2023年1月29日日曜日、静岡県浜松市天竜区二俣町の鳥羽山へとふたたび出かけてきました。
鳥羽山には明治32年(1899年)に開通したトンネル「鳥羽山洞門」が現存しています。しかし、前回のブログの終わりに書いたように、「鳥羽山洞門」が開通する9年前の明治23年(1890年)測図の2万分の1地形図「二俣町」には、同じ鳥羽山で「鳥羽山洞門」とは違う場所にトンネル記号があります。
こちらは「今昔マップ」というサイトで、前述の「二俣町」の地形図を閲覧したものです。右側の現在の地形図の中央部の黒丸印が隧道擬定地です。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
この地形図の存在を知るきっかけとなった、2012年7月に現地を探索した方のブログでは、「崩壊したのか隧道の坑口は発見できなかった。」とありました。
同ブログに貼られていた写真を見る限り、仮に隧道が存在していたとしても、現存している見込みはほぼゼロのように感じましたが、やはり現地をこの目で見て自分なりの結論を出してみたいなとの思いに駆られ、鳥羽山へと出かけた次第です。
前回訪問時と同じく鳥羽山公園の駐車場へとやって来ました。
そして、同じように田代家住宅へと下っていく、古道を改修した散策路へと入っていきます。
左側に田代家住宅が見える場所まで下りてきました。散策路はここをヘアピンカーブで折り返していきますが、鳥羽山洞門が開通する以前の旧峠道が直進方向へと分岐しているので、そちら側へと進んでいきます。
「馬車も通行できた。」と言われた道路にしてはやや狭い気もしますが、しっかりと道跡が残っています。
山側には鳥羽山でたくさん出てくる玉石を利用した石積み擁壁があります。
天竜浜名湖鉄道の線路へと出てきました。正面は椎ヶ脇神社御旅所。旧峠道が利用されていた時代にはまだ鉄道は開通しておらず、そのまま神社の裏手を通って現在の国道152号から渡し場だった鹿島橋方向へと向かっていたようです。
ここで引き返して、峠方面へと向かいます。
散策路まで戻ってきました。黄色い矢印線が旧峠道に当たるはずなので、そちらへと進んでいきます。
散策路がふたたび折り返すカーブを直進していきます。
程なくして旧峠道は無くなってしまいました。ちょうど鳥羽山洞門の坑口の真上なので、トンネル建設時に削り取られてしまったのかもしれません。
旧峠道が通っていた場所を想像しながら斜面を横断していきます。
土が脆く崩れやすい斜面を3分ほど横断していくと、ふたたび旧峠道が現れました。
旧古道は竹林に囲まれてしまっていますが、人が歩ける分だけ竹が伐採されていたので、以前の南部新道の探索のように難渋することなく進んでいけます。
眼下に小さな砂防ダムがある凹地にぶつかり、直進方向に道跡が無くなりました。そこで山側(左側)へと目をやると、目的地へと連なる切り通しを見つけました。
だいぶ土砂に埋もれてしまっていますが、左右に人為的に削られたと考えられる低い垂壁が見えています。
馬車道だったとは思えないほどの急坂で登っていきます。やはり相当な量の土砂が堆積して埋もれてしまっているようです。
切り通し地形の左右の斜面を見上げています。どちらも高さは20m〜30mくらいはありそうで、しかもけっこうな急斜面です。
切り通し地形の頂上まで来ました。先ほどの石積み擁壁で見たような玉石が辺り一面にゴロゴロ転がっています。
頂上を通り過ぎて下っていくと、真下に深く掘り込まれた隧道の擬定地が現れました。
ガレた急斜面を下って、正面から眺めます。
切り通し地形を歩き通し、さらに上記の写真の光景を見た上での、この場所に対する自分の所感は後にして、左側に開いている穴へと入ってみます。
この穴について、前述のブログ主さんは地元の方に聞き取りされていて、銅を採掘していた坑道の跡なんだそうです。ちなみに鳥羽山で銅を採掘していたという記述は天竜市史には無かったので、記述されない程度の零細なものだったのでしょう。
穴を10mほど進むと、その先は水没しています。穴に入った瞬間にムッとするような嫌な空気で(外気との寒暖差と、奥が閉塞して空気が循環していないため。)、結末を見届けたらさっさと外へと出てしまいました。
穴の外へと出てきました。
さて、ここで先延ばしにしたこの場所に対する自分の所感を述べると、「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論です。
結論に至った理由を書き出してみます。
両脇を高い岩壁に挟まれていますが、前方の土砂に埋もれている場所に坑口があったようには見えません。例えるなら蓋の無い側溝に土砂が流れ込んで埋まっただけのようにしか見えないのです。もしトンネルが崩落・埋没したのであれば、トンネルがあった方向に沿って、周囲よりももう一段細長く陥没した・凹んだ様子が地表面に見受けられるものですが、どうにもそれが感じられない(あくまで自分の経験上です。長い間に陥没部分が埋もれて均された可能性は有る。)。
