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小林あにのブログ一覧

2019年10月14日 イイね!

出雲大社・旧大社駅・一畑口駅・松江城を巡りました

2019年10月13日日曜日、弟と二人で島根県の出雲大社と松江城を目指してドライブに出かけてきました。

自宅を出発したのは、台風からの吹き返しが残る13日午前1時前。伊勢湾岸道で強風による50km/h規制が出ており、三重県内からは再び雨が降り出していましたが、それ以外の規制はなく、新名神、名神、新名神、中国道というルートで順調に進みます。米子道に入る頃には雨も止み、米子市内まで来ると晴れ間も見えるようになってきました。

最初にやって来たのは、島根県出雲市にあります出雲大社。


何年ぶりですかね、もう憶えていませんね(笑)。

やはり参拝客が多いですね。個人や家族連れ、団体旅行といったいろいろな方たちが来ています。結婚式や七五三参りと思われる方も目立ちますね。

お宮によっては参拝の人が行列を作っている所もあり、なかなか盛況でした。




















けっこうな時間をかけてここまでやって来ましたが、本殿の周りを一周して「もういいかな。」という感じ。


出雲大社宝物殿を見物してから、隣接する場所にある島根県立古代出雲歴史博物館へと行ってみます。




ここで一番目を引いたのは、荒神谷遺跡出土の大量の銅剣群と加茂岩倉遺跡出土のこれまた大量の銅鐸群ですね。




見物を終えて、駐車場へと戻ります。途中にある出雲大社の参道。




さて、当初予定では次に向かうのは松江城でしたが、1か所、ご近所へ寄り道します。

旧大社駅。平成2年(1990年)に廃止されたJR大社線の終着駅です。


廃線後も駅舎と駅構内はそのまま保存されています。

駅舎は、大正13年(1924年)完成のもので、国の重要文化財に指定されています。




駅舎内は広々としていて、多くの乗降客に対応できるような造りになっています。天井も大変高く、格天井からはシャンデリアが吊るされています。


切符売り場だそうです。こちらも大変意匠が凝っています。


後年は観光案内所になっていたのですかね。


「きっぷうりば」。自動発券機が当たり前なので、このスタイルの切符売り場は全然見かけなくなりました。


大社駅出発列車の時刻表。廃止当時のものですかね。


ホームへと出てみます。


駅名板。「駅長事務室」の行灯も残っています。


駅ホームからは出雲大社の大鳥居を眺めることができます。


ホームにある構内通路の階段の蓋には因幡の白兎が描かれています。


当時は、機関車や列車の入れ替えのためにもう少し先まで線路が伸びていたそうです。


駅構内は、ホーム2面3線にもう1線側線が残っています。


ホーム下や線路の間の溝に梃子装置の滑車が残されていました。信号機用か転轍機用か、はたまた両方の連動用かはわかりませんが。




かつての改札口です。風雨への対策と防犯上の理由でしょうが、今は板で目張りされてしまっています。木組みの改札柵が懐かしいです。


こちらは団体客用の改札口でしょう。これだけのスペースを確保する必要があるほど、かつては鉄道で参拝客がやって来ていたわけですね。


出雲市駅側の線路は、横断する道路の部分でブッツリと切られています。


駅構内を眺めます。


構内には1両だけ保存車両が展示されています。かつては出雲大社内に展示されていたD51 774号機です。


もう少しいろいろとチェックしたいところですが、そろそろ次の場所へと移動です。


出雲大社からは、国道431号で宍道湖の北岸を走り、松江城へと向かいます。

しかし、またしても途中でとある駅へと立ち寄ります。私がハンドルを握っているので、寄り道の主導権も私にあります(笑)。

一畑電車北松江線一畑口駅です。




余談ですが、私の住む安城市の隣の岡崎市には「一畑山薬師寺」という寺院がありますが、この駅から北に向かうとある「醫王山一畑寺(一畑薬師)」が本山になります。

話は戻りますが、この駅、平地にありますがなぜかスイッチバック式の駅となっています。


写真左側が松江市方面、写真右側が出雲市駅・出雲大社方面になります。


この路線は、名前のとおり一畑薬師への参詣客を輸送することを主目的に建設されたものです。最初に開通したのが出雲市駅からの路線。その後に松江市と一畑薬師を結ぶ路線が開通。当時は松江市と出雲市駅を直接結ぶことは考慮されていなかったので、両方からの線路が一畑薬師へ向かう形になり、結果的にスイッチバックとなりました。

