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小林あにのブログ一覧

2023年03月25日 イイね!

【三重県紀北町】野又峠の明治期車道を途中まで探索しました(2)

2023年3月11日(土)、三重県北牟婁郡紀北町にある野又峠の明治期車道の廃道を探索してきました。

さて、高圧線巡視路との交差点へ戻ってきました。ここからは峠方向へと明治期車道を進んでいきます。前方がシダ類に覆われているのが不安ではありますが…。


現在地はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入り込んでみるとこのシダ類の薮、思ったよりも難関です…。背丈並みに高さがあるし、ツタまで絡まっていて、なかなか進むことができません。崩れかけている足元に注意しながら薮に思い切り体重をかけて、体で押し切るように進んでいきました。


無事にシダ類の薮を通過。この先にも同じような薮が現われるかもしれないと思うと面倒くさくなりますね(笑)。


路面が崩落した場所に丸太が倒れています。丸太の上を歩いて渡ろうかとも思いましたが、よくよく確認すると何となく腐り気味。大事を取って、山側へと迂回していきます。


車道跡は土砂で埋まってあいまいになっていますが、地面にある石列が路肩の位置を教えてくれます。


車道跡が荒れていたり、崩落している箇所が増えてきました。2~3mくらいの段差がある場所もあり、その都度立ち止まっては上り下りするルートを考えます。










この車道跡の前半部のハイライトですかね。もっと上部へ行けば、よりスケール感の大きい崖道があるようです。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車道跡が完全に斜面に飲み込まれてしまっています。踏み跡は付いていますし、地面も引き締まっているので、歩くのに支障はありません。




野面積みの擁壁。この地点まで、整形した石材をきっちりと組み上げたタイプの擁壁は全然見当たりません。現在まで残っているわけですから、擁壁としての効果は十分発揮されているわけですけどね。


またも崩落箇所を横断していきます。ここは踏み跡が細い上に、けっこう下まで斜面が見通せる状態だったので、気を付けて進みました。


これから進む方角を眺めています。地肌が露わになっている斜面が見えています。また崩落箇所が現れそうですね…。


灌木帯が現れました。歩けるだけのスペースは開いているので、ここは気楽に通過。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

若木が密生していますが、シダ類の薮に比べれば何でもありません(笑)。かき分けて進んでいきます。


先程眺めていた地肌が露わになっていた斜面に来ました。車道跡は斜面の上部を通過していたので、ひとまず影響は無いようです。




ふたたび若木の並木の中を歩いていきます。


路面が崩落して斜面になっています。しかも硬い地面にサラサラした砂利が乗っている状態。歩きにくいことこの上なし…。山側に重心を掛けて足場を確認しつつ慎重に進んでいきます。




そして、今回の撤退地点に到着です…。


場所はこちら。


砂礫の崩落斜面。踏み跡は二筋付いてはいました。上側の筋の先には赤テープが巻かれた標石らしきものも見えています。


しばらく腕組みして斜面を眺めていましたが、まず砂礫の斜面へ下りるまでの足場が心もとなかったこと、立っている場所から砂礫の斜面の下方が確認できなかったこと、この先の斜面にも同様の崩落箇所が見えていたこと、そして何よりも踏み跡があっても砂礫の急斜面を横断する気持ちにどうしてもなれなかったこと。


ひとまず砂礫の斜面を横断することは断念しました。そして、尾根側から迂回できないかと期待して斜面を登っていきました。

そして約1時間後、この場所へと再び戻ってきました…。背高のシダ類の薮の海に溺れて、尾根にたどり着くことさえできませんでした…。


かき分けてもかき分けても現れる濃密なシダ類の薮で尾根へと出られず、仕方なくこのまま撤退しようと稜線を下るも、こちら側も密生するシダ類の薮に行く手を阻まれて車道跡へと復帰できず、結局四苦八苦しながら何とか元の場所へと戻るしか手がありませんでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

途中で探索を打ち切るしかない形となりましたが、こうなれば割り切るだけです。いつになるかわからない次回探索に期待して、元来た道を引き返します。

さて、高圧線鉄塔の下まで引き返してきました。この付近から車道跡が途絶していたので、再確認してみることにします。


高圧線鉄塔の山側に道跡らしいものがあることに気が付きました。そちらへと入り込んでみます。


車道跡が残っていました。進んでみることにします。


あっけなく林道終端部へと出てきました。ということは、この直線上に車道跡が残っているはずです。


高圧線巡視路は尾根筋へと登るために右へと曲がってきますが、車道跡は正面の薮の中へ進んでいるはず。


薮の直前に細い踏み跡らしきものがあったので、入り込んでみます。


シダ類の生えている場所の左側はすぐに急斜面。足元をよく見て、足場を確認しながら一歩一歩進んでいきます。


車道跡が残っていました。


この場所の立ち木に白と青のテープが巻いてあります。ここの山道を歩いていて、この色のテープが貼ってあるとその先は通行困難な場所ばかりでした。まあ、廃道歩きなので、行ける所まで進むだけです。


