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小林あにのブログ一覧

2021年01月31日 イイね!

雪の千万町街道を歩いてきました(2)

2021年1月30日土曜日、岡崎市東部山間地の千万町(ぜまんぢょう)町と岡崎市街地を結んでいた古道「千万町街道」を歩いてきました。私が住む安城市にも今冬初の積雪があり(2~3cmほど)、「雪景色の山道でも歩きに行くかな。」と思い立った次第です。

本稿は「雪の千万町街道を歩いてきました(1)」のつづきです。

古道の急坂を登り詰めていったところ、かつて峠があった場所には大きな築堤が築かれていました。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道へと出てきました。かつての風景と様相が全く変わっています。



持ってきたタブレットで地形図を確認しましたが、この林道はまだ記載されていませんでした。図中には黒線で加筆してあります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

登ってきた古道の正面に当たる場所に切り通しだけが残っていました。



本来は峠に出たところで右へと曲がり、さらに尾根伝いに進んでいくのですが、かつての面影が全く見い出せません…。



しばらくこの辺りを行ったり来たりして、周辺の様子を眺めていましたが、林道に出てきた場所から左側の山の斜面に古道があるのに気が付きました。



多分、祠の前で二手に分かれた中腹を通る古道だと思います。逆戻りすることになり時間のロスになりますが、ここが峠の跡であることを確認するためにも歩いていくことにします。







やはり祠の下にある分岐点へと出てきました。



地形図中の青線のルートで引き返してきました。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

先ほど林道へと出て来た場所が峠の跡と確信できたので、もう一度戻って林道をさらに先へと進んでみることにします。

ふたたび峠跡へと戻ってきました。



峠跡の先は林道をそのまま進まずに、古道探しのために山の上を歩いていってみます。





堀割りの道が少しだけ残っていました。



さらに50mほど進むと、今度は左側に切り通しが見えています。



中に入ると堀割りの道が残っていました。



しかし、左へとカーブしてきた林道により古道は削り取られていました。ただ、その先に古道の続きが見えていたので、一旦引き返します。



ようやく千万町街道のつづきに戻れます。



見覚えのある倒木です。ということは、4年前からそのままということですね。おかげでこの道が千万町街道であると確認できたわけですが(笑)。



倒木の上で切り通しを越えていきます。



湿地帯(沼地?)の横を通り過ぎます。



分岐点に来ました。千万町街道を通る人には知られた分岐点だと思います。ここも直進ではなく右手へと逸れていく道が正解。私が初めて来た時は逆方向から歩いてきたので、迷わずにすみました。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右手へと登り、先へと進んでいきます。



尾根の上を進んでいきます。



目の前に標高342mのピークが見えてきました。古道は右側へと山を取り巻くように迂回していきます。







またV字に掘り込まれた道が現れました。歩きづらいためか、道の右横に新しい踏み跡が付いてしまっています。





道が二つに分かれています。多分、右側が古い道だと思います。右側の道は、以前来た時は枯れ枝などで埋もれて通りにくくなっていましたが、人が通るようになったのか、きれいに無くなっていました。



鞍部の交差点に出てきました。ここは逆方向から来ると千万町街道から逸れてしまう方向へ迷いやすい場所です。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は14時になりました。実は、歯医者の予約を16時30分に取っていたので(奥歯の冠が取れました(笑)。)、間に合うように帰る必要があります。

15時には車まで戻らないといけないので、ここで引き返すことにしました。

まずは15分ほどで林道まで戻ってきました。



林道の銘板を見つけました。林道古部夏山線とあります。平成30年度ということは、やはり最後に訪れた後に施工されたわけですね。



これだけの林道を造れば景色もすっかり変わるわけですよね。



峠跡の手前でもう一つ銘板を見つけました。こちらは令和元年度とあります。



この林道、気になるのが古部「夏山」線ということ。夏山はこの場所からだと国道473号を越えた南東方向にあります。この先のルートもおそらく千万町街道が通る尾根と同じ尾根を辿ると思われるので、将来的にはもっと寸断されてしまうかもしれませんね…。

峠跡まで戻ってきました。



こちらは2016年10月に訪れた時の同地点の写真です。写真左側の斜面を埋め立てて林道を造成したわけですね。あまりにも景色が違い過ぎます…。



あんまり休憩しているわけにもいかないので、どんどん歩いていきます。









行きに鋭角で左折した先にあった急坂です。この坂さえ登り切れば、あとは車まで体力的にきつい場所はありません。



15時過ぎ、予定どおりに車まで戻ってくることができました。



今回歩いた区間の全体図です。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

千万町街道は尾根を巧みに利用して、できる限り最短距離で岡崎の街と千万町やその手前側の村々(さらには千万町よりも奥の作手地区など。)とを往来する道としてはるか昔から利用されてきたそうです。

