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小林あにのブログ一覧

2023年04月17日 イイね!

中央本線 十二兼駅周辺を散策してきました

2023年4月1日土曜日、長野県木曽郡南木曽町の中央本線十二兼駅周辺を散策してきました。本当は、野尻森林鉄道柿其線跡の続きを探索しようと思ってやって来たのですが、図らずも「散策」となってしまいました…。

さて、野尻森林鉄道柿其線跡へと向かうため、木曽川に架かる柿其橋の近くへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸の山の中腹を通る野尻森林鉄道柿其線跡を眺めます。


柿其橋を渡り、橋のたもとにある神社へとやって来ました。ここから木曽川の河原へと下りていきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木曽川の河原から支流である柿其川の河原へと進んでいきます。


橋の下へとやって来ました。本当はこの橋を渡ることができれば簡単に廃線跡が通る山へと行けるのですが、採石業者?の私有橋のため関係者以外利用禁止なのです。


場所はこちら。


そのため、前回訪問時は橋の上流側にある浅瀬を渡渉したわけです。もちろん、今回もそのつもりでこの場所へと来ました。しかし、残念なことに今回は川の深さが長靴よりも深くなっていました…。

しばらく付近を移動して、別の場所に何とか渡れる浅瀬がないか、石伝いに渡っていけそうな場所がないかと探してみましたが、ダメでした…。

仕方ないので一旦道路へと上がり、柿其水路橋へと向かいます。


ここから野尻森林鉄道柿其線跡へと取り付きます。






柿其水路橋の上を通過。


杉林の中を進んでいきます。


昨年、初めて訪れた時に引き返した崩落箇所へと来ました。あれから1年経っているので、「もしかしたら通っていけるようになっているかも。」と淡い期待を抱いてやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

残念なことに、昨年引き返した時の状態と変わりありませんでした…。


崩落した土砂の上に登り、反対側に続いている廃線跡を見下ろします。黄色の線のとおりに下りていけば、反対側へと進むことができます。しかし、右側は柿其川まで20~30mの絶壁。今も谷側へと傾斜している崩土が、その場へと踏み込んだ途端、崩れ落ちるかもしれないという恐怖感が拭えません…。進むのは止めました。


結局、また柿其橋へと戻ってきました。振り出しです。


こうなったら、中央本線十二兼駅の北側にあるという、木曽川を渡るつり橋へと行ってみることにします。ただ、気がかりなのは、ネットで検索した渡橋記録が最新のもので7~8年前のものしかないことです。

つり橋の場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧中山道(旧国道19号)を歩いていきます。


十二兼駅へ寄り道。






ふたたび旧中山道を歩いていきます。


木曽谷の中央本線でよく見かける石造りのアーチ暗渠。




つり橋が見える場所までやって来ました。つり橋へと続く道が工事中のため立入禁止になっています。


それから、つり橋のたもとに門扉が付けられていて閉鎖されているようです。またダメでした…。


あともう1か所、希望のある場所へと移動します。

中央本線「第14仲仙道踏切」の近くへと車で移動してきました。




場所はこちら。この場所の直下にある読書ダムの堰堤を渡れるかもしれないとやって来ました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

読書ダムを見下ろして、その期待は速攻で砕かれました…。ここも門扉が付いています…。十二兼駅前にあったハイキング案内図には渡れるように図示されていたのに…。


これで木曽川の対岸へと渡る手段は無くなりました。もう一つ、さらに上流に架かる阿寺橋から下流へと向かう方法もありますが、人目が多いルートなので…。

このまま帰るのも何なので、野尻宿の入口まで旧中山道を散策することにします。と言っても、舗装路になってしまっているので、昔の街道の風情は全然残っていませんでしたが。


道中、旧中山道をハイキングしているのか、何名かの人とすれ違いました。


山側にトンネル型の穴を発見。


砂防ダムの水抜き穴だったようです。


「第13仲仙道踏切」に来ました。五街道と呼ばれるうちの一つであるこの街道。通常、「中山道」または「中仙道」と表すと思うのですが、踏切名称はなぜか「仲仙道」。中央本線建設当時はそのような表記もあったのかもしれません。