入口の濃い薮を見て心配でしたが、中へ入ってみたら、割ときれいな状態(廃道としてですけど。)を保っています。




足元が覆われている場所はなるべく山側を通行。


本当にシダ類が多いですね。


岩盤の切り取り工があると、人が踏み均して自然にできたものではない、「造られた道」という感じが強まります。


足元がすっぱりと崩れてしまった場所に遭遇してしまいました。飛び下りてこの先へと進むことはできますが、戻る時にこの場所を登り返すことができそうもありません。ここで終了です。




最後はこの車道跡が麓側の道とどこでつながっているのか確認します。この道へと取り付いた場所を直進していきます。


ちゃんと現在も利用されている道路へと出てきました。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車へと戻ってきました。今回の活動時間は6時間35分、歩行距離は8.7kmでした。


この車道跡は登れば登るほど酷い崩落箇所が増えてくることはあらかじめ知っていたので、元々「どこまで進むことができるかな。」という気持ちではありましたが、半分までしか進めなかったのは残念でした。

もし次に訪れるようなことがあれば、高圧線巡視路を進めるだけ進んで、そこから尾根筋に取り付いて、砂礫の崩落箇所を越えるようにした方が良いかもしれません。ただし、うまく車道跡へと復帰できる保証はありませんけどね。

今回の探索ルートの全体図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/03/25 11:32:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月18日 イイね!

【三重県紀北町】野又峠の明治期車道を途中まで探索しました(1)

2023年3月11日(土)、三重県北牟婁郡紀北町にある野又峠の明治期車道の廃道を探索してきました。

野又峠周辺の地形図はこちら。国道422号の紀北町側終端部となる楠木橋付近から野又峠へと至る破線道が、明治期車道のルートをおおよそ表しているようです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ネット検索すると探索した方々のいろいろなブログなどがヒットします。今回は、登山用アプリ「YAMAP(ヤマップ)」(私もルート確認や記録のために利用しています。)にあった、国道422号紀北町側終端部から野又峠までを往復した方のルート記録を参考にしました。

野又峠の明治期車道の来歴等については、「日本の廃道」第55号に多くの参考資料を交えた詳細な記事があります。
・明治41年(1907年)長島町(現:紀北町)と大杉谷桧原(現:大台町桧原)を結ぶ里道「長島道」の改修工事開始。新たに道路幅2~3mの荷車道を野又峠経由で建設。
・明治44年(1910年)3月に工事完成。
・大正11年(1923年)里道「長島道」が府縣道大杉谷長島線となる。
・昭和6年(1931年)測図の地形図ではすでに徒歩道表記となっている部分があり、早くも利用が廃れ始めていることが伺える。

こちらが昭和6年測図の地形図の野又峠付近のアップ。野又峠を越える前後は「主要ナル府縣道」表記となっていますが、大杉谷側(北側)へと向かう途中から「小径」(破線)表記になっています。

※5万分の1地形図「大臺ヶ原山」:明治44年(1910年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図。

さて、野又峠への明治期車道の取り付き場所と思われる付近へやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

明治期車道へと取り付く場所が判然としなかったので、この辺りから山側へと直登してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

植林地の中を100mほど進んでいくと道がありました。まだ確証はありませんが、ひとまずこの道を辿って進むことにします。


不意に周りが開けた場所に出ました。斜面が崩落した場所を整備し直した感じです。道はそのまま続いていたので歩いていきます。


ふたたび植林地の中を進みます。まだこの道の雰囲気では、明治期車道なのか、林業用の作業道なのかはっきりしません。


何か良い雰囲気にはなってきました。


路肩に石積み擁壁があります。どうやらこの道で正解だったようです。これで安心して進んでいけます。


橋台のように見えますが、これは崩れてしまった石積み擁壁ですね。期待が高まってきました(笑)。


野面積みの擁壁が続いています。




これは良い景色ですね。山側の岩壁の切り取り、谷側の石積み擁壁、荷車道らしい道幅。明治期車道の要素が詰まっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ序盤。廃道に吸い込まれるようにサクサクと進んでいきます。




