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小林あにのブログ一覧

2020年03月15日 イイね!

鳥取・兵庫県境 戸倉峠の明治車道を歩きました

2020年3月14日土曜日。戸倉峠の中腹に残る戦時中の未成隧道を探索し、未成隧道から連なる道路跡を歩いて、明治時代に開削された車道跡に出てきました。


ここからは、まず戸倉峠方面へ明治車道を追えるだけ追っていきます。

戸倉峠方面の道跡と路肩の石積み擁壁。


峠から下っていく方向の道跡と路肩の石積み擁壁。路肩は崩落していて擁壁も崩れています。




それでは峠方面へと進んでいきます。


すぐにヘアピンカーブがあります。2つ目のカーブは切り通しになっています。




山側に低い石積み擁壁。


沢を渡る部分は多くの石で路面が荒れています。


ここも山側に石積み擁壁があります。


崩落場所を通過。足元に注意しながら横断していきます。


同じ崩落場所を帰りに撮ったものです。


葉が落ちた木々の間を歩いていきます。例年であればまだ雪に閉ざされているはずです。




また沢渡りです。沢の部分の擁壁は崩れてしまっていますが、奥の方は残っています。




沢を抜けたらふたたび崩落個所。


踏み跡が付いていて、踏み締めてみた感じでは歩いていけそうではありました。


しかし、礫と土が混ざっていて崩れやすそうなこと、手前側10mくらいは谷側の斜面も崩落していて木々が無く、万一踏み外したら一気に滑落してしまうこと。ということで、ここは無理はせず引き返すことにしました。一番の理由は、下を見て「ダメだな。」と思ったことですかね。

そして、この辺りから今まで降り続いていた雨にみぞれが混じるようになってきました。


とっとことっとこと足早に歩いて、最初の分岐点まで戻ってきました。




今度はここから下っていく道跡を追っていくことにします。


山の斜面が急なためか石積みの擁壁が多い道です。




これは先ほど通った峠へ向かう道跡の石積み擁壁。


この程度の場所は難なく通過です。


ヘアピンカーブを下っていきます、


先に見える道跡にも立派な石積み擁壁が。


手前の沢には何本かの丸太が残っています。おそらくは丸太に横板を掛けて上に土を盛る「土橋」だったのでしょう。


廃道としての良い景色が続きます。これはもう引き返すに引き返せない…。危ないパターンではあります(笑)。この戸倉峠の車道が開削されたのが1883年(明治16年)から1885年(明治18年)にかけてのことらしいですが、1885年からとしても135年前。本当に鮮明に残っています。








ここも路肩に高い石積み擁壁があります。そしてこの道跡で初めて見るまとまった残雪。


小さな滝が連なる沢です。


沢の先にはまだまだ道跡が続いていますが、手前の沢を渡れるのか…。


谷側はけっこう深く抉れていますが、山側は渡れないことはないレベル。ここにも丸太が並んで落ちています。




また先へと進んでしまいます。


この後も崩落個所が現れますが、峠側で引き返した崩落を思えば全く支障なし。




今までの中で一番大きな石積み橋台です。


橋台から少し先の川べりまで、峠道が川に浸食されないように擁壁が続いています。


峠側の橋台を見ます。


しばらく川沿いを歩いたあとは、また木々の中へ。






開けたところに出たら道跡が削られています。真下に接近してきた旧国道の法面工事の際に削られたのでしょう。


また少し木々の間を通り抜けると、




旧国道の真上に出ました。現道(ここは旧道ですが。)の高い擁壁に路面を削られて道跡が消滅というのはよくあることですが、ここまで下ってくるとそれは非常に困ります…(戻るほうが面倒…。)。




「高巻きして迂回か…。」とも考えましたが、幸い、人が通れるくらいの幅が残されていたのでそのまま進むことができました。




旧国道の連続ヘアピン区間が見下ろせます。こういう道路線形も戸倉峠を難所にさせていました(新戸倉トンネルに入る前にもヘアピン区間が残っていますが。)。


最後の細道区間を通り抜けて、


旧国道につながる作業道へと出ました。これで安全に車まで戻れます。


標高の高いところは真っ白になっています。


旧国道に合流です。ここから車まではまだ遠いですが、二車線の舗装道路を独占して歩いていけると思えばこれも良い体験です。




はるかに見える戸倉峠もすっかり真っ白になってしまいました。


旧国道になってから24年ちょっと。路肩に立派な木が生えるようになりました(笑)。しかし、根っこはどこに這っているのか…。アスファルトを割って地面に潜っているのかな(いちいち確認はしていません(笑)。)。


