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小林あにのブログ一覧

2025年03月09日 イイね!

白河関跡・白河ラーメン・境の明神

2024年8月10日(土)、弟と弟の友人の杉浦くんに私の3人で、福島県白河市にある「白河ラーメン 岩松」さんを再び訪れました。

今回は自宅を0時頃に出発。前回訪問時と同じく、東名・首都高・東北道と高速道路を延々と走っていく計画です。

途中、何度かの休憩をはさみつつ、午前6時過ぎに首都高速の用賀料金所を通過。そのままPAにて小休止。すでに渋滞が始まりつつあります。


お盆休みの期間中ということもあり、東北道へと進むと情報掲示板には鹿沼IC付近から先の長い距離の渋滞情報が表示されるようになります。

結局、ゴールデンウィークの時と同じパターンで、鹿沼IC手前の都賀西方PAのスマートICで高速道路を下りて国道293号を進んでいきますが、ちらっと見えた東北道の様子から「流れてるかな?」と思い、上河内SAのスマートICから再び東北道へ。

ストップ&ゴーの状態で快適な流れとは言えませんでしたが、今さら下道へ戻るのも面倒だったので、そのまま白河ICまで乗っていくことになりました。その足で「白河ラーメン 岩松」さんへと向かいましたが、お店が混雑していたので出直すことに。

近場で適当な時間つぶしができそうな場所ということで、私の趣味的な意向で「白河関跡」へとやって来ました。今までに何度も白河を訪れていますが、「白河関跡」へは行けるような機会がなく、ようやく訪れることができたわけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「白河関跡」の説明板と案内板。




奈良時代から平安時代にかけて、関東と奥州の往来を厳重に監視する重要な役目を負った関所の跡ですが、今は神社となっているようです。


神社も古くから存在しているようで、境内には巨木が立ち並んでいました。








関所の防衛のために設置されていた空堀の跡だそうです。平安時代には役目を終えて消滅してしまった関所の跡なので、目立った遺構は空堀跡くらいでしたね。




江戸期の関所を再現した建物。江戸時代にはこの場所に関所は存在しておらず、白河関跡とは全く関連の無い建物のようです。


「そろそろ行ってみようか。」ということで白河関跡を13時半頃出発。14時前に再び「白河ラーメン 岩松」さんを訪れ、ようやくラーメンを食することができました。


この日の夜は新白河駅前のホテルに宿泊。合流したプロトタイプのみなさんと一緒に焼き鳥店で飲み会となりました。以前、棚倉町を拠点にした全日本ラリーが開催されていた頃は毎年でしたけどね(笑)。


日付けが変わって翌11日(日)。ホテルの部屋からの眺めですが、良い天気ですね。


プロトタイプのみなさんとはホテルで解散。私たちも9時20分頃に出発しました。


帰りも白河市内で行ってみたい所へ寄り道。「境の明神」へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

目の前の道路は国道294号。江戸時代の奥州街道になります。この場所は福島県と栃木県の県境となります。江戸時代の呼び方ならば陸奥国と下野国の国境ですね。


ここに立つ石碑には、「従是北白川領」と彫られています。「これより北、白川(白河)領」という訳で、国境より北側は白川(白河)藩領だということを示しています。


道路を挟んだ反対側の斜面にも小さな石碑が立っているのが見えます。あとで確認してみましょう。


こちらが「境の明神」こと、境神社です。この社殿は陸奥国側にありますが、下野国側にも対になる「境の明神」があるそうです。






神社に掲げられていた算額。レプリカですが(本物は江戸時代のもののようです。)、和算に関わる神様でも祀られているのでしょうか。


「明治7甲戌年」との銘が入った灯篭。明治7年は1874年なので、150年前のものということになりますね。


先ほど道路わきの斜面に見つけた小さな石碑を確認してみたところ、福島県と栃木県の県境を表す石碑でした。旧漢字が使われているので、明治期から昭和戦前期に立てられたものでしょう。近寄ってしっかりと確認したかったのですが、斜面が急だったので止めておきました。


この後は渋滞を避けつつ迷走(笑)。栃木県塩谷町の道の駅、日光宇都宮道路の日光口PAと休憩を挟みつつ、「華厳の滝へ寄ってみるか。」という話も出ましたが、渋滞・混雑が酷くてスルー。このまま中禅寺湖畔を通り過ぎ、金精峠を越えて沼田市へ出ることに。

こちらは途中で撮った男体山と湯ノ湖。


沼田ICからは関越道・上信越道・長野道と経由し、19時半過ぎに梓川SAでようやく晩御飯。


この後も休憩をはさみつつ、12日(月)0時過ぎに無事帰宅いたしました。
Posted at 2025/03/09 19:13:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年02月15日 イイね!

