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小林あにのブログ一覧

2022年03月10日 イイね!

古道「根道・信玄道」を歩く(1)

2022年1月9日日曜日、愛知県新城市作手菅沼から豊田市羽布町の山中に残る古道「根道・信玄道」を歩いてきました。

ちなみに、表題の「根道」・「信玄道」は歩いてきた古道に付いていた固有の名称ではなく、「根道」は尾根を通る道を表す一般的な言葉、「信玄道」は戦国時代に甲斐国の武田軍が三河国を侵攻した際に、現在の豊田市下山地区の城砦攻略時に軍を進攻させるルートとして利用されたという伝承によるものです。

歩いてきた古道が掲載されている戦前の地形図です。古道と思われる道に赤線でしるしを付けました。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。

この古道、林道へと改修・転用された区間以外は廃道になっていると考えられます。そのため、当然というか現在の地形図には記載されてない部分がほとんどです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あいまいな精度の戦前の地形図を参考にして、古道の分岐点をいかにして見つけ出すかが探索成功の鍵となります。

それでは探索を始めます。ここは、新城市作手菅沼の愛知県道337号。道幅のある路肩に車を寄せて駐車しておきます。


12時50分、出発です。最近は午後にスタートするケースが多くなっています。ずぼらになってきているのかもしれません(笑)。


県道337号と古道ルートを通る林道との分岐点に来ました。


ここの分岐点には石造の道標が立っています。立てられたのは江戸時代後期のようです。


道標には、「左 おかざきみち」・「右 あすけみち」と彫られています。


参考に、分岐点と足助(現在の豊田市足助。)との位置図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは分岐点と岡崎(現在の岡崎市。)との位置関係図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

分岐点から足助へは現在も県道337号、国道473号・420号を経由して自動車で行くことができますが、岡崎へは道標どおりに林道へ入っていっても、まず一般車両では通行することが困難です。

それもあってか、この場所から城下町・岡崎へと向かう道があったことにいまいちイメージが湧きません。それでもここに道標が立っているということは、少なくとも江戸時代には三河の山間地と平野部の主要な街を結ぶ大切な街道として、地元の人馬だけではない広域の往来があったということでしょう。

それでは林道へと進入していきます。積雪が残っていますが、歩くのに支障をきたすほどの量ではありません。




道中、地形図にあるとおり、いくつもの道が分岐していきます。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。




※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちょっとした峠へと向かって坂を登っていきます。林道としてあまり使われることがないのか、路面がひどく荒れています。


無名の峠にある分岐点です。右方向へと進んでいきます。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雪を薄っすらと被った車の轍と動物の足跡が続いています。


戦前の地形図と現在の地形図を比較して、林道から古道が分岐していると予想した地点へと到着しました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道沿いの斜面の一段上に平場があります。平場の上によじ登ることにします。


これは道跡である可能性が高そうです。奥へと進んでみることにします。




小さな谷地形の奥へと向かって道跡が続いていっています。


深い切り通しが現れました。この道跡が「根道・信玄道」で間違いなさそうです。


現在地はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

なかなか深くて長い切り通しです。




切り通しの上に石柱が立っていました。「大禮記念林」、「大正五年三月建立」、「愛知縣南設楽郡作手村菅守學區」と彫られています。


どうやら大正天皇の即位を記念して植樹された林であることを記すための記念碑のようです。実は同様のものを、旧伊那街道知生坂を歩いた際に県道10号境橋のたもとでも見ました。

この古道に向けて記念碑を立ててあるということは、大正5年(1916年)頃はまだまだ普通に往来があったと推測できます。

林道からの分岐点は削られて分断されていましたが、山中に入ってからの道跡は今のところ良好に残っているように感じます。


幹が奇妙に二股になった杉(でいいのかな?)。なぜこの状態になったのか?


