2021年9月25日土曜日、和歌山県紀の川市にある旧池田隧道へ行ってきました。
当日は朝5時半頃に自宅を出発。国道23号知立バイパス→伊勢湾岸道→東名阪道→名阪国道→西名阪道→京奈和道と乗り継いで紀の川ICから県道62号池田トンネル方面へと向かいます。
池田トンネルを通過し、旧池田隧道からはやや離れた林道へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧池田隧道を訪れるのは2回目。前回は2009年2月に来ているので、12年7か月ぶりになります。前回来た際は、旧池田隧道へと続く林道の出入口近くの駐車帯が使えたので、今回もそこへ停めるつもりで来たところ、不法投棄防止のためにガードレールで封鎖されてしまっていました。
そのため、何度も池田トンネル付近を往復して駐車場所を探しましたが見当たらず、県道から入り込んだこの場所へ駐車しました。
話がそれましたが、今回ここを訪れた理由は、トンネルの写真をデジカメで撮り直したかったため。前回訪問時は当時持っていたガラケーで撮影したため、今となっては不鮮明な画像データしか手元にないからです。
あとはもちろんトンネルの現状をこの目で確認したかったということです。
車を停めた場所からすぐにトンネルには向かわず、すぐ近くの林道の峠へと寄り道。下界の写真を撮っておきます(笑)。写っている街は、おそらく旧岩出町の市街地でしょう。
ここで悪い癖を出し、素直に道路でトンネル最寄りの林道へと向かわず、道ならぬ山の尾根伝いで雑木林の中を縦断。
1時間ほど無駄にして、旧池田隧道へと続く林道へと出てきました。この先は道なりなので、どんどん上っていきます。
林道の突き当りにトンネルが見えてきました。
旧池田隧道です。紀の川市神取側の坑門になります。
旧池田隧道は、明治19年(1886年)に竣工しました。当時、現在の紀の川市と大阪方面との往来に利用されていた大坂街道の急峻な峠道の通行を改善にするために建設されました。
なお、竣工年については、トンネルに用いられている技法や、トンネル建設に関与した人物の顕彰碑の造立年などから、明治33年(1900年)以降ではないかと疑義を呈する意見もあります。
坑門には、笠石(坑門の一番上部の帯状の突起部分。)と帯石(笠石の下段に設けられている帯状の突起部分。)が施されています。
笠石部分には、煉瓦を斜めにして並べる「雁木」が施されています。
アーチ環は、一番内側が一段凹んで積まれており、このパターンは旧池田隧道以外では見たことがありません。
坑門壁面の煉瓦は、「フランス積み」(同じ段の中に煉瓦の小口面と長手面を交互に並べて積み上げていく技法。)で積まれています。
坑門左側は、元々覆っていた土が流出してしまい、大きく隙間が空いてしまっています。
それではトンネル内部へと入っていきます。
入っていきなり変な光景が現れます。トンネル内部の一部だけ煉瓦の巻き立てがありません。
トンネルの坑口付近だけ煉瓦巻き立てをして、中央部は素掘りのままというのはよくあることですが、旧池田隧道については、素掘りのままなのはこの数mだけで他は全て煉瓦で巻き立てられており、どうしてこの部分だけ素掘りのままにしておかれたのかは謎です。
巻き立て部分を観察すると、基本は二重巻きのようです。岩盤とのすき間が大きい部分は三重巻きになっています。
東海道本線のきちんと煉瓦が整列したアーチを見慣れている目からすると、煉瓦の並びが微妙にうねっているのがどうも気になります。ただ、これもトンネルの「味」というものです。
謎の継ぎ目。東海道本線のような建設時期の古い路線だと、開通時は単線で後年複線化した際に、煉瓦アーチ同士を噛み合わせて接合してあるのをよく見かけますが、道路トンネルにそんなことは当然無いわけで、どうしてこんな継ぎ目があるんでしょうね。
これについては「煉瓦の調達の遅れで一気に巻き立てができず、このような継ぎ目ができたのでは?」という意見があります。妥当な意見だと思います。
この部分では、先ほどの継ぎ目とは違い、明確にアーチの境目ができています。これはあらかじめ段取りでここまでを巻き立てし、また間を置いて次の巻き立てを始めた名残りかもしれません。
トンネル内部を歩いているうちに、寝ていたコウモリたちを起こしてしまいました。私を威嚇しているのか、何度も目の前を飛んでいきます。
反対側、紀の川市重行側の坑口です。この辺りのトンネル形状は、鉄道でよく見られる馬蹄型に似ています。
重行側の坑門です。南側で日当たりが良いためか、木々や雑草に囲まれています。
トンネル前にある土留めの石垣。道の曲がりに合わせて造られています。
こちら側の坑門には扁額が取り付けられています。
一部は剥落していますが、扁額には「池田隧道」とあります。鏝絵の要領で造られたものだと思われます。
この扁額は、通行人から見やすいようにしたのか、文字面を傾けて取り付けられています。このように角度を付けて取り付けられた扁額も、このトンネルでしか見たことがありません。
こちらの坑門も、笠石部分に「雁木」が施されています。ただし、帯石は設けられていません。
そして、坑門壁面の煉瓦は「イギリス積み」(小口面の段と長手面の段を交互に積み上げていく技法。)です。
アーチの最下部は、アーチ面よりも出っ張っています。
トンネル内の路面は石が敷かれていたようです。石が剥き出しのままだったのか、石の上に土や砂をかぶせて固めていたのか。見たところ、整形された石材ではないので、石の上に土や砂を敷いてつき固めてあったのではないかと思われます。
神取側の坑口へと近づいてもまだコウモリが乱舞しています。仕方がないので、刺激しないようにしばらく静かに突っ立って、トンネル中央部のねぐらに戻ってもらいます。
素掘り部分へ戻ってきました。
煉瓦アーチを見ると、坑口側に向かっては基本が一重で、隙間に合わせて煉瓦を詰め込んだり、二重にしたりしているようです
坑口側の煉瓦を見ていたら、変な部分を見つけました。赤枠で囲ってある部分、坑口側へに向かって煉瓦の列が1列増えています。アーチの巻き立てが不正確で隙間ができたために、1列挿入したのでしょう。
以上、旧池田隧道でした。
一地域の利用に供するために造られた小規模なトンネルながら、多様な技法が用いられていて、なかなか興味深い煉瓦トンネルです。ただ、今のところは地元自治体などが文化財や近代土木遺産としと保護・活用しようとする様子は現地では見られず(もちろん把握はされているし、ネットで情報提供もされている。)、このまま朽ちるに任せる状態です。
まあ、私としては、管理のためにフェンスで閉鎖されて、外観のみを指を咥えて眺める羽目になるよりもずっといいんですけどね(実際、三重県南部の旧熊野街道の煉瓦トンネル群の内、廃物件となっていた三浦・相賀・尾鷲の各トンネルは、次々にフェンスで閉鎖されてしまいました。安全のためには仕方のない事ですが…。)。
煉瓦トンネルなどの見方について、特に知識が増えたわけではないですが、いろいろな場所で現物を見たり、他の方々の情報を見聞きすることで、見方はだんだんと変わってきたと思います。
1回目の時は、煉瓦の継ぎ目などには全然気付いていなかったわけで、その時と比べれば、様子を細かく見るようにはなりました。
さて、これで写真もしっかりしたものが撮れたので、旧池田隧道にはまた当面来なくなりますね(和歌山県は自宅からはちょっと遠いイメージがあるし。)。トンネル内部に変状は無いようですし、まだまだ現状を維持してくれるでしょう。