そんなに登ってきてはいませんが、けっこう岩壁の切り取り区間が長いです。開削工事するのが大変だったでしょう。






地形に忠実に沿って、緩やかな坂で山を登っていきます。




沢を渡っている場所が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を埋め尽くす石垣を見ると、暗渠は設けられていません。水量は無さそうなので、下部にすき間を作っておくだけで十分と判断したのでしょう。


L字型に岩壁を切り取っているのがよくわかります。


稜線の先端をヘアピンカーブで巻いていきます。


壁面がシダ類で覆われています。崩れた場所でしょうか。


路肩に石列が埋まっています。路盤を流出させないための工夫なのでしょう。


今のところは大きな損壊も見当たらず、気分良く歩いていけます。






路上が全面シダ類で覆われています。シダ類=崩落箇所のイメージがあるので、あんまりいい気分ではないですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

程なくしてシダ類の群落を通過。


凹地部分の路盤が崩落しています。踏み跡が付いているので、ここはゆっくりと注意して横断していきます。


土砂が路面に覆いかぶさり、歩く道幅だけが残されています。


沢が合流している地点。最近は集中豪雨が多くて沢もたびたび増水するのか、地面が抉れてしまっています。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

昔の道形が残っている場所と荒れてしまった場所が交互に現れます。










高圧線鉄塔へと出てきました。ここで一旦、明治期車道は途切れてしまいます。




鉄塔の下を通り過ぎると林道の終端部に出ます。


ここからしばらくは、高圧線巡視路を歩いていくことになります。








尾根の上に出て、さらに高圧線巡視路を進んでいくと道跡との交差点に出ました。徒歩道にしては道幅が広く、もしかしたら途切れた明治期車道がここへと登ってきたのかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

野又峠までまだまだ先は長いですが、ここはちょっと寄り道。道跡の素性を確かめるため、下りとなる左折側の道跡へと踏み込みます。


進んでいる方角は見当違いですが、道の雰囲気は明治期車道を彷彿とさせます。


ガレた場所もありますが、道跡自体は崩れていないのでそのまま乗り越えていきます。


どうやらこの場所で道跡が折り返しているようです。カーブの外側に弧を描くように石が積まれています。


カーブの頂点から振り返ってみます。この道幅と屈曲のキツさは明らかに明治期車道。ここから高圧線鉄塔の方向へと進んでいるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブから50mほど進むと、雑草に覆われた崩落地形に行く手を阻まれました。まだこの先、野又峠まで行かなければいけませんし、この付近のルートはこれで予想が立ったので、引き返すことにします。


高圧線巡視路との交差点へ戻ってきました。ここからは峠方向へと明治期車道を進んでいきます。前方がシダ類に覆われているのが不安ではありますが…。


※その(2)へ続く。
Posted at 2023/03/18 21:04:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月12日 イイね!

【掛川市佐夜鹿】「中山新道」跡を歩いてきました

2023年2月23日木曜日、静岡県掛川市佐夜鹿に残る国道1号の前身道「中山新道」の跡を歩いてきました。

やって来たのは国道1号小夜の中山トンネル付近。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道1号小夜の中山トンネル付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

ちょっと長いですが、ここで「中山新道」の歴史を記しておきます。

かつて、金谷宿(現:島田市金谷)から日坂宿(現:掛川市日坂)の間の東海道は、現在の国道1号のルートとは違う場所を通過していました。金谷坂・菊川坂という急坂に加えて、特に間の宿である菊川宿から日坂宿の区間は、わざわざ小夜の中山峠へと登って長い尾根を縦走して日坂宿へと至るルートを取っていました。

金谷坂・菊川坂・小夜の中山峠と標高差150mほどのアップダウンを繰り返すこの牧ノ原台地越えのルートは、箱根や大井川のように有名ではないにせよ、東海道の大変な難所に変わりありませんでした。

明治時代に入り、牧ノ原台地で茶園の開墾を手掛けていた杉原権蔵という方が、茶園の開墾をより一層進めるためには金谷-日坂間の荷車道の整備が必要と考えました。これが「中山新道」建設のきっかけとなります。

杉原氏は出資者を募って明治11年(1878年)に静岡県へ新道開削を出願。これを受けて明治12年(1879年)8月に明治政府内で「中山峠新道開鑿之儀付伺」が提出され、明治12年9月に工事許可。10月に国の助成金を受けて工事を開始し、明治13年(1880年)5月に開通式が行われました。

