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小林あにのブログ一覧

2020年03月29日 イイね!

豊田市下佐切町の石アーチ橋と伊勢神トンネル東側の廃道

今日も連日で豊田市の山の中へと出かけてきました。

最初に行ったのは、豊田市下佐切町にある旧足助街道の石アーチ橋。



昨日見に行った豊田市久木町の石アーチ橋の縮小版といった感じ。





内部は途中までが石アーチで、延長された部分がコルゲート管になっています。昨日からの雨の影響か濁流になっていたので、内部には入りませんでした。



最後に目一杯上流側に下がって撮影。上部のガードレールが愛知県道39号になります。けっこう深い谷底にあるのがわかってもらえると思います。



県道から見下ろすとこんな感じです。



この後は特に行く先の予定はなかったので、ひとまず伊勢神トンネル方面へ。適当に走りつつ、豊田市連谷町の県道484号へと来ました。

ふと、滝のような流れが目に付いたので近寄ってみました。



急斜面に段差を設けて、流れの勢いを抑える設備ですかね(何と呼ぶのか名称がわかりませんが。)。右側はぐるりと高い石積み擁壁が巡っています。これは山崩れを抑えるものでしょう。



何かにつけて「高い所が嫌い。」と言いながら、わざわざ濡れた枯れ木をかき分けて設備の上まで登ってきました(笑)。やはり高いですね。しかも苔生してるわ濡れているわ。



ここまで来たら上流へと登っていくしかありません(笑)。



見上げると、伊勢神トンネルの東側に残るミニ廃道の擁壁が見えました。



廃道との高低差が減ってきたので、廃道へと移動することにします。



伊勢神トンネルの東側に残るミニ廃道。落石注意の標識が傾いています。何となく新しく見えるところに違和感が…。



廃道の前半部分は廃棄された土砂や岩石で埋め尽くされています。



ヘアピンコーナーが近づいてくると路肩にガードレールが残っています。



ヘアピン部分は道路幅が拡がっています。



ヘアピンの頂点辺りにも古いガードレール。鉄材は錆びて穴が開いています。





災害復旧工事の標石ですかね。伊世賀美隧道からの旧国道にも同じものがありました。昭和34年(1959年)なので、伊勢湾台風によるものでしょうか。



標石に続いて駒止めが並んでいます。



山側は岩石が剥き出しのまま。見る限り、何らかの法面工事が施されていたようには見えません。



その先には石積み擁壁が残っていました。



国道153号の現道に塞がれる形で廃道は終わります。



車へと戻り、最後は旧道を登って伊世賀美隧道へ。











今回は二人連れでツーリング中のバイクとすれ違いました(こちらは徒歩で往復中でした。)。排気音の反響がすごかった…。
Posted at 2020/03/29 18:26:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年03月28日 イイね!

豊田市久木町の石アーチ橋と中畑峠切通し

今日は、午後から豊田市久木町に残る旧飯田街道の石アーチ橋へと行ってきました。

石アーチ橋の近くに車を駐車する適当な場所が無かったので、600mほど離れた豊田市新盛町の新盛小学校西交差点横の余地へ停めました。


こちらは駐車した車の先に見えていたお寺で、大鷲院(だいじゅういん)といいます。


お寺の山門には、山岡鉄舟(幕末の江戸城無血開城に功績があった人。他にもいろいろと逸話がある方のようです。)が揮毫した「正法」という額が掲げられています。




寄り道はここまでにして、豊田市久木町にある国道153号と旧道との分岐点へとやって来ました。


旧道には赤茶色に錆びたガードレールが残っています。石アーチ橋はガードレールの下にあります。


しかし、川へと下りられる場所に門が付けられていたので(以前は無かった。動物除けのものですね…。)、仕方なく大きく迂回して川の中を歩いてきました。




旧飯田街道の石アーチ橋です。名称は不明です。足助(現豊田市足助町)から稲橋(現豊田市稲武町)までの旧飯田街道の改修工事が行われたのが1895年(明治28年)から1898年(明治31年)にかけてなので、同時期に架橋されたものと思われます。