古道らしいU字の窪みが続いています。


細くなった尾根を通過していきます。


浅い切り通しを通過。


盛土道が現れました。この古道は各所に盛土道が残っていると「忘れられた街道」という本には記されています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

道跡が斜面を横切るように通っています。崩れてしまったのか道幅が狭くなっており、笹にも覆われているので注意して進みます。


なだらかな尾根の上を進んでいきます。


背の低い盛土道です。わずかな高低差も打ち消すように盛り土がされています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下り坂のU字道を降りていきます。


細くなった尾根の上を盛土道で通り抜けていきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小さなピークを避けるように道跡は進んでいきます。


小さな頂と頂の間をつなぐ尾根にさらに盛り土をして、橋のように道をつなげていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小さなピークを左側へと迂回して進んでいきます。


ここも前方のこんもりとした小さな頂を避けて、左側へと下っていきます。




幅の広いなだらかな尾根の上へと降りてきました。


古道の脇に何かの像を思わせるような枯れ木が立っています。


※その2へ続きます。
Posted at 2022/03/10 22:51:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年02月13日 イイね!

天城山隧道と韮山反射炉へ行ってきました

2022年1月2日日曜日、弟と一緒に静岡県伊豆市の天城山隧道と伊豆の国市の韮山反射炉へ行ってきました。

最初に訪れたのは天城山隧道。周辺の地図はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道414号から旧道が分岐する地点にある駐車場に車を停めて、ここから徒歩でトンネルへと向かいます。


普通はバイパスルートができると旧道は国道から格下げされるものですが、この道は国道指定されたままのようです。


1車線から1.5車線幅の旧道を歩いていきます。旧道は砂利道となっていますが、元々は舗装されていたものを、トンネルの文化財指定に伴う整備の際に剥がしたようです。






乱積みされた石垣。明治時代の旧道建設時のものでしょうか。


駐車場から約35分、天城山隧道に到着しました。旧道は車両通行止めになっているわけではないので、ここまで乗り入れてきた車が停まっています。


あらためて天城山隧道です。トンネルは現地の説明板によると1905年(明治38年)の開通(文化庁のデータベースでは1904年(明治37年)。)。川端康成の「伊豆の踊子」に出てくるトンネルとして知られています。


総石積みで建設されたトンネルでは国内最長であり(現地説明板は446m、文化庁データベースでは444.5m。)、貴重であるということで国の重要文化財に指定されています。


トンネル上部に掲げられている扁額。「天城山隧道」と陽刻されています。


こちらは現地に設置されている説明板。


冬期の路面凍結や氷柱の落下に注意するよう案内板が設置されています。訪問時も坑門から氷柱がぶら下がっていました。


坑口からすぐの側壁も凍り付いています。沢のすぐ横にトンネルがあるので、地中からの漏水が多いのでしょう。


それではトンネル内を歩いていきます。明治期の道路トンネルで延長が400m以上あるのは珍しいと思います。道路での往来のほとんどが徒歩や牛馬車である時代、重要な街道の峠だとしてもここまでの規模のトンネルを掘削するのは躊躇するでしょう。


ちなみに鉄道トンネルではほぼ同時期の1903年(明治36年)に開通した中央本線笹子トンネルが延長4,656mと当時日本一の延長を誇ります。

内部は照明が設置されていますが、雰囲気を損なわないようにするためか、光量の少ないものが点々と設置されているだけです。


なので、暗闇が苦手な方は懐中電灯を持参した方がよいかもしれません。


河津町側の坑門です。伊豆市側の坑門とデザインには特に違いは感じられません。






愛嬌のある踊り子の絵が描かれた案内板。


トンネルの上に登ってみました。上に登れそうなトンネルには何気によく登っています。そこに発見があったりもしますので(笑)。


河津町側の扁額。こちらは陰刻となっています。


それでは車へと戻っていきます。






車に戻ってきたのは13時半過ぎ。伊豆半島とは言え、高い峠の山中でもっと冷え込むかと思いましたが、穏やかな天候で助かりました。


一旦、修善寺まで下りて、コンビニで腹ごしらえ。このまま帰っても良かったのですが、せっかくなので、私の希望で韮山反射炉へ行くことにします。

地図はこちら。


韮山は鎌倉幕府執権の北条氏の遺構などもありますが、今回はこちらにしました。

韮山反射炉です。江戸幕府の命により建設され、1857年(安永4年)に完成。鋳鉄製及び青銅製の大砲の製造工場として活用されました。


明治時代に入り使われなくなったようですが、1908年(明治41年)に陸軍省により補修され、1922年(大正11年)に史跡指定されました。早い時期に保存対策が成されたため、良好な状態を保っているそうです。


