2021年7月31日土曜日、JR東海道本線 関ヶ原駅の東方にある3つの煉瓦アーチを見に行ってきました。東京駅方からの順番だと梨子谷橋梁・小田原川橋梁・穿屋川(うやがわ)橋梁の順ですが、表題は見て回った順番になっています。
やって来たのは、岐阜県不破郡関ケ原町野上にある旧中山道を散策する人向けの公共駐車場。ここに車を停めて、歩いて向かいます。
駐車場近くを流れる川を辿り、まず訪れたのは小田原川橋梁。竣工は明治17年(1884年)5月とあります。東京~大阪間の鉄道建設を、東海道ルートではなく中山道ルートで推進しようとしていた時期に竣工したものです。
川へ飛び降り、中へと向かいます。
この暗渠、内部が「ねじりまんぽ」になっています。線路に対して斜めに川が流れているからです。
真ん中あたりに複線化工事の際に煉瓦アーチを増築した名残りが見て取れます。
よく見ると煉瓦の継ぎ目に段差があり、ここで噛み合わせたのだとわかります。
継ぎ目よりも奥側の煉瓦アーチの方がモルタルの浸み出しが少なくきれいです。
反対側へと出てきました。すぐ目の前を道路が通っています。
こちら側のスパンドレルは、コンクリートで覆工されています。
アーチ環は4重積みですが、一番外側はコンクリートで塗られてしまい、露出しているのは3重分です。
内部を振り返っての眺め。
道路に上がりました。今度は関ヶ原駅方面へと進み、穿屋川橋梁を目指します。
穿屋川橋梁に着きました。竣工は小田原川橋梁と同じく明治17年(1884年)5月です。繁茂した植物で完全に目隠しされていますね。
川床に降り、のれんのように掛かった薮をかき分けて近づきます。中からうっすらと靄が流れ出ています。
写真を撮るのに靄がかかっているのは困りものですが、さらに中へと踏み込んでいきます。
中へ入ると靄は晴れてきました。猛暑の屋外と水が流れている暗渠の中では気温差も激しいでしょうから、開口部付近は靄が立ちやすいのでしょうね。
さて、ここ穿屋川橋梁の核心部分が見えてきました。
どういう理由でこうなったのか不明ですが、穿屋川橋梁は中央部分だけが「ねじりまんぽ」という、非常に珍しい煉瓦暗渠です。
入ってきた方角を振り返ってみるとこんな感じ。中央部分の内高の高い煉瓦アーチに一回り小さい煉瓦アーチを突っ込んだような形状をしています。
穿屋川橋梁にも複線化工事に伴う増築の際の継ぎ目が見て取れます。手前側の長さが短いので増築部分、奥側が開通当時からあった部分でしょう。
あとは煉瓦積みのねじれ度合いがなかなか強烈なことです。線路に対して川の流路の斜め度合いが先ほどの小田原川橋梁よりもきついためです。
なぜこんな積み方になるのか。現物や図面を見ながら説明してもらうと理解できるのですが、言葉だけで説明を受けて理解するのは難しいですね。
反対側も、一回り小さくて通常の積み方をした煉瓦アーチがつながっています。
この先は水深がやや深くて長靴では進めないので、反対側へと出るのはあきらめました。
振り返っての内部の様子です。
これだけ癖のある煉瓦暗渠だと飽きがこないですが、いつまでもいるわけにはいかないので、いい加減外へ出ることにします(笑)。
さらに関ヶ原駅方面へと歩いてみましたが、ボックスカルバートの架道橋があっただけだったので、引き返しました。
次は、梨子谷橋梁へと向かいます。
穿屋川橋梁、小田原川橋梁と通り過ぎ、梨子谷橋梁へとやって来ました。こちらも竣工は明治17年(1884年)5月です。鉄道線路各種建造物明細録第一編には「梨子谷川」と記載されています。
ここは小さいですし、流れもあまりきれいではないので、ちょっと覗いただけで終了。
この後の行動は、結果的には余談の範疇になります。
あと1か所だけ、垂井駅寄りの煉瓦アーチを探しに、もうしばらく歩き進めることにします。
この先の左手側に小川が流れているのを見つけ、「小さな煉瓦アーチがあるかも。」と進んでいきましたが、軽トラックを停めて作業をしている方があり、いちいち話しかけられるのも面倒だと引き返しました。
もうしばらく付近を探索。この茶畑の細い道は地形図にちゃんと載っている道です。
踏切が見えたので渡ることにします。
伊吹道踏切。
踏切脇に20パーミルの勾配標が立っていました。この急勾配を回避するために、大垣~関ケ原間で登りとなる下り線側には貨物列車などが迂回する別線が存在します。
旧中山道まで戻ってきました。これは、交差点に立つ伊富岐神社の鳥居。神社はこの先700~800mの場所にあります。
この時点で時刻は15時10分。「もういい時間だし、飲み物も無いし(自販機も見当たらないし…。)帰るか。」と、ここで探索は打ち切り。このまま旧中山道を歩いて駐車場まで戻りました。