ちなみに、この橋のことは足助町誌には記述がありませんでした。石アーチ橋はこの地域ではほとんど見かけることがないので、当時は大変珍しいものだと思うのですが…。

同じ愛知県内で新城市内に残る旧伊那街道の石アーチ橋を掲載していた愛知県教育委員会編「愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」や土木学会出版の「日本の近代土木遺産ー現存する重要な土木構造物2800選」にも掲載されていません。

垂れ下がる枯れ枝が邪魔だったので取っ払ってみましたが、あまり変わりませんでした。剪定ばさみが必要ですね(笑)。


ちょっとわかりにくいですが、アーチ環の部分には盾状迫石が用いられています。


実際のところ、橋というよりは石積みの暗渠です。湿気で石の表面には苔が生えています。


形状が半円形なので、側壁部分は低くなっています。


石アーチはあくまでも旧飯田街道の部分だけで、現在の国道153号が通過している部分はコルゲート管になっています。


石材の表面は、びしゃん仕上げにされています。


この川幅なら普通の木製桁橋でも十分な気もしますが、石アーチで造られたおかげで開通当初のままの姿が残ったとも言えるでしょう。


こうして眺めていると、やはりアーチの上の低木や雑草を刈り払いたくなりますね。きれいになるし、保存のためにも良いはず。勝手にやってしまうと不審者ですが(笑)。


川から上がって(もう大回りは面倒だったので、門を通らせてもらいました。)、足助側の合流地点に出てきました。


次にやって来たのは、合流地点のすぐ近くにある中畑峠の切通しです。


この切通しは、前後の状況からするとあまり峠を越えるというイメージがありません。最近、足助町誌を読むまで、ここが名前の付いた峠ということも知りませんでした。

元々、旧飯田街道のうち、足助の街から豊田市平沢町までの区間は、現在の愛知県道366号のルートを通っていました。

そして、旧飯田街道を車道(馬車や荷車が通行できる道)に改修する計画が持ち上がった際に、狭い谷の山腹を通っていた旧ルートよりも、現在の国道153号ルートの方が谷が広くて平坦地を確保しやすい(車道は道幅が必要なので。)とのことで、1895年(明治28年)から1898年(明治31年)にかけての改修工事の際に街道のルートが変更されました(変更した区間は、当時の村名から「大和線」と呼ばれた。)。

このルート変更の際に難関であったのが、ここ中畑峠の切通し建設だったわけです。

事前にトンネル掘削と比較検討されたようですが、トンネルが掘削された伊勢神峠と違って、中畑峠は切通しとされました。おそらくトンネルを掘削する必要があるほど中畑峠の山塊は厚くはないと判断されたのでしょう。

愛知県は切通しの建設工事を地元の村(新たな街道ルート「大和線」の沿線となる村々でしょう。)へ割り当てました。工費の地元負担もあり、県費が8割で、村費が2割だったそうです。

地元の村々は村請工事として1895年(明治28年)に着手しましたが、伊世賀美隧道がそうであったように、この峠も地質が悪くて工事が難航。計画の3分の1しか進んでいなかった時点で工事予算が尽きてしまったそうです。やむなく1896年(明治29年)11月から愛知県の直営施工へと変更し、1898年(明治31年)に無事竣工しました。

切通しの斜面に付いている道を登っていきます。切通しを見回してみると道路面から山の尾根までけっこうな高さがあることがわかります。




おそらく、これという技術やノウハウもなく人海戦術で工事に当たったのだと思いますが(愛知県技師の監督はあったでしょうが。)、山間の村々が寄り集まってこの山を掘り下げていくのは大変な労苦だったでしょう。

切通しができる前の峠道の名残りと思われる道があったので辿ってみました(ルート的にはおかしくない。)。


写真の真ん中辺りを横切っていきます。


足助側は墓地で道が途絶えていましたが、そうでなければ山肌に沿って国道153号へと出られたでしょう。

ついでなので、切通しの反対側の斜面にも登ってみました。高い擁壁の中腹まで登りますが、国道とけっこうな高低差があります。手すりが付いていなかったら登らなかったでしょう(笑)。