反射炉の説明板です。「反射炉」というのは、ドーム型の炉内の天井で熱や炎を反射させて一点集中させることにより高温を発生させる仕組みの炉のことだそうです。


今回の正月休みのドライブは2か所回っただけでしたが、なかなか良いドライブでした。
Posted at 2022/02/13 13:30:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月28日 イイね!

国道256号自動車通行可能区間の終点と小川路峠の入口

2021年12月11日土曜日、長野県飯田市の国道256号自動車通行可能区間の終点を訪れ、そのついでに小川路峠への峠道の入口となる区間を歩いてきました。

この日はあてもなく自宅を出発。ひとまず東海環状道から中央道を飯田方面へと向かって走行。途中で「遠山郷へ行くかな。」と思い立ち、飯田山本ICから三遠南信道へ。

終点の飯田上久堅・喬木富田ICへ着いたところで、「そう言えば、国道256号の自動車通行できる区間の終点へ行ったことないし、ちょっと寄ってみるか。」とIC出口で左折して終点へと向かいます。

2車線から1.5車線の道幅で続いていた国道が、最後の集落である越久保地区を通過すると1車線幅へ。「行ける所までは。」と思いつつ、どんどん坂を登っていきます。

国道標識が立っているのを見つけました。


「ちゃんと国道なんだなぁ。」と感心しました(笑)。


この先、インプレッサではちょっと厳しいかなという連続ヘアピンを1速・2速でゆっくり登り、国道256号の自動車通行可能区間の終点に無事到着しました。


地図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道256号は、この先にある小川路峠を越えて飯田市上村へと続いていますが、その区間のほとんどはいわゆる「登山道国道」となっているそうです。


かつては国道標識が掲示されていたのであろうポールがフェンス脇に立っています。


秋葉街道の案内板。小川路峠を越えるこの道は、かつては飯田の街と遠山郷とを結ぶ重要な峠道であり、また防火の神様で知られる秋葉神社への参詣道として盛んに利用されました。


ここまで登ってきた国道を振り返ります。指定されていればどんな道でも国道ですからね。


さて、終点を後にして、終点と越久保地区の中間くらいに建っているお堂へとやって来ました。


お堂の前に設置されている案内板によると、ここから小川路峠まで33体の観音が安置されていて、ここのお堂には一番観音が祀られているそうです。


お堂の裏側には小川路峠へと向かう古道の出入口があります。ただいま時刻は13時50分。ここから15時を目途にして古道を辿ってみることにします。


水流でガタガタに荒れてしまった道跡を100mほど登ると林道と交差。そのまま林道を横切り、獣害防止用の柵を通り抜けてさらに奥へと進んでいきます。


序盤は道跡があいまいで、斜面を左右に大きく移動しながら道跡らしい窪地を探していましたが、やがて明確な堀割り道を発見。時間が限られているので、どんどん登っていきます。






二番観音です。終点地や一番観音でもそうでしたが、きちんと案内や標識が立てられていて、地元の人によって管理されているようです。




古道は扇形に広がった源頭の谷間を大きく左右に移動しながら、ヘアピンカーブも繰り返して徐々に高度を稼いでいきます。






路面が陥没しています。一部に木材が敷かれているところからみて、一度は補修されたものの、木材が朽ちてまた陥没してしまったのでしょう。


尾根が近づいてきました。連続ヘアピンカーブで一気に登っていきます。




三番観音。




三番観音の先の坂を登ると尾根道になります。






また連続のヘアピンカーブです。




幅の広い切り通しが見えてきましたが、まだ尾根歩きは続き、古道は右へと曲がっていきます。


そしてすぐに左カーブ。


この場所に四番観音がありました。


左右が切り立った幅の広い尾根道を進んでいきます。


東屋が現れました。そして林道が合流してきています。


ここに五番観音があります。


はるか眼下には三遠南信道の矢筈トンネルが見えています。飯田市街地と遠山郷を結ぶ現代の道路です。




こんな感じで眺めています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さてさて、ここでちょっと進む道について悩んでしまいました。安全に右側の林道を進むべきか。しかし、古道はどうも左側へと進んでいた様子。左側へちょっと入り込んでみて「まあ何とかなりそうかな。」と判断。左側へと進みます。




