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小林あにのブログ一覧

2020年04月18日 イイね!

国道151号池場坂の廃道群

2020年4月11日土曜日、新城市池場に残る旧別所街道の旧峠道を探索後、引き続いて国道151号の池場坂に点在する廃道群を歩いてきました。

この国道151号ルートの池場坂、旧峠道から付け替えた区間に相当するのは、新城市側の千歳橋から峠にある池場集落までの2km余の距離ですが、「愛知の歴史街道」によると明治31年(1898年)から明治35年(1902年)まで(「鳳来町誌」によると明治33年(1900年)から明治35年(1902年)まで。愛知県が改修工事を担当。)かかってようやく開通しており、相当難工事であったと思われます。

国道に出てから池場坂の峠方面へと向かい歩いて、最初にやって来たのは滝見橋のたもと。


右側へと廃道があるので入り込みます。






しばらく歩いていくと左カーブとなり廃橋に出ます。


旧滝見橋です。


この橋は4つの親柱が健在で、銘板も残っていますが表面が剥落しているため、何が書かれていたのか全く読めないものもあります。

おそらく「瀧見橋」の表記。




おそらく「須栃澤」の表記。




おそらく「たきみはし」の表記。




ここには改築年月があったはずですが、「改築」の文字だけが読み取れるだけです。




ただ、この橋が昭和戦前期に架橋されたこと自体は間違いありません。「愛知の歴史街道」によると、新城土木事務所の橋梁台帳には昭和10年(1935年)改築とあるそうですし、親柱のデザインが愛知県内の昭和戦前期架橋のコンクリート橋によく見られるものだからです。

欄干もコンクリート製。金属製の枠がはめ込まれていますが、シンプルなデザインです。


中には地味ながら凝ったものもあって、豊橋市二川町の旧東海道に残る「新橋」という1929年(昭和4年)架橋のコンクリート橋は、欄干に金属材で「二川」という文字がデザインされてます(昔、携帯で撮った写真なので画質が悪いです)。


河原に降りて、橋の全景を眺めてみます。


東栄町側の橋台は高く築かれていますが、


新城市側は巨岩の上に低い橋台を築いています。


せっかくなので、橋名の由来となった滝を見に、河原の中を上流に向かって歩いていきます。数分ほどで着きます。

滝へとやって来ました。ちなみに滝の名前はわかりません(笑)。「滝見橋の滝」とか「須栃沢の滝」とか呼ばれているみたいです。




水量は少なく落差もさほどではありませんが(それでも10~20mはあると思います。)、岩盤に囲まれた荒々しい見ごたえのある風景なので、国道からここまで散策路を整備すればいいと思うのですが、いかがなものですかね。