こちらも山肌に沿って徒歩道が付いていて、こちらは国道まで出ることができます(面倒だったので下りませんでしたが(笑)。)。

山腹から見下ろした「お食事処花の木」の看板とトレードマークのニワトリの像。ここは通るたびに車がたくさん停まっているんですよね。


今回、切通しを歩いてみたのは何か当時の遺構が残っていたからではなく、ただ歩いて現場を確認してみたかったというだけです。

しかしながら、明治時代の旧飯田街道の改修工事については、相当な規模の工事だったはずですが、改修記念碑(またはそれに類似した碑など。)があるということを全然見聞きしません。起終点の足助か稲武か、工事のハイライトであった伊勢神峠にでも建っていそうなものですが…。それでなくとも、普通、伊世賀美隧道くらいには隧道開通記念碑があったっておかしくない。

なぜでしょうかね?当時の愛知県庁はそのようなものを設置する習慣がなかったのでしょうか?自画自賛しても良い出来事だと思うんですけどね。
Posted at 2020/03/28 22:28:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年03月22日 イイね!

京都 高台寺と清水寺ほかを巡ってきました

今日は、姉・弟と私の3人で京都へと出かけてきました。元々、弟が京都鉄道博物館へ行きたいと言い出し、せっかくなので家族4人で一緒に出かけて京都市内の観光地も少し巡ろうかと予定をしていましたが、博物館が新型コロナウィルス流行により休館となったため、観光地巡りだけをすることになりました。

ちなみに母は「天気が悪そうだから止める。」ということで留守番になりました(結果的には天気はもったのですがね(笑)。)。

取りあえず、清水寺へ行くことにして自宅を出発。近場で駐車場が見つからないのを嫌い、清水寺からはやや離れたコインパーキングへ車を駐車。そこから清水寺へと向かいましたが、高台寺の前を通るということで、まずは高台寺へ向かうことになりました。

高台寺表門。境内側(実際にはもはや境内ではなく、門と参道の一部だけがお寺から離れてこの場所に残っています。)からの写真です。


京都霊山護国神社の鳥居の前を通っていきます。


法観寺八坂の塔。五重塔です。


高台寺へと来たつもりだったのですが、最初に入り込んだのは霊山観音でした。「何か入口があるなぁ。」と拝観券を購入して入ってみたら、関係ない寺院でした(笑)。


入口でもらったパンフレットによると高台寺はお隣のようです。

あらためて高台寺へとやって来ました。


「何か変わった建物があるぞ。」と撮ったもの。大雲院の祇園閣という建物だそうです。


ここからは高台寺の境内の写真を載せていきます。

遺芳庵。


方丈前庭。催しのためと思いますが五色の色で線を描いていて、珍しい光景です。




開山堂。


臥龍廊。


霊屋(たまや)。修復されたばかりのようで、色鮮やかな外観になっていました。


傘亭。




時雨亭。珍しい2階建ての茶室です。




境内の小さな竹林。


最後に勅使門です。


この後、近所にある掌美術館で高台寺所蔵の品物を見物しました。

一旦、高台寺の下の道を大雲院まで進み、ここで引き返して清水寺へと向かいます。


月真院。幕末に御陵衛士が屯所を構えていた所。


京都霊山護国神社の参道から清水寺へと向かう坂道を歩いていきます。二寧坂、産寧坂、清水坂と進んでいくうちに、人混みがどんどん濃くなっていきます。自分たちもそうですが、「不急不要の外出は控えましょう。」という言葉はどこへやら…。

