2020年9月14日月曜日。有給休暇だったので、新城市作手菅沼にある愛知県道337号の廃道を歩いてきました。
昨日の9月13日に作手の道の駅からの帰り道にこの県道を通ったのですが、山の中で石造の道標があったのを見かけて、その確認のついでに短い廃道も歩いてみようと思った次第です。
こちらは、新城市作手善夫にある「涼風の里」。茅葺きの売店とトイレがあるミニ道の駅といった施設ですが「新型コロナのため、9月22日から再開します。」との張り紙がありました。
新城市作手菅沼にある県道337号の廃道の入口へとやって来ました。
ちょうど橋のたもとになります。
橋の名前は、山の中ですが「海道橋」と言います。
廃道へと入り込みます。アスファルト舗装の上に薄く土が被っているという、典型的な廃道ですね。
廃道でお食事中の鹿を発見。3頭いて、しばらくこちらに気づいていませんでしたが、頭を上げた1頭と目が合い、みな一目散に逃げていきました。
しばらくは跡を追う形で歩くことになりましたが、その内、川から「ドボン!」と大きな音がして、間近で「ピーッ!ピーッ!」と甲高い鳴き声。鹿さん、川へ逃げ込んだようです。立ち止まって拍手を打ち鳴らし、さらに遠くへ逃げるよう促します。
鳴き声が遠ざかっていったことを確認して、再び歩き始めます。
道中、特に目を引くような遺構はなく、ただ草の生えた廃道が続きます。
進んでいくと徐々に路上がぬかるんできました。
完全に泥沼と化しています。ズボッと嵌まるような深さではなかったのが幸いでした。
そして、砂防ダムに突き当たりました。廃道の上に泥が積もっていたのは、大雨で水かさが増す時があるからでしょうね。
砂防ダムを乗り越えるついでに、堰堤の上に出てみます。なかなか高さがありますね(笑)。
砂防ダムを越えて廃道に戻ると、また草の道になりました。左手の階段の上は神社があるようです。
獣害防止の柵に突き当たりました。その先には舗装路が見えてますので、廃道としてはここで終点です。柵には錠前が掛かっていたので、素直に引き返します。
せっかくなので、階段の上の神社へ行ってみます。反りかえるような急斜面に石段が組まれています。
山の中では、「これどう見ても参道じゃないだろう!」というような参道でしか訪れることのできない神社をたまに見かけますが、ここもそうですね。
無事に参道を登り切りました。いたって普通の社殿が建っています。しかし、ここまで鳥居がなかったので、実際は神社なのかどうかわかりません。
「おじゃまします。写真を撮らせてください。」ということでまずは参拝。
鳥居はありませんでしたが、燈籠は立っています。
施主でしょう。「當村住 原田源内道廣」と読めます。他所からではなく村人(かつては菅沼村だった。)の寄進ということですね。
ここで一番気になったのは、多くの石像群。どう見ても仏像ではないので、神像なのでしょうか。それぞれ手や頭に道具類と思われるものを持っています。
台座に願主の名前。「原田氏 三十郎 道〇」とここにも原田さん。
「道〇」(読み取れなかった。)とあり、菅沼村の原田さんは、「道」が通字の一族なのでしょう。通字を持っているくらいなので、元々は武士やそれに準ずる階級の出身なのかもしれません。これだけの灯篭や石像群を寄進できるだけの資産もあったのでしょうね。
台座に掘られた馬の像。日本古来の馬の特徴が表現されてますね(当然ですが。)。
境内の全景です。
もう一度燈籠を眺めると年号が彫られていました。「明和八年 辛卯九月吉日」とあります。明和8年は西暦1771年になるので、249年前のものということになります。
そして、この時に石像の背中に文字が彫られていることに気が付きました。
一番はっきり読めたのが、この「第三 筆硯童子」。童子像だったわけです。
これで、「帰宅してから調べれば、石像群の正体について何かわかるかもしれないな。」とちょっとスッキリしたので、お暇することにします。
※帰宅してから「筆硯童子」を検索してみたら、弁財天に仕える15人(または16人。)の童子の一人であることがわかりました(印鑰・官帯・筆硯・金財・稲籾・計升・飯櫃・衣裳・蚕養・酒泉・愛敬・生命・従者・牛馬・船車・善財)。なので、ここは神社ではなくて弁財天を祀るお堂だったようです。だから鳥居も無いわけです。そして、石像群は各々名前に由来する道具類を持っていたこともわかりました。
また、「東三河を歩こう」というサイトに、新城市作手菅沼の項目に「十六童子」とあり、ここには本来16体あったこともわかりました。台座しか残っていないものもあり、長い年月のうちに破損して撤去されたのか、もしかして盗まれてしまったのか…。どうなんでしょうね。
廃道を歩いて車まで戻ってきました。
次は、昨日見つけた道標へ向かいます。
道標にやって来ました。二股に分岐していく道の真ん中に立っています。
上部に彫刻された仏像、下部が道標になっています。
道標は、「左 おかざき 右 あすけみち」とあります。
「あすけみち」は「足助道」ですね。現在の豊田市足助と新城市海老を結ぶ街道で、国道420号の前身道の一つです。
「おかざき」は当然現在の岡崎市ですね。ここから分岐していく道は、今は地形図に記載されていない区間もあるような状況ですが、昔は岡崎と往来する道として使われていたわけです。
分岐点付近の地形図はこちら。「起点」と印してある場所が道標のある分岐点。黄色い線が県道337号。赤い線は岡崎へと向かう街道を途中まで印しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
※地図中、「起点」・「終点」とあるのは、後日、踏査した時のルート図に差し替えたため(2022年1月9日踏査)。
上部の仏像は摩滅が進んでいます。
この道標には年号が刻まれておらず、いつ頃設置されたものか全くわかりませんでした。
最後に県道337号の峠にやって来ました。
ここが新城市と豊田市との境になります。かつては、南設楽郡と東加茂郡の境であり、新城市側が重要里道足助道、豊田市側が重要里道下山街道と呼ばれていたようです。
峠の新城市側で、足助道の道跡が残っていないか少し探してみます。
右側の斜面に怪しい平場が見えています。
道路脇の小川を渡り、斜面へ取り付いてみると、道跡らしい雰囲気があります。
歩き進めると明確な道跡が見えてきました。峠周辺は緩斜面の地形なので、長い年月のうちに道跡は埋もれているのではないかと思っていましたが、ちゃんと残っていました。
程なく県道へと出てきました。
ここから沢沿いに下っていたはずですが、斜面に道跡らしいものは見い出せないので、沢の横を通っていたのかもしれません。
道跡はわからなくなっていましたが、ひとまず沢沿いに歩いて下り、ヘアピンカーブで迂回していた県道に再び出てきました。
もう少し下った場所で見つけた道跡と思われるものです。
沢の流れや植林、現在の県道の建設工事などで、峠付近の足助道はかく乱されたり寸断されたりしているようです。
今回は3週間ぶりの廃道・古道歩きで手近な場所でしたが(それでも100km余は走行してますが(笑)。)、いくつか行き先は考えているので、少し遠方にも出かけられたらなと思っております。