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小林あにのブログ一覧

2023年03月18日 イイね!

【三重県紀北町】野又峠の明治期車道を途中まで探索しました(1)

2023年3月11日(土)、三重県北牟婁郡紀北町にある野又峠の明治期車道の廃道を探索してきました。

野又峠周辺の地形図はこちら。国道422号の紀北町側終端部となる楠木橋付近から野又峠へと至る破線道が、明治期車道のルートをおおよそ表しているようです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ネット検索すると探索した方々のいろいろなブログなどがヒットします。今回は、登山用アプリ「YAMAP(ヤマップ)」(私もルート確認や記録のために利用しています。)にあった、国道422号紀北町側終端部から野又峠までを往復した方のルート記録を参考にしました。

野又峠の明治期車道の来歴等については、「日本の廃道」第55号に多くの参考資料を交えた詳細な記事があります。
・明治41年(1907年)長島町(現:紀北町)と大杉谷桧原(現:大台町桧原)を結ぶ里道「長島道」の改修工事開始。新たに道路幅2~3mの荷車道を野又峠経由で建設。
・明治44年(1910年)3月に工事完成。
・大正11年(1923年)里道「長島道」が府縣道大杉谷長島線となる。
・昭和6年(1931年)測図の地形図ではすでに徒歩道表記となっている部分があり、早くも利用が廃れ始めていることが伺える。

こちらが昭和6年測図の地形図の野又峠付近のアップ。野又峠を越える前後は「主要ナル府縣道」表記となっていますが、大杉谷側(北側)へと向かう途中から「小径」(破線)表記になっています。

※5万分の1地形図「大臺ヶ原山」:明治44年(1910年)測図・昭和6年(1931年)要部修正測図。

さて、野又峠への明治期車道の取り付き場所と思われる付近へやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

明治期車道へと取り付く場所が判然としなかったので、この辺りから山側へと直登してみることにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

植林地の中を100mほど進んでいくと道がありました。まだ確証はありませんが、ひとまずこの道を辿って進むことにします。


不意に周りが開けた場所に出ました。斜面が崩落した場所を整備し直した感じです。道はそのまま続いていたので歩いていきます。


ふたたび植林地の中を進みます。まだこの道の雰囲気では、明治期車道なのか、林業用の作業道なのかはっきりしません。


何か良い雰囲気にはなってきました。


路肩に石積み擁壁があります。どうやらこの道で正解だったようです。これで安心して進んでいけます。


橋台のように見えますが、これは崩れてしまった石積み擁壁ですね。期待が高まってきました(笑)。


野面積みの擁壁が続いています。




これは良い景色ですね。山側の岩壁の切り取り、谷側の石積み擁壁、荷車道らしい道幅。明治期車道の要素が詰まっています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ序盤。廃道に吸い込まれるようにサクサクと進んでいきます。




そんなに登ってきてはいませんが、けっこう岩壁の切り取り区間が長いです。開削工事するのが大変だったでしょう。






地形に忠実に沿って、緩やかな坂で山を登っていきます。




沢を渡っている場所が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を埋め尽くす石垣を見ると、暗渠は設けられていません。水量は無さそうなので、下部にすき間を作っておくだけで十分と判断したのでしょう。


L字型に岩壁を切り取っているのがよくわかります。


稜線の先端をヘアピンカーブで巻いていきます。


壁面がシダ類で覆われています。崩れた場所でしょうか。


路肩に石列が埋まっています。路盤を流出させないための工夫なのでしょう。


今のところは大きな損壊も見当たらず、気分良く歩いていけます。






路上が全面シダ類で覆われています。シダ類=崩落箇所のイメージがあるので、あんまりいい気分ではないですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

程なくしてシダ類の群落を通過。


凹地部分の路盤が崩落しています。踏み跡が付いているので、ここはゆっくりと注意して横断していきます。


土砂が路面に覆いかぶさり、歩く道幅だけが残されています。


沢が合流している地点。最近は集中豪雨が多くて沢もたびたび増水するのか、地面が抉れてしまっています。






場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

昔の道形が残っている場所と荒れてしまった場所が交互に現れます。










高圧線鉄塔へと出てきました。ここで一旦、明治期車道は途切れてしまいます。




鉄塔の下を通り過ぎると林道の終端部に出ます。


ここからしばらくは、高圧線巡視路を歩いていくことになります。








尾根の上に出て、さらに高圧線巡視路を進んでいくと道跡との交差点に出ました。徒歩道にしては道幅が広く、もしかしたら途切れた明治期車道がここへと登ってきたのかもしれません。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