二寧坂(二年坂)。




産寧坂(三年坂)。




清水坂。


清水寺に着きました。広場になったので人がまばらに感じますが、大勢の観光客・参拝客がいます。


仁王門。


西門。


三重塔。


轟門(中門)。


本堂。


本堂から奥之院を眺めています。


舞台です。


う~ん、さすが高いですね。


舞台の上にいては本堂と舞台は見えないので、さらに奥之院まで進みます。

奥之院の舞台から眺めた本堂と舞台です。




三重塔と堂宇。


奥之院からぐるりと回り、音羽の瀧へと来ました。滝へ向かう人で行列ができています。


真下から見上げた舞台。高さが強調されるアングルです。


轟門の下の高い石垣。


清水寺見物を終えて、産寧坂を高台寺方面へと戻っていきます。


スターバックスコーヒーも景観を損なわないような造り。パッと見では気が付きません。


次は、姉が「祇園へ行きたい。」とのことで、車には戻らずに高台寺の下の道を北へと進んでいきます。

八坂神社の境内を通り抜けて、




祇園の交差点に出てきました。




花見小路通を歩いていきます。四条通のアーケードの混雑ぶりに比べて、閑散としています。




姉に「脇道の方がいい雰囲気だぞ。」と何度か声を掛けましたが、疲れてきたのかそこまではいいという感じでした。

最後に訪れたのは建仁寺。と言っても境内を素通りしただけでした。




建仁寺の南にあった煉瓦塀。長手積みで凝ったものではありませんでしたが、古そうなものです。


我が家は奈良に比べると京都へはあんまり出かけることがないので、本当に久しぶりな京都観光でした。帰宅してから母に「どうだった?」と聞かれたので、写真を見せながらどこを回ったのかを話しましたが、残念がっていましたね。

「京都は新名神で1時間半ちょっとで行けるから、行きたい所を決めてくれればいつでも連れていけるよ。」と言ったら、「今はコロナが怖いから、治まってきたらお願いするわ。」とのことでした。
Posted at 2020/03/22 21:25:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2020年03月20日 イイね!

中馬街道(飯田街道)地蔵峠道を歩いてきました

今日は、豊田市野入町から豊田市夏焼町に残る中馬街道地蔵峠道を歩いてきました。中馬街道は、国道153号の前身にあたる街道で、伊奈街道や飯田街道とも呼ばれます。

その地蔵峠へ行く前に、以前に行った豊田市大野瀬町の前橋の近くへ行き、石仏を撮ってきました。






そこからUターンして、国道153号地蔵峠の西側にある旧道へ。峠の近くに広い路肩や駐車帯が無かったので、ここに車を停めることにします。


国道153号の地蔵峠です。


峠を飯田方面へと越えた先に右へと分岐する旧国道があり、そこに中馬街道の地蔵峠への入口があります。


入口にある説明板。明治15年(1882年)と同26年(1893年)に峠の改修工事が行われて、峠道が約7m掘り下げられたとあります。


峠道に入るとすぐに峠の石仏が見えてきます。ちなみに先へ進むには右側を進むことになります。


峠の石仏です。




馬頭観世音菩薩碑。右側面には「文政二卯天(1819年)十二月三日」、左側面には「信州 松嶋村 施主 上田 市川 敬白」と彫られています。


お地蔵様。来歴は不明らしいです。あと、ここの峠の名前の直接の由来のお地蔵様であるのかも不明です。お顔が大きいですね。カッパ代わりにビニールシートを纏っています。


観音像。説明板によると四国三十三観音霊場(と説明板にあったが、西国三十三の誤りか。)の巡礼から無事帰宅した記念に建立したもので、元禄16年(1703年)8月18日の銘があるそうです。


今はこんな感じで国道を見下ろしています(ちょっと見づらいですが。)。


峠道を夏焼町側へと進んでいきます。


地形をU字型に掘り込んで道が付けてあると「古道だなぁ。」と感じます。


沢に架かるパイプ2本。左側の鉄管はこの先の峠道にもついてきます。


2つ目の沢。


2つ目の沢の先で道が細くなっています。


多分、土砂が峠道を埋めてしまったままになっているのだと思います。人が通れる分だけ掘り込んで通れるようにしてあるのでしょう。


太い倒木。事実上、廃道みたいなものですから、この程度は気にしません。


3つ目の沢。


ここで右側から来る道と合流します。ここは左側へと進みます。右側の道は帰りに通ってみるつもりです。


合流した所から道幅が広がりますが、水が流れているのでぬかるんでいます。




林の中の開けた場所に石碑が立っています。


「三界」と彫られています。その下は「萬」?さらに下は土に埋もれてわかりません。


帰宅してから調べてみたら「三界萬霊塔」というものらしいです。「三界」は「欲界・色界・無色界」のことで、この世のあらゆる精霊を供養するためのものだそうです。旅先で亡くなった方(地元の方からは無縁の方)を供養するために建てられることもあるそうです。街道の脇のこの場所に建っているのはそういう理由かもしれません。