S字カーブを望遠で撮ってみたら雪(みぞれっぽい)が雨のように写ってしまいました。


ヘアピンやきついカーブの所には背の低い中央分離帯が設けられています。センターオーバー防止なのか、ドリフト防止なのか。


二桁国道ではあまり見かけない30km/h制限の表示。


やっと車に戻ってきました。ここを出発してから2時間、旧国道に合流してから13分でした。車にはうっすらとみぞれが積もっていました。


これだけ山深く急峻な所(戸倉峠の標高は891m。)にある明治車道で道幅も軽トラサイズ以上あるというのは、当時の鳥取県令(今の県知事)が県議会の反対を押し切って建設しただけのことはあります(強行したのは、明治政府の有力者である山縣有朋の意向を県令が受けていたことが非常に大きいみたいです。)。

当時としては戸倉峠越えの若桜街道よりも、現在、鳥取道や智頭急行線が越えている志戸坂峠越えの智頭往来の方が栄えていたそうですが、戸倉峠は政府や有力者の意向を受けて、自動車の往来が出来なくても二桁国道(戦前は国道20号、戦後は国道29号)に指定され続け、戦後にようやくトンネルも開通しましたが、現在はふたたび志戸坂峠にその地位を奪われたというわけです(今の志戸坂峠は通過ポイントでしかありませんが。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※5万分の1地形図「大屋市場」:明治31年(1898年)測図・昭和7年(1932年)要部修正測図


※5万分の1地形図「坂根」:明治31年(1898年)測図・昭和7年(1932年)要部修正測図

私は歴史も街道も好きなので、こういう歴史背景がわかると廃道歩きもより楽しめるというものです。

さて、昼御飯も食べず、どんどん気温が下がる中(最終的に新戸倉トンネルの温度計で0℃でした。)、みぞれに濡れて歩いていたわけですが、帰り道の中国道安富PAでようやく昼御飯にあり付きました。

「ホルモン焼きうどん定食」熱々の鉄皿に辛めのホルモン入りの焼きうどん。「やっと生きた心地がしてきた…。」と、したたかに汗をかきつついただきました。
Posted at 2020/03/15 21:09:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年03月15日 イイね!

鳥取・兵庫県境 戸倉峠の未成隧道へ行ってきました

2020年3月14日土曜日。最初に鳥取市の「旧美歎水源地水道施設」を訪れた後、国道29号で次なる目的地である鳥取・兵庫県境にある戸倉峠を目指します。

現在の峠のトンネルである新戸倉トンネルの脇から旧国道へと進入。行き止まりとなる戸倉隧道へとやって来ました。


今回の目的地ではないですが、こちら旧国道29号戸倉隧道。開通は1955年(昭和30年)8月で延長は742m。このトンネルが開通するまで戸倉峠は自動車の往来ができなかったようです。


他の方が撮影したこのトンネルの写真を見ると、坑口はコンクリート壁と金網により封鎖されていました。侵入する者が跡を絶たなかったためなのか、現在はシャッターによる封鎖へと造り替えられてしまったようです。


こちらは扁額。


このトンネルは昭和30年代開通のため、現在の車両の規格に対してトンネル断面が小さく、特に大型車両の通行に支障をきたしていました。そのため、新トンネルの建設、トンネル前後の道路線形の改良及びトンネル付近の冬期通行の改善を目的とした道路改良が実施され、1995年(平成7年)に現在の国道トンネルである新戸倉トンネル(延長:1730m)が開通しました。

さて、前置きはこれくらいにして、本来の目的地へと向かうことにします。まずは戸倉隧道左側にある沢を登っていきます。


尖った石がたくさん転がる歩きにくい沢を登っていくと砂防ダムにたどり着きます。


砂防ダムの脇を抜けると次に現れるのはボロボロの暗渠。




内部もボロボロです。


暗渠の上もコンクリートが露出しています。


山側を見上げると切通しのように抉れた場所が見えます。これ、実は沢を横切る未成道路の築堤でした。本来は暗渠を流れるべき沢の水流により削れてしまったそうです。そのために暗渠構築物も露出してしまった訳です。