旧滝見橋まで戻ってきました。


廃道を現国道へと向けて進んでいきます。


国道へと出たら、ちょうどライダーさんが休憩していたので、合流地点の写真は撮りませんでした。

ふたたび国道を池場坂の峠に向かい歩いていきます。

次は谷側に短く残るミニ廃道へ。錆びたフェンスの右側にはたくさんの岩石が転がっています。おそらく池場坂の改修工事をした際に切り崩したものでしょう。


人が通れる程度の隙間が路肩側に残されています。これまた茶色に錆びたデリネーターが残っています。


警笛鳴らせの標識が横たわっています。元からここにあったものなのかわかりませんが、あってもおかしくはない立地です。


狭いですねぇ。路肩を踏み外せば谷底まで真っ逆さまです(笑)。


国道へ戻ってきました。


今度は、「東栄チキン」の看板を右へと入っていきます。


ここもちょっとした廃道が残っています。




沢は暗渠で越えています。道幅狭いです。


すぐ国道に合流します。国道に出て、次の右カーブを曲がれば池場坂の峠です。


車へと戻ってきました。出発してからちょうど3時間です。


車に乗り込み、最後に滝見橋よりもさらに下にある廃道へと向かいます。

豊川用水佐久間導水路の放水口へと続く作業道の出入口前に来ました。出入口付近は駐車できるほどの幅広い路肩があります。


その路肩の新城市側の端にミニ廃道があります。


この廃道は、先ほどの谷側にあるミニ廃道よりもさらに道幅が狭く、多分、明治時代の車道の名残りかもしれません。


東栄町側はかさ上げされていて幅が広くなっています。


次は、国道を斜めに渡って反対側へと入り込んでいきます。


入り込むと明瞭な道跡が残っています。山側の路肩は石積み擁壁で固められています。


左カーブの先にかつては橋があったようです。




現在は築堤で沢を渡るようになっています。上流側は石で埋め尽くされており、実質、砂防ダムと化しています。


ここに立っていた保安林の標識。標識に表記されている国道が改修前の旧ルートで描かれています。


築堤を渡り、先へと歩いていきます。この辺りも石積み擁壁がしっかり残っています。


路肩に昔のガードレールの支柱が残っています。


国道へと戻ってきました。旧国道は、さらに右側の山の斜面に沿って峠へ向かっていましたが、現国道への改修工事により削り取られてしまいました。


「愛知の歴史街道」などによると、国道151号池場坂は半年以上通行止めにして一気に道路改修を行い、昭和47年(1972年)10月に現在ある対向2車線の道路になったそうです。通行止めの間は、愛知県道32号仏坂トンネルを迂回路にしていたとか(このトンネルが開通したことを受けて、改修工事を始めたそうです。)。この道、けっこう狭い所があるし、急坂なんですけどね。迂回距離も長いし。

これで国道151号と別所街道はひとまず終了。まだこの先、東栄町内にいろいろありますし、別所街道池場坂旧峠道をもう少し詰めたいところもありますが、世情が落ち着くのを待って再開といったところですかね。
Posted at 2020/04/18 20:06:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2020年04月11日 イイね!

別所街道池場坂の旧峠道を歩く

2020年4月11日土曜日、本日は新城市池場へとやって来ました。


かつて、この地区を通る街道は別所街道と呼ばれ、新城市川合から池場に至る「池場坂」は街道の難所の一つでした。今回ここを訪れたのは、別所街道池場坂が現在の国道151号ルートに切り換えられる以前、明治22年(1889年)から明治35年(1902年)まで、別所街道として利用されていた旧峠道を探して踏破するためです。

ちなみに、旧峠道は「鳳来町誌」によると、明治21年(1888年)から翌年にかけて開削工事が行われたそうです。工事費用は、当時の金額で公費負担が3,200円余、地元の四か村(村名の記載なし。)が5,800円余を負担したそうです。

1枚目の写真の桜の木の下から右側へと分かれる道へ入っていきます。路肩に古い石積み擁壁がありますが、この道自体が池場坂の旧峠道であったのかはわかりません。


今歩いている道は、谷沿いに出ると旧峠道よりも高い所を通ることになるはずなので(この道は池場地区の西側にある松平地区へおおよそ水平に向かう道のため。)、下方に道跡がないかを探していきます。

そのうち道跡らしきものが続いているのを見つけたので、この場所まで戻ってきて、ガードレールの隙間から谷側へと斜面を降りていきます。


はっきりとした道跡がありますが、これが目的の旧峠道なのかまだわかりません。ひとまず道跡を辿っていきます。


崩れ落ちてきた大量の石で道跡が塞がれていますが、乗り越えて先へと進みます。


ふたたび道跡が現れました。


路肩に古そうな石積み擁壁があります。簡易な造りである作業道ならこういう物はありませんし、進んでいる方向からみても、おそらくこの道跡が別所街道池場坂の旧峠道で間違いないでしょう。


しばらくの間、旧峠道は断続的に塞がる・現れるを繰り返していきます。




道跡に碍子が落ちていました。マークからして日本碍子製ですね。「2602」とあるので、皇紀2602年=昭和17年(1942年)製ということでしょうか。陶器は何年経ってもきれいですよね。


道跡を横切る沢がありました。石積みの橋台が残っています。


石垣に沿って旧峠道は続きますが、


この先で、上を通る松平地区との道路から下ってきたと思われる(確認していないので。)林道に塞がれてしまいます。旧峠道を徹底的に辿るつもりでなければ、この林道でアプローチするのも良いかもしれません。


林道に出てきて撮った写真。写真中央辺りで下り坂から水平に戻るので、そこからは旧峠道の路面が復活しているようです。


日が当たるやや開けた場所に出ました。旧峠道は、沢を渡りながら大きく左へとカーブしていきます。


ここには何らかの建屋があったようです。敷地内に大量の瓦が散らばっていました。


沢には橋ではなく土管が埋まっています。


道跡の真ん中にコンクリート製の電柱が立っているのが見えます。


近づいてみると何も取り付けられていません。一体何の用途のために立っていたのでしょうか?