野又峠までまだまだ先は長いですが、ここはちょっと寄り道。道跡の素性を確かめるため、下りとなる左折側の道跡へと踏み込みます。


進んでいる方角は見当違いですが、道の雰囲気は明治期車道を彷彿とさせます。


ガレた場所もありますが、道跡自体は崩れていないのでそのまま乗り越えていきます。


どうやらこの場所で道跡が折り返しているようです。カーブの外側に弧を描くように石が積まれています。


カーブの頂点から振り返ってみます。この道幅と屈曲のキツさは明らかに明治期車道。ここから高圧線鉄塔の方向へと進んでいるようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ヘアピンカーブから50mほど進むと、雑草に覆われた崩落地形に行く手を阻まれました。まだこの先、野又峠まで行かなければいけませんし、この付近のルートはこれで予想が立ったので、引き返すことにします。


高圧線巡視路との交差点へ戻ってきました。ここからは峠方向へと明治期車道を進んでいきます。前方がシダ類に覆われているのが不安ではありますが…。


※その(2)へ続く。
Posted at 2023/03/18 21:04:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月12日 イイね!

【掛川市佐夜鹿】「中山新道」跡を歩いてきました

2023年2月23日木曜日、静岡県掛川市佐夜鹿に残る国道1号の前身道「中山新道」の跡を歩いてきました。

やって来たのは国道1号小夜の中山トンネル付近。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道1号小夜の中山トンネル付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

ちょっと長いですが、ここで「中山新道」の歴史を記しておきます。

かつて、金谷宿(現:島田市金谷)から日坂宿(現:掛川市日坂)の間の東海道は、現在の国道1号のルートとは違う場所を通過していました。金谷坂・菊川坂という急坂に加えて、特に間の宿である菊川宿から日坂宿の区間は、わざわざ小夜の中山峠へと登って長い尾根を縦走して日坂宿へと至るルートを取っていました。

金谷坂・菊川坂・小夜の中山峠と標高差150mほどのアップダウンを繰り返すこの牧ノ原台地越えのルートは、箱根や大井川のように有名ではないにせよ、東海道の大変な難所に変わりありませんでした。

明治時代に入り、牧ノ原台地で茶園の開墾を手掛けていた杉原権蔵という方が、茶園の開墾をより一層進めるためには金谷-日坂間の荷車道の整備が必要と考えました。これが「中山新道」建設のきっかけとなります。

杉原氏は出資者を募って明治11年(1878年)に静岡県へ新道開削を出願。これを受けて明治12年(1879年)8月に明治政府内で「中山峠新道開鑿之儀付伺」が提出され、明治12年9月に工事許可。10月に国の助成金を受けて工事を開始し、明治13年(1880年)5月に開通式が行われました。

さて、この「中山新道」、出願時に「国から金7,000円を借用して工事を行い、完成後31年間は通行料を徴収して返済に充てる。」という申し出をしています。工事費用の計画は総額で32,100円40銭。国からの7,000円は助成金として支出されたので、残額25,100円40銭を通行料徴収により26年間で返済する計画となりました。要するに「中山新道」は有料道路として開通したわけです。

開通後、道路利用は順調だったようですが、明治22年(1889年)4月16日、「中山新道」へ大きなダメージを与える出来事が起きます。東海道本線 静岡−浜松間の開通です。当時はまだ自動車はなく、陸路は徒歩や牛馬車が主力。それまで鉄道空白区間であったことにより平穏に利益を享受できていた「中山新道」は、東海道本線の開通によりスピードも輸送力も圧倒的な「鉄道」の猛烈な脅威に晒されることとなり、利用者を根こそぎ奪われてしまいました。

このため出資金の返済計画はとん挫し、明治35年(1902年)に「中山新道」は公道となり、明治38年(1905年)に国道となりました。

現在、当時の道路の面影を残しているのは、国道1号小夜の中山トンネルの真上の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図では赤線の区間に該当します。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。

それでは現地へと向かうことにします。

まずは国道1号小夜の中山トンネル。


旧道トンネルの扁額。旧道と言っても現在も国道指定はされているようです。


バイパストンネルの扁額。このバイパストンネルは、元となるトンネルが昭和7年(1932年)に開通し、昭和29年(1954年)に改修。さらに昭和47年(1972年)にバイパス建設に伴い拡幅改修を受けています。


「中山新道」跡の出入口へと来ました。さっそく入り込んでみます。




切り通し区間が昔のまま残っているようです。古い方の小夜の中山トンネルが昭和7年(1932年)に開通しているので、切り通し区間が早い時期に国道指定を外されて廃道となり、そのおかげで往時のまま残ったのでしょう。