斜面中に転がる小石に手こずりながらも、かつての道路跡まで登ります。暗渠から見上げて右側の平場へと上がりました。


ここからは、道路跡を右側方向へと進んでいきます。


50mくらい進むと目的地が呆けなく姿を現しました。


トンネル手前が泥地となっているので、はまらないようにやや迂回して坑口へと近づきます。


正式な名称はわかりませんが、戦時中の1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)10月まで、姫路と鳥取を結ぶ軍事用道路が必要との陸軍の要請により、内務省直轄で戸倉峠に建設されていたトンネルの跡です。


トンネルに入る前に、道跡のような平場がトンネル前を横切ってさらに続いているので、先に辿っておきます。


50mほどで途切れてしまいました。多分、トンネルから出るズリを捨てる場所だったのでしょう。


トンネルまで戻ってきました。陸軍の要請により緊急的に建設されたという事情のためか、坑門は築かれていません




トンネル内へと入ります。なかなか大きなサイズです。先ほど、戸倉隧道が開通するまで自動車の往来ができなかったと書きましたが、このトンネルは当然陸軍の軍用車両が通行できる規格で造られているでしょう。ひとまず、坑口からの眺めでは特に変わった雰囲気はありません。


しかし、奥へと少し進むとすぐ異様な光景が認識できます。トンネルの下半分に岩が突出しているのです。


アーチ部分はすでにコンクリートで覆工されています。


要するに、トンネルの下半分を掘り下げている最中に工事が中断されてしまったわけです。


岩盤を支えていた木の支保工がそのまま残されています。


支保工が絡み合って先へと進めないので、岩の削り残しの上へと上がり、奥へと進んでいきます。




もはや腐った廃材と化した支保工がトンネル中に折り重なっています。今までに見たことがない光景です。


コンクリート覆工の作業で使われた型枠の板が積まれています。


私が歩いている側にもたくさんの材木が積まれていますが、今までの訪問者さん達のおかげで踏みならされており、足元に注意しておけば支障はありません。


今度はアーチ部分に段差が見えてきました。


型枠が外されないままになっています。かけらがくっついているのはみたことがありますが、こんな状態のものは初めて見ます。


ここの真下も支保工で埋め尽くされています。今までになく心の動揺を誘う廃トンネルです…。


そして、唐突にトンネルですらなくなりました…。


振り返って見た光景。坑口からはそんなには入り込んでいません。


覆工が途切れた先は、ただの洞窟にしか見えません。


このトンネル、導坑(トンネルを掘削する際に最初に掘る小さな断面のトンネル。ここからさらに周囲へと掘り拡げていく。)は貫通したそうですが(現在は閉塞したらしい。)、計画通りの断面まで出来上がったのがここまで(それでも3分の2は上半分だけ。)ということ。

この先も奥へと入り込んでいった人がそれなりにいるわけですが、私はここで引き返すことにしました。これ、「ちょっと廃トンネルを覗きに来ました。」という格好で入り込む雰囲気じゃないですから…。


ここの天井に輪切りの大根(いえ、木ですね(笑)。)が突き刺さっていました。照明でも吊っていたんでしょうか。


こうして見ると、どういう状態で覆工されているのかわかります。建設途中のトンネルがどういうものかを見るには最適な場所ではありますね(快適ではまったくありませんが…。)。


一匹で寂しく冬眠中のコウモリさん。


坑口に向かって戻っていきます。






コンクリート覆工した側壁の末端部。




ようやく外へと戻ってきました。短いながらも重苦しい雰囲気の廃トンネルでした。




暗渠のある沢まで戻り、その先へと進んでみることにします。


いきなり路面が崩落してますが山側へ迂回すれば大丈夫。


ふたたび道路跡へと出て、


戸倉峠に残る明治時代に開削された車道跡に出てきました。ガレ場の先と左側の木を巻くように下っていくのが明治車道になります。


続いては、この明治車道を追えるだけ追っていきます。
Posted at 2020/03/15 13:39:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年03月15日 イイね!