また、石積み擁壁がありました。


廃道となり放置されていると思っていたら、コンクリート擁壁で補修されている所が現れました。車が通行している形跡は特に無く、補修する理由がいまいちわかりません。


地形が険しくなるにつれて、旧峠道の様相が段々と私好みになってきました(笑)。




大きめな石を用いている擁壁。


写真ではわかりづらいですが、傾斜のきついスラブ地形に道を通すために、下段に低くて幅広な土台を築き、その上に高い擁壁を造って道を通しているようです。


岩の崖を切り開いて造られた道が続きます。いい光景です(笑)。




このような区間も石積み擁壁で道幅を確保。


険しい地形ですが、馬車や荷車が通れるように緩やかな坂で巻いていきます。




昭和53年(1978年)の治山工事の標石。所々にあったコンクリート擁壁は、道路の補修ではなくて治山工事に関連するものなのでしょう。


山側の斜面が大きく崩落していて、たくさんの倒木が旧峠道にかぶさっていましたが、木々の隙間をうまく通り抜けられました。




倒木区間を通り抜けて、右カーブを曲がると直線区間が現れました。




この直線区間の先に砂防ダムがあります。川の名前は「南沢」と呼ぶようです(少し下流に架かるJR飯田線の橋梁名が「南沢橋梁」だったので。)


その砂防ダムのすぐ下流側に橋台の跡がありました。


ちょっと変わっていたところは、クワガタみたいに川に向かって二筋の橋台が伸びていたこと。左側は2m幅くらいの築堤で両側に石積み擁壁があり、右側は幅の薄い石垣のみ。最初は左側のみで、後に右側に石垣を造って、間に土を盛って幅を拡げたということなのか?

対岸から眺めた橋台。


対岸の旧峠道はすぐに川に抉られて無くなっていました。




写真中央の木が生えている所が旧峠道の続き。


上に登ってみてちょっと驚いたのが、河原に築堤を築いて道路にしてあること。ここは山側が大きな崩落地(巨石がゴロゴロ。)なので、意図的に河原を通したのかもしれません。




両側を石積み擁壁でしっかり固めて造られていますが、川が荒れた後の道路の保守が大変そうです。


築堤の先端へ来ましたが、この先の道跡が川を渡ったのか、このまま同じ岸を進んだのか、パッと見わかりません。


築堤の下へ降りてみたところ、石積み擁壁が川へ向かって曲がっていたので、対岸へ進むことにします。


南沢は一面に白色系の石が転がるだけで、水は全然流れていません。枯れ山水のようです。


対岸へと登り直し、進んでいきます。この辺りで川の反対側を見ると、山肌が一気に川へと落ち込む地形になっていて、道をこちら側に通した理由がわかりました。


何気に見上げたら、先ほど歩いてきた旧峠道が目に入ったので1枚。


さて、この旧峠道へ来るにあたり、前情報として「明治30年の石仏がある。」(これは今回見つけられなかった。)ことと「JR飯田線のトンネルの近くに切通しがある。」という2点をここを探索された方の著作から掴んでいました(「愛知の歴史街道」という本は本当にありがたい本です。)。ただし、切通しがどのような場所にあるのかコメント以外は手書きの地図が載せられているだけで、具体的なものではありませんでした。

対岸に渡ってから大体直線に歩き(道跡が不明瞭なので。)、蛇行してきた南沢に突き当たった所で正面を見ました。


「もしかして切通しってあれのこと!?」。確かに岩脈を四角に切り抜いています。しかし、川を渡った先にあるとは予想していなかった…。ここにも橋があったということですよね?でも、川で洗われてしまったのか橋台がわからない…。