さて、この「中山新道」、出願時に「国から金7,000円を借用して工事を行い、完成後31年間は通行料を徴収して返済に充てる。」という申し出をしています。工事費用の計画は総額で32,100円40銭。国からの7,000円は助成金として支出されたので、残額25,100円40銭を通行料徴収により26年間で返済する計画となりました。要するに「中山新道」は有料道路として開通したわけです。

開通後、道路利用は順調だったようですが、明治22年(1889年)4月16日、「中山新道」へ大きなダメージを与える出来事が起きます。東海道本線 静岡−浜松間の開通です。当時はまだ自動車はなく、陸路は徒歩や牛馬車が主力。それまで鉄道空白区間であったことにより平穏に利益を享受できていた「中山新道」は、東海道本線の開通によりスピードも輸送力も圧倒的な「鉄道」の猛烈な脅威に晒されることとなり、利用者を根こそぎ奪われてしまいました。

このため出資金の返済計画はとん挫し、明治35年(1902年)に「中山新道」は公道となり、明治38年(1905年)に国道となりました。

現在、当時の道路の面影を残しているのは、国道1号小夜の中山トンネルの真上の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図では赤線の区間に該当します。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

それでは現地へと向かうことにします。

まずは国道1号小夜の中山トンネル。


旧道トンネルの扁額。旧道と言っても現在も国道指定はされているようです。


バイパストンネルの扁額。このバイパストンネルは、元となるトンネルが昭和7年(1932年)に開通し、昭和29年(1954年)に改修。さらに昭和47年(1972年)にバイパス建設に伴い拡幅改修を受けています。


「中山新道」跡の出入口へと来ました。さっそく入り込んでみます。




切り通し区間が昔のまま残っているようです。古い方の小夜の中山トンネルが昭和7年(1932年)に開通しているので、切り通し区間が早い時期に国道指定を外されて廃道となり、そのおかげで往時のまま残ったのでしょう。








「この先行き止まり」の看板が立っています。「掛川市」とあるので、現在は市道なのかもしれません。




電柱が立っています。古い街道の跡には、昔からの電話線が通っていることがままありますが、この電話線の由来もそうなのでしょうか。




路面に丸石が散らばっています。石畳だったわけではなく、地面に埋もれていた丸石が長年の洗掘により姿を現したものでしょう。


この部分は往時の道幅がそのまま残っているようです。


小夜の中山トンネルの金谷側坑口の真上に出てきました。




道は右側へと進んで国道1号へと下っていきます。往時の道もこのような取り回しになっていたのかはわかりませんが、無理矢理な感じはまったくありません。




ヘアピンカーブの下側の斜面にあった低い石垣。「中山新道」に関わるものなのでしょうか。


国道1号へと出ました。本来は国道を斜めに横断して、向かい側にある道へと進んでいきますが、ここで引き返します。




もと来た道を戻っていきます。






入ってきた側の出入口に戻ってきました。


「中山新道」跡は以上となります。地図読み200mほどの短い廃道ですが、昔から随時改良されている国道1号で、明治時代の面影がそのまま残っている廃道は非常に珍しいと思われるので、貴重な場所です。

ここからはオマケです。思ったよりもあっけなく探索が終わってしまったので、峠から分岐していた古道をちょっと追ってみました。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。















Posted at 2023/03/12 21:29:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月09日 イイね!

愛知県道382号の岡崎市側の終端部を見に行ってきました

2023年2月18日土曜日、午後の暇つぶしに愛知県岡崎市雨山町にある愛知県道382号の終端部を見に行ってきました。

やって来たのは、岡崎市雨山町の雨山ダム。




周辺の地形図はこちら。県道382号は岡崎・豊川市境の風越峠を挟み、指定区間の空白があり、ルートがつながっていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雨山ダムに車を駐車して、県道382号の岡崎市側終端部へ徒歩で向かいます。


ダム湖の上流部まで来ると行き止まりの注意看板があります。


そして道幅が2車線から1車線へと細くなり、「この先車両通行止」の看板と虎柵により通行止めとなっていました。






徒歩通行は関係ないので、そのまま奥へと進んでいきます。




分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図によると県道は右へとカーブしていくので、そのとおりに進みます。


2か所目の分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点は左カーブ。そして、ここから砂利道となります。




3か所目の分岐点です。風越峠へと向かう道は左へとカーブしていきますが、地形図によると県道は直進となるので、真っ直ぐ進んでいきます。


けっこうな急坂を登っていきます。


分岐点から5分ほど歩くと終端部が見えてきました。


そして県道はバッサリと終わってしまいました。分岐点からここまでの道は作業道そのものでしたが、なんで県道に指定したのでしょうかね。雨山ダムの2車線区間が終わった地点までの指定でも良かったような気が(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

