2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。
今回歩いた区間の地図を作ったので載せておきます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
赤線が今回歩いた「矢ノ川峠昭和道」のルート。青線は矢ノ川隧道から矢ノ川峠までの国道42号矢ノ川峠旧道のルート。矢ノ川峠から先は着色しませんでしたが(面倒くさくなった(笑)。)、峠からさらに続く灰色の実線が旧国道になります。
現在の国道42号矢ノ川峠ルートと比較すると、旧国道ルートが相当大回りして峠越えをしていたことがよくわかります。
それでは、その1からの続きになります。
南谷大橋を渡り、南谷の右岸側の斜面へと道は進んでいきます。
南谷大橋を渡ってすぐの所にある小橋の山側には小さな滝があります。
道が通る場所が日陰側に変わり、岩が苔生しているのが目立ちます。今のところは道の状態も穏やかになり、黙々と歩き進んでいきます。
路肩に立つコンクリート柱と取り付けられた金網。
廃道を歩いていて、路肩にコンクリート柱だけが何本も立ち並んでいるのは見たことがありますが、金網が取り付けられてあるのはこの道で初めて見ました。今で言うガードレールに相当するものなのでしょうかね。
ようやく入口から1km地点まで来ました。ここまで30分かかりました。
眼下に国道42号千仭橋が見えています。ということは、旧道は南谷を渡るために1kmも迂回しているわけです。
このような深さの谷でも明治時代にすでに橋を架けている場所もあるので(近隣だと旧熊野街道船木橋。)、技術的に架橋できなかったわけではないでしょう。ただ、現在の国道は千仭橋の先から長大トンネルで峠を通り抜ける前提でルート選定しているのに対し、昭和道は矢ノ川峠まで登って峠を越える前提なので、現国道の地点で橋を架けることは想定されなかったのかもしれません。
さて、1km地点から歩くこと3分、ついに一つ目のトンネルが見えてきました。
矢ノ川1号トンネルです。トンネル延長は22m。
岩に金具で取り付けられた碍子が残っています。
素掘りトンネルですが、トンネル内に落盤した石が転がったままになっているようなことはありません。一般車両は通行止めとはいえ、林業関係者や電力会社などの車は出入りしているでしょうからね。
反対側の坑口です。
この辺りはところどころコンクリート舗装がされています。
深い切り通しです。トンネルを掘るには「土被り」となる部分が薄かったのでしょう。
真下に国道42号のロックシェッドが見えています。このロックシェッドはそのまま矢ノ川トンネル(延長:2076m)につながっています。
広場へと出てきました。
路面が荒れています。表土が流されて無くなり、地山が剥き出しになったような感じです。
ここの沢に設置されている砂防ダムは新しそうです。
プレートを眺めてみると「令和元年度」とありました。
これも近年の集中豪雨多発の影響によるものなのでしょう。広場を造った土砂も、この沢からあふれ出たものなのかもしれません。
沢を渡り、先へと進んでいきます。
2つ目のトンネルが現れました。
矢ノ川2号トンネルです。延長は20m。
このトンネルはコンクリート覆工されています。開通当時からではなく、後年の補修によるものだと考えられています。
トンネルと外との境目の路面に石が並べられていました。洗掘対策ですかね。
反対側の坑口です。
トンネルを出てしばらく歩いたところに入口から2kmの案内板が立っていました。車を出発してからここまで約1時間です。
路肩にコンクリート製の枡があります。これは水槽なのか何なのか…?
こんな山の中に防火水槽は考えにくいですし、車道として造られたこの道に牛馬用の水飲み場があるともねぇ…。ただ、戦後に入っても牛馬に荷車引かせているなんて普通にあったわけですし、あながち無いとも言えないのかも。
3つ目のトンネルが見えてきました。
矢ノ川3号トンネルです。延長は35m。天然なのか掘削したのか、とても深い切り通し状の地形の奥にトンネルは穿たれています。
坑口直前で撮った写真。坑口からせり出している天井の岩盤が重圧感を与えてきます。
このトンネルも内部はきれいに保たれています。
素掘りのトンネルながら天井を高くしてあるのは、トラックの通行を見越したものなんでしょうね。
反対側の坑口です。
トンネルから歩くこと程なくで橋が現れます。傳唐大橋です。
読み仮名は「でんがらおおはし」です。
親柱を見るとこの橋の架橋は昭和37年(1962年)7月。他に残っている橋は、この道の開通と同時期の年号が刻まれていますから、橋が流されるような出来事があったのかもしれません。
この橋が架かっている川は矢ノ川。矢ノ川峠の名前の由来となった川です。
江戸時代は、この矢ノ川をさらに上流へと詰めていって矢ノ川峠を越える「伝唐越え」と呼ばれるルートがあったようです。この橋の名前は「伝唐越え」から取られたわけです。
江戸時代に尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた道は、矢ノ川峠伝唐越えのほかには、八鬼山越え、曽根次郎・太郎坂、逢神坂峠、大吹峠などいくつもの峠を越えながら海岸沿いを辿る熊野古道伊勢路ルートがありました。
どちらのルートも歩き通すだけでも困難・苦労を極めたようで、尾鷲と木本を結ぶ航路も利用されていたようです。
さて、残るトンネルはあと2つ。その3へと続きます。

Posted at 2021/10/31 17:30:38 | |
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