とにかく、また白い石に埋もれている南沢を渡ります(川の左岸上にも道跡らしきものが続いていたので、もしかして旧旧道なのか確認しておきたかったけど、もう疲れてきていたので次の機会にしました(笑)。)。


切通しの下の岩場が良い足場になったので、苦もなく切通しに取り付くことができました。




しかし、今ならば何ということもないルート設定ですが、先ほどの河原の築堤と橋梁が2つ連続する構成は、橋梁の建設技術や保守管理、河川の治水管理がまだしっかりしていない明治時代としてはどうだったんでしょうかね?ほとんどの古い車道は多少道路線形が悪くなろうとも、保守が大変となる橋の設置は徹底的に避けて、本当に避けようも無くなるとやっと橋を架けるというパターンですからね。

別所街道池場坂は、旧峠道から現在の国道151号ルートへ明治31年(1898年)から明治35年(1902年)までかかって開削工事を行い変更されたそうです。(「愛知の歴史街道」による。「鳳来町誌」によると明治33年(1900年)から明治35年(1902年)。)。

それは旧峠道の道路保守が大変だったからじゃないのかなと(特に南沢の影響を受ける区間で。もちろん道路改良の意図もあるはずですが。)。まあ、現国道ルートも旧峠道より高く険しい地形を開削して造られており、また、深い沢を3つ越える必要があるので、どちらを取っても維持管理の大変さは変わらなかったでしょうけど。

切通しを抜けた先は高い築堤になっていました。


JR飯田線に出てきました。線路の向こう側に旧峠道が続いています。この辺りの飯田線が開通したのは昭和8年(1933年)。その当時は踏切があったのでしょうかね。


左右をよく確認して反対側に渡ると、使い古しの電信柱が地面にゴロゴロ転がっていました。


電柱の左側へと入り込むと旧峠道が再び現れます。




ここにも立派な石積み擁壁。


道跡が崩れている所を越えると、


ふたたびJR飯田線の脇に出ました。


ここから横を流れる川へ向かって地面が突き出しています。


これを下から見上げると石積みで造られている様子。


「橋の跡かもしれないから念のため。」と思い、川を渡って対岸をしばし探索しましたが、道跡らしきものは見つからず、何のための突起であるかはわかりませんでした。


この付近は谷の幅が広いので、架橋するには適当な場所ではないですが(川幅が狭い所が良い。)、旧峠道がどうやって国道151号側へ合流していたのかはわからないので、無駄足になってもチェックはしておきます。

もう一度川を渡って戻り、JR飯田線の脇を通り抜けていくと、


ふたたび道跡らしくなってきました。


木製の電信柱が残っています。


きちんと組まれた石垣。ここはかがんで岩の下を通り抜けていきます。


崩れた道跡を越えていきます。


やがて道跡が山肌に突き当たると、左へと折れて一気に川側へと下り、


そして道跡は消えてしまいました。山の斜面全体が石張りされているので、もしかしたら治山工事に伴って、本来の道跡は消滅したのかもしれません。


歩けるスペースは続いていたので、そのまま進んでいったら、橋がありました。


橋を渡り、もう少し下流側へと進んでみると放水口と思われる施設があり、覗き込むと「豊川用水佐久間導水路4号トンネル」とありました。


佐久間ダムから豊川用水へ融通される水が通る水路トンネルです。ここから豊川水系へ放出されるわけですか。

これで出て来た場所はわかりましたが、ここから登っていっても国道への出入り口にフェンスがあることもわかったので、違うルートで国道まで登ることにします。斜面を見上げてみると、中腹に平場が続いているのが見て取れたので、まずはそこへ向かい斜面を登ります。

作業道なのか獣道なのかわかりませんが、これだけの踏み跡があれば歩くのには十分です。




何とか国道151号へ出ることができました。


最後に旧峠道の下流側が、どのように国道151号へ合流していたのか何とか探し当てたかったのですが、あれだけ地形が改変されてしまっていると確認のしようがないですね。

しかし、これだけしっかりと道跡が残っていたのは収穫でした。難所でしかも明治30年代には街道指定から外された道なので、もっと荒れていることを心配していましたが、その後も山林管理の作業道などに利活用されていたのかもしれません(少なくとも1か所では他の道と繋がっていたわけですし。)。それから、河原を通る道路築堤は本当に珍しくて、個人的にはこれが一番大きい収穫ですね。