駅構内の写真です。










この駅から一畑薬師の最寄り駅である一畑駅までの路線は、戦時中の不要不急路線に指定されたため、昭和19年(1944年)に線路が撤去され、昭和35年(1960年)に復活することなく廃止されました。

駅から先へもう少しだけ線路が残っています。


ここまで電車が入ることがないためか、転轍機上部の標識灯が外されています。




線路の終端です。車止めが設置され、その先は道路となっています。


終端側からの駅構内の眺め。ホーム2面3線。ローカル線の拠点駅のお手本のような配線です。




いい加減、弟が車中で退屈して居眠りしているので、松江市内へと移動再開です。

さて、移動に使った国道431号は道中のほとんどが宍道湖畔を走るルートで、なかなか風光明媚なわけですが、結局、宍道湖の写真は1枚も撮りませんでした(笑)。

松江城に近い駐車場へ到着したのは14時半も回った頃。ここから松江城へと700mほど歩いて移動です。

松江城を取り囲む堀。堀や水路を巡る観光船が通過していきます。


間違って隣接する神社に入り込んだりしましたが、何とか城内へと入り込んでいきます。


松江城の本丸に到着しました。


松江城天守です。ここも以前いつ頃来たのか記憶があいまいです(笑)。


松江城天守は慶長16年(1611年)の完成。平成27年(2015年)に国宝へと指定されました。


天守内は見学できるので、当然見学いたします。

最上階の様子。


眺めいいですねぇ。松江市街地と宍道湖が良く見えます。


最後にまた正面と側面の写真を。




ここで時刻はもう16時。すっかり疲れてしまったので、正面側へは降りていかず、登って来た北側へとそのまま下って駐車場へと戻りました。

このあとは、国道9号沿いで晩御飯を何か適当に食べようとお店を探しましたが、結局米子市街地までそのまま走る羽目になり、ファミレスで食べることになりました(笑)。

帰り道は、米子から米子道には乗らず、鳥取市方面へ向けて山陰道へと直進(「どうせ翌日も休みだし、こんな機会がないと山陰地方の道路は走らない。」という、毎度の「悪い病気」が発症(笑)。)。

鳥取市内からは国道9号で兵庫県内へと入り、蒲生峠(蒲生トンネル:1745m)、春来峠(春来トンネル:1696m)、八井谷峠(但馬トンネル:延長1256mとループ橋)の3つの急坂な峠を越え(本当、パジェロミニでは厳しかった!)、養父市八鹿町の八鹿氷ノ山ICから北近畿豊岡道に乗り、やっと一息つけました。

これで安心したのか急に眠気が起きてきて堪え切れず、途中の青垣ICで下りて道の駅へ(PAが無いので。)。ここで弟と運転交替。舞鶴道に出るまでは道案内しないといけないので何とか起きていましたが、舞鶴道に入ったところで眠りにつきました。

このあと、宝塚北SA、鈴鹿PAと休憩を挟みながら走り続けましたが、ついに湾岸長島PAで二人とも力尽き、朝まで眠ることになりました(笑)。

帰宅したのは5時半頃。30分くらいそのままくたばっていましたが、何とか風呂に入ってようやく布団で寝ることができました(笑)。
Posted at 2019/10/14 20:37:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2019年10月06日 イイね!

