めながら進んでいきます。
「これはもうはっきりとした道跡なんじゃないか?」
「間違いないなぁ。これは進んでいくしかないなぁ。」。パッと見は単なる杉林と熊笹の海にしか見えませんが(笑)、もう確定ですね。
胸元ほどの高さになる熊笹の薮に分け入り、カメラを持ち上げてバンザイしながら進んでいきます(笑)。
ただただ笹薮をかき分けて道跡を進んでいく写真をしばしご覧ください(笑)。道跡は確かにありますが、特記するほどの「何か」までは無いのです…。
ようやく熊笹などの薮の無い、はっきりとした道跡が見える場所に出ました。なかなか道幅が広いです。
幅広の坂を下ると一旦左へとカーブしたあと、すぐに右ヘアピンとなります。この辺りが緩斜面の下端部になります。
ここからは沢に沿った谷筋の道となります。この辺りで時刻は14時を回ったところですが、日射しはまるで夕方のようです。
道跡を断ち切るような深い沢が現れました。本来はもっと右側(上流側)に迂回して沢を渡っていたのだと思われますが、写真を撮った地点から上流側は崩落したのか道跡が消えています。
目の前の沢を渡る一番簡単な方法は、写真に写っている橋を渡ることですが、どうにも渡る気になれませんでした…。橋自体は、高圧線鉄塔の巡視路用に架けられた金属製のものです。ただ、渡し板が木製で腐り気味…。踏み抜いたら3mくらい落ちることになるので、ちょっと洒落になりません。
結局、少し戻って道跡に並行していた沢に下り、沢の中を歩いて対岸に取り付くことにしました。
取り付きやすそうな斜面を見繕って、直登して道跡へと復帰します。
無事に旧街道の道跡に復帰しました。
復帰した場所からわずかな区間ですが、崖地のような険しい地形を通過します。
開けた場所へと出てきました。
真上を高圧線が通っています。そのために刈り払われているのでしょう。
しばらく歩くと左斜めへと分岐していく道筋があったので、そちらへと進んでいきます。
ここで今回初めて石仏に出会いました。この道跡が旧街道である大きな証拠になります。こういう時は思わず声が出ます(笑)。
初めは石仏が二体あるのかと思いましたが、石仏だったのは左側のみで(馬頭観音と思われる。)、右側は自然石のようです。
じっくりと見てみましたが、摩滅したようには見受けられず、程よい大きさ・形状なので、石仏の代わりとして祀られていたものでしょう(ただ、写真で見返してみると、摩滅や剥落があるように見えなくもないですね。)。
さらに進んでいくと、熊笹やススキが生える原っぱに出てきました。
熊笹が生い茂る野原を進みます。ここも高圧線の真下に当たります。
道跡はやがて急な下り坂となり、細尾根へと続いていきます。
中馬(馬を利用した輸送業者)が通った道である旧街道がこんな急坂やこんな細尾根を通っていたとは考えられません。石仏の前から熊笹の野原に出るまでの間で分岐していたであろう道跡を見失ったようです。
仕方ありません。両側がこれだけ明け透けに見える細尾根を歩くのもおもしろいので、このまま進んでいってみます。
尾根の終点に来ました。巡視路は右側の斜面を下りるように案内されていますが、どう見ても「崖」です(笑)。「こんなの下りられるか。」ということで、引き返します。
治部坂峠からここまで歩いてきた推定ルートです(GPSロガーなどの記録装置を持っていないので「推定」です。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
おおむね予想どおりのルートだったことに満足です(笑)。
細尾根に並行する林道へと下りてきました。
この林道を進んでいくと、旧国道の靭集落側の封鎖場所へ合流するはずです。
これでひとまず目的は達せられたので、車へと戻ることにします。林道で戻りつつ、見失った旧街道の道跡が斜面に残っていないかチェックします。
道跡を見つけることができないまま、沢を渡る橋が現れました。橋を渡ると治部坂峠と方向が違ってきてしまうので、ここで旧街道の道跡へ無理やりにでも戻ることにします。
橋を渡らずに熊笹の中を直進して、斜面へと取り付きます。
急斜面を強引に直登して出た場所は、ちょうど石仏の前でした(笑)。
これでスムーズに戻れる目途が立ちました。
原っぱを抜けたところで、旧街道の道跡から左側へと分岐する小道へと入ります。エスケープルートになります。
小さな別荘地の中を通り抜けていきます。ここへ来てこの急坂は堪えます…。
疲れが出てきましたが、何とか治部坂峠を越えて阿智村側の旧道分岐点へ。
ようやく治部坂峠の駐車帯に停めてある車へと戻ってきました。
今回歩いた全ルートはこちら。距離は地形図測定で9.2km以上、時間は4時間50分という行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
今回、三州街道と記していますが、これは長野県側からの呼び方で、私が住む愛知県側からだと伊那街道や伊奈街道、もしくは飯田街道などと呼ばれています。
長野県の「七道開鑿事業」により、飯田町(現:飯田市)から根羽村までの区間の車道(荷馬車道)改修が完了したのが明治24年(1891年)のことですが、この時までには、治部坂峠を越える道も旧街道ルートから旧国道ルートへと切り替わっているはずですので、すぐには廃れなかったとしても130年前には役目を終えた道の跡を今回は辿ったわけです。
こういう旧街道の跡が地元の村などで手入れされて残されると良いのですが、メジャーな街道ではないですし、特別な遺構があるわけでもないので、このままさらに埋もれていくのでしょうね。