そもそも岩壁よりも上の地質は玉石を含んだボロボロに崩れやすいもので、素人目に見てもとてもトンネルを掘削するのに適した地質ではありません。掘削した先からドンドン崩れて、トンネル建設中の時点で坑道を維持できそうもありません(前述のブログ主さんは、この地質が理由で隧道は崩落して埋もれたと結論付けています。)。
トンネルを掘削するのであれば、切り通し中央部について、左右の斜面があんなに高く露出するほど地表を掘り込む必然性がありません。山体に穴を掘るだけで良い訳ですから、それ以外に山体へ手を加える必要は無いはずです。
仮に、高い斜面が露出している原因がトンネルの崩落・陥没だとしても、あの高さまで斜面が露わになるほど山体が陥没するとは思えません(馬車道のトンネルなら、内高はせいぜい2〜3m程度。)。もしそうだとしたら、山が大きく凹んでしまった分の大量の土砂はどこへ行ってしまったのでしょうか。
次に天竜市史下巻の「鳥羽山峠新道」についての記述を持ち出すわけですが、そこには「明治17年(1884年)2月に工事開始、明治18年11月26日に完成。延長281間(約507m)、『地盤の切り下げ部分が67間(約120m)』。総工事費1,825円」とあります。「隧道の掘削」については一言の言及もなく、『地盤の切り下げ部分が~』とあるだけです。明治23年測図に間に合うような鳥羽山の峠道に関する大きな改良工事はこの記事だけです。
明治十年代に建設されたトンネルは鉄道用も道路用もあまり存在していません。そんな時代に地方の峠道に隧道を掘削するとなれば間違いなく地元の一大事。記録に残らないはずがありません。ですが、そのような記述がない。
ここは文面通りに受け取って、1年9か月かけて鳥羽山の鞍部を20mから30m切り下げて、切り通しを建設したのが妥当だと思います。人力での工事だったでしょうから相当苦労したと考えられますが、技術的にはトンネル掘削よりも問題は無いはずです。愛知県内にも明治時代の旧飯田街道でこの程度の高さを切り下げて建設された切り通しが存在しています。
さらに加えて天竜市史下巻には、「明治24年(1891年)6月15日、鹿島村民(鹿島村は鳥羽山の麓の村)が二俣町長あてに鳥羽山に隧道を掘りたいので、その筋に請願をしてほしいと申し出。」という記述もあります。
すでにトンネルがあって損壊しているのならば修復にかかる請願でしょうし、修復が無理だというのであれば、「元々のトンネルが使いものにならないので、新たにトンネルを掘りたい。」というような請願でしょう。
以上、現地を見た感想と天竜市史下巻の記述から、繰り返しますが「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論になりました。
では、どうして地形図にはトンネルの表記がされているのか?一つは単純に誤記。二つ目はまったくの想像(妄想)ですが、ロックシェッドのようなものが設けられていた。切り通し部分に木製の支保工のようなものが緻密に並べてあったりしたら面白いかなと(笑)。土砂がボロボロ崩れてくるわけですし、時には頭大の丸石も降ってくるような場所です。そのようなものから馬車や通行人を守るような設備があってもおかしくないはず。
ただ、二つ目の「案」もそれだけ特徴的な建築物があれば、やはり物珍しさで記録に残りそうなので、実際には深い切り通しをトンネルと誤記したというのが正解のような気がします。
こちらは二俣側の斜面。写真では全然見えませんが、すぐ真下に鳥羽山への登山道路があります。往時はここで左カーブ・右カーブと屈曲して、二俣側へと下っていったようです。
それでは切り通しを戻っていきます。
進入した側へと戻ってきました。右折して進みます。
岩壁に無数に付いている縦筋は鑿の跡なのでしょうかね。
路肩を保護する擁壁も玉石積み。
散策路へとよじ登ってきました。
ついでなので、鳥羽山への登山道路を少し歩きます。
古そうな石積み擁壁が残っています。
先ほどの切り通しからの道が合流していたと思われる地点。二俣の街が見えています。
駐車場へと戻ってきました。今回は1時間20分ほどの探索でした。
鳥羽山洞門の開通以前の、明治18年に開通した旧峠道を探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
今回は距離的にはピンポイントの短い探索でしたが、中身的にはなかなか濃いものになりました。現地探索と地元市史などの資料との突合せで、自分なりの結論を導くのは楽しいものです。
私の結論は結論として、本当は地形図のとおりにトンネルがあったのかもしれないという気持ちも無いわけではないのです。
あの大量の土砂の下にはトンネルを掘削できるだけの高さ・厚さの岩盤があって、実は埋もれたトンネルが眠っているかもしれない。興味を持った誰かがトンネルの実在を立証してくれれば、また現地へ赴くだけですよ。