2018年11月24日土曜日、奥羽本線赤岩-板谷間の環金トンネル付近に残る廃線跡を歩いてきました。
さて、第一天狗山隧道の板谷駅側坑口からトンネル内を通過し、さらに赤岩駅側に進んで第二大日向隧道までを往復。
ふたたび第一天狗山隧道まで戻り、次は旧環金隧道へと向かいます。
トンネルへの途中、右手の山腹にある巨大な石垣。これも雪崩が線路を直撃するのを防止するための施設のようです。
こちらは、熊が爪とぎをしていると噂の電信柱(架線柱かもしれませんが。)。
ようやく旧環金隧道の前に着きました。開通は1899年(明治32年)。延長609m(開通当時の延長。)で、赤岩-板谷間では最長のトンネルです。
こちらがスノーシェッドの奥にある開通当時の坑門です。
坑門上部に「3」のプレート。第十三号隧道(福島駅から13番目のトンネル。)に由来します。「1」は脱落してしまったようです(取り付け金具が残っています。)。
坑門から伸びるスノーシェッド。なんか芋虫のようですね(笑)。
それではトンネル内部へと入ります。
スノーシェッドと坑門の接続部です。このトンネルは内部が一直線なので、板谷駅側坑口からの光が見えています。
ご覧のとおり、初っ端から崩落が始まっています。
一部だけコンクリートブロックで補修されてます。
ここも豪快に崩落しています。このトンネルは建設当初から地質の悪さが工事に悪影響を及ぼしていたそうです。
「日本鉄道請負業史 明治編」によると、トンネル掘削工事中、「明治三十年(1897年)八月三十日、俄然二鎖(2チェーン(約40m))余に亘り支保材を破壊して崩落し、延いてアーチ畳築の個所凡そ半鎖(0.5チェーン(約10m))を潰滅し、就業中の人夫十七名を埋没したのである。」というような重大事故が発生しています。
そして、早くもコンクリートブロック積みに改修された区間となります。
刻印されている内容から、施工されたのが1957年(昭和32年)6月とわかります。「57」は、ブロックの巻き厚が57cmということでしょう。
取りあえず平穏な雰囲気になりました。
と思ったら、また煉瓦積みに戻ります。
ただし、アーチ部分はコンクリート巻き立てに改修されています。
やはり煉瓦積み区間は荒れた雰囲気になります。
塗り固められていたコンクリートが割れています。
踏みしめると「パキン…、パキン…、」と乾いた音が響きます。
ここもひびがすごいですが、寒暖差や水分が原因なのか、トンネルにかかる荷重によって破壊されたものなのか…。
またコンクリートブロック積みになりました。
トンネル内の湧水を流すための排水口のようです。この辺りにいくつか設置されていました。
このトンネル唯一の横坑に着きました。
横坑から外に出て、外観を眺めます。
沢筋部分には明かり区間を設けず、そのままトンネルをロックシェッドとして前後区間を連結したようです。
この場所では、1948年(昭和23年)8月6日に高さ50m、幅40m、長さ80mに渡って斜面崩落が発生し、トンネルが破壊されました。当時、福島~米沢間は電化に向けた工事を実施しており、ここ環金トンネルでも改築工事を行っていました。工事に際しては爆薬を使用しており、周囲の地盤に振動を与え続けていたところに、連日の降雨で地盤が弛み崩落を招いたと原因が推測されています。
この崩落事故の詳細については、「福島縣大笹生村地内奧羽線板谷赤岩間 - 環金トンネル崩壊について(1948年8月30日付け)」という小論文がネットで検索・閲覧できます。
横坑の周囲の山腹には、至る所にレールが突き刺してありました。横坑周辺の崩落を防止するためではないかと言われていますが、何とも不気味な光景です。
再びトンネル内へと戻ります。
こんなにも大きく剥がれ落ちたコンクリート片を見ると、「煉瓦をコンクリートで塗り固めることに補強の意味があるのか?」と、何か疑問を感じる光景です。
アーチ部がコンクリート巻き立てに。
と思うとまたコンクリートブロックに。
目まぐるしくトンネル内の構造が変わるのを眺めつつ、板谷駅側の坑口に着きました。
この辺りも1957年(昭和32年)6月に改修されたようで、ブロックの巻き厚は57cmと表示されています。
玉石練り積みの高い擁壁とボロボロのロックシェッド。
板谷駅側の坑門を振り返ります。ロックシェッドのボロボロの天井は漏水が酷くて、まるで雨に降られている様でした。写真にも水滴が白い線で写り込んでいます。
板谷駅側のロックシェッドの坑口です。
600m強の延長でここまで継ぎ接ぎだらけのトンネルも珍しいと思います。完成後も頻繁に補修し続けないとトンネルが維持できない程、酷い地質だったということでしょう。
そして結局は維持することが困難となり、1964年(昭和39年)に新しい環金トンネル(当時は単線。現在は上り線用トンネル。)の開通をもって放棄され、今に至るわけです。
さて、この先はすぐに戸澤橋梁・戸澤隧道となりますが、その3へと続きます。