2025年8月21日木曜日、新城市内を流れる槇原川沿いにかつて存在していたという伐木作業軌道の跡を探索してきました。
またちょっと長くなりますけど、ここで伐木作業軌道が槇原川の流域に設置された経緯について記していきましょうかね。説明上、本題(軌道の設置)までの前置きも長くなりますがすみません。
まずは「愛知の林業史」からの引用です。この槇原川の流域から宇連ダムに至る山林は「鳳来寺裏山」と呼ばれ、江戸時代までは近隣にある鳳来寺山(標高684m)全域を境内とし、徳川幕府の庇護をうける名刹「鳳来寺」の寺領でした。
ところが、この山林は明治4年(1871年)の太政官達によって「上地」対象となってしまいました。ようするに明治新政府に召し上げられてしまったわけです。「上地」となった山林の面積は1590ヘクタール(15.9平方km)に及んだそうです。
その後、「上地」された山林は官林(国有林)から御料林(皇室所有の山林)へと所属が変遷していきますが、開発順位の低い扱いの御料林だったようで、特に開発されることは無かったようです(愛知県内では、段戸山の御料林が積極的に開発された。)。
そこで明治末から大正にかけて、ようやく維新後の混乱から体制を立て直してきた鳳来寺が、旧寺領である御料林の払い下げ運動を開始。大正8年(1919年)に1551ヘクタールを66万7千130円の12年賦延納で払い下げを受けることが実現します。
払い下げ代金は、払い下げを受けた山林の立ち木を売却して充当することになり、入札・売却手続きについては条件を付けつつ愛知県へ委任します。
入札の結果、東加茂郡足助町(現豊田市足助町)の加藤周太郎(加周)が111万円で最高札でしたが、予定価格(ここでは入札の最低価格)150万円に及ばず「不調」となりました。しかし、交渉の結果、そのまま加藤氏へ115万円で売却が決定しました。
「加周」(加藤周太郎家は代々木材商・製材業を営んでいて、「加周商店」とか「加周組」とか呼ばれていたみたい。)は、買受けた山林から伐採した木材の運搬のために「トロッコ軌道」8kmを設置したそうです。ここでようやく今回の「本題」が出てくるわけです。
内容は一部重複しますが、続いては「長篠村誌」からの引用。「加周」は、大正8年10月から準備し、大正9年(1920年)から伐採を開始。大正10年(1921年)には製炭(木炭の製造)も開始しました。この立木伐採事業が終了したのは昭和4年(1929年)。12月24日に事務所を引き揚げて完了となりました。
「加周」は、この事業のために、約2里(約8km)の「トロ線」(トロッコ軌道)を設けて、製材工場を2か所建設しました。
余談ですが、この伐採・製材・製炭事業には最盛期で1600人が従事していたそうです。そのため、「加周」は現地に私立の小学校や青年訓練所を設置し、青年団も組織。食堂を開いたり、請願して警察官に駐在してもらったりもして、もともと人家がなかった槇原地区に、ちょっとした街が出来上がっていたわけです。
「加周」の事業終了後、伐採跡地のうち1021ヘクタールに対して愛知県が95か年の地上権を設定して「鳳来寺県有林」の経営が開始され、これが現在まで続いています。
これまた余談ですが、「加周」の立木伐採事業は本来「15か年」に渡る内容のものでしたが、実際には9年間で終了してしまいました。これは大正13年(1924年)6月16日に発生し、6日間に渡り延焼した「鳳来寺裏山大火災」により、伐採地域に大きな被害を受けてしまったためのようです。
さて、探索の続きを再開。本谷橋から分岐していく破線道へと入ります。
岩を切り取って軽車両が通れるくらいの道幅にしてありますね。「愛知縣林業報告」に添付の地図によると、今歩いている道が通っている区域は県有林ではないようです。しかし、これも林道本谷線の支線として整備された可能性はありますね。
岩壁の切り取り工が続きます。
砂防ダムがある沢に遭遇しました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
石垣がありますね。かつては橋が架かっていたようです。
道が林の中を直線的に突き抜けていきます。
今度は先ほどの沢よりも深く抉れた沢が出てきました。越えていけるのか?
問題なさそうです。黄色線のように進んでいきます。
来た方向を振り返って眺めます。橋台の石垣は崩れ去ってしまったのでしょうか。
太い倒木ですね。
岩場が現れましたが、その手前で道は途切れています。
少し引き返して、道の下側へと下ります。道の路肩部分には石垣の擁壁が築かれています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
途切れた道の先には岩盤を深く掘り下げた切り通し。こういう物件は興味を惹きますね。「伐木作業軌道」か木馬道を通すために削ったものなのか、林道へ改築する際に削り直したものなのか。真相は不明です。
こういう絡んだ倒木はめんどくさいです。
また一直線の道が現れました。
土砂で半ば埋まってしまった沢を越えていきます。
どんな山奥でも見かける炭焼き窯の跡。
また小さな沢を渡っていきます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ここも路盤が無くなってますね。この程度ならそのまま普通に進めますから問題ありません。
ぬた場ですね。
ついに本当に道が途切れてしまいました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
地形図を見ると、破線道はこの場所を渡って対岸へと進んでいるように見えますが、橋台など橋が架かっていたような痕跡は見られません。
川の中を歩いて渡り、対岸を通る林道へと出てきました。時刻はすでに15時半を回っています。ここで引き返すことにします。
交差点へと出てきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ちなみにこの交差点は、「新設林道」と「在来軌道」の接点と思われる地点。今回は時間切れと体の疲れで、「在来軌道」方面の探索はパスします。
山の上へと向けて一直線に空間が続いています。一体何でしょうかね。高圧線は通っていないので、索道かインクラインの跡のような気がしますが。
川側にも空間が開いています。
林道は真っ直ぐ続いていますが、右側の木々の中に道跡と思しきものがあるのに気が付きました。この辺りから右方向へと逸れていくので、跡を追ってみることにします。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
明瞭なものではありませんが、道跡が林の中にずっと伸びていきます。
川べりへ出たところで途切れてしまいましたが、先を眺めると道跡の続きらしきものが見えています。
この削り込み方は道跡で間違いないようです。ただ、幅が狭いし、「新設林道」のルートとは若干違うので、もしかするとこの区間は、改築されずに残った「伐木作業軌道」そのものの跡かもしれません。
また途切れてしまいました。河原まで下りて先へと進みます。
道跡が復活しました。
石積みの築堤が現れました。
川で途切れてしまいました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
対岸を眺めています。空間が開いている場所へと橋が架かっていたと思われます。
ここも川の中を歩いて渡ります。
林道本谷線へと再合流しました。往路では赤色線の所から出てきました。帰りはこのまま林道を進んでいきます。
この後は特に目立ったものを見つけることはなく、三河槇原駅へと戻ってきました。
今回の探索のルート図です。探索時間は3時間40分、移動距離は9.2kmでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ネットで簡単な下調べを始めた時は情報が少ないなと思っていましたが、ネットや図書館で調べ直してみて、国立国会図書館デジタルコレクション、「愛知の林業史」、「長篠村誌」などで、槇原川の流域に「伐木作業軌道」が設置された背景という、今まで知らなかった事柄を知ることができたのは興味深かったですね。
今回探索した道跡そのものは、もはや90年以上前の「伐木作業軌道」跡なのか、改築後の「新設林道」跡なのか、全然関係ない道跡なのか、明確に区別を付けようもありませんでしたが、いろんな興味ある遺構を見つけることができましたし、満足いく探索でした。