「この先行き止まり」の看板が立っています。「掛川市」とあるので、現在は市道なのかもしれません。




電柱が立っています。古い街道の跡には、昔からの電話線が通っていることがままありますが、この電話線の由来もそうなのでしょうか。




路面に丸石が散らばっています。石畳だったわけではなく、地面に埋もれていた丸石が長年の洗掘により姿を現したものでしょう。


この部分は往時の道幅がそのまま残っているようです。


小夜の中山トンネルの金谷側坑口の真上に出てきました。




道は右側へと進んで国道1号へと下っていきます。往時の道もこのような取り回しになっていたのかはわかりませんが、無理矢理な感じはまったくありません。




ヘアピンカーブの下側の斜面にあった低い石垣。「中山新道」に関わるものなのでしょうか。


国道1号へと出ました。本来は国道を斜めに横断して、向かい側にある道へと進んでいきますが、ここで引き返します。




もと来た道を戻っていきます。






入ってきた側の出入口に戻ってきました。


「中山新道」跡は以上となります。地図読み200mほどの短い廃道ですが、昔から随時改良されている国道1号で、明治時代の面影がそのまま残っている廃道は非常に珍しいと思われるので、貴重な場所です。

ここからはオマケです。思ったよりもあっけなく探索が終わってしまったので、峠から分岐していた古道をちょっと追ってみました。

※2万5千分の1地形図「掛川」:大正5年(1916年)測図。















Posted at 2023/03/12 21:29:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年03月09日 イイね!

愛知県道382号の岡崎市側の終端部を見に行ってきました

2023年2月18日土曜日、午後の暇つぶしに愛知県岡崎市雨山町にある愛知県道382号の終端部を見に行ってきました。

やって来たのは、岡崎市雨山町の雨山ダム。




周辺の地形図はこちら。県道382号は岡崎・豊川市境の風越峠を挟み、指定区間の空白があり、ルートがつながっていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

雨山ダムに車を駐車して、県道382号の岡崎市側終端部へ徒歩で向かいます。


ダム湖の上流部まで来ると行き止まりの注意看板があります。


そして道幅が2車線から1車線へと細くなり、「この先車両通行止」の看板と虎柵により通行止めとなっていました。






徒歩通行は関係ないので、そのまま奥へと進んでいきます。




分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図によると県道は右へとカーブしていくので、そのとおりに進みます。


2か所目の分岐点が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点は左カーブ。そして、ここから砂利道となります。




3か所目の分岐点です。風越峠へと向かう道は左へとカーブしていきますが、地形図によると県道は直進となるので、真っ直ぐ進んでいきます。


けっこうな急坂を登っていきます。


分岐点から5分ほど歩くと終端部が見えてきました。


そして県道はバッサリと終わってしまいました。分岐点からここまでの道は作業道そのものでしたが、なんで県道に指定したのでしょうかね。雨山ダムの2車線区間が終わった地点までの指定でも良かったような気が(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

終端部から登ってきた県道を見下ろしています。結局、車両通行止め地点から終端部まで、県道を示す標識類は全然見当たりませんでした。


さて、ここまで来たのなら風越峠まで行きたいと思い、この上部を通る林道まで斜面を登ることにします。


5分ほど斜面を登ると細い林道へと出ました。


この林道、路面にはオフロードバイクのタイヤ跡が付いているのみ。植林地の管理には長らく使われていないようです。


「西蔵」という山への登山道の分岐点に来ました。ついでなので、山頂へ行ってみることにします。


息を切らしながら細い登山道を登っていきます。


林道から分岐して登ること10分。西蔵の山頂に着きました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山頂にある三等三角点「風越峠」。標高は482.50mです。


山頂からの眺め。眼下に新東名高速道路が見えます。


西蔵から尾根伝いに風越峠へと向かいます。




西蔵山頂から15分ほどで風越峠に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠なので石仏などが残っていないか周囲を探してみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。




次に峠の古道が残っていないか探してみたところ、林道よりも下段に道跡が残っていました。


車へと帰るついでに古道を辿っていきます。




5分も歩かないうちに古道は作業道へと吸収されてしまいました。地形が険しい豊川市側の方が、古道は残っているかもしれませんね。


暇つぶしのミニ探索だったので、特にこれといった成果はありませんでしたが、山を歩いて汗をかき、良い気分転換になりました。


Posted at 2023/03/09 22:57:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月26日 イイね!