【岡崎市】千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索

2024年8月3日土曜日、岡崎市の千万町坂の旧道探索と寸五郎坂の探索をしてきました。

やって来たのは、岡崎市千万町町にある愛知県道333号の駐車帯。ここから千万町坂・寸五郎坂と巡っていく予定です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは旧千万町小学校。現在は廃校となり「千万町楽校」と名付けられ、地域再生の拠点施設として利用されています。


県道333号と334号の交差点へ来ました。ここで右折し、県道334号へと進んでいきます。


路肩に10%の勾配標識が現れました。この先から始まる「千万町坂」は、愛知県下にある激しい急勾配の坂の一つとして、自転車乗りの方々に愛用されるコースとなっているようです。時々、自転車乗りの方が峠付近の路肩でへばっていたり、寝転がっているのを見かけます(笑)。


峠付近は深い切り通しとなっています。これだけ深い切り通しだと車道開通以前の旧道がありそうですが、見つけることはできませんでした。


さて、切り通しを通過したところで県道334号を外れて、右側の路肩へと入り込んでいきます。この地点を旧道が通過していたという確信は全然無いのですが、取りあえず突っ込んでみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何となく道筋らしいものが見えているので、辿っていってみることにします。




砂防ダムが現れました。よく書いていることですが、砂防ダムは土砂の堆積により周囲の地形をかく乱してしまうので、廃道探索的には困ってしまいます。


砂防ダムの下流側を眺めると、道筋らしきものが見当たらなくなってしまいました…。まあ、本当にこの沢筋を千万町坂の旧道が通過していたのかは不明なのですが。


砂防ダムの表面には型枠の板の跡がくっきりと残っていて、設置時期は古そうです。銘板を見ると昭和43年(1968年)設置でした。


険しい沢筋が続くだけで、道筋らしきものの痕跡はありません。


炭焼き窯らしき窪みが残っていました。


また砂防ダムが現れました。


砂防ダムを越えると道筋が現れました。ただ、千万町坂の旧道だという確証は得られません。


またも砂防ダムに遭遇します。


砂防ダムから左側へと道筋が付いていたので、そちら側へと進んでいきます。


結局、千万町坂の旧道を見つけることができないまま、県道334号へと再合流しました。ここは素直にあきらめて、このまま寸五郎坂へと進むことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

千万町坂で最も急勾配であることを示す16%の勾配標識。


寸五郎坂の入口へとやって来ました。ここで右折します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

舗装されていますね。路肩に「聖子花姫大神奥宮水神」と書かれた案内板が立っています。この先に神社でもあるのでしょうか。


舗装路ですがとんでもない急坂です。なまじ路面が滑らかなので、足を水平に置ける取っ掛かりが無く、歩いて進むにはかえって辛い状況です(笑)。


車道の終点に来ました。ここから先は徒歩道となるようですが、地道ではなくコンクリート舗装されています。


徒歩道になっても急坂が続きます。




橋が現れました。橋の下には石積みの橋台がありますが、現在架かっている橋に比べて幅広なので、かつてはもう少し立派な橋が架かっていたのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋を渡った先からは地道になります。


この橋を渡るとすぐに右側へと登っていく階段があります。この階段を登ると寸五郎坂の入口に立っていた案内板の神社へ行けるようです。この橋まで舗装されていたのは、神社への参拝客の利便を図るためなのでしょう。

この沢筋にも砂防ダムがありました。右側の斜面へと取り付いて、砂防ダムを越えていきます。


砂防ダムを越えると、寸五郎坂はすぐにつづら折りとなっていました。




道筋の前方がシダ類で覆われています。以前に斜面が崩れたことがあるのでしょう。


寸五郎坂はここで沢筋を離れ、折り返して斜面を登っていきます。






ここは幅広の道筋がきれいに残っています。


また折り返して進みます。


峠までもう少しです。


寸五郎坂の峠に到着しました。峠の名前は不明です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠にある「宮崎音頭」の碑。裏面に彫られた碑文によると、昭和10年(1935年)に立てられたようです。宮崎は現在の岡崎市宮崎町になります。


