2021年8月12日木曜日、3日間消化しないといけない夏期休暇のうちの1日をこの日に入れていたので、仕事はお休み。
特に予定があるわけでもなく、長雨が続いている最中でもあったので、日中は家の中でゴロゴロ。さすがに一日中ゴロゴロしているのも体がなまると思い、16時近くになってから当てもなく外へと散歩に出かけました。
こちらは安祥城址。現在はお寺になっています。徳川家康の直系の先祖にあたる安祥松平氏の居城でした。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
家康の祖父がここから岡崎へと本拠地を移し、その後は織田対今川・松平の間で最前線の城として争奪戦が繰り広げられました。秀吉対家康の争い「小牧・長久手の戦い」で徳川方の城として使われたのが最終期のようで、のちに廃城となりました。
さらに歩いていくと、古い集落に入ります。
こちらは、旧東尾産業組合農業倉庫。昭和10年(1935年)の登記があるもので、安城市が戦前に農業の多角経営で全国的に知られていた時代の貴重な建物です。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
集落の中心部を東西に横断する道。安城市と額田郡幸田町を結ぶ県道の旧道に当たります。ちなみに、私は集落を南北に縦断する道を北へと向かい歩いています。
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付近の戦前の地形図です。

※5万分の1地形図「岡崎」:図面損傷により測図年確認不能・昭和7年(1932年)発行。
集落を通り抜けて、県道48号を渡り、さらに北側にある上条の集落も通り抜けて、東海道本線まで出てきました。
背戸田橋梁です。明治25年(1892年)発行の鉄道線路各種建造物明細録第一編によると一連六尺の煉瓦アーチとありますが、現在は石積み橋台にコンクリート版桁になっています。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここからは東海道本線に沿って、西岡崎駅方面へと歩いていってみます。
惣作川橋梁。橋梁の下には2つの川が流れていますが、橋梁名は一つの川の名称しか付いていません。ちなみに「惣作」は付近の字名で、現在の川の名称は西鹿乗川です。
さて、惣作川橋梁の地点には道路橋が架かっていないので、橋の架かっている場所まで川沿いに移動します。
橋まで移動してきました。橋の名称は水吞橋。すぐ下流側にあった水門跡を眺めています。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
東海道本線方面を眺めています。連日の長雨で、西鹿乗川はけっこう高い水位になっています。
惣作川橋梁まで戻り、ふたたび東海道本線沿いの農道を歩いていきます。
丙中通り橋梁。鉄道線路各種建造物明細録第一編には「中通り丙」とあります。
乙中通り橋梁。ご覧のとおり、橋梁の下には川も水路もありません。区画整理で廃川になったのでしょうかね。
石積み橋台を見ると、左右で石材の加工のされ方が違っています。台形に造られる築堤にある煉瓦アーチだと、幅の違いで開業時の第一線と線増された第二線の判別ができますが、方形に積まれる橋台だと幅に明確な違いが現れず、加工の状態だけでは何とも判断付きません。
次に本来なら「甲中通り橋梁」があるはずなのですが(鉄道線路各種建造物明細録第一編には「錬鐵版桁」の橋梁として記載されている。)、現在、該当する橋梁は見当たりません。
農道を進んでいくと、路傍に石仏が置かれているのを見つけました。田んぼの真ん中にあるとは珍しいですね。
眺めてみると、光背部分に「右○○○道」「左○○○○」と刻まれているので、道標の役割も担っていたようです。内容は、ただでさえ崩し字で彫られているのに、摩滅していて読み取れません。石仏自体は馬頭観音のように見えます。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
石仏の背後を流れる川に沿って東海道本線へと向かいます。正面に鉄橋が見えますが、名称は市草橋梁といいます。この橋梁も鉄道線路各種建造物明細録第一編に記載されています。
市草橋梁の下をくぐり、東海道本線の北側を並行する道路へと出てきました。この道を西岡崎駅方面へと進みます。
愛知県道26号へ出る手前で交差する水路に沿って東海道本線へと戻ります。そうすると、ここに煉瓦アーチがあります。鉄道線路各種建造物明細録第一編には記載されておらず、名称は不明です。
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※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
水路を歩いて中へと入ります。アーチ部の造りはだいぶ雑です。煉瓦を接着させるモルタルがはみ出しまくっています。まあ、人に見られるわけでもないので、見映えは気にしなかったのでしょう。
反対側(下り線側)へと出ます。
アーチ環の造りは、上り線側と特に違いはないようです。
上り線側へと戻り、外へと出ます。
これで自宅へと戻ることにします。
西屋敷踏切。この辺りはこのような狭い踏切が2か所と、かつて踏切があったと思われる盛り土の道跡があります。
戻っていく途中、1か所気になる穴を見にいきます。
場所からして、「甲中通り橋梁」の名残りではないかと思われる暗渠です。
中を覗いてみると反対側もコンクリートで下半分が塞がれており、水路としての役目は終わっているようです。
あとは、暗渠が半円形をしているので、後年(といっても明治末まで。)に煉瓦アーチへ改修もしくは全くの新規で建設された物件かもしれないとの期待も多少ありましたが、やはりオールコンクリート造りでした。
西鹿乗川まで来ました。
ここからは、西鹿乗川に沿って、自宅方面へと向かっていきます。
下流へ向かって歩くと、さらに2か所水門がありました。3か所目のものは板材が取り付けられているので、一応現役なのかもしれません。
重量制限2トン・幅制限2mの橋。欄干が木材で造られていますが、橋桁は覗いてみると鋼材を使用しています。
今回の散歩ルートはこんな感じ。全行程で9km余を歩きました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
最近は煉瓦アーチ巡りなどで歩き回ることが増えてきましたが、その影響なのか、一日中家でゴロゴロしていると、少しは歩かないといけないという気分になって、遅い時間から外へ出て歩いたり、自転車に乗るようになってきました。
一番は職場の健康診断で指摘された腹回りのスリム化ですが(笑)、ある程度絞れたところからは現状一進一退なので、せめて今のレベルは維持しないといけないという気持ちも多分に強いですね。
Posted at 2021/08/29 23:09:51 | |
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