鳥取市「旧美歎水源地水道施設」へ行ってきました

2020年3月14日土曜日、あいにくの雨天でしたが、鳥取市の国指定重要文化財「旧美歎水源地水道施設」へと行ってきました。出かけることにしたきっかけは、13日金曜日に何気に見ていたYouTubeで目に留まったから。ただそれだけです(笑)。

自宅を出発したのが早朝4時。出発した時点ではまだ雨は降っていませんでしたが、三重県に入る頃から降り出してきました。


伊勢湾岸道→新名神→名神→新名神→中国道→鳥取道の経路で鳥取市へ。

現地に到着したのは10時頃。




この建物は、「量水器室」。昭和初期の建築で鉄筋コンクリート造。煉瓦に見える部分は装飾タイルです。施設の中では一番下流に建っていて、水源地から送り出す水量を計る役目があったそうです。


さて、本来はこの施設、11月から3月までは休業していて、屋外施設のみ自由に見学できるのですが、砂防関係者の見学があるということでたまたま施設の方(地元のボランティアの人みたいです。)が来ていて、私もパンフレットをいただくことができました。こういうのがあるとブログを書く時に助かるんですよね(笑)。

それでは、施設内へと向かいます。


入口に架かる「事務所前人道橋」。1930年(昭和5年)の架橋。橋脚に使われている鋼材は水道管を転用したものだそうです。


橋には浄水場から上水を送り出すための送水管が併設されています。送水管の取り付け部分が煉瓦巻き。


門と門柱。左右に塀があったのかは、パンフレットの古写真ではわかりませんでした。


五号濾過池と付属の「制水井上屋」。1929年(昭和4年)竣工。「制水井」は、濾過池で浄化した水の送水を調整する井戸のようです。


建物の中には調整のためのバルブがあります。


五号濾過池は昭和に入ってからの建造ながら、濾過池の側壁は煉瓦積みで造られています。






側壁から突き出ているパイプ。濾過池への給水用なのか水位が上がり過ぎた時のための排水管なのか、用途はわかりません。


池底にも落ち葉で埋もれてパイプがあります。これは給水用でしょう。


こちらは、四号濾過池付属の「制水井上屋」。1915年(大正4年)竣工。一号から四号までの濾過池が設置当初からのものになります。


こちらは隣に建っている「接合井上屋」。同じく1915年(大正4年)竣工。「接合井」は、各濾過池からの上水を集めて下流へと送り出す施設だそうです。


外観はモルタル仕上げですが、内部は煉瓦造となっています。御前崎灯台はこのような造りでしたね。








四号濾過池に戻ります。先ほどの五号濾過池と違い、側壁が傾斜しています。




池底にある給水設備?は、パイプではなく円筒形に煉瓦を積んだ造りです。




三号濾過池と「制水井上屋」。こちらは池に水が張られています。






二号濾過池の「制水井上屋」。




古い水道施設の建屋は、ギリシャ・ローマ建築風の装飾が施されていることが多い気がします。


一号濾過池と「制水井上屋」。








濾過池の遠景です。


この辺りで、作業服姿の男性に「どこから見えたんですか?」と声をかけられ、「愛知県ですよ。」と返事をしたら、ちょっとビックリされました。その方は、この水道施設の復元・修復工事に業者として携わっていたそうで、工事終了後は来ることは無かったそうですが、たまたま通りがかって立ち寄ったのだそうです。

男性:「ここの工事は5年もかかって本当に大変だったよ。それに工事を始めた時は雑草に覆われていて、マムシもいっぱい出てね(笑)。」
私:「建設当時の時代の材料や部品がなかなか集められなくて、相当苦労したというのは読んだことがありますよ。」
男性:「本当にねぇ(笑)。それでもこうやって遠くから見に来てくれるんだから、うれしいよね。写真たくさん撮っていってよね。」

こんな会話をして立ち去られました。

こちらは上流側に架かる橋、「岩ケ平人道橋」。1926年(大正15年)竣工。


橋から見えていますが、もう少し上流へと歩いていくと貯水池の堰堤があります。


1922年(大正11年)竣工。堤長103m、堤高19.5mで重力式コンクリート造だそうです。表面はごらんのとおり石が貼られています。




水道施設ができた当時は土堰堤だったそうですが、1918年(大正7年)に台風で決壊、下流の美歎集落に大きな被害をもたらしたそうです。パンフレットの古写真を見ると、基礎部分までゴッソリと抉り取られています。その後、1922年(大正11年)に現在の堰堤を再建したということです。