この寸五郎坂、かつては峠の西側にある木下(きくだし)の集落の子供たちが、宮崎にある学校へと通うための通学路として利用されていたそうです。

山の子供たちが通学路に使っていたという峠道は、往々にして険しい道のりであることが多いですが、この道もまたご多分に漏れない道ですね(笑)。

通学路として使われている訳ですから、木下と宮崎の間の日常の交流にも当然利用されていたわけで、このような石碑が峠に立てられていても何ら不思議はありません。

大きなヤマザクラの木。


峠方向を振り返っています。私は右側の道から歩いてきましたが、左側の道を通っても再び寸五郎坂へと合流することができます。


山の中にこのような石積みが残っていると炭焼き窯の跡かと思ってしまいますが、これはどうも違うような感じがします。


ふたたび舗装路になった寸五郎坂を進んでいきます。峠から木下側は、宮崎側と違って緩やかな坂となっています。




県道333号へと出てきました。あとは県道を歩いて車へと戻っていくだけです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩に祠がありました。


石仏を眺めます。


路肩にヤギの群れがいました。多分、「草刈り」用に放牧されているのでしょう。


また石仏が立っていました。この県道も何度も何度もドライブで通っていますが、路肩にこれだけ石仏が立っていたとは気が付きませんでした。








木下の集落にある秋葉山常夜灯と火の見櫓。


ラリージャパン開催時にはレッドブルのゲートが立てられていたコーナー。2024年開催時はSSルートが変更されたため、設置されなかったようです。


またまた石仏を見つけました。これも今まで全然気が付きませんでした。




県道から右斜めに細い道が分岐しています。旧版地形図によると、どうやらこの道は川沿いを通る県道の旧道に当たる道のようです。ショートカットにもなるので、確認してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠へ向かい直線的に道筋が続いています。




峠まで出ることができました。きちんと切り通しも設けられています。




緩やかに登ってきましたが、峠から進行方向を見下ろすとけっこうな高さがあります。


一気に県道近くまで下ってきました。この先で県道へと飛び下り、車へと戻りました。


今回探索したルートの全体図です。


今回、千万町坂の旧道についての探索は失敗でした。どうやら、私が道を外れた場所よりもさらに進んだ場所から旧道は分岐していたようです。

寸五郎坂は随分以前から存在は知っていましたが、他の訪問者のブログなどで道の概要を知っていたので、なかなか訪れることはしませんでした。今回ようやく訪れて、知っていた情報を追試したといったところですね。
Posted at 2025/02/15 23:57:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2025年02月09日 イイね!

新城市作手田原付近の旧挙母街道を歩いてきました

2024年7月28日日曜日、愛知県新城市作手田原付近の旧挙母街道を歩いてきました。

さて、現代の挙母街道である国道301号と旧挙母街道が分岐する地点へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく旧挙母街道だった路地へと進んでいきます。


道幅はご覧のとおり狭く、私の車だと車幅一杯になります。


左側へと分岐していく道のようなものがあったので、少し探ってみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少し踏み込んでいくと道跡であることがはっきりしてきました。




笹原が現れました。


その後、程なくして道跡はわからなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧挙母街道まで引き返してきたところ、分岐点に石仏が立っているのを見つけました。摩滅がひどく、合掌した立像なのがわかる程度です。古い時代から祀られていたことは間違いないでしょう。


ふたたび旧挙母街道を歩き始めると、たくさんの動物の足跡が道に付いているのを見つけました。イノシシのものでしょうか。


旧挙母街道は峠に向かって一直線に登っていきます。




間もなく峠に到着しました。何の変哲もない景色です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠の周辺を探してみると、やや離れた場所に石組みの祠がありました。


こちらは小さな石柱。表面が読み取れないので、馬頭観音碑のようなものなのか、標石の類なのか、識別できませんでした。


それでは峠を下ってきます。こちら側の道も一直線です。


視界が開けてきて、田原地区の広々とした田んぼを眺めることができます。


峠道を下り、国道301号へとふたたび合流しました。ここで右折して、もうしばらく旧挙母街道の痕跡を探して歩いてみることにします。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道301号の歩道を歩いていくと、「作手三弘法」とある石碑を見つけました。石碑が立っている路地へと入っていってみます。


