2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。
海老峠は、宇連集落跡と新城市海老を結んでいた山道の途中にあった峠です。現在は、岩古谷山と宇連山の間を通る東海自然歩道の通過ポイントの一つでしかありません。
海老峠については、7月16日日曜日に峠の西側にある新城市の川売集落から峠道の探索を試みましたが、最終的には道筋がはっきりしなくなり、岩壁へと出たところで探索を断念して引き返すこととなりました。今回は、「西側がダメなら東側から。」と宇連集落跡から峠道の探索をしてみようと思い立ったわけです。
愛知県道424号 丸天橋へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
本当は、ここから宇連集落跡へと向かう林道へと入り、集落跡付近へ車を停めて峠へと向かうつもりでしたが、ご覧のとおり通行止めとなっていたため、この場所に駐車して向かうことにしました。このすぐ先で土砂が林道に流れ込んでいるのが見えています。
歩き始めると道路を跨ぐ倒木に遭遇。奥に人家が無いためか、もう積極的には道路整備されていないみたいです。
眼下の渓流。水が透き通っていてきれいですね。
小さな滝が見えています。滑り台のような変わった雰囲気の滝です。
小さな橋がありました。銘板は見当たらず、名称はわかりません。
対岸に石垣が見えています。上が平場なので、耕作地の跡かもしれません。
また小さな橋がありました。相当以前から車が通行していないのか、路面が一面苔だらけです。
右側の路肩に転がっていたダッシュボード。以前はここに廃車があったようですが、どうしてこのパーツだけ転がっているんですかね。
目線を先にやると大きな木の下に石碑があるのが見えます。
木の真下にある小さな石碑はよくわかりませんでしたが、こちらは竣功記念碑ですね。碑文を見て、この道が「林道宇連線」という名称であることがわかりました。
裏面は日付と関係者氏名が彫られています。「昭和41年(1966年)7月」が竣工時期を指しているのであれば、それまでは宇連集落跡まで自動車は入ることができなかった可能性が大です。
記念碑の先にはヘアピンカーブがあります。この写真の左側から分岐していく道がありますが、その道の先に旧神田小学校宇連分校があったそうです。
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ふたたび苔むした道を歩いていきます。滑って転ばないように気を遣います。
中身がもぬけの殻となった祠と石仏群。ここから先が宇連集落跡となります。
家屋があります。人が住んでいるような気配は感じられませんが、家の周囲はきれいになっており、時々は所有者が訪れているのかもしれません。
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路面の舗装がここで途切れました。林道宇連線はこの場所が終点のようです。林道左側は山の斜面に、右側は沢沿いの緩斜面に、それぞれ石垣がある段々地が残っています。
少し歩くと道の右側に苔で覆われた小山があり、その頂上に石碑が立っています。
彫られている文字を読み取ると「御頭天皇」とあります。初めて見る文言です。後日、「設楽町誌 村落誌編」で調べてみたら、「牛頭天王の意である。」とありました。要するに当て字なわけです。牛頭天王は除疫神として崇拝されているようなので、疫病退散の意を込めて祀られたものでしょうか。
側面には「明治十三年辰六月」とあります。明治13年は西暦1880年なので、143年前のものとなります。
石碑を通り過ぎると橋が架かっていて鳥居があります。鳥居をくぐると宇連集落の氏神である諏訪神社があります。
「振草村誌」によると、宇連の諏訪神社は、「建御名方命を祭神とする。天平時代(729年から749年まで)の勧請と伝えるが真偽不明である。」とあります。また、神殿には元禄9年(1696年)の棟札があり、境内に立つ灯篭には「元禄六年癸酉天九月吉祥日 三州渥美之郡吉田宿加藤兵衛納」と文字が彫られているそうです。
天平時代はともかくとして、少なくとも320年から330年ほど前には、すでに宇連の地に定住していた人たちが居たことがわかります。
ちなみに、灯篭を奉納した加藤兵衛さんは、当時川合(新城市川合)・宇連・海老(新城市海老)を結ぶ山道で商売をしていた魚屋だそうです。こんな山奥なので、しっかり塩漬けして作られた干物などを売り歩いていたんですかね。今回の目的地である海老峠も、何度も越えたことでしょう。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
石製の嗽盥(うがいだらい)。
「設楽町誌 村落誌編」によると、寄進したのは佐藤彦蔵さん。国内有数の長寿者として知られた人だそうで、文化7年(1810年)に宇連地区の向貝津に生まれ、大正6年(1917年)に老衰により享年108歳で死去したそうです。長寿を祝っての恩賜金を三回賜ったことがあり、この嗽盥は104歳の時に恩賜金の一部を割いて寄進したそうです。
あらためて境内の写真です。本殿の右側に加藤兵衛さん奉納の灯篭が立っています。
結局、集落跡には入口の家屋と神社以外、林道から見える範囲で目に付くような廃屋などは残っていませんでした。
さて、探索を再開します。神社を後にして道筋を進んでいくと沢を渡ります。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
沢を渡った後に道筋が消えてしまうことがよくありますが、今回は杉木立が並木のように道筋を示していて、迷うことなく進んでいけます。
集落跡があった緩斜面が終わり、沢沿いを離れて山肌へと取り付きます。この先は何度も何度も折り返しが現れます。
小さな平坦地が現れました。
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平坦地の奥には炭焼き窯の跡がありました。
ここからは道幅がさらに狭くなり、小刻みなつづら折りを繰り返しながら登っていきます。
稜線の上へと出てきました。
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一息つけたのも束の間、またつづら折りが始まります。
この辺りからは斜面に石が散らばり、道筋もはっきりしなくなってきます。何度も周囲を見渡したり、振り返ったりして確認しつつ、急坂を登っていきます。
石が散らばる区間を通り抜け、炭焼き窯の跡の横を進んでいきます。
沢の源頭部を巻いていきます。
沢を見下ろすと、まさに岩盤製のウォータースライダー。どこまで滑り落ちていくんですかね。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
※その(2)へ続く。