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小林あにのブログ一覧

2025年06月08日 イイね!

奈良市内の寺社を一人巡ってきました

2025年3月22日土曜日、奈良県奈良市の市街地に点在する寺社を一人徒歩で巡ってきました。

最初にやって来たのは東大寺転害門。国宝に指定されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、私は東大寺などを訪れる時は、もっぱら東大寺転害門近くの観光用駐車場を利用しています。ここは東大寺大仏殿・興福寺などから離れた場所にあるので、多少遅い時間に到着しても駐車場が空いているからです。距離を歩くのも苦になりませんしね(笑)。

そんな立地なので、転害門を訪れる人はあまりいません。おかげでじっくり眺めることができます。




いつもなら東大寺大仏殿を目指すところですが、今回はほとんど訪れたことがない二月堂へ行ってみることにします。




二月堂へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

二月堂は、松明を用いた「お水取り」で知られている堂宇ですね。国宝に指定されています。




二月堂から大仏殿の屋根を眺めます。


二月堂から大仏殿を目指して移動していきます。やはり東大寺へ来たなら、大仏様を拝みませんとね。

手向山八幡宮。東大寺の鎮守社として創建されたことを由来としているそうです。


東大寺鐘楼。鎌倉時代前期に再建されたもので、国宝に指定されています。


梵鐘。国宝に指定されています。東大寺大仏開眼供養に際して鋳造されたもので、天平勝宝4年(752年)に完成し、大仏開眼供養の前日に鐘楼(現存している鐘楼ではない。)に懸けられたそうです。高さ386cmと巨大な梵鐘です。


大仏殿へと来ましたが、受付で入場者が長い行列を作っていたので、結局そのまま素通りしました。


そのまま南大門へとやって来ました。この山門も鎌倉時代前期に再建されたもので、国宝に指定されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

写真で見るとそれほどの混雑に感じませんが、これは門の前後が広くなっているからで、参道自体は人をかき分けながら進むような有様でした。


次は春日大社へ行ってみることにします。


南大門から歩くこと15分あまり。春日大社へと到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

訪れた時は本殿への特別参拝が行われていました。せっかくの機会なので、参拝することにします。

春日大社中門。重要文化財に指定されています。ここ中門から本殿を参拝します(本殿は撮影禁止なので写真はありませんん。)。


こちらは、中門から続いている御廊と釣り下げられている燈籠群。


こちらは「万燈籠神事」を再現した部屋。なかなか幻想的です。


大杉の下から中門を眺めます。この大杉は、樹齢800年から1000年と推定されているそうです。


さて、春日大社から更に足を伸ばして、新薬師寺へと向かうことにします。

15分ほどで新薬師寺に到着。こちらの本堂は奈良時代の建築で、国宝に指定されています。


新薬師寺へやって来た目的は、奈良時代に製作された国宝の十二神将像の拝観。堂内の撮影は禁止されていますが、団体客が一組いただけだったので、じっくりと神将像を眺めることができました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いては興福寺へと向かいますが、奈良国立博物館へちょっと寄り道。当日入場できた仏像館と青銅器館を見物しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは撮影が許されていた奈良県金峯山寺の金剛力士像。同寺の仁王門の修理のために、こちらへ搬出されてきました。金剛力士像自体も保存修理され、仁王門の修理が完了するまでの間は当館で展示されるそうです。


足元から間近で見上げると、その巨大さを実感できますね。


こちらは青銅器館に展示されている古代中国の青銅器。異形の形状や執拗なまでに鋳込まれた文様など、古代中国の青銅器はけっこう好きなんですよね(笑)。




さて、興福寺へとやって来ましたが、五重塔は修理中だったんですね。残念…。


場所はこちら。


こちらは再建された中金堂。


この後は国宝館で八部衆像や十大弟子立像をじっくりと見ていました。もう何回見に来たのかわかりませんが、見飽きませんね(館内撮影禁止なので写真はありませんけどね。)。

最後に東大寺戒壇院へとやって来ました。こちらは奈良時代に造られた四天王像が現存しています。ここの四天王像も好きで、東大寺を一人で訪れた時には割と立ち寄っています(堂内は撮影不可なので写真は無し。)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は一人で訪れたのをいい事に、いろんな寺社を歩き回りました。仕事や職場でのストレスがけっこう溜まっていたので、これで少しは発散できました。


今回歩き回ったルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2025/06/08 21:58:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年05月06日 イイね!