名古屋行きの特急「しなの」が、振り子電車の威力を発揮して豪快に通過していきます。


旧中山道の橋は今時の橋に架け替えられています。せめて戦前のコンクリート橋で残っていないかなと期待したのですが。頭上の橋は現在の国道19号です。


野尻宿の入口まで来ました。直進すれば野尻宿。左折すれば木曽川に架かる阿寺橋を渡り、阿寺渓谷へと行くことができます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「第13仲仙道踏切」まで戻ってきました。ここから左側へと山道が分岐しています。このまま旧中山道を戻るのも面白味がないので入り込んでみます。




落石防止施設が現れました。土台のコンクリートに大きな亀裂が入っていますが、大丈夫なんですかね。


竣工年月は1977年(昭和52年)11月とあります。


落石防止施設に沿って進んでいきます。


砂防ダムへと出てきました。もしかしたら、砂防ダム建設時に造られた作業道だったのか…。


砂防ダムの先へと細い通路?が続いているので、進んでみることにします。




斜面に点検用と思われる梯子が設置されています。中央本線の真上になるので、この辺りの斜面は石積みかコンクリートの擁壁で覆われているようです。土砂が積もり草木が生えているので、石・コンクリートのどちらで造られているのかはよくわかりませんが。


今は擁壁の「犬走り」を歩いているわけですね。でも、通路右側の木にピンクリボンが付けられているし、昔の道跡であるかもしれません。


擁壁部分を脱出したようです。


斜面の凹地が崩落しています…。渡れそうではありますが、失敗すると10mくらい斜面を滑り落ちそうです。


この場所で10分くらい立ち止まって進退を検討(笑)。結局、斜面に足場を作りながらじりじりと進み、大丈夫な距離まで来たところで小ジャンプ。反対側へと進みました。

崩落箇所の先の杉林の中には、道跡と思われる隙間が続いていました。




結果的には、国道19号 野尻トンネルの前へと合流。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車がビュンビュンと走る、歩道の無い国道19号を歩くのは怖いので、ふたたび斜面へと突入。


かつて建物があったのか、側溝に囲まれた平場。


何とかうまく「第14仲仙道踏切」の近くへと脱出し、車へと戻りました。


今回は、昨年3月に探索した野尻森林鉄道柿其線跡を前回よりもさらに上流に向かって探索したかったのですが、廃線跡に取り付けなかったばかりに探索空振りとなってしまいました。

ブログに上げていないだけで、こんなことはままあります(笑)。ネットなどで下調べして向かっても、当時と状況が変わっていることはよくありますし、自分がそもそも探索場所を発見できないこともあります。

まあ、空振りに終わったとしても、代わりに何か小ネタを拾って気分を紛らわすのが大事ですね(笑)。
Posted at 2023/04/17 18:27:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年04月08日 イイね!

旧 越路隧道と旧国道42号 小坂隧道へ行ってきました

2023年3月19日日曜日、和歌山県新宮市の旧越路隧道とその旧道及び三重県熊野市の旧国道42号 小坂隧道へと行ってきました。今回のメインは旧越路隧道で、過去に訪れたことのある小坂隧道はオマケです(笑)。

旧 越路隧道の周辺図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

新宮市街地の西部にある越路峠には、新旧合わせて3つのトンネルが存在しています。現在のメインルートである国道168号新越路トンネル(2008年(平成20年)開通)、すぐ北側に並行する先代の越路隧道(1964年(昭和39年)開通)、先代の越路隧道の真上にある先々代の旧越路隧道(1936年(昭和11年)開通)となります。そして、旧越路隧道がある旧道には、もう一つ無名の短いトンネルがあります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、いつものパターンだと離れた場所に車を停めて、徒歩で現場へと接近するのですが、過去のレポートを読むとトンネルまで車で乗り付ける方が多かったので、今回は私もそのようにしてみました。