先へと続く道筋が見えるので、さらに奥へと進むことにします。


崩落地ですね。まあ、傾斜は緩いですし踏み跡もあるので、このまま進んでいきます。


そして崩落地を通過したらこの状況…。急傾斜地に古道の名残りが道幅30~40cmで残っています。


幸い、路面は引き締まっていて崩れることは無さそうです。斜面には木々が点々と生えているので、不安を煽るまでの高度感はありません。ですが、滑落したら負傷以上は間違いないですし、そもそも高い所が苦手なので、やはり逡巡してしまいます…。

しかし、結局はこのまま先へと進みました。足場はしっかりしているわけで、自分が動揺さえしなければ何の問題もなし。気持ち山側へと重心を保ちつつ、スタスタと歩いていきました。


難所を無事に通過すると小川路峠へと続く国道へと出てきました。






ここに六番観音があります。


昔の人もここで一息ついていたようです。


六番観音から少しだけ先へと進んでみました。この辺りはまだ車が通行できるだけの道幅がありますが、やがて徒歩道へと変わるようです。


ここで時刻は14時45分。ここから車まで、またうっそうとした森の中を戻らなくてはいけないので、今回はこれで切り上げることにします。

六番観音から約45分。一番観音の前に停めてある車まで戻ってきました。


今回歩いた区間は、六番観音の所にあった案内板にあるとおり、「すん坂(または寸坂)」と呼ばれています。

歩いた推定ルートはこちら。


この坂は小川路峠へと至る峠道の序盤にしか過ぎませんが、機会があれば峠までは行ってみたい気もします。ただ、これで真冬になってしまうので、再訪できるのは早くても初春以降になるでしょうけど。

今回は目的地を決めずに出かけたドライブでしたが、結果としては良い感じで終わることができました。
Posted at 2022/01/28 15:00:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月22日 イイね!

設楽町和市「堤石峠」へと向かう車道跡を辿る

2021年11月27日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町和市からグミンタ峠への里道跡と交差する車道跡と思われる廃道を堤石峠まで辿りました。

ここまで和市からグミンタ峠までの里道跡を探索し、一応のルート確定ができたので、続いては里道跡と交差していた謎の車道跡を辿ってみることにします。


里道跡との交差地点の真横にある石積み橋台。人や牛馬を通行させるだけならば、この程度の沢に橋は不要。渡渉させれば十分です。やはり荷車を通行させていたのではないかと考えてしまいます。




車道跡に上がって、正面から眺めてみます。




もう少し引いて、里道跡との交差地点の全景です。




それでは車道跡を辿って進みます。橋台を離れるとすぐに道跡が不鮮明になったり、道幅が狭くなってきて、自分の予想が揺らいできます。






前方に岩を削って道を通したように見える場所があります。


間近で見るとこれは明らかに岩を開削して道を通しています。




徒歩道であればこれだけの道幅を削り出す必要はありません。また、開削に大きな労力をかけているという点に、この廃道は作業道のような一時的なものではなく、常用を目的とした車道(荷車道)跡だと確信できました。