名古屋市 市電・地下鉄保存館へ行ってきました

2019年10月6日日曜日、愛知県日進市にある「名古屋市 市電・地下鉄保存館(レトロでんしゃ館)」へ行ってきました。




弟が大工現場へ行くために付近を通ることがままあり、今まで気になっていたそうです。名古屋市交通局の施設ですが、所在地は日進市。地下鉄の日進工場に併設されているためです。

現在、同館に保管されている車両は、市電の代表的車輌であった1400型、2000型、3000型の3両と地下鉄開業時から走行していた100形2両です。

そのほかに鉄道・車両に関するグッズ類や鉄道模型が展示されています。

まずは、1400型1421号。昭和13年(1938年)製造の車両です。


昭和11年(1936年)から昭和17年(1942年)にかけて75両が製造されて、昭和49年(1974年)の名古屋市電の廃止まで活躍しました。

「ワンマンカー」の行灯。作り直した品なのかとてもきれい。


車両下部の排障器。こんな所に装備されているとは知りませんでした。


運転台。いたってシンプルです。


ワンマン化に伴って追加されたスイッチ類のようです。


ブレーキレバーと窓枠へと通ずる細い配管。


これはワイパーだったのでしょうか?ワイパーブレードが無いので、何とも言えませんが、ブレーキの配管と細い配管がつながっているところから見ると空気圧で駆動していた?見当違いの憶測かもしれませんけど。


乗降用ドアの開閉用継ぎ手。


つり革。


吊り広告。


室内灯。古い車両でよく見かける形状のものです。


客室内です。木張りの床が落ち着きますね。シートにも自由に座れるので、お子さん連れのお父さん・お母さんがけっこう居眠りしていました(笑)。




こちらは、連接車の3000型3003号車。昭和19年(1944年)に輸送力増強のために10両が製造されました。


パンタグラフ昇降用のロープとリール。


ヘッドライト。


車両の連接部分。




シート下のパネルには、暖房放熱用のためか穴が開いています。


戦中の車両なので、当然木張りの床。


運転台は素っ気ない造り。


マスコン(主幹制御器)とブレーキレバー。




客室内。


つり革。


吊り広告。


室内灯。小型の蛍光灯かと思いましたが、管形状の電球らしいです。末端部が細く成形されています。


「信鈴」。車掌が乗務していた頃に使用されていたものでしょう。多分、乗降時の安全確認ができたら鳴らしていたのだと思います。


名鉄だと「チンチン。」という鈴の音、JR東海だと「ブー。」というブザー音が使われています。

車体番号と製造メーカーのプレート。


説明板だと昭和19年製造とありましたが、プレートには昭和18年とありますね。どういう違いなのでしょうか?ちなみに「木南車輌製造」というメーカーはすでに存在していません。