新越路トンネル前の交差点から進入。1.5車線幅から1車線幅へと狭くなっていきましたが、舗装はされていたので「これはインプレッサでも大丈夫かな。」と進んでいきましたが、大きな廃屋が現れるとその先から未舗装となり、最後は狭くてガタガタな道の段差に腹を擦らないかとおびえながら(笑)、何とかトンネルの前へとやって来ました。


こちらが旧越路隧道です。日差しが強いため陰影が濃く、見づらい写真になってしまいました・・・。華美な装飾が全く無い、昭和戦前期の標準的なデザインのコンクリート製坑門です。


昭和16年(1941年)3月に内務省土木試験所より発行された「本邦道路隧道輯覧」によると、起工は昭和10年(1935年)7月3日、竣工は昭和11年(1936年)3月31日とあり、トンネル延長は165.5m。当時はまだ国道ではなく、指定府縣道本宮新宮停車場線のトンネルでした。


扁額です。パッと見では気づきにくい程度の大きさです。


内部を覗いてみると、アーチ部はコンクリートブロック積み、側壁は場所打ちコンクリートとなっています。


コンクリートブロックで巻き立てられている部分は漏水が多いようで、壁面も路面も濡れており、水溜りもあります。「本邦道路隧道輯覧」中、越路隧道のページの地質欄にも、「花崗岩(亀裂多く隧道入口は漏水甚だし)」と記されています。




トンネル中央部は素掘り状態のままとなっています。コンクリート巻き立て部分と違って乾燥しています。トンネル上の土被りの厚みの違いや地質の違いによるものでしょうか。





新宮市街地側と違い、反対側の坑口付近は短い距離しかコンクリート巻き立てがされていません。「本邦道路隧道輯覧」には、巻き立て延長が「新宮口施工延長67.55m、高田口施工延長14.15m」とあります。


そして、やはり坑口付近は水浸しになっています。


反対側の坑門です。当然ですが坑門のデザインに違いはありません。坑門前には崩落してきた土砂が積もっています。




坑門の上を見上げると、尾根に向かって凹地が伸びています。これがスロープになって、付近の斜面から崩れてくる土砂を坑門前へと落としているようです。


反対側の扁額。文字が土に埋もれている部分がありますが、書体は市街地側の扁額とやや違うようにも見えます。


せっかくなので、旧道を歩いてみることにします。


木々の隙間から熊野川の流れが見えています。


高い岩壁を切り崩して道路を通しています。軽四同士でもすれ違うのが難しそうな程度の道幅しかありません。


目の前に巨岩が山積みになっている場所が現れました。「これはすごいなぁ。この先の道は大丈夫かな?」と直線方向を眺めると道がありません。「あっ、もしかして無名トンネルがある場所が崩壊したということ!?」と少々パニックに。


1個1個岩を踏みしめて浮石になっていないか確認しながら、慎重に巨岩の山を登ります。


崩落した斜面を見上げます。岩壁に幾筋もの縦線が入っています。斜面の上部が土色をしていて風雨に晒された感じが無いので、あのあたりの岩壁が筋に沿って一気に崩落したのでしょう。恐ろしい・・・。


「トンネルは潰されたのか埋まってしまったのかなぁ。」と進んでいくと、かろうじてトンネルの上部が見えてきました。


巨岩はトンネル内へとなだれ込んではいますが、トンネル自体に被害は無いようでヤレヤレです。




あらためて無名のトンネルです。岩脈に直接トンネルを穿ってあり、坑門はありません。また、高さ・道幅も旧越路隧道と比較すると小さく、自動車は1台づつしか通行できなかったでしょう。