この辺りは国道のすぐ横に道があります。目の前の国道は何回通ったかわからないくらいですが、今まで全然気が付きませんでした。


4つ目の沢。ここはしっかりとした橋が架かっています。


5つ目の沢。コンクリートの枠にドラム缶が据えてありましたが、水場を拵えたものでしょうか。






切通しに来ました。真ん中を電話線が通っています。国道沿いではなく、旧街道沿いに通っているということは、この電話線は開通当時からルートを付け替えていないということでしょう。


ここの切通しには傍らに案内標識が立っています。


切通しを抜けると、一見、道が二股に分かれたように見えますが、正解は右側です。ここで鉄管は峠道と離れていきます。


道がはっきりしない場所を通り抜けると、


杉木立の中に一直線の道が現れます。


また二股が現れますが、ここも右です。こういう曖昧な場面には案内標識がないので、困ってしまいます。


ふたたび一直線の尾根道になります。




左へUターンするような分岐に案内標識がありますので、ここは左へと曲がっていきます。


が、せっかくなので尾根道を行き止まりまで行ってみました。かつて国道沿いの売店があった場所に出ました。


分岐点まで戻ってきました。この方角からは右側へと進んでいきます。


坂を下っていくと民家がある場所へと出てきました。




橋には動物除けの金網があるので、通り抜ける時はきちんと閉めておきます。


ここは右へ。


すぐ次の角で案内標識は左を指していますが、その先はどう見ても民家です。ほかに道が無いか探してみましたが、案内標識通りに行くしかないようです。


取りあえず、気配を伺いつつ中へと進んでいきます。

家の前まで入ったところで、ちょうど家の方(おばあさん)が姿を見せました。ちょっと驚いている様子でしたが、「ここは通り抜けてもいいんですか?」と尋ねたところ、「いいも何もここは赤線だから好きに通ってもらえばいいよ。」とのことでした。

「赤線」という言葉を人の口から聞いたのは初めてでしたが、何を指すのかはわかっていたので、「そうなんですね。ありがとうございます。」と返事ができました。「赤線」は、土地の公図における表示の一種で、里道(道路法上の道路に認定されていない道のこと。)を指します。要するには「公道だから(私道じゃないから)好きに通っていいよ。」と言われたわけです。

そのまま通り抜けようと思ったわけですが、結局、この後おばあさんと30分ほど立ち話をすることになりました(笑)。

おばあさん(86歳)から聞いた話。
・この家は昔は庄屋だった。
・(ここから)下にある国道153号線ができるまではここを牛や馬がよく通っていた(自動車が一般家庭にまで普及する以前の話か、昭和40年代に国道153号が対面二車線化された頃までの話でしょうか。遅くとも戦前には現在の国道153号のルートへと峠道は付け替えられている様子。ただし、徒歩なら国道を歩くよりも旧街道を歩いた方が峠越えは短距離で済む。)。
・牛や馬が亡くなった場所に馬頭観音が立っている。近くにも馬頭観音が5つ立っている所がある(どこにあるかはわからなかった。帰宅してから調べたら、旧街道からはやや離れた場所にあるらしい。)。
・昔は、野入(地蔵峠の東側の集落。)の人は、稲橋(稲武町の中心街。今いる場所からは西側。)までこの道で学校に通っていた。帰り道は暗い中を帰っていたよ(野入に分校はあったが5年生からは稲橋まで通っていたみたい。野入から稲橋までは今の国道だと片道4~5kmほど。旧街道ならもう少し短いかも。)。
・城ケ山(近くにある889mの山)には戦時中は監視哨があって、飛んでくるB29を双眼鏡で監視していたよ。私も双眼鏡を覗かせてもらったことがある。
・「どこに住んでるの?」と聞かれて、「安城市です。」と答えたら、「安城七夕まつりを見に行ったことがあるよ。60年前だけどね(笑)。」と言われた。
・熊や猪は見ないけど、猿や鹿は多いね。畑で玉ねぎを300個植えたけど、その内の100個を玉が小さい内に食べられたよ。それも一口だけ食べて、畑に捨てていくんだから腹が立つよね。