連接部分の円盤。普通の電車と違い、この真下に台車があるわけです。


乗降用ドアとシートのひじ掛け。レストアされているとはいえ、粗製乱造が当たり前の戦時中のものとは思えない丁寧な造りです。


乗降用ドアの開閉用継ぎ手。


運転台窓のワイパー。


行き先表示板の字幕。


定期検査表。


注意喚起文のプレート。




行き先表示のプレートと系統番号のプレートでしょうか。


2000型2017号車。昭和31年(1956年)から昭和33年(1958年)にかけて29両が製造されました。


今までの2車種に比べて、今時っぽいレイアウトの運転台。楕円寸胴形のマスコンは前時代的ですが(笑)。


シートには、落ち着いた色調を用いていた2車種に対して赤色を使用。


地下鉄100形107号車。昭和32年(1957年)の地下鉄開業時から使用されていた車両です。


トンネル内高を抑えるため、パンタグラフによる空中架線からの集電ではなく、通電している第三軌条から集電する方式を採用しています。


第三軌条線を支える碍子。茶色でつやつやしていて茶釜のような形状。NGKのロゴが入っています。


客室内の様子。質素な感じはありますが、レイアウト的には現行の車両と大差はありません。




当然エアコンは無く、天井にあるのはベンチレーターのみ。


製造は日本車輌会社。現在の日本車輌製造です。


運転台。速度メーターの目盛りは最高80km/h。地下鉄のような駅間距離が短い鉄道は、最高速よりも加減速性能が重視されますからね。


自動放送用のカセットデッキでしょうか?カセットテープが巨大です。


車両側面は、下部まで外板が覆っています。これは今まで気が付きませんでした。


かつて使用されていた運行管理用の大型パネル。


最後に路面電車用のレール。形状は本で知っていますが本物は初めて見ます。


道路に埋め込んで使用することと、そのために容易には交換できないことを前提にした特殊形状となっています。サイズも大型です。


事前にホームページでチェックした時は、小規模な施設で車種も少なかったのであまり期待していませんでしたが、結局大いに楽しませてもらいました(笑)。
Posted at 2019/10/07 00:55:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2019年10月06日 イイね!

名草神社(兵庫県養父市)へ行ってきました

10月5日土曜日、兵庫県養父市八鹿町にある名草神社へ行ってきました。



神社がある場所は、妙見山と呼ばれる山の中腹で標高800mの高所。麓の集落から約7~8km、狭くて急坂な舗装林道を登ってきました。

道路脇の平場に車を停めて、境内へと坂を登っていきます。



最初に目に入ってくるのは三重塔。重要文化財に指定されています。



この三重塔、元々は島根県にある出雲大社(!)の三重塔でした。説明板によると大永7年(1527年)に出雲国の戦国大名尼子経久が願主となって出雲大社に建立したものだそうです。

その後、出雲大社が社殿の建材となる大木を探していた時に、当時、この地にあった寺院が妙見山の杉を提供したことが縁で、江戸時代の寛文5年(1655年)に移築されました。

当時、出雲大社では、神社内の仏教色を払拭する取り組みをしていて、三重塔は取り壊される予定でしたが、逆に塔の再建を模索していた寺院側が譲り受けることを申し出て快諾されたのだそうです。

三重塔は昭和62年(1987年)に解体修理が行われて、その際に塗り直しもされたそうですが、32年経過しているので、色はやや褪せてきています。



軒隅では人物像が重たそうに軒を支えています。



ここからは参道がありますので、参道を登っていくことにします。



「下馬」の石碑。国土地理院の地図で見ると、麓から境内まで参拝道と思われる細い道筋が載っていますが、行程は急峻な感じで、実際のところは馬に乗って登ってこれたのかは疑問ですけどね。



急な石段です。古いためかだいぶ変形が進んでいます。



比較的整っている部分を登って上段の境内へとやって来ました。



が、工事中!?拝殿が塗装されている!?



下調べしたときに見た写真は正にこんな感じで、すっかり塗色が剥げてしまった状態。正直、この枯れた状態・雰囲気で見たかったのですが…。



後ろの本殿は保護シートに覆われて全く見えず…。4時間半かけてやって来てこれは…。ちょっと脱力しました(笑)。



工事内容の説明板を読むと、平成24年(2012年)の大雪で建物に大きな損傷ができてしまい、それ以外にもいろいろと根本的な修復を行うべき状態ではあったため、平成27年(2015年)から6か年の予定(令和2年完了予定。)で屋根の葺き替えや石垣の修理、建物の彩色まで行う大修理をしているとのことでした。

拝殿と拝殿下の石垣は修理がほぼ終わっているようで、本殿は真っ最中ということでしょう。ということは、来年か再来年に出直しということですか…。

ということで、現在はこちらを仮社殿としているようです。



仮社殿(本来の建物名は不明です。)の彫刻。





これ以上いても仕方がないので帰ることにします。

石段の上にある石灯篭。「文化元甲子六月吉日」とありますから1804年に奉納されたものですね。





石段下にある、おそらく鳥居の跡。



最後にまた三重塔を。





車を駐車した場所から少々下った道路沿いにある神社名を記した石柱。側面には「大正」の年号があり、「式内 縣社 名草神社」とあります。



林道を下り、麓の集落を見下ろす場所にある日光院というお寺に来ました。











妙見大菩薩が本尊で、但馬妙見、日本三大妙見とも呼ばれています。妙見大菩薩は、北斗七星を神格化したものだそうです。



門扉に付けられた七曜紋。妙見大菩薩のシンボルマークだそうです。



本堂の正面には「妙見大菩薩」の扁額が掲げられ、その隣には「妙見宮」の扁額。「宮」は現代だと神社を表す名称ですが…。



そもそも、ここへとやって来たのは、インターネットで先日訪れた内山永久寺跡のことを探していたら、廃仏毀釈関係のことを詳しく書かれている方のホームページにたどり着き、その中に日光院と名草神社の関係についての記事があったからです。