ここは旧道(廃道)ですが、平成13年(2001年)に法面工事を行ったようです。旧道の真下には住居や国道(現在は旧国道)があったので、それらの防護のためでしょう。




新越路トンネルが見えました。戦前と現代では、トンネルの規格も造りも全く違いますね。




路上にも巨岩が落ちていました。すぐ上の斜面にぶら下がっている岩がまだあったので、そのうちに旧道が塞がれてしまうかもしれません。


熊野川と山の急斜面の間の狭い土地に現国道、旧国道、倉庫らしい建屋と並んでいます。


ここの路肩はコンクリートで保護されています。しかし、ガードレールは設置されていなかったようです。支柱を差し込む穴が見当たりません。


小さな切り通しが見えてきました。




この切り通しの路肩に標石を見つけました。


「電話」とあるので、旧電電公社が設置したものでしょう。かつては電話線が地中を通っていたのかもしれません。


切り通しを通り抜けると真新しい橋がありました。左側にこれまた新しそうな砂防ダムがあったので、建設時に架け替えられたのでしょう。


ようやく旧道と現国道との合流地点が見えてきました。正面奥の住宅がある所を国道が通っています。合流地点まで行く必要もないので、この場所で引き返すことにします。


それではふたたび旧道を通り、車へと戻ることにします。










旧越路隧道を通り抜けます。




















市街地側にあるコンクリート巻き立て部には、ブロックが抜け落ちて岩盤が見えている箇所があります。


車へと戻ってきました。


今回、旧越路隧道自体は、昭和戦前期の目立った特徴の無いコンクリート・素掘りトンネルということで、「淡々と見物しました。」といった感じでした。正直、どちらかというと無名トンネル前の崩落現場のインパクトの強さに上書きされてしまった感じでしたね(笑)。

旧道から眺めた新宮市街地。


これで旧越路隧道の見物は終わり、明日は月曜日で仕事があるということで、熊野市からさっさと高速道路(正しくは熊野市-尾鷲市間は国道42号「熊野尾鷲道路」ですが。)に乗って帰宅しても良かったのですが、「せっかくなので」、熊野市から高速道路には乗らずに国道42号の佐田坂を登っていくことにします。

やって来たのは、国道42号小阪トンネルの前。


小阪トンネル付近の地形図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

かつて、この場所を通過していた国道42号の前身となる県道は、トンネルの真上にある小阪峠を越えていました。そして小阪峠から木本(現在の熊野市の中心地)へは、国道42号とは違うルートである評議峠を越えるルートを取っていました。

ただ、評議峠越えのルートは、明治時代に荷車道として開削された当時から難所であり、自動車交通が普及してきた昭和初期においては通行に支障をきたしていました。そこで、小阪峠にトンネルを建設し、現在国道42号が通過する佐田坂を自動車通行できるように改修する計画が立てられました。

今から見に行くのは、この改修計画により建設されたトンネルです。

そのトンネルは小阪トンネルに並行する場所に残っています。短い旧道へと入り込みます。


小坂隧道です。こちらも陰影が濃すぎて写真がダメですね・・・。トンネルの竣工は昭和13年(1938年)。しかし、計画のもう一つの要となる佐田坂の改修が戦争勃発などにより全然進まず、改修が完成した昭和24年(1949年)まで供用されなかったようです。


小坂隧道の扁額。現地の地名や現トンネル名は「小阪」ですが、このトンネルはなぜか「小坂」と名付けられています。


扁額には「三重縣知事 佐藤正俊」と刻まれています。佐藤氏は、昭和12年(1937年)12月24日から昭和14年(1939年)3月1日まで県知事に在任しています。


トンネルは門扉で封鎖されています。


トンネル内部は一部が水没。


門扉の前は泥沼になっています(笑)。


小坂隧道は昭和24年(1949年)からようやく供用されたわけですが、戦前期に造られたトンネルであり、その後の車両大型化に規格が合わなくなったことで、昭和41年(1966年)に現在の小阪トンネルが竣工。小坂隧道は竣工から28年、供用開始から17年という短命でお役御免となってしまいました。立派な坑門を持っていることからも、竣工当時の同トンネルへの期待度の高さが伺えますが、結局、時代の波に翻弄されて終わってしまったみたいですね。
Posted at 2023/04/08 18:12:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月25日 イイね!