その本来の役目を終えてから随分と時間は経っていますが(昭和戦前期から車道改修が進み、トラック・バスの利用が徐々に浸透していくにつれて、利用が廃れていったようです。)、今はこの街道の存在を知る人たちが、ハイキングや自転車・バイクのオフロード走行などレジャーの側面で利用することで、価値をつないでいると言えるでしょう。

ただ、途中にも書きましたが、林道開発が今後どのように影響を及ぼしていくのかが心配の種ですね。
Posted at 2021/01/31 12:35:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月30日 イイね!

雪の千万町街道を歩いてきました(1)

2021年1月30日土曜日、岡崎市東部山間地の千万町(ぜまんぢょう)町と岡崎市街地を結んでいた古道「千万町街道」を歩いてきました。私が住む安城市にも今冬初の積雪があり(2~3cmほど)、「雪景色の山道でも歩きに行くかな。」と思い立った次第です。

千万町街道は今までにも何度か訪れては少しずつ歩いていて、トータルでは岡崎市の岡崎墓園から額田ゴルフ場付近の区間を歩いたことになりますが、最後に歩いたのは2016年10月なので、4年ちょっと振りということになりますね。

今回は車を国道473号と額田ゴルフ場の南端を通る道路との交差点付近に駐車して、岡崎市街地方面へと歩きました。



千万町街道が通っている周辺の地形図です。右端の赤矢印が駐車場所です。古道のご多分に漏れず、千万町街道も現在の地形図には記載されていません。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

青い線の範囲内を通過しているのは間違いありませんが、今まで地形図にルートを書き込んでみたことがなかったので、あくまで「推定」ルートにはなりますが、写真と記憶を元に書き込んで適宜貼り付けていきます。

ところで、駐車した交差点には道標が立っています。



彫り込まれている内容は、正面が「右 夏山 樫山 本宿」、「前 大高味 須渕 岡崎」、「左 木下 宮崎 作手」、一番下に「道」、右側面は「昭和二年八月建立」、左側面は「八十八紀念 鈴木由治郎」とあります。

鈴木 由治郎さんが、米寿の記念に建てた道標といったところでしょうか。

道標にある地名のうち、夏山、樫山、本宿(もとじゅく)、大高味(おおたかみ)、須渕(須淵)、木下(きくだし)、宮崎の各地は、現在は岡崎市内の町となっています。作手は新城市作手になります。

戦前の地形図に道標の内容を記すと以下のルートになると思われます。緑色が「右 夏山 樫山 本宿」のルート、青色が「前 大高味 須渕 岡崎」ルート、黄色が「左 木下 宮崎 作手」のルートです。


※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行

これらのルートのうち、自動車で通り抜けできるのは「大高味-須渕-岡崎」ルートのみで、道標~夏山の山越え区間や木下の東にある寸五郎坂は徒歩でないと通過できません。

最後に赤線が千万町街道と推定されるルートです。黄色ルートの木下までの区間とその先の千万町へ続く道も千万町街道になります。

それでは国道473号を渡って、千万町街道へと入っていきます。



さっそくですが、歩き始めてすぐの緩い坂道の右手の林の中に祠があります。





祠の中に祀られているのはお地蔵様でしょうか。光背には「文化三年八月吉日」と刻まれています。文化3年は1806年になります。



歩き始めた道を、もう少し進むと右手に虎柵が現れます。虎柵が途切れたところで右側の斜面へと入り込みます。



10~20mほど進むと道跡にぶつかります。これを左側へと進んでいきます。



写真ではわかりにくいですが、土手道が右へとカーブしていっています。



倒木がたくさん横たわっています。一本一本、跨いだりくぐったりして通り抜けます。



右手に湿地が現れると古道は右へと曲がり、土手道で横断していきます。



土手道を抜けると堀割り道で坂を登っていきます。



小さな尾根を越えると、今までよりもはっきりとした道になります。



右手から道が合流してきました。このまま道なりに直進します。



谷地の終端の尾根に向けて坂を登っていきます。





尾根に出ました。ここは右側へと進んでいきます。左側にも道がありますが、高圧線鉄塔の下辺りで途絶えてしまいます。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少し進んだ先の左側の木々の中に三角点を見つけました。