正月恒例の家族旅行へと出かけてきました(2)

2025年1月2日・3日の両日で正月恒例の家族旅行へと出かけてきました。1月2日は小豆島を観光。その後は高松市へと移動して、市内のホテルで一泊しました。

1月3日、宿泊先のホテルを出発します。


この日は、「いままで高松市は通過するだけで、どこにも行ったことがない。高松城へ行きたい。」との私の要望により、高松城跡である玉藻公園へとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

高松城は1590年(天正18年)に生駒親正により築城された城です。高松藩主となった生駒氏は、1640年(寛永17年)のお家騒動により当時の藩主が出羽国矢島(現在の秋田県)へ配流の処分を受けました。

後任として1642年(寛永19年)、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸国下館(現在の茨城県)から高松へ入封します。

以降は明治維新まで、松平家(高松松平家)が高松藩主として存続しました。

ここ高松城跡の外縁を通っている、「ことでん」こと高松琴平電鉄の電車が走ってきました。


まずは駐車場から艮(うしとら)櫓を望みます。艮櫓は1965年(昭和40年)に城内の別の場所から移築されてきた櫓だそうで、国の重要文化財に指定されています。


それでは公園内へと入っていきます。正月期間中ということで、入場料は無料でした。


さらに艮櫓をもう1枚。


東門から入場して、艮櫓の横を通り抜けていきます。


天守台が見えています。天守は1884年(明治17年)まで残っていたそうですが、老朽化により解体されてしまったそうです。


こちらは桜御門。1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失しましたが、2022年(令和4年)に木造により復元されました。




こちらは披雲閣。松平家の高松別邸として、3年の歳月と15万円余りの巨費を投じて1917年(大正6年)に完成したそうです。現在は国の重要文化財に指定されています。






内部が見学できるので、見て回ります。建物は木造和風建築の2階建て。建築面積は1916㎡あるそうで、案内が無いと迷子になりそうです(笑)。










こちらは2階からの眺め。披雲閣庭園と月見櫓を見ることができます。


披雲閣から公園内を移動して天守台へとやって来ました。


天守解体後は、初代藩主である松平頼重を祀る「玉藻廟」が建っていましたが、天守再建に向けての調査のために解体され、発掘調査が行われたそうです。


天守台から瀬戸内海へとつながる堀の眺め。


鞘橋。天守があった本丸と二の丸をつなぐ橋です。橋が架かる堀の奥には高松築港駅のホームが見えています。


天守台に設置されている説明板。天守の復元再建が計画されているようですが、現存当時の外観写真は存在するものの、内部の詳細な図面等が発見されていないため、文化庁からの再建許可が下りず、なかなか難航しているようです。


続いては城跡の北側に建つ月見櫓へと向かいます。


櫓の真下まで来ましたが、中へ入る前に手前の水手御門をくぐって堀へと出ます。




堀から見た月見櫓。こちらも国の重要文化財に指定されています。高松城跡の写真というと月見櫓を写したものが多い気がします。


こちらは城内側からの月見櫓。


櫓へ入る前にちょっとひと休憩。


櫓の内部。江戸時代から現存する天守や櫓は、とにかく急な階段が厄介ですよね。母が階段を上り下りする時は必ず姉弟で前後をガードしてました。


月見櫓からの眺め。






これにて見物終了。ふたたび公園内を通り抜けて、駐車場へと戻ります。








思っていたよりも高松城跡で時間を費やしてしまったので、これにて四国から脱出することにします。高松中央ICから高松道に乗り、淡路島を経由して本州へと向かいます。

大鳴門橋を通過。残念ながら渦潮は見えませんでした。




さて、姉の要望で淡路島内で寄り道。伊弉諾(いざなぎ)神宮へとやってきました。この神社は淡路国の一宮で、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

当然と言えば当然なんですが、初詣の参拝者で大行列…。


表神門に掲げられている扁額。


お参りを済ませて、ふたたび鳥居の前へと戻ってきましたが、まだまだ参拝客がやって来ていました。


こちらは神社への出入口に立っていた「多賀村道路元標」。道路元標は、1919年(大正8年)の旧・道路法施行令公布により設置された石造の標識です。


ここから神戸淡路鳴門道へと戻っても良かったのですが、このまま淡路島の西海岸を兵庫県道31号で進んでいくことにします。

途中で野島断層保存館へ立ち寄ってみましたが、閉館時間間際ということで入館できませんでした。

次に立ち寄ったのは、淡路島のほぼ北端にある江埼灯台。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の上にあるようなので、登っていってみることにします。


歩いていくと説明板が立っていました。1995年(平成7年)の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)で被った損害を修復したことが書かれています。




