今日は、以前から気にしていた新城市能登瀬と名越の間にある古道の峠「ねぶき峠」を歩いてみようと思い、出かけてきました。
「ねぶき峠」へ行く前に1か所寄り道。新城市名号にある国道151号月見橋の廃道です。
現道は宇連川と支流の奥山川の合流地点直前に橋を架けて直線で通過していますが、かつては橋の手前で右に曲がっていました。
廃道自体は大きく左カーブを描いています(飯田方面を向いた場合。)。右手側は岩が露出した崖になっており、崩落が多かったと思われます。
この廃道にはスリップ注意の標識が残っています。
草食べてますけどね(笑)。
廃道自体は200~300m程度と短く、すぐに国道へと戻ります。
国道に廃道がつながる直前に橋が残っています。橋というよりは、ボックスカルバートでしょうか。
橋には親柱が残っていますが、銘板は全て外れて(外されて?)いました。
あと、この廃道は、スリップ注意の標識の位置や、橋の親柱や欄干が頭頂部しか見えないことからみて、路面を土砂で埋めてしまってあるようです。
国道へ出てきた所から駐車場所を眺めてます。直線だと100mくらいです。
さて、少し新城寄りにある駐車帯へと移動して車を停めて、本題である「ねぶき峠」へと徒歩で向かいます。
国道151号と名越の集落を通る旧道との分岐点です。
路肩に見覚えのある形をした石碑を見つけました。
道路元標ですね。大正時代の道路法により道路の始終点を表示するために各市町村に設置された標石です。私の住む安城市にも残っています。
「七郷村」とあります。七郷村は1906年(明治39年)から1956年(昭和31年)までこの地域に存在した村です。
道路元標は、設置当時の市町村の役場付近や中心街などに設置されているケースが多いので、どうしてこんな村はずれの路肩に立っているのかと思いましたが、帰宅してから当時の設置場所の住所を調べたところ(道路元標の現存確認や各種データを公表している方々がいるので。)、昔からこの辺りにあったようです(当時の設置場所の字名と現在の設置場所の字名が同一。)。
つづいて道路元標のすぐ先に現れたのは、四国八十八カ所巡礼を模した石仏群。
令和元年にここへ移動してきたようですが(移動工事の協力者一覧が掲出されていたのでわかりました。)、元々どこにあったのかまでは記載されていませんでした。
のんびりとした山村風景の中を歩いていきます。
名越の集落を抜けて、「ねぶき峠」の入口にやって来ました。
峠への入口に石仏があります。古くからの峠道だと感じさせるものです。
今いる名越の集落とこれから峠を越えて向かう能登瀬の集落の間にある「嶮曲がり」と呼ばれた宇連川沿いの崖地の難所を開削して、現在の国道ルートの道ができたのが明治16年(1883年)頃だそうです。この道は、豊橋と北設楽郡東栄町を結ぶ新街道(名称は別所街道。)の一部として整備されたものでした。
まあ、そこから考えれば、明治16年頃までは難所の「嶮曲がり」を避けて「ねぶき峠」を越えるこの峠道がメインルートだったわけです。
というわけで、古道らしい雰囲気を味わいたくてやって来たわけですが、どうもすっかり林業用の作業道に改修されてしまったようです。この真新しいコンクリート舗装…。
2年ほど前にこの峠を訪れた方が撮った写真では、やや幅は広いながらも普通の山道だったのですが…。
とにかく、ほぼ一直線で急坂を登り(これは昔から変わらないようです。)、「ねぶき峠」に到着しました。入り口の石仏から10分ほどです。切通しの右側が見事に抉り取られています…。
切通しの左側は往時のまま。峠の石仏たちが鎮座しています。
ここの石仏に「石切地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがあります。本体が割れている左から一体目か二体目の石仏のことだと思いますが、特に説明はありません。
これについては、「昔、修行中の武士が「ねぶき峠」を通りがかった際、急な雨のために峠のお堂で一夜を過ごす羽目になり、お堂で寝ていたところ、夜中に怪物が現れたので切り付けたが姿が無かった。朝になり、お堂の中を見回すと、2つに切り裂かれた石地蔵が転がっていた。」というような昔話があるそうです(相当端折っていますが。)。