標石には「三等三角点」と彫られています。後で調べたら、三等三角点「間ノ田」という名称のようです。標高は408.97m。



三角点を過ぎて、緩い坂を登ります。



道が右にカーブしたすぐ先で千万町街道は左折します。当然ですが、何の案内もありません。写真左側の木が一応目印になるでしょう。



左折してから見渡すとこんな感じです。



ここからはしばらく下り坂になります。



坂を下りきったところに土手道があります。



最初に来た頃はまだ台形を成していたような気がしますが、古道走行をするオフロードバイク(直接出会ったことはないですが。)によって頂点がどんどん削られてしまい、今はいびつな形になっています。





雪が積もっていると踏み跡が見えないので、道が窪んでいないとわかりにくいですね。



2つ目の土手道です。こちらは本来の形が残っています。この道は「街道」と呼ばれてはいますが、元々が山間地の生活道路のようなものなので、幅は細いものです。





道跡が明確な場所は気楽に歩いていけますね。



分岐点が現れました。直進に下っていく道は岡崎市切越町へ向かう古道です。千万町街道は右へとカーブしていきます。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

切越町へと下る古道の方が道幅が広いので、「千万町街道は尾根を通る。」ということを頭に入れておかないと、ミスコースする恐れがあります。



切越町への古道から千万町街道を見上げています。切越町側からは二股に分かれて千万町街道へ合流するようになっています。



先へと進みます。



小さな切り通しで尾根の左側から右側へと道が切り替わります。





この辺りもバイクが路面を深く掘り込んでしまい、非常に歩きにくくなっています。



多分タイヤで掘り込んで、雨水でさらに削れるの繰り返しなのでしょう。



また小さな切り通しを抜けて、道が尾根の左側へと替わります。





十字交差点を直進していきます。



千万町街道は尾根伝いの道のため、尾根の鞍部になる各所で他の古道が交差または分岐しています。見分けが付きにくい場所もあり道迷いしやすいので注意が必要です。

杉林の中を一本道が続きます。



2つ目の祠まで来ました。ここの祠は道沿いにあるので目印になります。



現在地は星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらもお地蔵様でしょうかね。



祠からやや下った所で道が二手に分かれます。



真っ直ぐに下っていく道はこのまま沢沿いを進み、途中から一気に急坂で尾根まで登っていくルート。左手に分岐して登っていく道は中腹を細道で通り抜けるルートで、ルート中に極端な高低差はありません。

どちらの道もこの先の尾根にある峠で合流するので、どちらも千万町街道と言えると思います。まあ、楽をしたいなら当然左手の道になりますが(笑)。

行きは直進ルートで進むことにします。



沢沿いに出てきました。



沢沿いゆえに道が削られてしまい、沢の中を歩かないといけない箇所が2か所あります。





また急坂で下り始めます。並行する沢も段差を重ねて流れ下ります。



先の方に平場が見えてきました。



この巨岩は見覚えがありますね。この沢筋を歩いていると、あちらこちらに巨岩が転がっています。



道の右側に平場が広がっています。沢同士が合流しているので、土砂の堆積地になっているのでしょう。



小さな沢を渡っていきます。枯れ細った丸太を2~3本架けてありましたが、渡らずに横に避けて進みます。



沢から離れていきます。いよいよ峠へと登り始めるようです。





だんだん険しくなってきました。



堀割り道で一気に登っていきます。地面には小石がゴロゴロしているので、非常に歩きにくいです。



「上に何か見えるなぁ。あんなものあったかな?」と思いつつ、ひたすら登ります。



「何だこりゃ!?」。道が塞がれています…。どうやら峠があった場所に林道ができてしまったようです…。



※「その2」へつづきます。
Posted at 2021/01/30 22:46:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月26日 イイね!

国道473号 根裏トンネルの旧道を探索する

2021年1月26日火曜日。本日は仕事がお休みで、天気もまずまずだったので、近場で古道でも探そうかと思い立ち、愛知県岡崎市桜形町にある国道473号根裏トンネルの旧道を探索してきました。



現在地は、地形図中の星印になります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、ここを通る国道473号は、正面の尾根を根裏トンネルで通過していますが、この根裏トンネルが開通したのが昭和37年(1962年)のことで、それ以前は自動車通行ができない峠でした。