【三重県紀北町】野又峠の明治期車道を途中まで探索しました(2)

2023年3月11日(土)、三重県北牟婁郡紀北町にある野又峠の明治期車道の廃道を探索してきました。

さて、高圧線巡視路との交差点へ戻ってきました。ここからは峠方向へと明治期車道を進んでいきます。前方がシダ類に覆われているのが不安ではありますが…。


現在地はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入り込んでみるとこのシダ類の薮、思ったよりも難関です…。背丈並みに高さがあるし、ツタまで絡まっていて、なかなか進むことができません。崩れかけている足元に注意しながら薮に思い切り体重をかけて、体で押し切るように進んでいきました。


無事にシダ類の薮を通過。この先にも同じような薮が現われるかもしれないと思うと面倒くさくなりますね(笑)。


路面が崩落した場所に丸太が倒れています。丸太の上を歩いて渡ろうかとも思いましたが、よくよく確認すると何となく腐り気味。大事を取って、山側へと迂回していきます。


車道跡は土砂で埋まってあいまいになっていますが、地面にある石列が路肩の位置を教えてくれます。


車道跡が荒れていたり、崩落している箇所が増えてきました。2~3mくらいの段差がある場所もあり、その都度立ち止まっては上り下りするルートを考えます。










この車道跡の前半部のハイライトですかね。もっと上部へ行けば、よりスケール感の大きい崖道があるようです。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車道跡が完全に斜面に飲み込まれてしまっています。踏み跡は付いていますし、地面も引き締まっているので、歩くのに支障はありません。




野面積みの擁壁。この地点まで、整形した石材をきっちりと組み上げたタイプの擁壁は全然見当たりません。現在まで残っているわけですから、擁壁としての効果は十分発揮されているわけですけどね。


またも崩落箇所を横断していきます。ここは踏み跡が細い上に、けっこう下まで斜面が見通せる状態だったので、気を付けて進みました。


これから進む方角を眺めています。地肌が露わになっている斜面が見えています。また崩落箇所が現れそうですね…。


灌木帯が現れました。歩けるだけのスペースは開いているので、ここは気楽に通過。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

若木が密生していますが、シダ類の薮に比べれば何でもありません(笑)。かき分けて進んでいきます。


先程眺めていた地肌が露わになっていた斜面に来ました。車道跡は斜面の上部を通過していたので、ひとまず影響は無いようです。




ふたたび若木の並木の中を歩いていきます。


路面が崩落して斜面になっています。しかも硬い地面にサラサラした砂利が乗っている状態。歩きにくいことこの上なし…。山側に重心を掛けて足場を確認しつつ慎重に進んでいきます。




そして、今回の撤退地点に到着です…。


場所はこちら。


砂礫の崩落斜面。踏み跡は二筋付いてはいました。上側の筋の先には赤テープが巻かれた標石らしきものも見えています。


しばらく腕組みして斜面を眺めていましたが、まず砂礫の斜面へ下りるまでの足場が心もとなかったこと、立っている場所から砂礫の斜面の下方が確認できなかったこと、この先の斜面にも同様の崩落箇所が見えていたこと、そして何よりも踏み跡があっても砂礫の急斜面を横断する気持ちにどうしてもなれなかったこと。


ひとまず砂礫の斜面を横断することは断念しました。そして、尾根側から迂回できないかと期待して斜面を登っていきました。

そして約1時間後、この場所へと再び戻ってきました…。背高のシダ類の薮の海に溺れて、尾根にたどり着くことさえできませんでした…。


かき分けてもかき分けても現れる濃密なシダ類の薮で尾根へと出られず、仕方なくこのまま撤退しようと稜線を下るも、こちら側も密生するシダ類の薮に行く手を阻まれて車道跡へと復帰できず、結局四苦八苦しながら何とか元の場所へと戻るしか手がありませんでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

途中で探索を打ち切るしかない形となりましたが、こうなれば割り切るだけです。いつになるかわからない次回探索に期待して、元来た道を引き返します。

さて、高圧線鉄塔の下まで引き返してきました。この付近から車道跡が途絶していたので、再確認してみることにします。


高圧線鉄塔の山側に道跡らしいものがあることに気が付きました。そちらへと入り込んでみます。


車道跡が残っていました。進んでみることにします。


あっけなく林道終端部へと出てきました。ということは、この直線上に車道跡が残っているはずです。


高圧線巡視路は尾根筋へと登るために右へと曲がってきますが、車道跡は正面の薮の中へ進んでいるはず。


薮の直前に細い踏み跡らしきものがあったので、入り込んでみます。


シダ類の生えている場所の左側はすぐに急斜面。足元をよく見て、足場を確認しながら一歩一歩進んでいきます。


車道跡が残っていました。


この場所の立ち木に白と青のテープが巻いてあります。ここの山道を歩いていて、この色のテープが貼ってあるとその先は通行困難な場所ばかりでした。まあ、廃道歩きなので、行ける所まで進むだけです。