ここからは下り坂になりますが、この先の峠道も作業道と化してしまい、結局、古道らしいところは全然残っていませんでした…。
峠道の能登瀬側は、平成25年度(2013年度)に改修されてしまったようです。
ちょっとほっこり、防火の看板。
ここからは古い林道のようで、道の雰囲気も柔らかくなってきました。
小さな切通し。
ここに石仏が一体、安置されていました。
石仏の光背の文字は摩滅して読めませんでしたが、台座には「道中安全」と彫られていました。
この切通しを抜けたら能登瀬の集落へと出ました。
そのまま真っ直ぐ進むと国道151号に合流。湯谷園地の前でした。
ここから国道151号を新城方面へと歩いていきます。
国道と旧道の分岐点が現れました。
この分岐点にあるのが「能登瀬の大銀杏」。すごい形をしていますが、江戸時代後期に落雷に遭っているそうです。
特に目立つものも見当たらずに旧道を通過。「ゆーゆーありいな」の出入り口で引き返しました。
旧道沿いの小屋に置かれていた鬼瓦。「學」の文字が入っているので学校で使われていたものかもしれません。
「能登瀬の大銀杏」の下にある石仏たち。
今度は「能登瀬の大銀杏」からやや戻ったところにある分岐を右斜めに入っていきます。現道から斜めに分かれていく道は旧道であることが多いので、歩いてみる価値はあります。
しばらく歩いていくと路肩に大きな石碑がありました。説明板があり、「舟井戸と名号碑」とあります。
石碑には「南無阿弥陀仏」と彫られています。石碑の右隣に湧き水があり、これを舟井戸と呼ぶようです。あと、説明板には「この泉の前の名越方面へ通ずる旧道…」とあり、国道から分かれて歩いてきた道が「ねぶき峠」への旧道であることもわかりました。
桜が満開というか散り始めですかね。
小さな橋に来ました。橋名は「宇頭橋」とあります。
この橋の先の右側にある石垣の下に小さな道標がありました。
「左 村」「右 川合」「道」と読み取れます。それ以外は何も刻まれておらず、いつ置かれたものか見当が付きませんが、「ねぶき峠」の方向である右側に「川合」(おそらくJR飯田線三河川合駅のある集落。)とあるので、別所街道が宇連川沿いに開通した明治16年頃よりも前のものかもしれません。
帰りも峠を通るので、右側へと入り込みます。こういう道に慣れていないとちょっとためらわれる光景ですね(笑)。
短い坂を上がると、行きに通った石仏がある小さな切通しの前に出ました。
帰りも石仏を眺め、
急坂を休み休み上り、
急坂を一気に下って、
名越の集落へと戻ってきました。能登瀬側の小さな切通しからここまで25分くらいで峠を越えてきました。
このまま車には戻らず、名越の集落内の旧道を新城側へと歩いてみます。
「愛知県民の森」へ向かう道に出たので、右折して橋を渡って宇連川の対岸へ行こうとしました。が、橋の下流側に古い橋の橋脚を発見。渡るのを止めて、近くへ下りられる場所を探します。
宇連川の橋のたもとにある神社の境内を抜けて川に近づいたところ、現橋の下に道跡がありました。
コンクリート製の橋脚。このマッシブな感じは戦前架橋のものでしょうか。現橋の名称が宮下橋なので、おそらく旧橋も同じ名前でしょう。
橋台へとつながる築堤。石積み擁壁で覆われています。幅は軽トラサイズでしょうか。
河原からの眺め。現橋よりも低い所に架かっています。この高さだと、橋を渡ってすぐにJR飯田線の踏切も渡り、ようやく対岸に出るかたちだったでしょう。
さらに旧橋の築堤の下流側には土に埋もれていますが水辺へと向かう階段があります。
先端には段差が付けられているので、板などを掛け渡すタイプの橋があったのでしょう。旧橋以前のものかもしれません。
橋への道跡は現橋の下で無くなってしまいます。
その先、神社付近をどのように道が通っていたのかはわかりませんでした。現橋をくぐった先にある神社の境内には道が通っていた雰囲気は無いので、現橋とルートが重なっているのかもしれません。
今回は、短い廃道、古道の峠道(作業道でしたが…。)、旧道歩き、廃橋とバラエティに富んだ行程でした。予定していた以上に歩き回りましたが、これでも2時間40分くらい。休日の散策としてはちょうどいいくらいですかね。