戦前の地形図はこちら。赤色で示した峠越え区間を探索してみようと思います。


※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行

こちらは根裏トンネルです。



扁額は「根裏隧道」とあります。



トンネル坑口付近にある銘板。「着手 昭和34年(1959年)12月、竣功 昭和37年(1962年)3月、延長122m、請負人 眞柄組」と彫られています。



延長122mでありながら完成までに2年4か月もかかっています。地質に問題があったのか、単にのんびり掘っていたのか、どっちでしょうかね。

トンネルの規格は大型車では厳しいサイズ。普通車同士でもトンネル内での離合は難しいですね。建設当時はこのサイズで十分と思われていたのでしょう。



さて、戦前の地形図によると、旧道は根裏トンネルの700mほど手前で現在の国道とは違うルートへと進んで峠まで登っていきますが、さすがに700mも歩いて分岐点へ向かうのも面倒なので、トンネル脇から旧道まで斜面を登っていくことにします。



幸い、古道が残っていたので(旧道に関係のある道かはわかりませんが。)、利用して登っていきます。







旧道へと出てきました。根裏トンネルがくぐる尾根へ向かうため、左側へと進みます。



左折してすぐに舗装路は左へとカーブしていきますが、直進方向に小さな切り通しがあります。「切り通しの方が旧道だろう。」ということで、舗装路を外れて直進していきます。



切り通しを越えた所で林道が合流してきました。旧道は林道に削られてしまっているので、林道へと降りることにします。



前方、左側が峠の切り通しのようです。



切り通しの手前に石仏がありました。花入れに枝葉が生けられているので、お参りに来る人はあるようです。今まで見たことがない独特な面立ちの石仏ですね。



光背には、だいぶ文字がかすれていますが「明治四年」と彫られているようです。明治4年は1871年になります。



旧道の峠の切り通しです。手前側は幅が広く、林道改修時に削られたみたいです。



切り通しの左上に祠を見つけました。あとで登っていってみましょう。



切り通しの傍らに置かれている道標。文字が墨入れされています。文言は、「是ヨリ約五丁 多賀神社」とあります。



この峠から500m余のところに多賀神社があるという道標ですが、一体どこを指しているのかまったくわかりません。

林道から一段上の平場へと登りました。おそらくはここが本来の旧道だと思われます。



ただ、そうすると明治4年の石仏と多賀神社への道標がなぜ林道沿いに置かれているのかが疑問です(旧道から林道沿いに降ろしたということも考えられますが。)。

旧道から切り通し上の祠へと登ってみます。



この石仏もなかなか特徴的な造形をしていますね。先ほどの石仏と同様、顔面が突出して目立っています。



さて、切り通しを通り抜けていきます。



朽ち果てた廃トラック。



折れ重なる竹が邪魔ですが、道跡はしっかり残っています。





根裏トンネルの真上に出てきました。これは旧道が寸断されているパターンか?



現在地はここになります。



左側の斜面に道跡が残っていました。トンネル建設の際に道まで削られてはいなかったようです。





国道とは反対側の斜面を直線で進んでいきます。



路肩は石積みで補強されています。



折り返しに来ました。やけにはっきりと道跡が残っています。





折り返した先の路肩にも大きな石積み擁壁が残っています。



また直線区間が続きます。



沢に突き当たり、旧道は左へと折り返していきます。



ここに国道と出入りできる道が付けられています。



旧道はさらに下っていっています。



一旦、根裏トンネルの前に出てきました。これで帰り道は峠まで登らずにトンネルをくぐっていくことができます。



ふたたび旧道を辿っていきます。





国道との出入口から麓へ向かう旧道は舗装されています。



地元側からの要望があってのことでしょうか。トンネルから北側の車道が開通するのが遅れていて、暫定的に舗装してもらったとかね。全くの憶測ですが。

この後はいくつもの折り返しを繰り返して、麓へと下っていきます。







だいぶ下ってきた所でまた祠を見つけました。



何の石仏でしょう?とっさに思ったのは弘法大師像でした。僧形で恰幅が良いし、手に三鈷杵(かな?)を持っていたので。どうでしょうかね。



もう少し下った所にも祠がありました。峠への出入口になります。



祠の前に若木が生えていて邪魔ですが、石仏があります。お地蔵様でしょうか。



水道施設の横へと出てきました。目の前を国道473号が横切っています。



現在地はここです。



すぐ先には岡崎市桜形町の集落が見えています。おそらく田んぼの中を下っていく道が旧道でしょうが、昔の道跡を辿ることが目的なので、ここで引き返すことにします。



根裏トンネルまで登り直してきました。あとはトンネルをくぐるだけです。



北側の坑口にも銘板が付いています。南側の銘板と違う点は、こちら側がトンネルの起点になっていることですね。



トンネルを抜けて、車へと戻っていきました。





今回は距離が短かったので、探索としては1時間10分ほどで終了しました。

さて、この峠も新道である自動車道は大きく迂回して峠と行き来していますが、旧道である徒歩道は直線的に麓と峠をつないでいるパターンでした。今までに歩いた場所だと、県道37号の田原坂や県道334号の杣坂峠が同じパターンですね。

しかし、昔の峠道は、地図から消えて誰も歩かなくなってもけっこう残っているものだなぁとあらためて思いますね。というか、完全に自然に帰って消滅している峠道はないんじゃないかと(過酷な地形や気象条件の場所は別ですが。)。

まだまだ探索するネタは尽きないということですね(笑)。

Posted at 2021/01/26 21:16:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月17日 イイね!