入口の濃い薮を見て心配でしたが、中へ入ってみたら、割ときれいな状態(廃道としてですけど。)を保っています。




足元が覆われている場所はなるべく山側を通行。


本当にシダ類が多いですね。


岩盤の切り取り工があると、人が踏み均して自然にできたものではない、「造られた道」という感じが強まります。


足元がすっぱりと崩れてしまった場所に遭遇してしまいました。飛び下りてこの先へと進むことはできますが、戻る時にこの場所を登り返すことができそうもありません。ここで終了です。




最後はこの車道跡が麓側の道とどこでつながっているのか確認します。この道へと取り付いた場所を直進していきます。


ちゃんと現在も利用されている道路へと出てきました。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

車へと戻ってきました。今回の活動時間は6時間35分、歩行距離は8.7kmでした。


この車道跡は登れば登るほど酷い崩落箇所が増えてくることはあらかじめ知っていたので、元々「どこまで進むことができるかな。」という気持ちではありましたが、半分までしか進めなかったのは残念でした。

もし次に訪れるようなことがあれば、高圧線巡視路を進めるだけ進んで、そこから尾根筋に取り付いて、砂礫の崩落箇所を越えるようにした方が良いかもしれません。ただし、うまく車道跡へと復帰できる保証はありませんけどね。

今回の探索ルートの全体図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/03/25 11:32:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月18日 イイね!

【三重県紀北町】野又峠の明治期車道を途中まで探索しました(1)

2023年3月11日(土)、三重県北牟婁郡紀北町にある野又峠の明治期車道の廃道を探索してきました。

野又峠周辺の地形図はこちら。国道422号の紀北町側終端部となる楠木橋付近から野又峠へと至る破線道が、明治期車道のルートをおおよそ表しているようです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ネット検索すると探索した方々のいろいろなブログなどがヒットします。今回は、登山用アプリ「YAMAP(ヤマップ)」(私もルート確認や記録のために利用しています。)にあった、国道422号紀北町側終端部から野又峠までを往復した方のルート記録を参考にしました。

野又峠の明治期車道の来歴等については、「日本の廃道」第55号に多くの参考資料を交えた詳細な記事があります。
・明治41年(1907年)長島町(現:紀北町)と大杉谷桧原(現:大台町桧原)を結ぶ里道「長島道」の改修工事開始。新たに道路幅2~3mの荷車道を野又峠経由で建設。
・明治44年(1910年)3月に工事完成。
・大正11年(1923年)里道「長島道」が府縣道大杉谷長島線となる。
・昭和6年(1931年)測図の地形図ではすでに徒歩道表記となっている部分があり、早くも利用が廃れ始めていることが伺える。

こちらが昭和6年測図の地形図の野又峠付近のアップ。野又峠を越える前後は「主要ナル府縣道」表記となっていますが、大杉谷側(北側)へと向かう途中から「小径」(破線)表記になっています。

※5万分の1地形図「大臺ヶ原山」:明治44年(1910年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図。

さて、野又峠への明治期車道の取り付き場所と思われる付近へやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

明治期車道へと取り付く場所が判然としなかったので、この辺りから山側へと直登してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

植林地の中を100mほど進んでいくと道がありました。まだ確証はありませんが、ひとまずこの道を辿って進むことにします。


不意に周りが開けた場所に出ました。斜面が崩落した場所を整備し直した感じです。道はそのまま続いていたので歩いていきます。


ふたたび植林地の中を進みます。まだこの道の雰囲気では、明治期車道なのか、林業用の作業道なのかはっきりしません。


何か良い雰囲気にはなってきました。


路肩に石積み擁壁があります。どうやらこの道で正解だったようです。これで安心して進んでいけます。


橋台のように見えますが、これは崩れてしまった石積み擁壁ですね。期待が高まってきました(笑)。


野面積みの擁壁が続いています。




これは良い景色ですね。山側の岩壁の切り取り、谷側の石積み擁壁、荷車道らしい道幅。明治期車道の要素が詰まっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ序盤。廃道に吸い込まれるようにサクサクと進んでいきます。