確かに、灯台へと続く階段は大きく歪んだままになっています。




こちらが江埼灯台です。灯台の一般的なイメージだと背が高く細い塔ですが、こちらの灯台はどっしりとした構えです。


初点灯は1871年(明治4年)で、1867年(慶応3年)4月に兵庫開港に備えて幕府が欧州列強と設置を約束した5か所の灯台(江埼、六連島、部埼、友ヶ島、和田岬)の内、最初に建設されたものだそうです。国の重要文化財に指定されています。


さらに海沿いを進んで明石海峡大橋をくぐり抜けて、岩屋港まで来ました。


岩屋港の駐車場に車を停めて、徒歩でやって来たのは絵島。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

絵島は、西行法師や平清盛に縁がある島だそうです。


こちらは絵島のすぐ近くにある大和島。こちらは柿本人麻呂に縁のある島とか。壁面が浸食されて、奇妙な模様となっています。




しばし海岸を散策。


夕闇に沈む明石海峡大橋。


駐車場へ戻るために絵島の前を通ったら、ライトアップされていました。


17時を回り、どこかで晩御飯を食べようかと港周辺で探してみましたが、やはり正月休みのようで開いているお店は無し…。そのまま淡路ICから高速道路に乗り、帰路へとつきました。
Posted at 2025/05/06 13:45:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年05月05日 イイね!

正月恒例の家族旅行へと出かけてきました(1)

2025年1月2日・3日の両日で正月恒例の家族旅行へと出かけてきました。目的地は香川県の小豆島。あとは流れで立ち寄る場所を決めることにします。

まあ恒例とは言いましたが、ゴールデンウィークに出かけることもあります。ただ、母も歳を取ってきてから遠方へ出かけるのが体力的につらいことが増えてきたため、長期休みでの旅行自体をしないことも増えてきました。

今回は深夜2時15分頃に自宅を出発。伊勢湾岸道・新名神・名神・新名神・山陽道と経由していきます。

山陽道山陽ICで高速を下り、ここからは下道を走行。国道2号岡山バイパスを経由して、朝7時25分、小豆島へのフェリーが出ている新岡山港に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

出航時刻まで十分余裕がありましたが、まずは車検証を持参してフェリーのチケットの購入手続きをします。以前来た時は窓口で車検証を提示して購入しましたが、ここにも自動券売機の波が押し寄せていて、自分で車検証記載の全長を確認の上、車両用と乗船用のチケットを購入しました。

その後、待つこと1時間少々。小豆島からのフェリーが到着しました。


フェリーへと乗り込んだところで、屋上を見て回ります。






新岡山港のフェリーターミナルの全景。こじんまりとした施設です。


8時40分過ぎ、フェリーは小豆島へと向かって出航します。港からしばらくの間は、餌をおねだりするカモメがフェリーにくっついてきております。




港がある児島湾を抜けると、船が行き交う瀬戸内海を横断していきます。






母も船室から屋上へと出てきて、瀬戸内海の景色を眺めています。


フェリーは1時間10分ほどで小豆島の土庄港へと入港します。ちなみに港に着いたらすぐに車で下船しなければならないので、到着時の写真はありません(笑)。

まずは土庄港から小豆島の北海岸へと向かいます。地形図内の赤線ルートですね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最初にやって来たのは、道の駅「大阪城残石記念公園」。小豆島では、江戸時代の大阪城改築時に石材を切り出して搬出していたそうです。それらに関する資料や石材業に関する資料が展示されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

展示棟の一つです。


鑿などの道具類だけでもこれだけ使い分けているとは、なかなか凄いです。




突然ですが、明治時代の古いトンネルには石積みのトンネルがあったりしますが、用いられている石材には何らかの表面加工されているケースがほとんどです。

この写真は明治30年(1897年)に竣工した豊田市の伊世賀美隧道の写真ですが、石材の表面が引っ搔き傷をつけたように処理されています。


そういった石材の加工処理のために、また数多くの道具が存在しています。


こちらは石材を運ぶための「修羅」という「そり」の一種ですね。


展示棟の外観。


道の駅に隣接する港の風景。景観を合わせるためか、防波堤に石材が使用されていますね。


こちらはより本格的な造りの「修羅」ですね。


続いては、小豆島の中央部にそびえる山々の頂上部へとやって来ました。遠くには、瀬戸内海を挟んで四国が見えています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

逆光気味で見づらいですが、長年の浸食により造られた奇岩が点在しています。この付近は「寒霞渓」と呼ばれていて、国の名勝に指定されています。




続いては島中央部の山岳地帯から島の南東部へと移動。旧苗羽小学校田浦分校へとやって来ました。ここは小豆島へ来るたびに訪れていますね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