まだこの旧街道がかろうじて現役だった頃を知っている人に話を聞けたのは面白かったです。私、見知らぬ人に自分から話しかけることはまずしないですからね。

おばあさんの家を過ぎ、「うちと二軒家だった。」という更地になったお隣さんの敷地の横も抜けていきます。


なぜかこんな案内板が。


こんがらがった倒木を通り抜けると、すぐに案内標識。分かれ道があるわけではないですが。




沢を渡り、


峠道を追っていきます。




ここで何気に左側を見上げたら、その先に案内標識が!


「分かれ道なんてなかったぞ!」と思いつつ、引き返していきます。

怪しい所まで戻ってきました。私は右側の窪地を進んでいったのですが、どうも直進が正しいようです。


しかし、明瞭な踏み跡が全然無い…。


案内標識から来た方向を見ても、やはり道があるようには見えない…。


釈然としませんが、こちらに案内標識が向いていて、おかしな点がないのならば進むのみです。


※後で右側の窪地も辿ってみたら、案内板にある道をショートカットするようなルートで同じ場所に出ました。道幅も広く(今は薮に覆われていますが。)、元々はこれが峠道だったのかもしれません。

小さな流れに沿って歩いていくと、


明るい場所へと近づいてきました。


ふたたび民家がある所へと出てきたようです。


振り返ってみます。ここにも動物除けの扉が付いているので閉め忘れないようにします。


ここは直進。


ここを右折すると、


国道153号へと出てきました。ドライブで通りががる時によく見る「中馬街道 地蔵峠」の看板です。


ここにも馬頭観世音菩薩碑と石仏がありました。


さらに横には大きな石碑が立っています。


大正時代に建てられた漢文の石碑でしたが、明治時代になってから山林の開発をして地元が潤ったというようなことが刻まれているみたいです。


さて、歩き始めた頃は雨がぱらつく天気でしたが、すっかり晴れ渡りました。ただ、日も陰ってきたので急いで峠へと戻っていきます。




ここは、行きの時は右側の道でやって来た場所です。帰りは直進していきます。


この道は、地蔵峠が改修で掘り下げられた時に新しく付け替えられた道だと思われます。




古そうな石積みの擁壁が残っています。


沢を横切る所に暗渠がありました。


石積みでできていますが、中を覗き込んでみたら天井板はコンクリート製のようです。ただ、表面にしわが付いていたり砂利が目立つので、相当古そうではあります。


現在の峠の直前で国道153号に合流しました。


そこから少し下って、旧道に停めてある車へと戻ってきました。


今回は3時間20分ほど。立ち話をしたり、ここには書いていませんが、峠道から分かれていった鉄管を追いかけてみたりしましたからね(これという成果はなかった…。)。

あとは、今回通った地蔵峠の峠道が、明治26年の改修以降、いつ峠道の下側を通る現在の国道ルートへ変遷したのかも知りたいですね。図書館で「稲武町史」を読めばわかるのかな。

※安城市の図書館には「稲武町史」は置いていなかった…。インターネットで閲覧できた地形図(明治41年(1908年)測図昭和8年(1933年)要部修正測図)では、すでに稲橋~野入間は現国道ルートで記載されていました。昭和8年の要部修正の対象でなければ、明治41年以前には付け替えられたと推測できます。
Posted at 2020/03/20 23:36:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年03月18日 イイね!

旧宮崎街道明見坂を歩いてきました

今日は土曜日出勤の振替休日でお休み。母を岡崎市内の所用先へ送り届けたその足で旧宮崎街道明見坂へとやって来ました。戸倉峠の明治車道を歩いて、「久しぶりに近所(と言っても自宅から約30km。)の明治車道でも歩くか。」という気分になったので出かけてきた次第です。これで訪問は6回目ですけどね(笑)。

最寄りとなるいつもの路肩に駐車。


明見坂はこの県道37号の旧道にあたります。


これから右側の崖の上へと登っていくことになります。今は川沿いに2車線道路で難なく通過している場所ですが、昔々は急斜面が直接川へと落ち込む地形で道を通すのもままならなかったのでしょう。