まあ、少なくとももう1回、石仏探しと切通し付近の道跡らしきものの追跡確認のために訪れないといけませんけどね。

※追記
2020年4月26日日曜日、再訪して石仏探し。道沿いの岩陰に立っていました。


馬頭観世音碑です。光背部には「明治三十年(1897年)四月一日」と日付けが彫られています。


台座には石碑を建てた「長岡馬車連」の銘。別所街道を往来していた馬車の組合といったところでしょう。


「長岡」は、池場坂の東側の麓、現在のJR飯田線東栄駅周辺を中心とした地域です。明治30年の時点では、近隣の村々と合併して三輪村となっています。

池場坂の難所を通る道沿いに馬車連が馬頭観音を建てて安全祈願(もしくは事故に遭った馬の供養。)をするのはもっともだと言えるでしょう。

あと、この石碑がこの場所にあることで、この道が明治30年当時は別所街道であった傍証にもなるわけですね。
Posted at 2020/04/12 00:25:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2020年04月05日 イイね!

国道151号月見橋廃道・ねぶき峠・宮下橋旧橋

今日は、以前から気にしていた新城市能登瀬と名越の間にある古道の峠「ねぶき峠」を歩いてみようと思い、出かけてきました。

「ねぶき峠」へ行く前に1か所寄り道。新城市名号にある国道151号月見橋の廃道です。



現道は宇連川と支流の奥山川の合流地点直前に橋を架けて直線で通過していますが、かつては橋の手前で右に曲がっていました。



廃道自体は大きく左カーブを描いています(飯田方面を向いた場合。)。右手側は岩が露出した崖になっており、崩落が多かったと思われます。







この廃道にはスリップ注意の標識が残っています。



草食べてますけどね(笑)。



廃道自体は200~300m程度と短く、すぐに国道へと戻ります。



国道に廃道がつながる直前に橋が残っています。橋というよりは、ボックスカルバートでしょうか。



橋には親柱が残っていますが、銘板は全て外れて(外されて?)いました。



あと、この廃道は、スリップ注意の標識の位置や、橋の親柱や欄干が頭頂部しか見えないことからみて、路面を土砂で埋めてしまってあるようです。

国道へ出てきた所から駐車場所を眺めてます。直線だと100mくらいです。



さて、少し新城寄りにある駐車帯へと移動して車を停めて、本題である「ねぶき峠」へと徒歩で向かいます。

国道151号と名越の集落を通る旧道との分岐点です。



路肩に見覚えのある形をした石碑を見つけました。



道路元標ですね。大正時代の道路法により道路の始終点を表示するために各市町村に設置された標石です。私の住む安城市にも残っています。



「七郷村」とあります。七郷村は1906年(明治39年)から1956年(昭和31年)までこの地域に存在した村です。



道路元標は、設置当時の市町村の役場付近や中心街などに設置されているケースが多いので、どうしてこんな村はずれの路肩に立っているのかと思いましたが、帰宅してから当時の設置場所の住所を調べたところ(道路元標の現存確認や各種データを公表している方々がいるので。)、昔からこの辺りにあったようです(当時の設置場所の字名と現在の設置場所の字名が同一。)。

つづいて道路元標のすぐ先に現れたのは、四国八十八カ所巡礼を模した石仏群。



令和元年にここへ移動してきたようですが(移動工事の協力者一覧が掲出されていたのでわかりました。)、元々どこにあったのかまでは記載されていませんでした。



のんびりとした山村風景の中を歩いていきます。





名越の集落を抜けて、「ねぶき峠」の入口にやって来ました。





峠への入口に石仏があります。古くからの峠道だと感じさせるものです。



今いる名越の集落とこれから峠を越えて向かう能登瀬の集落の間にある「嶮曲がり」と呼ばれた宇連川沿いの崖地の難所を開削して、現在の国道ルートの道ができたのが明治16年(1883年)頃だそうです。この道は、豊橋と北設楽郡東栄町を結ぶ新街道(名称は別所街道。)の一部として整備されたものでした。

