2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。
この道は、矢ノ川峠を越えて尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた明治時代に開削された県道(縣道熊野街道→府縣道津木本線。当時はまだ国道に指定されていなかった。)のうち、特に道路状況が悪かった尾鷲側の大橋から小坪の区間の改修を目指して新たなルートで建設されたもので、昭和9年(1934年)9月に着工し、昭和11年(1936年)9月に完成しました。
この道の完成により、尾鷲と大橋は小型乗合自動車、大橋と小坪は索道(ロープウェイ)、小坪と木本は小型乗合自動車というように交通手段を乗り継いで峠を越えていたものが、全区間を通してバスが運行されるようになりました。
その後、この区間を含む矢ノ川峠を越える旧道は、昭和43年(1968年)に矢ノ川(延長:2076m)・弓山(延長:137m)・大又(延長:1626m)の3トンネルで通過する現在の国道42号矢ノ川峠越えルートが完成するまで利用されました。
ここは国道42号千仭橋のたもとにある駐車帯。ここに車を停めて、「矢ノ川峠昭和道」へと向かいます。
こちらが国道42号千仭橋。深い渓谷である「南谷」を跨ぐために架けられた上路トラス橋です。
こちらがかつての矢ノ川峠越えの国道42号、通称「矢ノ川峠昭和道」の入口になります。現在は、路面の洗掘や崩落のため、一般車両は通行止めとなっています。
旧道へと入って程ない場所に立っている水準点を示すプレート。水準点は、大まかに言うと標高を測量するために全国の主要道路沿いに設置されている標識です。
昭和道に入って一つ目の橋、「懐古橋」です。
「かいこはし」とあります。
こちらの親柱には漢字で「懐古橋」と刻まれています。
懐古橋の全景。振り返って撮ったものです。
国道42号千仭橋。この橋を架けることで、深い渓谷を避けて南谷の上流側へと大きく迂回していたルートを短縮しました。
南谷の上流側を眺めています。この道は建設時に犠牲者を出す程の難工事でしたが、ご覧のとおり悪路の林道といった様相で、戦後の自動車交通の発達に耐えうる道路ではなかったことがよくわかります。
石積みの擁壁。根を張ることができなかった木が、石垣の表面に幾筋も太い根を這わせています。
二つ目の橋に来ました。「紅葉橋」です。
この橋の親柱は、先ほどの懐古橋の親柱と比べると単純な長方形で質素なものです。
側面には竣工年が刻まれています。摩滅していて読み取りにくいですが、「昭和拾年」とあるようです。
桟道区間を進みます。この場所は、盛土をしたり岩壁を削るなどして道路を造ることができなかったのでしょう。路肩部分は現代のガードレールに置き換えられています。
三つ目の橋に来ました。「瀧見橋」です。
左側の親柱はひらがなで「たきみはし」。
右側の親柱は漢字で「瀧見橋」とあります。
橋名のとおりで、橋の上流側には段々になっている小滝、橋の真下にも滝がありますが、うまく写真を撮れませんでした。
以前に一度この道を訪れていますが、その際はこの橋で猿と遭遇したため引き返しており(他所を訪れてからのついでに寄り道したので、無理をしなかった。)、この先へと進むのは初めてになります。
左側の路肩に大きな石碑が立っているのが見えてきました。
「矢ノ川峠開鑿記念碑」です。その文言のとおり、矢ノ川峠昭和道が完成したことを記念して、昭和15年(1940年)3月に建立されました。
記念碑が立てられている辺りの区間も桟道となっており、難工事であったことを偲ばせます。
四つ目の橋に来ました。「南谷大橋」です。ここでようやく南谷の対岸へと渡ります。
南谷大橋の親柱。半分埋もれてしまい、「南谷大」までしか見えていません。
橋を渡り、対岸の山腹をさらに進んでいきます。「矢ノ川峠昭和道」はここからがハイライトとなっていきます。
※その2へと続きます。
Posted at 2021/10/28 04:27:35 | |
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矢ノ川峠 | 日記