映画「二十四の瞳」の舞台となった学校です。




校舎自体、歴史があるもので、町指定文化財となっています。


校舎内部です。






続いては、学校から少し離れた場所にある「二十四の瞳映画村」へ向かいます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

海沿いに置かれていた大きな釜。五右衛門風呂のように見えます。


こちらの「映画村」は、昭和62年(1987年)に公開された「二十四の瞳」で使用されたオープンセットを公開しているものだそうです。こちらへ入場するのは初めてです。


民家へと入ってみます。


内部は大変細かく造られていますね。ただ、右側の階段は行き止まりになっていて、元からこういった造りだったのか、階段は他のセットから持ってきたものなのかはわかりません。


食膳や食器類も時代に合わせたようなそれらしい造りです。撮影時の食材は本物だったのでしょうけどね。


旧苗羽小学校田浦分校のセット。よく似ていて、すごいものですね。






これで小豆島での予定は終了。宿泊先である高松市へと向かうことにします。

当初は土庄港から高松港へと向かうフェリーへ乗るつもりでしたが、手前の池田港からちょうど間に合いそうな時刻で出港する高松行の便があることがわかったので、急きょ乗船する港を変更。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

無事に乗船することができました。




これにて小豆島とお別れ。池田港から高松港までは約1時間の船旅です。




高松港に到着後は、ナビを頼りに宿泊先のホテルへと向かいます。

ホテルの夕食が正月料金で高かったこともあって今回は素泊まりとしたため、ホテル近くの飲食店で何か食べられればと思ったのですが、歩いていけそうなお店は正月休み…。

結局、最寄りのコンビニまで歩いて往復(ここもそこそこの距離を歩く羽目に。)して、晩御飯はコンビニ飯を食べることになりました…。
Posted at 2025/05/05 20:55:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年05月02日 イイね!

富士桜自然墓地公園へ出かけてきました

2024年12月8日日曜日、亡くなった叔父の納骨のため、叔母夫妻・姉の4人で静岡県富士宮市の富士桜自然墓地公園へ出かけてきました。

余談ですが、もともと我が小林家は、祖父が静岡県から愛知県高浜市へとやって来て、鬼瓦職人となってそのまま定住したことを由来としています。その祖父がこの公園に墓地を購入しており、すでに亡くなっている祖父・祖母をはじめ、祖父家の家族がここに納骨されております。

叔父は奥さんを病気で亡くしてから程なかったのですが、すっかり落ち込んでいて、その寂しさからか叔母夫婦や私たち姉弟に時々声をかけてきて、会食をしたりしていました。

しかし、生きる張りが無くなったためか食も細くなってしまい、体力がめっきり落ちてしまっていたところで昏倒して入院。その後に誤嚥性肺炎を併発してしまったことが死因となってしまいました。

さて、今回姉と私が付き添うことになったのは、私たちも数少なくなった小林祖父家の親族であることと、墓地が愛知県から遠方であるため運転手役をお願いされてという理由ですね(弟は仕事。)。

富士桜自然墓地公園へとやって来ました。富士山麓にある景色の良い場所です。天気が良かったので富士山もよく見えています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

事務所で納骨の手続きをして、ホールで合同での読経を受けた後、叔父の遺骨が入った骨壺を抱えて墓地へとやって来ました。広々とした斜面全体に墓碑が立ち並んでいる様はなかなか壮観です。


叔父の遺骨は係員の方の手により墓碑の下へと納骨され、手続きは無事に完了しました。

さて、お昼近くになったので食事へ行こうかという話になり、グーグルマップで調べると、墓地公園からわりと近い所に和食屋があるようなのでそちらへと移動。

山の中ですが、私はカキフライ定食をいただきました(笑)。


和食屋さんの前からの富士山の眺め。


あとはこのまま真っ直ぐ帰っても良かったのですが、「せっかくだから、ちょっとどこか寄っていこう。」という話になり、ひとまず国道139号を北上します。

休憩とお土産購入を兼ねて、道の駅「朝霧高原」へ寄り道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「本栖湖で富士山でも見ようか。」ということで、本栖湖へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

叔母の夫は車で休憩。叔母と姉と私の三人で眺めの良い場所まで歩いて行って、景色を眺めていました。


先に叔母と姉が車へ戻っと後も、私は「山頂の雲が何とか取れないかなぁ。」としつこく眺めていましたが、結局雲が取れることはありませんでした…。




本栖湖からは国道300号へと入って富士川沿いを通る国道52号へと合流。途中から中部横断道に乗り、東名高速牧ノ原SAで弟に頼まれていた安倍川もちを購入して帰りました。
Posted at 2025/05/02 14:38:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2025年04月27日 イイね!