そんなに登ってきてはいませんが、けっこう岩壁の切り取り区間が長いです。開削工事するのが大変だったでしょう。






地形に忠実に沿って、緩やかな坂で山を登っていきます。




沢を渡っている場所が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を埋め尽くす石垣を見ると、暗渠は設けられていません。水量は無さそうなので、下部にすき間を作っておくだけで十分と判断したのでしょう。


L字型に岩壁を切り取っているのがよくわかります。


稜線の先端をヘアピンカーブで巻いていきます。


壁面がシダ類で覆われています。崩れた場所でしょうか。


路肩に石列が埋まっています。路盤を流出させないための工夫なのでしょう。


今のところは大きな損壊も見当たらず、気分良く歩いていけます。






路上が全面シダ類で覆われています。シダ類=崩落箇所のイメージがあるので、あんまりいい気分ではないですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

程なくしてシダ類の群落を通過。


凹地部分の路盤が崩落しています。踏み跡が付いているので、ここはゆっくりと注意して横断していきます。


土砂が路面に覆いかぶさり、歩く道幅だけが残されています。


沢が合流している地点。最近は集中豪雨が多くて沢もたびたび増水するのか、地面が抉れてしまっています。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

昔の道形が残っている場所と荒れてしまった場所が交互に現れます。










高圧線鉄塔へと出てきました。ここで一旦、明治期車道は途切れてしまいます。




鉄塔の下を通り過ぎると林道の終端部に出ます。


ここからしばらくは、高圧線巡視路を歩いていくことになります。








尾根の上に出て、さらに高圧線巡視路を進んでいくと道跡との交差点に出ました。徒歩道にしては道幅が広く、もしかしたら途切れた明治期車道がここへと登ってきたのかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

野又峠までまだまだ先は長いですが、ここはちょっと寄り道。道跡の素性を確かめるため、下りとなる左折側の道跡へと踏み込みます。


進んでいる方角は見当違いですが、道の雰囲気は明治期車道を彷彿とさせます。


ガレた場所もありますが、道跡自体は崩れていないのでそのまま乗り越えていきます。


どうやらこの場所で道跡が折り返しているようです。カーブの外側に弧を描くように石が積まれています。


カーブの頂点から振り返ってみます。この道幅と屈曲のキツさは明らかに明治期車道。ここから高圧線鉄塔の方向へと進んでいるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブから50mほど進むと、雑草に覆われた崩落地形に行く手を阻まれました。まだこの先、野又峠まで行かなければいけませんし、この付近のルートはこれで予想が立ったので、引き返すことにします。


高圧線巡視路との交差点へ戻ってきました。ここからは峠方向へと明治期車道を進んでいきます。前方がシダ類に覆われているのが不安ではありますが…。


※その(2)へ続く。
Posted at 2023/03/18 21:04:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月12日 イイね!

【掛川市佐夜鹿】「中山新道」跡を歩いてきました

2023年2月23日木曜日、静岡県掛川市佐夜鹿に残る国道1号の前身道「中山新道」の跡を歩いてきました。

やって来たのは国道1号小夜の中山トンネル付近。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道1号小夜の中山トンネル付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

ちょっと長いですが、ここで「中山新道」の歴史を記しておきます。

かつて、金谷宿(現:島田市金谷)から日坂宿(現:掛川市日坂)の間の東海道は、現在の国道1号のルートとは違う場所を通過していました。金谷坂・菊川坂という急坂に加えて、特に間の宿である菊川宿から日坂宿の区間は、わざわざ小夜の中山峠へと登って長い尾根を縦走して日坂宿へと至るルートを取っていました。