岡崎市夏山町の古道を歩いてきました

2023年2月11日土曜日、愛知県岡崎市夏山町にある古道を歩いてきました。現在、現地を愛知県道333号が通過していますが、この県道の前身の道に当たると考えられる古道です。

当日は、ドライバーやすい氏と新しい表記でのペースノートの作成練習を付近の林道で行い、そこからの帰り道に立ち寄りました。矢印の方向へと進入していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに付近の戦前の地形図はこちら。現在の県道は勾配を緩和するためか、標高413mの山の南側中腹へと迂回していますが、昔の道は沢沿いにそのまま直進していました。この道を辿ってみようという訳です。

※2万5千分の1地形図「龜穴」:大正7年(1918年)測図。

さて、進入してみると古道と言うよりは廃作業道といった風情です。取りあえず、奥へとどんどん進んでみることにします。




棚田の跡と思われる石垣の段が残っています。


ようやく道の雰囲気が作業道から古道らしい感じになってきました。






小さな滝の脇を通り抜けていきます。


滝を通り抜けた先で古道が消えてしまいました。ひとまず、沢の対岸へと渡り、先へと進んで古道の続きを探してみます。




古道の続きを発見。先へと進んでいきます。




古道が沢に削られて消失しています。一旦、右側へと迂回し、高巻きして進むことにします。






沢沿いの道はどうしても増水時に削られたりするので、道跡が残っていてもボロボロなケースが多いですね。


この付近も、沢を挟んだ対岸には棚田の跡がずっと続いています。植林されている木(杉か檜?)の太さを見ても、相当以前に耕作放棄されたのでしょう。




また崩落箇所が現れたので、高巻きして迂回。この辺りから、上を通る県道から捨てられたのか、斜面のあちらこちらにゴミが散乱しています。


天気が悪かったのと沢沿いで湿気があるためかジメジメした雰囲気。ゴミも散乱しているので、小さな滝から先の古道はあまり好ましい感じではありませんね…。


そして、正面を塞ぐような高い盛土が現れて、行く手を阻まれてしまいました。古道はこの先で県道が通るルートと重なるはずなので、ここで探索を終了しました。


帰りは古道の崩落箇所を嫌って、沢の対岸にあった棚田の跡を進むことにしました。

棚田跡の山側に半円形の石積みで囲まれた窪みを発見。






炭焼き窯の跡かと思いましたが、山側に開いていた穴を見て、湧き水を利用した水場の跡だった可能性もあるかなと想像しています。






だいぶ日が傾いてきたので、先を急ぐことにします。


車へと戻ってきました。1時間弱のミニ探索でしたが、これでまた1つ、県道の前身道の確認が完了しました。


今回歩いたルート図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/02/26 12:31:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年02月19日 イイね!

豊田市平瀬町の古道を歩いてきました

2023年2月5日日曜日、愛知県豊田市平瀬町の古道を歩いてきました。

平瀬町周辺の現在の地形図です。現在、平瀬町の集落は愛知県道337号が貫いています。県道は集落の西側で巴川を渡り、その先で県道362号と接続しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは現在の平瀬町周辺の戦前の地形図。当時は東加茂郡下山村になります。県道337号の前身となる道が同じように平瀬集落を貫いていますが、巴川を渡った先で右折すると道が途絶えているように見えます。「平瀬」の写植の下敷きになっただけなのかもしれませんが、県道362号の前身道には、その道が接続されているような表記にはなっていません。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。

その代わりに、巴川を渡った先で左折する道が、峠を越えた場所で県道362号の前身道と接続していました。この先は旧下山村の中心地であった東大沼(現在の豊田市大沼町)へと続いています。

今回は、県道337号の元となる車道が開通するまで平瀬集落へのメインルートだったと考えられる峠越えの古道と、平瀬集落を通過せずに巴川沿いを通っていた古道を歩いてみることにしました。

現地へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

巴川に架かる県道337号の橋「千歳橋」へとやって来ました。ここで橋は渡らずに直前で右折します。


巴川の河原へと下りると、旧橋の橋台が残っていました。


それでは峠越えの古道へと進んでいきます。


道跡はしっかり残っていますが、誰も通らないので路上は荒れています。


石仏を見つけました。


僧形なので地蔵菩薩でしょうか。「新しい雰囲気の石仏だな。」と覗いてみたところ、光背の左側に「昭和三十一年(1956年)八月三日」の日付が彫られていました。そして右側には「法名釈尼…」とあります。お墓の代わりに祀られた石仏なのでしょうかね。