東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索する

(「別所街道 望月峠道を歩いてきました」からのつづきになります。)

2021年1月16日土曜日、北設楽郡東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索してきました。

望月峠を越えて、峠の南側にある眞地集落までやって来ました。


ここまで歩いてきたルートはこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は11時。このまま望月峠へと峠道を引き返してもよかったのですが、時間的には余裕があったので、「ついでに熊野神社前から東側へ別れていく古道を偵察がてらに歩いて、愛知県道74号の御園トンネルの上から望月峠へ出ればいいや。」と違う道で戻ることにしました。

熊野神社の参道脇の木のすぐ右側に古道の入口があります。


踏み込んでいくと、すぐにはっきりとした古道が現れます。


この道は旧園村御園と豊根村古真立を結んでいた里道(聯路)の跡です。戦前の地形図中の青線の道になります。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

まずは笹原をかき分けて進みます。


分岐点に来ました。わかりにくいですが、右側直進方向に進む道があります。が、左側に見える切り通しの方が明らかに古そうなので、左側を選択します。


切り通しを通過します。


抜けたところで、古道は急坂の堀割り道で斜面にアタック開始です(笑)。「またか…。」という気分ですが、これも古道の味わいの一つということで。


小さい切り通しを抜けます。


下に県道74号が見えています。ここは斜面が少し崩れていますが、通行に支障はありません。


細い道が続きます。


また小さな切り通しを抜けます。


通り抜けたところで古道が無くなってしまいました。斜面が崩落したようです。


仕方がないので県道脇まで降りて、落石防護柵に沿って進んでいきます。


結局、古道は復活しないまま県道74号の御園トンネルに出てきました。


望月峠につながる林道はトンネル上の尾根を通っているので、そこまでは登らないといけません。

トンネル前で振り返り、左側へと登っていく林道へ入ります。


林道へ入ってすぐ左側に古道を発見。林道ではなく、こちらで尾根まで登っていくことにします。


わかっていましたが急坂です…。




古道が崩れています。山側に寄って通り抜けます。


密集した枯れ笹が現れました。かき分けて進めますが、何気にうっとうしい…。へし折りながら先へと進んでいきます。




前方が明るくなってきました。


先ほど別れた林道と再合流です。


すぐ左手に分岐点があり、左側へ進めば望月峠へと向かうことができます。


時刻は11時30分。「もう少し古道を追ってみるかな。」と望月峠へは向かわず、林道を横断して、再度、古道へと取り付きます。


ちゃんと古道が残っていました。


また枯れ笹です…。へし折りながら進みます。


笹原へと出てきました。写真中央が古道のようです。


間もなく、古道は林道へと吸収されてしまいました。


ここからは林道を歩いていきます。


中部電力が設置した電波反射板。


林道の小さな切り通しの脇に、さらに小さい切り通しが残っています。写真左側の切り通しが古道のものでしょう。


山の斜面に広い草原が現れました。木を伐採した跡ですかね。


この草原の斜面の下で道が分岐しているのを見つけました。


林道の左側に分岐していく道は山の上へと向かうようです。さらに左側の道は、いかにも古道のような道です。


入り込んで覗いてみると、斜面を下っていく古道がありました。どうやらここから山の麓にある豊根村古真立へと向かうようです。


場所は星印の地点になります。熊野神社前からここまで1.5kmほどです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

時刻は11時50分。「少しだけ下ってみるかな。」と下り坂へと入り込んでいきます。ある意味、悪い方に嵌まる行動パターンですね(笑)。


少し進むと崩落箇所がありましたが、橋が架かっています。この道自体が高圧線鉄塔の巡視路として使われているようなので、整備したのでしょう。


ここに橋が架かっていなければ引き返したかもしれません。いや、橋が無くても右側の倒木を頼りに渡っていったでしょうね(笑)。

橋を渡った先も両足幅くらいの踏み跡を進んでいきます。左側はけっこうな急斜面ですが、足場を容易に作れるくらいの柔らかい地面だったので、あまり気にすることなく通過しました。