明見坂への入口へとやって来ました。




ここの入口には小さな道標が立っています。

正面は「すぐ ほんぐう乃?」。


右側面は「願主 西尾 須田町 萬? 万屋?」。


左側面は「明見坂 登三町」。


願主に「西尾 須田町」とあるのは西尾市須田町のことと思われます。「ほんぐう~」とあるのは、三河国一ノ宮である砥鹿神社の奥宮がある本宮山をさしているのは間違いないでしょう。

道標に年号が無いので、設置されたのがいつなのかは全然わかりませんが、「明見坂 登三町」とあるので、峠を登っていた明治末期までには設置されたはずです(ちなみに、検索でヒットした「額田町のあゆみ(歴史年表)」には「1907年(明治40年)に明見坂改修」とあり、おそらくこの年に現在の川沿いの道が開通したと思われます。)。

それでは、道跡へと入っていきます。いつ来ても入口だけは薮が邪魔していますね。


まあ、10mほど歩けば薮は抜けてしまいます。


こんな廃道に太いゴムパイプが横たわっています。理由は後ほどわかります(推測ですが。)。


道跡の分岐点です。二股の右へと向かうのが明治車道である新の明見坂、左へと向かうのが明治車道ができる以前の旧の明見坂です。


この分岐点の路肩は石垣で補強されています。


そのまま新の明見坂を進んでいきます。






落石防止ネットが掛かっている所には高く石垣が積まれています。


この道跡では一番大きな落石です。2014年2月訪問時にはありませんでしたが、2017年7月訪問時にはありました。


山側の岩を削り取り、谷側には石垣を積んで道幅を確保しています。県道から地図読みで標高差70mほどを登るだけの峠道ですが、落ち込むような急斜面に道を切り開いていくのは相当難易度の高い工事だったでしょう。






この辺りの路肩も高く石垣が積まれています。当然ですが、石垣を積んである部分は地面が無かったわけで、足場とかどうやって組んでいたんでしょうかね。






県道の落石防止ネットのワイヤーに挟まれた石。なぜ石を挟んだままネットを設置してしまったのか…。


このカーブでひとまず急峻な地形から離れます。


この道の石垣に使われている石は「片麻岩」のようです。整形加工に適さない石なのか、いかにも割ったままの状態で積み上げています。それでも目立って崩れた個所がないというのが凄いことです。この周辺の寺院や神社、民家の石垣にも同じ石がよく使われています。


峠までの区間で唯一大きく崩れている所。地形が緩くなったのに崩れている不思議。


奥に切り通しの入口が見えてきました。


右側を向くと石碑が立っています。


「宮崎街道之碑」。いわゆる開通記念碑です。


小さな文字でびっしりと整然かつ丁寧に彫られています。


碑文を写真に撮って書き起こしてみました。漢文かつ旧字体(当然ですが。)で彫られていますが、大まかな意味は読み取れると思います。


「宮崎街道之碑」

額田郡東北多山其竒而嶮者可以十數崛起騰躍蜿蜒北□□□□□□□
數里是以若宮﨑村則少旱魃之患然而運輸不得其便商旅苦於□□□□
不免也夙本郡六道改修之議興焉而懸崖絶谷不可勝數也其最者有明□
田原之峻嶮改修之事亦甚不易矣雖然沿道之諸村自投其私錢且盡心力
徐徐循序既尤五道之成功宮﨑街道則其一也宮﨑街道者自宮﨑西達于
岡﨑北達于作手故又稱作手街道其分支數條一支自龜穴達于赤坂一支
自中金經大代達于千兩一支自龜穴達于千万町改修之路程合算之則殆
將十餘里而况有明見之嶮田原之峻乎以明治二十四年一月起工至二十
五年一月成夫其為役■大矣費額金三千五百餘圓亦可謂大矣此役也當
計畫勉勵従事者郡吏田中菊造也山本源吉河合和助等甞為村長能辨地
形因督此事以告成其勞又可紀也頃者村人相謀將鐫其功■石屬文於余
余日明見田原之峻嶮昔時群雄割■之際以為要害之地今則不然郡縣之
制洪恩浹洽四海一家冝夷其嶮阨以闢車馬絡繹之路且若宮﨑則出良材
製芳茗運輸不得其便則安得■其利凡土地之貧冨盛衰未甞不基于道路
往来之便與■便古人曰架橋梁修道路者仁之最大者也此役葢可謂得古
人之深■也矣
 明治二十五年十一月上澣
   愛知縣額田郡長従七位針谷重懋撰併題額  奥平鐵門書
                       岡﨑 嶺田久七鐫