間伐された木々がゴロゴロ転がっています。廃道・古道を歩いていて悩まされる障害物の一つですね。


また路傍に何か立っています。今度は名号碑のようです。


「南無阿弥陀佛」とだけ読み取れます。年号などはわかりませんでした。


この辺りから岩が剥き出しの場所が現れて、地形の険しさが増してきます。




高い場所は嫌いですが、このような険しい感じの廃道・古道を通るのは好きなんですよね(笑)。




この険しい岩場に石仏がありました。


これは毎度おなじみの馬頭観音ですね。光背に明治四十二年(1909年)の年号が彫られています。険しい場所なので安全祈願で祀られたのか、実際に馬が転落して供養のために祀られたものかもしれません。少なくとも明治42年頃はまだこの道が地域の往来の道として現役だったという証になります。


所々、道が崩れて歩きにくい場所が現れますが、ようやく尾根に近づいてきました。


尾根への取り付き部は、堀割りの道で進んでいきます。




峠手前の分岐点に来ました。東大沼への道は直進。左折すると山を下って、巴川沿いへと出ます。巴川沿いへの道はこの後に向かうことにします。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この分岐点にも石仏がありました。


摩滅がひどく、姿ははっきりとはわかりませんが、頭上に馬頭型のような突起があるので、これもおそらく馬頭観音だと思います。


分岐点を直進すると間もなく舗装路へと出ました。ここが峠となります。左側には神社があります。




舗装路は神社の前で左へとカーブしていきますが、古道は真っ直ぐに斜面を下っていきます。


鳥居の横へ出てきました。社名は春日神社とあります。


もうしばらく下ると正面に県道362号が見えてきました。正面の鞍部を越えていくと東大沼になります。


下まで下りて峠越えの古道を振り返ります。立っている案内板は、峠付近にあった孫根城跡のものです。




巴川沿いの古道へ行く前に孫根城跡へ立ち寄ってみることにします。


峠を通過して、堀割り道まで戻ってきました。ここから孫根城跡へと続く道が分岐していくので、左側へと入っていきます。


孫根城跡です。案内板が立っているだけで、単なる雑木林にしか見えません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本丸の背後は崖になっているので、背後からの攻撃は難しい感じです。


これは「堀切」です。矢印部分が「堀切」になります。これは本来の尾根を削り取り、攻城方の進路を遮断するための防御施設の一種ですね。通路部分だけを細く残して、尾根をU字型に大きく削り込んであります。


城跡への出入口部分にある細い土手道。この細い土手道も、城攻めを受けた際には攻城ルートを制限する役割を果たしたのでしょう。


それでは峠手前の分岐点から巴川沿いの古道へと入っていきます。こちら側の道は、千歳橋から登っていった峠道よりも緩やかな道です。








倒木と路面のひどい洗掘。ここを通過するのは少し難儀しました。




川沿いの道跡は総じて不鮮明なことが多い気がします。増水に見舞われて洗われたり破壊されたりすることもあるでしょうし、植林で道跡を潰されていることもあります(植林で潰されているのは峠道でもよくありますが。)。






橋が見えてきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前には橋が無かった場所なので、そのまま真っ直ぐ進みます。


低い鞍部を越えていきます。


鞍部に神社がありました。


鳥居の傍らに石碑が立っています。


題名と文章から、用水路建設についての記念碑とわかりました。


橋が架かっていたと思われる場所に来ました。河原に下りて周囲を見渡しましたが、橋が架かっていた名残りはまったくありませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これで今回予定していた探索ルートの踏査は終了。ついでなので、神社前の記念碑に記されていたものと思われる用水路を辿ってみることにします。


農閑期ということもあり水路が埋まったままの場所もありましたが、補修を加えながら現在も維持されていることがわかります。






取水堰堤まで来ました。


用水路は側溝のような細いものでしたが、堰堤は魚道も備えたしっかりした造りのものですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

帰りはこの橋を渡っていきます。


車へと戻ってきました。


今回歩いた道は、下山村誌によると東加茂郡が明治29年(1896年)に重要里道に指定した大沼街道という道の一部のようです。大沼街道は、東大沼から平瀬を経由して旧下山村を縦断していく道でした。ルート図は無かったので、平瀬集落を通る道か、集落内を通らずに巴川沿いを通っていく道か、どちらが大沼街道であったのかはわかりませんが、郡・村にとっては重要な道であったため、費用をかけて改修・保守を続けていたようです。

そんな道も、今ではすっかり存在を忘れられて、山中に寂しくその跡を残すのみです。
Posted at 2023/02/20 00:50:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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旧伊勢本街道「飼坂峠」南方の廃道を探索する(4) 
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