ガレた沢を通過します。


歩き進めていくと、直進方向に道が無い地点に来ました。


どうやら左へ折れて、斜面を真っ直ぐ下っていくようです。


どこまで下っていくのか、はっきりとした道跡が無く不安でしたが、幸い、道跡によく付く凹地を見つけ、さらに左へと折れていきます。


写真は逆方向から撮っているので、写真左上部から下ってきて、右方向へと折り返す形になります。

緩斜面の端まで来たら、また折り返します。


最後にまた折り返して、この緩斜面から離れていきます。


また道が細くなっています。瓦礫がたくさん転がっているので、足を取られて転ばないように注意して進みます。


またガレた沢に出会いました。手前の倒木を手すり代わりにして、沢を横断していきます。


幅が広い部分に出てきました。やはり、谷側の路肩に木が植わっている場所は路盤が安定していて、道がしっかりと残っています。


「やれやれ一安心。」と思っていたら、道が崩れてしまった岩場へと出てきました。


「ここで終わりか…。」と思いましたが、よく見ると岩場に積もった土の上に踏み跡が続いています。「これなら行けるわ。」ということで、ここも越えていきます。

すぐに瓦礫で埋め尽くされた沢へと出ました。古道と河原に若干高低差がありましたが、木の根がいい具合に手すり代わりになり、沢へと降りて先へと進んでいきます。


沢を渡った先も細い道が続きます。手入れされなくなった急傾斜地の古道を進んでいくので、これは仕方ありません。


こういう場所でリラックス。


ガレ沢です。この古道で出会う沢の全ては岩で埋め尽くされていて、水が流れている沢がありません。


この辺りで時刻を気にしだしています。この沢の時点で12時20分。すでに30分はこの古道を下ってきています。この古道の行く先は現在は新豊根ダムのダム湖になっており、しかも対岸へ渡る手段はないので、また登り返さないといけません。

下りで30分の道程、疲れた足での登りならどれだけ時間がかかるのか。このまま進むのもキリもないので、12時30分まで歩いて引き返すことに決めました。

沢の先へと進みます。依然、快適とはとても言えない状況が続きます。まあ、当然ですが。


切り通しというほどではないですが、両側に岩のあるポイント。こういう所も目印にしやすいです。


古道はまだまだ先へと続いています。制限時間までにダム湖畔へは出られないか…。


先ほど決めた制限時間の12時30分を過ぎてしまいました。ここで引き返すことにします。


この場所にあった炭焼き窯の跡。今は見渡す限り杉林ですが、昔は炭焼きに最適な広葉樹の森が広がっていたのですかね。


実は、この炭焼き窯の跡の上に乗ろうとしたところ、枯れ枝に足をロックされて盛大にコケてしまい、危うくカメラのレンズを割ってしまうところでした。

さて、ここまで歩いてきて口惜しいところですが、2か所目で無理しても仕方がないので、また気が向いたら出直すことにします(でも、もう多分来ないかな。)。

最後にこの先へと続く古道を撮り、12時40分、元来た道へと引き返していきます。


13時16分、橋まで戻ってきました。ここまでくれば林道までもう一息です。


13時20分、林道へと戻ってきました。


引き返した地点から40分で登り返してきました。13時30分までに林道へ戻れればと考えていましたから上等ですね。

青線の部分が今回歩いたルートになります。ピンク線は未踏査部分になります(もちろんダム湖部分は無理ですが(笑)。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ずっと杉林の中で眺望が効かず、写真に写っていた地形と地形図を見比べながら作ったので、本当に青線の末端部まで行ったのかはわかりませんけどね。

しかし、この古道、現役の頃でもどれくらいの人通りがあったのでしょうか。豊根村古真立やその奥の集落の人々が、この近隣で一番大きい街である本郷(東栄町本郷)やさらにその先の新城・豊橋と行き来するための大切な道ではあったのでしょうけど、行き来するたびに山深いこの坂道を通るわけですよ。ちょっと想像つきませんね。

さあ、あとは望月峠へと出て、別所街道の峠道を下り、車へと戻ります。

(次稿へつづく。)
Posted at 2021/01/17 22:09:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年01月11日 イイね!