まあ、そこから考えれば、明治16年頃までは難所の「嶮曲がり」を避けて「ねぶき峠」を越えるこの峠道がメインルートだったわけです。

というわけで、古道らしい雰囲気を味わいたくてやって来たわけですが、どうもすっかり林業用の作業道に改修されてしまったようです。この真新しいコンクリート舗装…。



2年ほど前にこの峠を訪れた方が撮った写真では、やや幅は広いながらも普通の山道だったのですが…。

とにかく、ほぼ一直線で急坂を登り(これは昔から変わらないようです。)、「ねぶき峠」に到着しました。入り口の石仏から10分ほどです。切通しの右側が見事に抉り取られています…。



切通しの左側は往時のまま。峠の石仏たちが鎮座しています。



ここの石仏に「石切地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがあります。本体が割れている左から一体目か二体目の石仏のことだと思いますが、特に説明はありません。



これについては、「昔、修行中の武士が「ねぶき峠」を通りがかった際、急な雨のために峠のお堂で一夜を過ごす羽目になり、お堂で寝ていたところ、夜中に怪物が現れたので切り付けたが姿が無かった。朝になり、お堂の中を見回すと、2つに切り裂かれた石地蔵が転がっていた。」というような昔話があるそうです(相当端折っていますが。)。

ここからは下り坂になりますが、この先の峠道も作業道と化してしまい、結局、古道らしいところは全然残っていませんでした…。





峠道の能登瀬側は、平成25年度(2013年度)に改修されてしまったようです。



ちょっとほっこり、防火の看板。



ここからは古い林道のようで、道の雰囲気も柔らかくなってきました。



小さな切通し。



ここに石仏が一体、安置されていました。



石仏の光背の文字は摩滅して読めませんでしたが、台座には「道中安全」と彫られていました。



この切通しを抜けたら能登瀬の集落へと出ました。



そのまま真っ直ぐ進むと国道151号に合流。湯谷園地の前でした。



ここから国道151号を新城方面へと歩いていきます。

国道と旧道の分岐点が現れました。



この分岐点にあるのが「能登瀬の大銀杏」。すごい形をしていますが、江戸時代後期に落雷に遭っているそうです。



特に目立つものも見当たらずに旧道を通過。「ゆーゆーありいな」の出入り口で引き返しました。



旧道沿いの小屋に置かれていた鬼瓦。「學」の文字が入っているので学校で使われていたものかもしれません。



「能登瀬の大銀杏」の下にある石仏たち。



今度は「能登瀬の大銀杏」からやや戻ったところにある分岐を右斜めに入っていきます。現道から斜めに分かれていく道は旧道であることが多いので、歩いてみる価値はあります。



しばらく歩いていくと路肩に大きな石碑がありました。説明板があり、「舟井戸と名号碑」とあります。



石碑には「南無阿弥陀仏」と彫られています。石碑の右隣に湧き水があり、これを舟井戸と呼ぶようです。あと、説明板には「この泉の前の名越方面へ通ずる旧道…」とあり、国道から分かれて歩いてきた道が「ねぶき峠」への旧道であることもわかりました。

桜が満開というか散り始めですかね。



小さな橋に来ました。橋名は「宇頭橋」とあります。



この橋の先の右側にある石垣の下に小さな道標がありました。



「左 村」「右 川合」「道」と読み取れます。それ以外は何も刻まれておらず、いつ置かれたものか見当が付きませんが、「ねぶき峠」の方向である右側に「川合」(おそらくJR飯田線三河川合駅のある集落。)とあるので、別所街道が宇連川沿いに開通した明治16年頃よりも前のものかもしれません。

帰りも峠を通るので、右側へと入り込みます。こういう道に慣れていないとちょっとためらわれる光景ですね(笑)。



短い坂を上がると、行きに通った石仏がある小さな切通しの前に出ました。



帰りも石仏を眺め、



急坂を休み休み上り、



急坂を一気に下って、



名越の集落へと戻ってきました。能登瀬側の小さな切通しからここまで25分くらいで峠を越えてきました。



このまま車には戻らず、名越の集落内の旧道を新城側へと歩いてみます。



「愛知県民の森」へ向かう道に出たので、右折して橋を渡って宇連川の対岸へ行こうとしました。が、橋の下流側に古い橋の橋脚を発見。渡るのを止めて、近くへ下りられる場所を探します。