□:欠損
■:当該漢字が私のパソコンで検索不能かつ現代で該当する漢字がわからない

碑文の中ほどに、明治24年(1891年)1月に起工して明治25年(1892年)1月に完成、工事費用は3,500余円とあります。

裏面は以下の関係者の氏名が彫られています。

「建設発起者□□」

村長、役場員3名、道路改修委員6名、村会議員10名、賛成者19名、特別□1名


石碑と切り通し。


切り通しを通り抜けていきます。周辺の山の中で尾根が薄くなっている地点を狙って掘り下げてあります。






切り通しは、長年の風化により相当埋まっていると思われます。本来はこの写真くらいの道幅はあったでしょう。


ここからは薮が濃くなってきます。日が当たる側が薮が少なくて、日陰側が薮が濃いのはなぜでしょう?


まだ春先ですし、今のところは背の高い笹だけなので、押し広げて通り抜けていけます。




道跡はここで下を通る舗装道に切り取られてしまい終了です。


ここから道路には降りられないので少し登り直し、坂の途中で分岐する道跡へと入ります。この道自体も薮がひどいですが、気にせずどんどん進んでいきます。

真ん中に建つ白い標識の右側から道路へと出てきました。通ってきた道跡は、旧の明見坂からの道の一部ではないかと想像しています。


ということで、これから旧の明見坂へと向かいます。出てすぐ左側の坂道を登っていきます。


でっかい檻があります。熊でも捕まえられそうです(笑)。


坂の頂上、峠に来ました。左側は岡崎市の明見配水場です。


ここを通り抜けます。


そして、左に曲がると旧の明見坂の道跡が始まります。


道跡を辿る目印は黒いゴムパイプ。これは多分配水場からの送水管なのでしょう。


坂を下ります。


右へとヘアピンカーブ。


その先の路肩には石垣があります。


下から峠を見上げます。石垣の角度から急坂であるのがわかります。


パイプを辿って進みます。


小さな切り通しのヘアピンカーブ。


ここにもちょったした石垣。


パイプもカーブを描いて下っていきます。


新の明見坂との分岐点に着きました。


県道37号へと戻ってきました。


車に戻る前に横を流れる男川(おとがわ)の堰堤へ立ち寄りました。何年か前までは堰堤の上段側が格好の水遊び場で夏は賑わっていましたが、真横の駐車場(空き地?)が閉鎖されたためか、今では誰も来なくなりました。




今回も明見坂は大きな崩れもなく、そのままひっそりと残っていました。距離は短いですが、これだけ遺構がしっかり残っている明治車道の廃道(しかも街から近くて、来歴がわかる開通記念碑付き。)は愛知県内ではあまり無いと思うのですが、インターネットで見かけることがほとんどないですね。「まあ、あまり知られてもねぇ…。」という気持ちもあるので、見つけた人だけ楽しんでくださいねといったところですか。

※2020年9月3日追記
何気にネットを検索していたところ、ヤフオクに「宮崎尋常高等小学校 明見坂道路改修実況」という題名の絵葉書が出品されていて、そこには現在の男川沿いの道路(現在の愛知県道37号)を開削する風景の写真が載せられていました。

説明文には、「明見坂ハ宮崎村ノ關門二當リ險峻ヲ極ム 明治四十年十月之レガ改修二着手シ翌年五月竣工セリ 幅員二間延長九百八十七間工費金壱万八百圓餘」とあり、額田町誌などではわからなかった明見坂区間の現県道ルートの明確な建設時期が判明しました。
Posted at 2020/03/18 23:19:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧宮崎街道明見坂 | 日記

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