来た理由自体は、名草神社の拝殿が珍しい形式(割拝殿と懸造り)のものだということで、一度見てみたいと思ったからですがね。

本来、名草神社がある場所が日光院であり、長らく寺院が営まれていましたが(なので今は名草神社の建物ですが、本来は日光院の建物。)、明治の神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動の中で、兵庫県の前身の一つである豊岡県から強制立ち退きを命ぜられ、やむなく麓の現在地へと退去したそうです。日光「院」(お寺)でありながら、妙見「宮」(神社)ともあり、そこへ難癖を付けられたのでしょうか。

そして誰もいなくなった寺院の跡には、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記述が残されているだけで、当時存在もせず、縁もゆかりも不明な「名草神社」という名前の神社がすっぽりと納まったということのようです。前述の神社名の石柱にあった「式内」とは、延喜式神名帳に記載がある神社(だから、古くからある由緒正しい神社だよ。)ということです。

日光院の境内には寺院の来歴についての説明板が立っていますが、その中に明治時代のこの一件についてもきちんと記されていて、お寺にとって忘れることのできない出来事(当然ですが。)なんだとわかります。



こんな静かな山奥で、そんな知られざる事件があったんですねぇ(そして今も解決していないということなのね。)。

Posted at 2019/10/06 03:42:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2019年10月06日 イイね!

石上神宮へ行ってきました

9月29日日曜日、母・弟と連れ立って、奈良県天理市にある石上神宮へ行ってきました。







境内には鶏が放し飼いにされています(笑)。鶏小屋もあって雛もちょこちょこと歩き回っています。



廻廊と楼門です。



楼門は、文保2年(1318年)に建立されたそうで、重要文化財に指定されています。



こちらは、出雲建雄神社拝殿。国宝に指定されています。



元々は、石上神宮から南へ500mほどの所にあった内山永久寺というお寺の鎮守の神社の拝殿だったそうですが、永久寺が明治初期の廃仏毀釈運動の中で廃絶し、荒れるがままだったため、大正3年(1914年)に移築してきたそうです。



楼門をくぐります。



石上神宮の拝殿です。こちらも国宝に指定されています。





廻廊に置かれていた永久寺の銘が入った龍吐水(今で言うなら手押しポンプ放水具。)。



天理市のキャラクターたち(笑)。



さて、石上神宮からは山の辺の道の散策ができます。せっかくなので、内山永久寺跡まで少し歩いてみました。



寺院跡に建っている江戸時代の絵図。



絵図のとおり、江戸時代までは大変隆盛を誇っていたそうで、「西の日光」、「大和の日光」とまで呼ばれていたそうです。

それが明治時代初期に発布された神仏分離令に端を発する廃仏毀釈運動の中で、10年と経たずに、建物群や仏像・各種宝物が、売却、略奪、破壊を受けて廃絶してしまったそうです。寺の僧侶自身も率先して仏像を破壊していたらしいです。

今残っているのは、境内の池と池の小島に「内山永久寺記念碑」という石碑。あとは石垣が散見されるくらいです。







日射しがきつくなり、けっこういい汗をかいたので、散策はここまで。帰り道は、名阪国道ではない方の国道25号を亀山市まで走行。途中、伊賀上野から柘植までは旧大和街道をのんびり走行しました。

天理市内の旧道に残っていた国道25号の標識。



天理ダム。

Posted at 2019/10/06 00:43:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「【2025年】豊田しもやまラリーを見物してきました http://cvw.jp/b/1796277/48541371/
何シテル?   07/13 21:23
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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