岩に沿って車道跡は進んでいきます。


前方、山側の斜面は大きく岩が剥き出しになっており、谷側も急傾斜になっていて、この先に車道跡が残っているか懸念されます。


まだ人が歩くだけの幅は残っているので、慎重に進んでいきます。


本来は谷側に石垣を積んで土を盛り、道幅を確保してあったのか、この状態まで削り出したところで断念したのか。現場を見る限りでは判断できません。


矢印の所まで進んでついにストップです。


私のレベルでこれ以上は進めません。幅が狭いうえに平場が谷側へと傾斜しています。また、前面に落ち葉が積もっており、路面状況もわかりません。




ここは一旦引き下がり、大岩の下へと迂回することにします。

岩の下から車道跡を見上げています。とにかく樹木などの手がかりがあまりにも無いため、もし滑ったらそのまま岩の下へ10mくらい落ちることになります。


車道跡へともどります。ここにも路肩を保持する石垣が積まれています。


通り抜けできなかった区間の反対側まで引き返していきます。


こちら側からの方が全景が見えるので、より状況がわかりやすいと思います。せめてL字型で水平に削られていれば通過することもできたのでしょうが…。




現場は何となくですが、岩盤を階段状に削り込んだようにはなっており、もしかすると図のように道路を通していたのかもしれません。


さて、車道跡へと復帰した場所から先へと進みます。ここはすぐ目の前で沢を渡っていきます。ここの沢も岩盤が剥き出しで、「スラブ」というものですかね。


沢の上部です。


沢の下部です。


沢を渡った場所から車道跡を振り返っています。




岩壁の下のガレ場を進んでいきます。




もはや徒歩道と変わらなくなっていますが、依然「車道跡」は続いています。


斜面が崩落していますが、踏み跡は残っています。ここは通過にちょっと困りましたが(主に気持ちの面で。)、歩けるだけの幅はあるので、一息ついてから足早に通過します。


進んだ先でまた元の道幅に戻り一安心です。


これは岩が割れたものなのか、人の手で石を積んだものなのか。一つの大きな岩が割れたようには見えませんが、わざわざ大きな石を積み上げる理由もわかりません。


今まで通過してきた場所に比べるとなだらかな地形になったためか道幅が広くなっています。真ん中に生えているアカマツ?の太さから見て、この道が使われなくなって相当の年月が経っていることが伺えます。


路肩で見つけた石垣。成形した石ではなく割っただけと思われる石を乱積みしています。単純に考えるなら、古い時代のものと思えます。


大きな倒木が連続して車道跡を塞いでいます。このサイズだと幹に馬乗りになって跨いでいくしかありません。




また高い岩壁が現れました。岩壁の直下を巻くように通過していきます。




ここにも岩を大きく開削した箇所がありました。




岩壁直下を通り抜けました。


土砂が流れ込んだようで、斜面が凸凹に荒れています。


深く抉れた沢を渡っていきます。沢を渡る付近を見渡してみましたが、橋台らしきものは見つけられませんでした。


ふたたび道幅は狭くなりましたが、車道跡はしっかりと残り、奥へと続いていきます。


岩に大股で根を這わせる木。わざわざ岩の上に這わせる必要があったのかな?山奥を歩いていると、いろいろ奇妙な生え方をした木々に出会えて面白いです。


前に出てきた崩落地の通過地点と同じような雰囲気ですが、ここはまだ気楽に通過できました。


これは私好みの風景ですね(笑)。絶壁を削り込んで道を通してます。道幅は荷車道としては微妙ですが、歩く分には十分です。


車道跡から身を乗り出して路肩の石垣を撮ってみましたが、うまく撮れませんでした。この辺りは谷側が崖並みの急斜面なので、これ以上は無理でした。


路肩に生える木々がまるで並木のようです。


岩壁の突端を回り、さらに進んでいきます。


程なくして、堤石峠へと向かう「十三曲がり」の峠道に出ました。


峠道の路肩に立っているポールには「十二曲がり」とありました。以前に堤石峠への峠道を歩いていた時に、「何か道があるみたいに見えるなぁ。」と思っていた場所でした。


今回歩いた堤石峠までの車道跡のルート図です。


道幅については廃道ということもあり、荷車道並みの場所もあれば、徒歩道程度の幅しかない場所もありました。ただ、岩場を開削した場所については、荷車道らしい幅が確保されていたかと思います。