【滋賀県東近江市】木地師発祥の地へ行ってきました

2024年11月9日土曜日、ドライブがてら母を連れて、「木地師発祥の地」とされる滋賀県東近江市君ヶ畑町へと出かけてきました。

今回出かけた理由ですが、今までに使われなくなった古い峠道の探索などをしている過程で、峠道の由来などを市町村史などで調べていくと、峠にまつわる集落の話の中でたびたび「木地師」という職業が登場するわけです。

そんな訳で、何となく興味を持つようになり、「ちょっと行ってみようかな。」と思い立った次第です。

自宅から国道23号知立バイパス、伊勢湾岸道、東海環状道と乗り継ぎ、終点の大安ICからは国道421号を走行して県境の石榑トンネルを通り抜けて、滋賀県東近江市にある道の駅「奥永源寺渓流の里」までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここでひと休憩ということで昼食。親子丼をいただきました。


さて、目的地である東近江市君ヶ畑町へ向かうため、この道の駅近くの集落で国道421号から分岐する滋賀県道34号へと進みます。


二桁ナンバーの県道ながら、所々けっこう狭い道のりを進み、目的地である君ヶ畑町の入口に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは徒歩で集落へと向かいます。


こちらは集落内にある「木地師発祥地 君ヶ畑ミニ展示館」。トイレが隣接していたので、利用させていただきました。


さらにもう少しだけ歩いた場所にある「木地師のふるさと交流館」を訪れました。展示されている資料を見学したり、地元のボランティアの方から木地師の説明を受けたりしました。

建物の写真を撮り忘れたので、その代わりにもらってきたパンフレットの写真を載せておきます。能面がアップで載っているので、ちょっと「ビクッ!」としてしまいましたが(笑)。


もらったパンフレットによると、「木地師」とは、「山の木を伐採し、轆轤(ろくろ)と呼ばれる特殊な工具を使って、盆や椀、コケシなどを作る人のことを木地師といいます。また、轆轤木地師屋とも呼ばれていました。この轆轤の技術は、今から1100年以上前、惟喬親王が法華経の巻軸が回転することから轆轤を思いつかれ、その技術を人々に伝えたのが始まりといわれています。」とあります。

もう一つの伝承として、「文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王が、貞観元年(859年)に都を離れて小椋谷(君ヶ畑町と蛭谷町がある地域。)へと逃れてきて、その後亡くなるまでの19年間を過ごした。」というものがあり、「惟喬親王が轆轤を思いつき、人々へ伝えた。」ことと合わせて、これらの伝承が木地師たちの間で広まっていき、「惟喬親王こそ木地師という職業の元祖」であり、「小椋谷は自分たちの遠い祖先の地」と認識していたそうです。

実際、愛知県北設楽郡設楽町の峠道を探索した際に、椹尾という集落跡に江戸時代の墓碑がいくつか残っていたのですが、「設楽町誌」によるとそのうちの一つが木地師である「小椋」文左衛門という方のものであり、小椋谷の「小椋」を苗字として名乗っていたことがわかります。

「木地師のふるさと交流館」では、座敷に上がってお茶をいただきながら、いろんな話を聞かせていただきましたが、話に興味がない母がいい加減飽きてきてソワソワしだしたので、残念でしたがお暇させていただきました。

交流館を出て、集落内を散策します。


こちらは金龍寺。別名「高松御所」と呼ばれるそうです。






最後に訪れたのは大皇器地祖神社。祭神は惟喬親王。全国の木地師の崇敬を集めたそうです。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この神社は金龍寺と共に「木地師支配所」として、全国の木地師の所在地を記載した「氏子狩帳」により木地師たちを訪ねて氏子料を集金。鑑札や往来手形を交付するなどして活動の保護・統括をしていたそうです。


境内の巨木や苔むした石垣など、古い由緒を感じさせる佇まいです。




明治時代になって、土地・山林に対する所有権などの権利が明確化されたり、開発が進んだことによる木材資源の枯渇化などによって、「全国の山々を自由に渡り歩いて木工品を作り続けることができる。」という木地師の活動特権は失われていきました。

そのため、「木地師」という職業は徐々に衰退していったようです。
Posted at 2025/04/27 17:10:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「大井川鐡道の駅をいくつか巡ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48626253/
何シテル?   08/30 00:20
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2) 
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