金谷坂・菊川坂・小夜の中山峠と標高差150mほどのアップダウンを繰り返すこの牧ノ原台地越えのルートは、箱根や大井川のように有名ではないにせよ、東海道の大変な難所に変わりありませんでした。

明治時代に入り、牧ノ原台地で茶園の開墾を手掛けていた杉原権蔵という方が、茶園の開墾をより一層進めるためには金谷-日坂間の荷車道の整備が必要と考えました。これが「中山新道」建設のきっかけとなります。

杉原氏は出資者を募って明治11年(1878年)に静岡県へ新道開削を出願。これを受けて明治12年(1879年)8月に明治政府内で「中山峠新道開鑿之儀付伺」が提出され、明治12年9月に工事許可。10月に国の助成金を受けて工事を開始し、明治13年(1880年)5月に開通式が行われました。

さて、この「中山新道」、出願時に「国から金7,000円を借用して工事を行い、完成後31年間は通行料を徴収して返済に充てる。」という申し出をしています。工事費用の計画は総額で32,100円40銭。国からの7,000円は助成金として支出されたので、残額25,100円40銭を通行料徴収により26年間で返済する計画となりました。要するに「中山新道」は有料道路として開通したわけです。

開通後、道路利用は順調だったようですが、明治22年(1889年)4月16日、「中山新道」へ大きなダメージを与える出来事が起きます。東海道本線 静岡−浜松間の開通です。当時はまだ自動車はなく、陸路は徒歩や牛馬車が主力。それまで鉄道空白区間であったことにより平穏に利益を享受できていた「中山新道」は、東海道本線の開通によりスピードも輸送力も圧倒的な「鉄道」の猛烈な脅威に晒されることとなり、利用者を根こそぎ奪われてしまいました。

このため出資金の返済計画はとん挫し、明治35年(1902年)に「中山新道」は公道となり、明治38年(1905年)に国道となりました。

現在、当時の道路の面影を残しているのは、国道1号小夜の中山トンネルの真上の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図では赤線の区間に該当します。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

それでは現地へと向かうことにします。

まずは国道1号小夜の中山トンネル。


旧道トンネルの扁額。旧道と言っても現在も国道指定はされているようです。


バイパストンネルの扁額。このバイパストンネルは、元となるトンネルが昭和7年(1932年)に開通し、昭和29年(1954年)に改修。さらに昭和47年(1972年)にバイパス建設に伴い拡幅改修を受けています。


「中山新道」跡の出入口へと来ました。さっそく入り込んでみます。




切り通し区間が昔のまま残っているようです。古い方の小夜の中山トンネルが昭和7年(1932年)に開通しているので、切り通し区間が早い時期に国道指定を外されて廃道となり、そのおかげで往時のまま残ったのでしょう。








「この先行き止まり」の看板が立っています。「掛川市」とあるので、現在は市道なのかもしれません。




電柱が立っています。古い街道の跡には、昔からの電話線が通っていることがままありますが、この電話線の由来もそうなのでしょうか。




路面に丸石が散らばっています。石畳だったわけではなく、地面に埋もれていた丸石が長年の洗掘により姿を現したものでしょう。


この部分は往時の道幅がそのまま残っているようです。


小夜の中山トンネルの金谷側坑口の真上に出てきました。




道は右側へと進んで国道1号へと下っていきます。往時の道もこのような取り回しになっていたのかはわかりませんが、無理矢理な感じはまったくありません。




ヘアピンカーブの下側の斜面にあった低い石垣。「中山新道」に関わるものなのでしょうか。


国道1号へと出ました。本来は国道を斜めに横断して、向かい側にある道へと進んでいきますが、ここで引き返します。




もと来た道を戻っていきます。






入ってきた側の出入口に戻ってきました。


「中山新道」跡は以上となります。地図読み200mほどの短い廃道ですが、昔から随時改良されている国道1号で、明治時代の面影がそのまま残っている廃道は非常に珍しいと思われるので、貴重な場所です。

ここからはオマケです。思ったよりもあっけなく探索が終わってしまったので、峠から分岐していた古道をちょっと追ってみました。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。















Posted at 2023/03/12 21:29:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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