終端部から登ってきた県道を見下ろしています。結局、車両通行止め地点から終端部まで、県道を示す標識類は全然見当たりませんでした。


さて、ここまで来たのなら風越峠まで行きたいと思い、この上部を通る林道まで斜面を登ることにします。


5分ほど斜面を登ると細い林道へと出ました。


この林道、路面にはオフロードバイクのタイヤ跡が付いているのみ。植林地の管理には長らく使われていないようです。


「西蔵」という山への登山道の分岐点に来ました。ついでなので、山頂へ行ってみることにします。


息を切らしながら細い登山道を登っていきます。


林道から分岐して登ること10分。西蔵の山頂に着きました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山頂にある三等三角点「風越峠」。標高は482.50mです。


山頂からの眺め。眼下に新東名高速道路が見えます。


西蔵から尾根伝いに風越峠へと向かいます。




西蔵山頂から15分ほどで風越峠に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠なので石仏などが残っていないか周囲を探してみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。




次に峠の古道が残っていないか探してみたところ、林道よりも下段に道跡が残っていました。


車へと帰るついでに古道を辿っていきます。




5分も歩かないうちに古道は作業道へと吸収されてしまいました。地形が険しい豊川市側の方が、古道は残っているかもしれませんね。


暇つぶしのミニ探索だったので、特にこれといった成果はありませんでしたが、山を歩いて汗をかき、良い気分転換になりました。


Posted at 2023/03/09 22:57:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月26日 イイね!

岡崎市夏山町の古道を歩いてきました

2023年2月11日土曜日、愛知県岡崎市夏山町にある古道を歩いてきました。現在、現地を愛知県道333号が通過していますが、この県道の前身の道に当たると考えられる古道です。

当日は、ドライバーやすい氏と新しい表記でのペースノートの作成練習を付近の林道で行い、そこからの帰り道に立ち寄りました。矢印の方向へと進入していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに付近の戦前の地形図はこちら。現在の県道は勾配を緩和するためか、標高413mの山の南側中腹へと迂回していますが、昔の道は沢沿いにそのまま直進していました。この道を辿ってみようという訳です。

※2万5千分の1地形図「龜穴」:大正7年(1918年)測図。

さて、進入してみると古道と言うよりは廃作業道といった風情です。取りあえず、奥へとどんどん進んでみることにします。




棚田の跡と思われる石垣の段が残っています。


ようやく道の雰囲気が作業道から古道らしい感じになってきました。






小さな滝の脇を通り抜けていきます。


滝を通り抜けた先で古道が消えてしまいました。ひとまず、沢の対岸へと渡り、先へと進んで古道の続きを探してみます。




古道の続きを発見。先へと進んでいきます。




古道が沢に削られて消失しています。一旦、右側へと迂回し、高巻きして進むことにします。






沢沿いの道はどうしても増水時に削られたりするので、道跡が残っていてもボロボロなケースが多いですね。


この付近も、沢を挟んだ対岸には棚田の跡がずっと続いています。植林されている木(杉か檜?)の太さを見ても、相当以前に耕作放棄されたのでしょう。




また崩落箇所が現れたので、高巻きして迂回。この辺りから、上を通る県道から捨てられたのか、斜面のあちらこちらにゴミが散乱しています。


天気が悪かったのと沢沿いで湿気があるためかジメジメした雰囲気。ゴミも散乱しているので、小さな滝から先の古道はあまり好ましい感じではありませんね…。


そして、正面を塞ぐような高い盛土が現れて、行く手を阻まれてしまいました。古道はこの先で県道が通るルートと重なるはずなので、ここで探索を終了しました。


帰りは古道の崩落箇所を嫌って、沢の対岸にあった棚田の跡を進むことにしました。

棚田跡の山側に半円形の石積みで囲まれた窪みを発見。






炭焼き窯の跡かと思いましたが、山側に開いていた穴を見て、湧き水を利用した水場の跡だった可能性もあるかなと想像しています。






だいぶ日が傾いてきたので、先を急ぐことにします。


車へと戻ってきました。1時間弱のミニ探索でしたが、これでまた1つ、県道の前身道の確認が完了しました。


今回歩いたルート図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/02/26 12:31:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「旧中央本線「大日影トンネル遊歩道」を散策しました http://cvw.jp/b/1796277/48565476/
何シテル?   07/27 00:26
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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