愛知県道484号 自動車通行不能区間を歩いてきました

2021年1月10日日曜日、愛知県豊田市連谷町から坪崎町の山越え区間にある、愛知県道484号の自動車通行不能区間を歩いてきました。

地図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

自動車通行不能区間のうち、黒色の実線で記されている区間はジムニーのような車なら一応通行できなくはないですが、破線区間は完全に徒歩道となります。そして、地図上では「県道」を表す「黄色」で上塗りされています。

この道、戦前の地形図でも「里道(聯路)」として記載されています。地図中の赤線が自動車通行不能区間に相当します。

※5万分の1地形図「明知」・明治34年(1901年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行

現在の地形図で「軽車道」表記となっている区間はつづら折りで峠へ向かっていますが、戦前の地形図では斜面を直線的に進むルートになっているので、あわせて旧道ルートも探索していきます。

豊田市連谷町側(地形図で南側の地点。)の自動車通行「可能」区間の終点へとやって来ました。


連谷町の集落から先は、道幅≒ほぼ車幅という狭い道でしたが、一応舗装もされているので、薄く積もった雪でのスリップに注意しつつ徐行で進入してきました。

やって来た道が車の正面方向で、これから徒歩で進む道は右折方向になります。

さて、自動車通行不能区間へと歩き出します。道幅はさほど変化ありませんが、ここから未舗装となるので、轍の部分は瓦礫が剥き出しになっています。


ほどなくして、道の右側に斜面の上へと延びていく凹地を発見。


いかにも古道臭さを感じさせます。当たりかハズレかわかりませんが、取りあえず跡を辿ってみます。

結果的にはハズレでした。大雨時に水が流れる窪地だったようです。まあ、歩いてみないと正否はわかりませんからね。

ふたたび県道を歩き始めます。


今度は左斜め方向に下っていく道跡を発見。けっこう先まで直線が見通せます。


「ということは、真反対に山へと登っていく道跡があるはず。」と振り返ると、案の定、こちら側にも直線の道跡が見て取れます。


これはもう明らかに里道時代の道跡ですね。さっそく跡を追っていきます。




200~300mほど辿ったところで頭上に県道が接近。道跡は瓦礫で埋め尽くされてしまいました。県道建設時に出た瓦礫なのでしょう。


瓦礫をよじ登って県道へと出ました。ここから先は、最初に歩いていた所よりもさらに道幅が狭くなっています。


周りの様子を窺いながら歩いていきましたが、特に気になるような状況は見られませんでした。




県道へ復帰してから7分程歩いたところで、軽車道としての終点に到着しました。ここでUターンできるようにするためか、ちょっとした広場になっています。


正面の山の上が峠のようですが、里道時代の道は抉り取られてしまっています。進むためには斜面をよじ登っていくしかないようです。

閑話休題。ここの斜面にあった霜柱。冷え込みが厳しかったので良く成長しています。


探索当日、途中通過した国道153号伊勢神トンネルでは気温マイナス5℃。その伊勢神トンネルから北へ直線2km余のこの峠もそんなに変わりはないでしょう。歩く道中でもキンッとした冷たさにさらされ続けていますから。

斜面を登り、里道時代の道跡に出ました(と言っても現役県道ですが(笑)。)。峠もすぐそこです。


峠に到着です。地形図には記載がありませんが、ここの峠の名前は「小石神峠」または「小石亀峠」だそうです。車からは25分程でした。


さてさて、ここへとやって来た目的の一つ目(古道探索は二の次(笑)。)、峠の石仏を鑑賞します。


ちょっと自信がないですが、仏像の頭上にあるのが馬頭に見えるので、馬頭観音でよいでしょう。光背には「安永九年」と「子五月日」と彫られているようです。


安永9年は1780年。約240年前の石仏ということになり、けっこう古いですね。「子」とあるのは、安永9年が子年だからです。年号と干支の両方で確認できれば、年代確認の間違いも防げます。台座にも何か彫られているように見えましたが、全くわかりませんでした(そもそも気のせいかもしれませんが。)。

それでは峠を抜けて、豊田市坪崎町側へと下っていきます。今は峠の両側とも豊田市ですが、かつては東加茂郡旭町と東加茂郡足助町の境界でした。


峠のすぐ下に折り返しがありますが、この辺りは道そのものがきれいではっきりしているので、迷うことはありません。


この先、下を流れる坪崎川に出るまで、坂はきつめです。道跡自体ははっきり残っているので、通過に苦労するような所はありませんでした。路面に瓦礫が多いので、歩きづらくはありますが。






目の前に坪崎川が見えてきました。そして、今回二つ目の目的物が写真左側に写っています。


道標です。


峠の石仏とこの道標、この道の事を下調べした時に、この峠を自転車を担いで通過した方のブログがあり、その中で触れられていました。「おおっ、これは要チェックだな!」という訳で、実の主目的は峠の石仏とここの道標なのです(笑)。

