2025年8月14日木曜日、お盆休みということで家族4人でドライブにお出かけしてきました(私はたまたまこの日は仕事がお休みだっただけですけどね。)。
最初に訪れたのは、岐阜県中津川市川上にある竜神の滝。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
駐車場から滝へと向かって歩いて行くと、真新しい説明板が立っていました。
約1か月前の7月10日に記録的短時間大雨がこの周辺に降った影響で、散策路に被害が出ているようです。滝自体は眺めることができるようなので、このまま進んでいきます。
最寄りの展望台の直前で少々順番待ちをする羽目になりましたが、ようやく到着しました。こちらが「竜神の滝」です。
違う方向へ目をやると、大雨による土石流で岩盤が剥き出しになってしまった沢や、橋桁が流されたのか橋台だけが残る橋の跡が見えます。
こちらは展望台の上側にある神社の傍らから眺めた竜神の滝。
滝へと向かう散策路の途中から分岐していた吊り橋へとやって来ました。
吊り橋の上から竜神の滝を眺めます。展望台の下には河原へ降りる仮設階段がかけられていましたが、通行不可になっていました。
吊り橋の先は通行止めになっているため、このまま引き返します。
さらに下流に架かる橋まで来ました。この辺りの河原でしばらく一休み。
竜神の滝の見物はこれにて終わり。「このまま帰るか、それとも他にどこか行くか?」との話になり、「それなら、この辺で山の中にあった宿場の跡へ行ってみるか。」ということで移動を開始。
国道19号、国道256号、長野県道8号と通り、旧大平街道の宿場である「大平宿」へとやって来ました。今までにも何度か訪れている場所です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
旧大平街道は、1754年(宝暦4年)に飯田藩によって飯田の街と中山道妻籠宿を結ぶために建設された街道です。大平宿は、この街道の開通により新たに開墾された土地に開かれた宿場です。
宿場の最盛期は、中央本線が三留野駅(現南木曽駅)まで開通した1909年(明治42年)の頃から大正時代にかけてだそうで、飯田の街と中央本線を結ぶ重要な街道として、この宿場も戸数70戸を数えたようです。
その後、1923年(大正12年)に当時の伊那電気鉄道(現JR飯田線)が飯田駅まで延伸されてくると、わざわざ険しい峠を2つ(飯田峠と大平峠)も越えて中央本線が通る木曽谷へと向かう必要は無くなり、街道は衰退していきます。
最終的には1970年(昭和45年)に、「もはやこの土地での生活は立ち行かない。」として集落の住民は集団移住を決断し、廃村となりました。
現存している戸数はだいぶまばらですが、集落の家屋は今も有志などにより維持されていて、今回も車が停まっている家がありました。
これはポンプ車なんですかね。箱には「昭和十一年十一月新調」と書かれています。昭和11年は1936年ですから、書かれているとおりなら、89年前のものということになりますね。
残されている家屋には、江戸時代に立てられたものもあります。
宿場の飯田側の端まで来ました。ここで折り返します。
こちらは、丸山小学校大平分校跡(旧大平小学校)。住民が集団移住した1970年(昭和45年)11月に閉校となりました。立入りが禁止されているので、敷地外からの撮影です。
大平宿を一回りしたので車へと戻ります。国道19号方面ではなく、長野県道8号(旧大平街道)を飯田市街地へと向かって走ります。昔の街道を引き継いだ県道なので、ひたすら地形に合わせてクネクネと進むことになります。
ようやく山の中から市街地の入口へと出てきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
大平街道の石碑。石碑の側面には「自明治三十二年 至明治三十八年改修」とあります。
この石碑は、明治32年~38年(1899年〜1905年)にかけて実施された大平街道の改修工事が完成したことを記念したものです。
改修工事が実施されたきっかけは、中央本線が伊那谷ではなく木曽谷の通過を決定したため。これにより飯田の街と中央本線を結ぶ道路の改修の必要性が建議され、大平街道の改修工事を実施。荷馬車の通行が可能になったそうです。
この場所で小休止した後は国道153号へと出て、高速道路には乗らず、そのまま国道で愛知県へと戻っていきました。

Posted at 2025/09/06 23:33:30 | |
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