あとは、勾配が全線を通して緩やかであること。馬もしくは人が荷車を引くためには重要なポイントです。

ということで、私の結論としては、この廃道はやはり車道跡でしょう。

さて、せっかくここまで登ってきたので、堤石峠まで上がることにします。峠までの間に車道跡の続きとなるような痕跡が無いか、見回しながら歩きましたが、それらしい跡は見つけられませんでした。

堤石峠です。訪れたのは2020年6月6日に堤石峠の東側に続く里道跡を探索して以来です。




峠から少し上にある眺めの良い場所からの三ツ瀬明神山方向の眺めです。


和市登山口の駐車場へと戻ってきました。堤石峠からは20分程でした。


グミンタ峠への里道跡探索も含めた今回の歩行ルート図です。




歩行距離は約4.7km、探索時間は約4時間半でした。今回は歩行ルートの履歴を把握するために山登り用のアプリを導入。これが思った以上に細かくルートを記録してくれたので、ブログに載せるルート図を作成するのに大いに役立ちました。

最後に、堤石峠への車道跡についての私見です。前にも書きましたが、この車道跡については、設楽町誌に記述は無く、愛知県内を探索するの方のサイトやブログでもヒットはしませんでした。

現在、設楽町誌などでわかる事は、堤石峠を経由する現設楽町田口と現東栄町本郷を結ぶ街道が車道改修されたのは、1934年(昭和9年)の堤石隧道の開通によるということだけ。この出来事に合わせて、街道は荷車道や馬車道への改修を飛び越えて、自動車通行を意図した車道の新規開削や道路改修が成されました。

なので、今回辿った車道跡が、堤石峠を荷車で通行できるようにと意図して開削された車道であるのか本当は全くわかりません。当然、公的な工事であったのかどうかも不明です。

だとしても、堤石峠の「十二曲がり」地点へは接続されていたわけですし、設楽町和市側から峠直下まで荷車を引き込めるのは、中途半端とは言え、それなりの物資輸送上の効果はあったのではないでしょうか。

あとは、堤石峠を20mから30m切り下げるかトンネルを掘削することさえできれば、荷車道で峠を越すことも夢ではなかったでしょう。

結果的には、峠の開削やトンネル掘削までの費用が捻出できなかったのか、そもそも峠直下まで接続できれば十分だったのか、堤石峠を越えて車道開削が進むことはありませんでした。峠の東側(設楽町平山側)の地形は和市側よりも急傾斜のため、荷車道を緩勾配で開削できるルートを見出だせず、峠の東側へと延伸することを断念した可能性もあります。

そうして何も記録に残らないまま、1934年(昭和9年)の堤石隧道の開通により埋もれていったのかもしれません。

私の脳みそではこんな事くらいしか考えられませんが、こんな想像で終わるのも廃道探索の面白味というところですかね(笑)。



※2023年12月6日追記
探索当時、この道跡は「未完成の荷車道の廃道」と考えていたわけですが、今改めて考え直すと、この道跡は木材搬出用の「木馬道」の跡と見るほうが妥当な気がします。

「盤木」などの遺構を確認したわけではないですが、荷車道に比べるとやはり道幅が狭く感じます。しかし、狭いながらも重量物を運搬するための道であるため、石垣や岩の開削などしっかりした造りであるのは当然と言えるでしょう。
Posted at 2022/01/22 15:18:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年01月13日 イイね!

設楽町和市からグミンタ峠への里道跡を探索する(2)

2021年11月27日土曜日、愛知県北設楽郡設楽町和市からグミンタ峠への里道跡を探索しました。

グミンタ峠は、設楽町和市と北設楽郡東栄町大字振草字小林とを結んでいた里道にある峠です。しかし、現在は平山明神山と大鈴山を結ぶ縦走路の途中にある変わった名称の峠として認識されている程度でしょう。

さて、設楽町和市からの探索では、里道がどのようなルートを通っていたのか不明だったにもかかわらず、途中で違う廃道を覗きに里道跡を外れた結果、里道跡を見失ってしまい、時間と体力を浪費することになりました(笑)。