これは今で言うなら副ダムですかね。


堤頂部です。


水位調節用のバルブでしょうか。


そして、わたくし的に一番興味を引いたのがこれ。


土堰堤時代の旧取水塔だそうです。決壊後を撮影した古写真にも載っています。


底からだと高さ何mくらいあるんでしょうかね、巨大な煉瓦の塔。ぜひ間近で見てみたいものですが、貯水池の真ん中では今後も無理でしょう…。




最後に堰堤の貯水池側。


貯水池から戻ってくると、門扉は閉めら、中を覗けた建屋も施錠されていました。施設の方は見学者の案内が終わって帰ってしまったようで、乗ってきた軽トラもありませんでした。




思い付きで片道360km走ってきましたが、普段見ることのない水道施設というこで、外の施設だけでしたがなかなか興味深いものでした。偶然にも工事関係者の方の話が聞けたのも良かったです。


鳥取市内での見物はここまでにして、せっかく鳥取県まで足を伸ばしたので、もう1か所、「同業者」にはよく知られる場所へと移動します。
Posted at 2020/03/15 09:51:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2020年03月11日 イイね!

TGRラリーチャレンジin八ヶ岳茅野も中止になりました

2020年度TGRラリーチャレンジの第2戦として4月19日に開催予定だった八ヶ岳茅野戦も、新型コロナウィルス流行の影響により中止となりました…。最近の状況だとどうなるかと思っていましたが、ある意味想定どおりの展開となってしまいました。

予定だと次は5月24日の恐竜勝山戦。難易度の高いラリーが開幕戦になりそうです…。開幕2戦が中止になったことによるドライバーやすい氏の参戦予定修正案は、恐竜勝山→吉野ヶ里→高岡万葉→渋川伊香保→須坂峰の原→富士山すそののようです。

吉野ヶ里は佐賀県なので、私は参戦が微妙かなぁ。何にしてもまだまだ予断を許さない状況です。

Posted at 2020/03/11 20:32:30 | コメント(1) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2020年03月08日 イイね!

旧伊勢本街道(明治新道) 深霧隧道から旧国道369号栂坂峠まで

今日も昨日に続いて、奈良県宇陀市に残る明治時代に建設された旧伊勢本街道の新道跡である廃道を探索してきました。

昨日3月7日土曜日は、深霧隧道の西側坑口まで行ったところで同行していた母の要望もあり引き返しました。時刻も15時近くで、ろくな道も無い尾根を越えてそれ以上奥地へと進んでいくことは確かに難しいところでした。

ということで、本日雨天ではありますが片道約160kmを二日連続運転し(笑)、今回は一人で現地へとやって来ました。


今回の主目的は深霧隧道の東側坑口の状況確認と、その先の廃道が旧国道369号栂坂峠(峠付近の旧国道も旧伊勢本街道の明治新道由来らしい。)までつながっているのか踏破して確認します。

せっかくなので、煉瓦造暗渠がある地点の写真と暗渠の写真を。








昨日撮っていなかった三差路の写真。ここは左折が旧伊勢本街道です。


深霧隧道の西側坑口へとやって来ました。


トンネルの上に見えている尾根の鞍部まで斜面を登っていきます。


尾根から深霧隧道の東側坑口付近を見下ろしています。


ここから谷底の廃道まで下りるのが大変でした。周囲は急斜面ばかりの上、雨で斜面の土がぬかるんでいて、ちょっと気を抜くと滑り落ちていきそうな感じ。少し下りては周りを見渡してルートを探すということを繰り返していたので、10分くらいかかりました。