お寺の門前へと出てきました。山門が石柱になっているのは初めて見ますね。


そして、山門の左側には大きな馬頭観音像が立っていました。


場所はこちら。


この付近の国道301号は、車に乗るようになってから数えきれないほど通行していますが、この場所にこんな大きな馬頭観音像があることには、今まで全く気が付きませんでした。


「明治廿七年秋季」の文言や奉納者の寄附額や氏名が読み取れます。明治27年は西暦1894年なので、130年前に建立された像だとわかります。


この地域の人々が立てたものか、街道を利用する運送業者などが立てたものなのか、そこまでは読み取れませんでしたが、街道を利用する人馬の交通安全祈願のために立てられた事は間違いないでしょう。

馬頭観音像の前を通る路地は、現在の国道301号が通る以前の古い道筋なのかもしれません(荷車が通るには少々狭い気がするので、疑問符は付きますが。)。


馬頭観音像のさらに左側には小さな祠。古そうな石仏たちも並んでいます。


さらに国道301号の歩道を進んでいくと、右側へと分岐している道が。国道301号から滑らかに細道へと分岐しているので、旧挙母街道かもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

里山の裾に沿って細い舗装道が続いています。




間もなく国道301号へと合流。この区間には、石仏などの街道を思わせる遺構は見当たりませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この先は、地形図を見ても国道に沿うような細道が見当たらないので、ここで引き返すことにしました。まあ、「暑い!」というのも理由ですが(笑)。

旧挙母街道の峠を越えて、車へと戻ってきました。




今回探索したルートの全体図と、比較の旧版地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。

徒歩主体の時代には、少しでも距離を短くしたいために山の端を低い峠でショートカットしていたのでしょうが、荷車の利用が盛んになってくると、低い峠とは言え、一直線で一気に上り下りする坂道は難所となったことでしょう。

そのために現在の国道301号が通る、遠回りでも山を迂回するルートへと変更されて、このルートが現在の国道に踏襲されたのだと考えられますね。
Posted at 2025/02/09 08:23:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧挙母街道 | 日記
2025年01月28日 イイね!

「根尾谷地震断層観察館」と国道157号温見峠

2024年7月21日日曜日、弟の誘いで母と三人で岐阜県本巣市にある「根尾谷地震断層観察館」へ出かけてきました。

こちらは途中に立ち寄った道の駅に置いてあった樽見鉄道の車両の模型。


「根尾谷地震断層観察館」へとやって来ました。まあ、何回訪れたのかわからないくらい来てますけどね(笑)。我が家のドライブ目的地の一つとなっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

断層観察館の内部。明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震により出現した「根尾谷断層」を直接観察することができます。




さて、見学を終えてどういうルートで帰ろうかとの話になり、私は「国道418号で関市へ出て帰ればいいんじゃない。」と提案しましたが、弟が「このまま国道157号で福井県へ抜けて行こうよ。」と言うので、「え~、遠回りじゃん…。」と少々抵抗しましたが、「まあ、いいわ。」と弟のルート案で帰宅することに。

国道157号の本巣市根尾能郷側のゲートまで来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

以前はこの場所に「落ちたら死ぬ!」という注意看板が設置されていましたが、無くなっていました。この先、しばらくは道幅が一車線分しかないし、ガードレールも設置されていない。そして谷側の路肩は河原まで高い崖…。そんな看板があったのもうなずける道路状況です。


「落ちたら死ぬ!」区間を無事に通過。次に現れるのは「洗い越し」。現役の国道に存在しているのは珍しいですね。




岐阜・福井県境にある温見峠に到着です。ここへ来たのは、多分これで3回目。以前に来た時は2回とも福井県側から岐阜県へと通り抜けました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

温見峠からは付近にある能郷白山への登山口があります。そのため、峠付近の路肩には登山者の路駐がけっこうあります。


峠から岐阜県側を向いてます。


上から見下ろしての眺め。


岐阜県側を遠望しています。ご覧のとおり、山深い景色が遠くまで続いています。温見峠に最も近い所にあった集落は、岐阜県側も福井県側も現在は廃集落となっているようです。


無住の谷をひた走り、真名川ダムへと立ち寄りました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

母も弟も疲れたのか車から降りようとしなかったので、一人でダムを眺めていました。








この後は国道157号で大野市まで出てから、中部縦貫道・国道158号を走行。白鳥ICから東海北陸道へと乗り、帰宅しました。
Posted at 2025/01/28 21:09:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2024年12月30日 イイね!