何とかグミンタ峠にはたどり着けたので、今度は峠から和市方面へと下っていく道跡を辿っていくことで探索を再開します。


里道跡へ入り込んだ当初は怪しい雰囲気な箇所もありましたが、峠付近は想像していたよりも良好に道跡が残っていました。








グミンタ峠周辺は急斜面。急斜面を下るとなればつづら折りの道と相場は決まっています。ここから8~9か所ヘアピンカーブが連続します(全部のカーブを撮ってはいませんが。)。
















急斜面をジグザグに下りてきて緩斜面へと出てきました。今までは道跡がほぼはっきり残っていましたが、この先は土砂に埋もれたのか、道跡が消えてしまいました。ひとまず真っ直ぐ進んでみます。


ピンクリボンが付けられた木を見つけました。その木の脇には道跡と思しきものが微妙に見て取れます。


ピンクリボンは地籍の調査に関連して付けられていることが多く、廃道探索の際の目印にしたりします(頼り過ぎて酷い目に遭うこともありますが(笑)。)。

すぐ下にはペンキで赤丸を付けられた木も。同じく地籍の調査によるものか、森林の管理上のものかはわかりませんが。


赤丸が付けられた木の右側に石が密集している場所がありました。


これは里道に設けられていた石畳だと思われます。自然のものであればもっと乱雑に凸凹しているはずで、これは人為的に敷き詰めたものだと考えられます。


もはや枯れ沢にしか見えない道跡を辿っていきます。


また石畳がありました。この周辺の地形から見て、雨天時には路上にも水の流れが集中しやすそうなので、道が洗掘されないように石で固めたのでしょう。


今となっては、大きな石がゴロゴロとして歩きにくくなった道跡を、できる限りなぞっていきます。






道跡がかく乱されて、どちらが正しいルートなのかよくわかりません。まあ、誤差の範囲ですが。


斜面から土砂が流れ込んでいて、また道跡が怪しくなってきました。


この辺りは沢沿いに通っていることだけはわかるので、取りあえずそのとおりに進んでいきます。




再び道跡を見つけられたので、跡を追っていきます。




ついに並行している沢に道跡が飲まれてしまいました。




しばらく沢の中を歩き進めると、またピンクリボンを付けられた木を見つけました。今までの道が沢の左岸側にあったので、左岸側の周囲を確認してみたところ、黄色い線のように道跡が続いていることがわかりました。




復活した道跡を進んでいきます。




ここで道跡は右岸側へと渡っていたようなので、沢の中を歩いて対岸へと進みます。


しばらく右岸側を進みます。


また沢を渡り、左岸側へと戻ります。右岸側を通っていた区間の左岸側は急斜面になっているため迂回したわけです。


渡った先にちょっとした石垣がありました。沢の流れに道が削られないよう積まれたものでしょう。


この先から道幅が狭くなり、道というよりは踏み跡のような感じになっていきます。「また道を間違えたかな?」とちょっと不安になります。


正面に切り通しらしきものが見えてきました。


小さな切り通しです。その先には幅が戻った道跡が続いていて、間違ってはいなかったようです。




大きな倒木を高巻きして迂回します。


右へと大きくカーブしていきます。


小さな沢を渡り、さらに下っていきます。




小さな砂防ダム。


グミンタ峠へと向かっていた時に、里道跡から外れた場所に到着しました。


これでようやく設楽町和市の林道分岐点からグミンタ峠までの里道跡のルートをほぼ確定させることができました。赤線が里道跡となります。


集落同士を結ぶ徒歩道の里道ということで、道跡以外に目立った遺構は無いかと思っていましたが、石畳が残っていたのを発見できたのはちょっとした収穫でした。

この里道跡についてはグミンタ峠から先の東栄町振草小林側が残ったわけですが、探索は当面先送りですかね。まあ、これで峠までの道筋が判明したので、再訪問時はもう少しスムーズにアタックできると思います。

続いてここからは、探索していない側の謎の廃道を追っていくことにします。
Posted at 2022/01/13 20:47:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「旧倉吉線廃線跡と倉吉白壁土蔵群を訪れました http://cvw.jp/b/1796277/48784301/
何シテル?   11/24 21:37
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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