宇連川の橋のたもとにある神社の境内を抜けて川に近づいたところ、現橋の下に道跡がありました。



コンクリート製の橋脚。このマッシブな感じは戦前架橋のものでしょうか。現橋の名称が宮下橋なので、おそらく旧橋も同じ名前でしょう。





橋台へとつながる築堤。石積み擁壁で覆われています。幅は軽トラサイズでしょうか。



河原からの眺め。現橋よりも低い所に架かっています。この高さだと、橋を渡ってすぐにJR飯田線の踏切も渡り、ようやく対岸に出るかたちだったでしょう。







さらに旧橋の築堤の下流側には土に埋もれていますが水辺へと向かう階段があります。



先端には段差が付けられているので、板などを掛け渡すタイプの橋があったのでしょう。旧橋以前のものかもしれません。



橋への道跡は現橋の下で無くなってしまいます。





その先、神社付近をどのように道が通っていたのかはわかりませんでした。現橋をくぐった先にある神社の境内には道が通っていた雰囲気は無いので、現橋とルートが重なっているのかもしれません。

今回は、短い廃道、古道の峠道(作業道でしたが…。)、旧道歩き、廃橋とバラエティに富んだ行程でした。予定していた以上に歩き回りましたが、これでも2時間40分くらい。休日の散策としてはちょうどいいくらいですかね。
Posted at 2020/04/05 23:52:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2017年05月20日 イイね!

国道151号太和金峠旧道を歩いてきました

今日は国道151号新太和金トンネル付近、太和金峠に残る旧道を歩いてきました。

今回は峠の北側の林道(旧国道を整備し直した道)を使い、峠のすぐ近くまで車で乗り付け。


車から徒歩1~2分、太和金峠に到着です。峠の頂上付近はなだらかな地形なので、眺望は利きません。


ここは別所街道とも呼ばれていて、古くから遠州・奥三河・信州をつなぐ街道筋ですが、峠に残るものはこの石仏しか見当たりませんでした。


ここから峠の南側にある旧道と国道との合流地点まで徒歩で往復してきます。


この旧道の改良のためにトンネル(太和金トンネル)が開通したのが昭和33年(1958年)。約59年前に国道としての役目を終えた道路ということになりますね。

峠へ至る道は地形が険しく、斜面に石垣を組んで道路幅を確保している所がたくさんあります。


今で言うガードレールの名残ですね。




太和金峠の別所街道は、明治末期に車道(馬車・荷車道)に改良されたらしく、緩やかな勾配が続きますが道路幅は軽四が通れる程度です。






ガードレールの名残がある2か所目。この2か所以外は転落を防止する設備の痕跡は見当たりません。




旧道は峠まで登るため、トンネルで通過する現国道とは大きな高低差があります。




現国道と合流です。


合流地点から少し下った場所に残る旧道跡です。高い石積みの擁壁が残ってます。




さらに下ってみましたが目立った遺構は無かったので、再び合流地点へ戻ってきました。


良い感じの緑の道です。


旧道から新太和金トンネルを見下ろします。


車で峠を下りて、太和金トンネルの北坑口に来ました。


工事により通行止めとありますが、廃止しないのでしょうかね?

こちらは新太和金トンネルの北坑口。トンネル前で大型トラックの待避をする必要もなくなりました。


この後は帰路の途中に寄り道して新城市・設楽町境にある旧伊那街道与良木峠へ。

峠近くの廃道に残る石仏群。






與良木隧道。愛知県内に現存する近代道路トンネルでは最古のものです。








トンネル内は一部のみ石積み。コンクリート覆工部分は素掘りのままだったかもしれません。

トンネルの真上に残る峠道と馬頭観音碑。




近くにもう一つあるという街道の峠へ行ってみようと思いましたが、周りで猿の鳴き声がしていたため止めました。
Posted at 2017/05/20 23:13:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記

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「「竜ヶ岩洞と「立須」へ行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48621981/
何シテル?   08/26 23:23
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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