さっそく道標をチェックするわけですが、彫刻された手指の下には「せんからし」と彫られています。「せんからし?どこの事だ?」。峠を越えた先は連谷や中馬街道伊勢神峠(昔なら石亀峠か。)に小田木、もう少し先の大きい街なら稲橋(豊田市稲武町。)や足助。まったく思いつきません…。

「まあいいや、家で調べよう。次。」。道標を右へと回ります。


「うっ…。」。「右 山〇」。「右」と「山」はご覧のとおり誰でも読めます。しかし、「山」の下の崩し字がわかりません。諦めて次の面へと移ります。

※複数の崩し字検索サイトで試してみたところ、「道」が妥当なようです。よって「右 山道」と解釈しました。実際、右側の小径の先(坪崎川の上流。)は、戦前の地形図には道の記載がなく、集落も記されていません。伊勢神峠へと通じる間道があったくらいでしょう。

次の面も難解ですね…。下の四文字は「坪崎村中」でしょうが…。


一文字目がまったく見当つきません…。二文字目は「主」かな。「坪崎村中」が道標の設置に際して何かの「主」となったのでしょうが、その「何か」がわからないと文字もわかりません。ちなみに「施主」は残る一面にあるので違う。う~ん…。

※こちらの字も、複数の崩し字検索サイトで書体を入力して試してみましたが、「これだ!」という文字はありませんでした。

最後の面です。表題は「施主」ですね。「施主」の下に2列分文字が彫られていますが、摩滅しているため、読み取ることができませんでした。


おそらくは施主の名前が彫られているはずです。

道標を峠方面へ向いて眺めています。坪崎町から小石神峠へと向かう方向で見るのが、この道標の本来の使われ方のはずです。


道標に10分ほど滞在した後、先へと進みます。


道標の直下で坪崎川を渡っていたはずですが、橋の痕跡はありませんでした。


対岸の道路へ上がると県道標識があります。


ここから下流へと向かう道路が県道484号になります。ちなみに、上流側の道路はここから豊田市道になるそうです。


ここまで来たなら物はついでということで、坪崎町内の県道490号との交差点まで歩いていってみることにします。

途中、1か所だけ坪崎川を渡る橋があります。里道時代もほぼ同じルートで坪崎町内へと向かっていたようです。


20分程歩き、県道490号との交差点へと出てきました。


左折方向が県道490号になります。この先の峠にはものすごい急坂があります。




直進方向は引き続き県道484号。


ここに巡回バスのバス停があります。バスは1日2本あるようです。


右折した先にある常夜灯。台座には大正7年(1918年)とありました。


今回の探索はこれにて一応終了。車へと戻ることにします。

帰り道、途中で渡った橋の上流で石積み橋台を見つけました。その先に道跡が続いているので、里道時代の橋の跡でしょう。




道標まで戻ってきました。


手の彫り物をアップ。こういう物も遊び心なんでしょうかね。


で、また文面をしげしげと眺めていたら、「せ」の字の横に「〃」が。

「『せんからし』じゃなくて『ぜんかうし』、善光寺か!」とようやく合点がいきました。善光寺講の「坪崎村中」が「願主」となってこの場所に道標を建てたのでしょう。ただ、先ほどの文字が「願」であるのかは、まだわかりませんけどね。

ちょっとスッキリした気分になって小石神峠への道を登っていきます。






馬頭観音にごあいさつして峠を通過。


急坂を下って、連谷町側の道へと出ます。




のんびりと県道を下っていきます。




帰り道は旧道跡へと降りずに、そのまま県道を歩いていきます。途中に1か所分岐がありますが、ここは左側へと進みます。


さて、行きに見つけた里道時代の道跡です。今度は下っていく方向へと道跡を追っていきます。




何か所か道跡の残り方が怪しい場所がありますが、まあ雰囲気で判断して(歩いてきた道跡と無理のない自然な方向へ向かっているか等。)、先へと進んでいきます。




2か所連続の折り返しを抜けたところで、道跡は県道に削られて無くなっていました。






道跡と県道にまだ高低差があるので、もう少し先へと県道を歩いていったところ、左斜めへと登っていく小道を見つけました。


ここが本来の分岐点で、里道時代はここから山へと取り付いていたのでしょう。

出発してから約2時間40分、ようやく車へと戻ってきました。今回は冷気が身に染みました…。


峠と道標、旧道跡の位置はこんな感じです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後にちょっと寄り道。現在実施中の「国道153号伊勢神改良工事」により建設中の「新郡界橋」です。少し見ない間に橋桁まで架かっていました。




橋が架かり、トンネル工事に利用できるようになれば、いよいよ新伊勢神トンネルの工事も始まりそうですね。
Posted at 2021/01/11 12:37:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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