本日は、滋賀県長浜市の北東部にある2つのトンネル、档鳥坂(「档」は本来は木へんに當(当の旧字)。読み方は「あっとりざか」)隧道と杉本隧道へ行ってきました。
朝のうちはのんびりゴロゴロしていたので、自宅を出たのが11時頃。途中のPAで昼御飯を食べ、北陸道木之本ICで高速道路を下りて現地に着いたのは13時半頃でした。
档鳥坂隧道へと続く道路には冬期通行止の立て看板。雪が無いのは間違いないですが、Uターンできない状況があると嫌だったので、徒歩でトンネルへと向かうことにしました。
5分ほど歩いていくと档鳥坂隧道が見えてきました。ここまでの道路幅はそこそこ余裕があったので、車で乗り付ければよかった…。
あらためて档鳥坂隧道です。延長は64m。竣工は扁額によると1932年(昭和7年)11月ですが、まあ諸説あるみたいです。
木之本側の扁額。文字は「道通天地」。当時の滋賀県知事の揮毫だそうです。
内部の照明がオレンジ色。今ではすっかり少なくなったナトリウム灯ですかね。
アーチ部分はコンクリートブロック積みです。コンクリートブロックにしては細身であるのとオレンジ色の照明で、一見、煉瓦積みに見えてしまいます。
側壁部分が場所打ちコンクリートでアーチ部分がコンクリートブロックという戦前トンネルにはよく見かける構成です。
この部分は、塗り込めたコンクリートに線刻したもののように見えますね。
短いトンネルなので、もう反対側へと着きました。古いトンネルらしく坑口付近が屈曲していて見通しが悪いです。
木之本町川合側の坑門です。
こちらの扁額には隧道名と竣工年月が記載されています。
コンクリート造トンネルですが、アーチ環は石材を使用しているようです。
このトンネルは立派な扁額があって県知事が揮毫して、本来不要な石材も装飾のために使用しています。これを見ると同時代に完成した岐阜県恵那市岩村の木之実隧道があまりに簡素すぎる造りなのが違和感あるんですよね…。
坑門から引いた場所での撮影。高さ制限3.3m。旧道となった今ではトラックが通ることもないですから何の問題もないでしょう。しかし、道形が悪いですね。全然トンネル内部が見えない…。
档鳥坂隧道はこれくらいにして、次のトンネルへと移動します。
一旦、国道303号へ出て、新档鳥坂トンネル(新トンネルも「木へんに當」の文字を使っています。)を通過して岐阜県境方面へと進んでいきます。木之本町杉本という集落まで進んだところで滋賀県道284号へ入ります(狭い道への鋭角の左折だったので、1回で曲がれず切り返しました(笑)。)。
実は、この県道284号が曲者。谷川に沿って車1台分の道幅の道を峠に向かって登っていきます。道中で行き違いができる場所もわずかなので、対向車が来たら激しく動揺するでしょう…。
やはりこの県道にも冬期通行止の立て看板が家並みを抜けた所に立っていましたが、通行できるだけの隙間はあったので、今回はそのまま進入。
幸いというか当然というか道中で対向車は無く、トンネル間近の路肩に車を停めます。
このトンネルも直角に曲がって進入する形状。しかも、高さ制限2.5mで幅員制限2.0mです。
さて、今回2つ目のトンネル、杉本隧道です。延長は310mと長め。竣工は1918年(大正7年)6月。ここも諸説あるみたいですが、記念碑にある竣工年月なので間違いはないでしょう。
坑門全体がコンクリートで塗りたくられてモコモコになっていますが、竣工時は煉瓦造坑門だったのです…。
扁額です。草書体とか篆書体でない読みやすい書体ですね。
坑門はコンクリートで固められてしまいましたが、坑口付近には煉瓦積みを見ることができます。
で、過去にここを訪れている方々が指摘しているのですが、このトンネル内部の煉瓦の積み方がセオリー通りではないのです。
普通は次の写真のように、側壁部分は煉瓦の長手面と小口面を交互に表面に見えるように積み上げていく「イギリス積み」、アーチ部分は長手面を見せる「長手積み」という方法が一般的。
しかし、坑口に向かって左側の壁面の坑口寄りは小口面ばかり見せる「小口積み」にしています。
こちらは坑口に向かって右側壁面で、壁面下段「小口積み」、壁面上段「イギリス積み」、アーチ部分「長手積み」の構成。
もっとよく見ると不規則な積み方になっている箇所がまだまだあるそうです。なんかもう「積めばいいや。」という感じだったのでしょうか?
10mほど進むと煉瓦積み区間はあっけなく終わります。
ただし、内部も一部は煉瓦で巻き立てられています。ちなみに煉瓦積みの端が歯型になっているのは、手前側の天井を修復する際に煉瓦を剥がしたためらしいです。
奥へ進んでいくと何か所も鉄骨の支保工で補強されています。
トンネル内の路面は平らではなくて途中に峠があります(ラリーで言うなら「クレスト」ですね。)。水はけを考えてこのように造られますが、測量の精度の問題か、丁寧に整地しなかっただけなのか、いくつか段差が付いています。
アーチ部だけ煉瓦積みが残っています。側壁のコンクリートと面一なので、側壁も昔は煉瓦積みだったと思われます。
ここのコンクリート巻き立ては、他の部分に比べるときれいな仕上げです。
ペイントを見ると昭和47年度から48年度の施工のようです。
他の部分はこのような砂利が目立つコンクリートの巻き立てやコンクリート吹付け(塗り付け)です。
排水管もコンクリートで塗り固め。すごいやり方だ(笑)。ちなみに数字の「305」は杉本側坑口から305mということです。
ようやく余呉町丹生側の坑口に着きました。
丹生側坑門です。こちらは戦後に造り直されたようです。
坑門に取り付けられている工事の銘板です。昭和23年(1948年)から昭和26年(1951年)という終戦間もない頃に滋賀県が改修工事を実施しています。当時はそれだけ重要なトンネルであったという証でしょう。
トンネル下にある「長浜市余呉」の標識。合併前は旧余呉町でした。
トンネルを振り返って。こちら側もトンネル坑口に対して道路に角度が付いてしまって、見通しが悪くなっています。
トンネル横の杉林の中にある「隧道記念碑」。
この記念碑に「大正七年六月竣工」と刻まれています。
記念碑の後面にはトンネル建設の関係者が彫られています。地元である杉野村長、丹生村長、余呉村長に加えて、「土倉鉱山長」という者の名前もあります。
なぜかというと、このトンネルの建設に岐阜県境近くにあった土倉鉱山という銅山が大きく関わっていたからだそうです。トンネルを開通させることで北陸本線までの鉱石運搬のルートが従前よりもショートカットできるメリットがあったからです。
丹生側坑門の扁額。杉本隧道ではなく「丹生隧道」とあるそうですが、苔でほとんど見えません。
ふたたびトンネル内を戻っていきます。冬期通行止のためか、トンネルにいる間、1台も車は通りませんでした。
車まで戻ってきました。
このトンネルは10年以上前に一度訪れていて、その時に撮った携帯の写真と見比べてみましたが、そんなに状態は変わってはなさそうです。トンネル建設当時は、鉱山や周辺の村と北陸本線中之郷駅を結ぶ重要な道だったわけですが、その後、北陸本線のルート変更や鉱山の廃止、現在の国道303号となる道路の改良などで主要ルートから外れ、道路改良されることもなく寂れることとなりました。