越前下山駅・旧下荒井隧道・冠山トンネル

2024年7月13日土曜日、岐阜県~福井県~岐阜県と通過するルートでドライブしてきました。

自宅を出発して、新東名の豊田東ICから高速に乗り、東海環状道・東海北陸道と経由。白鳥ICからは中部縦貫道油坂道路を走行し、越美通洞(トンネル)から先は九頭竜湖沿いに国道158号を進みます。

最初に立ち寄ったのは、JR越美北線の越前下山駅。付近の国道158号を走行している時、いつも気になっていたので、今回は立ち寄ってみました。


当駅は、トンネルとトンネルに挟まれた、わずかな「明かり」区間に立地しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

せっかくなので、駅ホームへと向かいます。


この駅の開業は昭和47年(1972年)12月15日。比較的最近の開業のため(それでも52年前ですが。)、高架化された路線のような簡素な造りのホームです。




旧国鉄駅には付き物の「名所案内」の看板。


しかし、越美北線の末端区間は一日4往復半しか列車が運行されていないので、わざわざ列車で名所案内に記載されている場所へ向かおうとする人は、ほぼいないでしょう。


越前下山駅の駅名板。


ちなみに、名所案内は錆び錆びになった古い駅名板を再利用しています。


越前下山駅の見物はこれくらいにして、移動を再開します。




昼御飯を食べるため、道の駅「越前おおの荒島の郷」へ立ち寄ります。


場所はこちら。


福井名物「ソースカツ丼」をいただきました。


さて、次に立ち寄ったのは、旧京福電鉄越前本線跡に残る旧下荒井隧道。こちらの廃トンネルも、TGRラリー恐竜勝山戦へ出場するために、付近の国道157号下荒井トンネルを通過するたび横目で気にしていた場所です(笑)。


ちなみに、この廃トンネルを含む勝山駅〜京福大野駅間は、昭和49年(1974年)8月12日に廃止されています。

場所はこちら。


トンネル坑門に掲げられている扁額。一文字目はわかりませんが、あとの文字は「〇誠一貫」でしょうか。




この廃トンネルの延長は521.4m。坑口の前にいた時点でわかっていたことですが、トンネル内の靄が濃いです…。


どうやら、内部は全面コンクリート覆工されているようです。トンネルの開通は大正13(1924)年12月20日だそうで(実は2代目トンネル。)、煉瓦造からコンクリート造へと代替わりしていく時期のものですね。


入ってきた坑口を見返しています。今は壊れてしまっていますが、元々は木製の扉を造り付けて封鎖してあったようです。


退避坑。


奥へと進むにつれて靄は薄くなってきましたが、懐中電灯で照らすとまだまだ真っ白になってしまいます。


ふたたび退避坑。


反対側の坑口付近までやって来ました。こちら側には金網が設置されていました。試しに扉を動かしてみましたが、鍵が掛かっているようで、トンネル内を引き返すことが決定しました。


進入した側の坑口に近づいてきました。坑口付近は浅く水没しています。そして、天井アーチ部分にはコンクリート打設時の型枠の跡が無数に付いています。




天井アーチ部に大きな亀裂が入り、そこから水滴がボタボタと滴っています。水没しているのは、この雨のように滴る漏水が原因でしょう。


旧下荒井隧道の探索はこれにて終了。


また機会があれば、今度は初代トンネルを探索してみたいものです。

さて、旧下荒井隧道から走行すること約44km。今回の目的地である国道417号冠山トンネルにようやく到着しました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

冠山トンネルを含む峠区間は国道417号「冠山峠道路」と呼ばれ、令和5年(2023年)11月19日に開通しました。開通したことを知ってから訪れたいと思っていましたが、岐阜県側からも福井県側からも高速道路からのアプローチ距離が長く、何となく今まで行きそびれていました。


ちなみにトンネル延長は4,834m。


冠山峠道路の開通により、国道417号の岐阜・福井県境の未開通区間が直結され、冬期通行も可能になりましたが、冠山峠道路や徳山ダム建設による新規開通区間以外では、まだまだ狭小区間や線形不良区間も残っているので、大型車の通行には厳しい部分が残されています。

この後は国道417号を南下して国道303号へと合流。東海環状道大垣神戸ICから高速道路に乗って帰宅しました。
Posted at 2024/12/30 02:02:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記

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「新車「エブリィワゴン」でドライブしてきました(2) http://cvw.jp/b/1796277/48744226/
何シテル?   11/02 20:24
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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