深霧隧道の東側坑口の全景です。ご覧のとおり完全に埋没していました。


少し近づいての写真。左側の木の根元に石があります。


加工された石材です。土留めの一部でしょう。


坑口跡と思われる崩落場所へと近づきます。ここにも石積みがあります。


一部しか見えませんが、きれいに積まれています。これはトンネルの翼壁かもしれません。


おそらくは、この写真の真ん中部分にトンネルの坑口があったのでしょう。


これは右側に移動してから撮りました。


推測ですが、トンネル坑口上部の斜面が地滑りを起こして、坑口を埋めてしまったのだと思われます。もし掘り返せることができれば、坑門が一部は残っているかもしれません。

それでは、ここから栂坂峠の旧国道を目指して廃道を辿っていきます。


ところが、間もない所にある沢と交差する地点で途絶えてしまいました。対岸に廃道が続いているので橋が架かっていたのかもしれませんが、橋台は残っていません。


深い沢なので少し引き返し、やや下流にある作業道を使って対岸に残る廃道へと戻ってきました。


谷側の路肩に煉瓦構造物がないかを確認しながら歩いていきます。

また沢に当たりました。ここも橋台がありません。上流側に迂回する道が付いていたので、これは作業道としての橋の跡かもしれません。


切り通しを通り抜けたところで、作業道として使われていた形跡はなくなりました。道の真ん中に植林されています。廃道の本番です。




次の沢で、ようやく石積み橋台を見つけました。


沢の中から。


振り返って。


この先、やや幅の狭い道跡が続きます。




ふたたび道幅が広がりました。小さな落石が見受けられます。


川に近づいたところで道が河原へと急に下っています。本来は写真右側へと道があったようです。


対岸に渡り、本来の渡河地点を撮りました。川に向かってカーブしてくる道形が見て取れます。


ここからは林道として使われているようです。


谷側に石積み擁壁を見つけました。


この直線の先で三差路になり、左折すると橋を渡り、旧国道へと出ることができます。






さて、昔の街道も同じ地点で川を渡り、栂坂峠へと向かっていたのでしょうか?私は新しい橋というのは古い橋とはやや違う場所に架けるものだと思っているので(違う場所に架けないと工事の間は川を渡れないですから。もちろん、他の理由もあるでしょうけどね。)、もう少し真っ直ぐ進んでみます。


川を眺めながら歩くこと100mくらいでしょうか。川べりに石垣が見えました。


石垣のある所まで小さな土手があるように見えます。


川へ入ってみると同じ場所の両側に石垣。ここに橋が架かっていたようです。


一部崩れていますが、石積み橋台ですね。


このアングルから見るとよくわかります。川に向かって土手をせり出してから石積み橋台を据えてあります。


川を渡った先は倒木が多くて道跡がはっきりしませんでした(写真は林道側から撮ったもの。)。


栂坂峠への旧国道に旧伊勢本街道がつながっていたことがわかったので、橋を渡り旧国道へと出ます。ひとまず目的は達せられましたが、トンネルから東側で煉瓦造暗渠を発見できなかったのは残念でした。




探索が終わったので車へと戻るわけですが、ここから車へと戻る方法としては、1.廃道を戻る。2.旧国道を通って戻る。の2通りです。単純に歩く距離を考えると廃道を戻ったほうが近いです。しかし、雨でドロドロになっている深霧隧道の急斜面の尾根をもう一度上り下りするのは相当厳しい。

ということで、明らかに遠回りではありますが、旧国道を通って戻ることにしました。


国道369号バイパスの石楠花トンネル・栂坂トンネルの間に来ました。


「ここからバイパスのトンネルを通れば少しは近いじゃないか!」と思い立ったところ、幸いバイパスへと上がる階段があったので登っていきました。


ところが、橋梁部分を見ると歩道がない。ということは、歩行者は通行できない可能性が高い…。トンネル内も幅の狭い段差しか設置されていない。

仕方がないので、旧国道へと戻ります…。

旧国道と奈良県道28号の交差点に着きました。帰り道の距離の3分の1を過ぎたところですかね。




ここからは写真も撮らず(撮るようなものも無いので。)、ただ黙々と歩いていきます。

だいぶ車へと近づいた地点、真上の廃道にある煉瓦造暗渠を撮ってみました。




やっと車へと戻ってきました。


ボリュームはありましたが約2時間半の行程。想像していたよりも短い時間で巡ることができました。深霧隧道を中心にすれば半径ほぼ1kmの範囲内での行動でしたからね。それでもけっこうくたびれました。傘に当たる雨音を聞きながら誰も通らない旧国道を歩いている時は、疲れとちょっとした満足感で少しハイな気分になってました(笑)。
Posted at 2020/03/08 22:10:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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