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小林あにのブログ一覧

2020年05月30日 イイね!

東栄町振草~花丸峠~東栄町月の古道を歩く

2020年5月30日土曜日、北設楽郡東栄町大字振草字下粟代から花丸峠を越えて同じく東栄町大字月字枇杷沢に至る区間の古道を歩いてきました。あわせて、花丸峠から振草方面へと下る「ふりくさ道(海老街道)」の峠道も歩きました。

今回歩いてきた大字振草から花丸峠を越えて大字月に至る古道は、1934年(昭和9年)に設楽町田口の東側にある堤石峠に自動車が通行できる堤石隧道が開通するまで、設楽町田口と東栄町本郷という奥三河の街同士を結んでいた里道でした。そういう意味では、この道もまた国道473号の前身と言えます。

図中の赤色・緑色の線が歩いた区間になります。赤色の線が田口~本郷を結ぶ古道、緑色の線は「ふりくさ道(海老街道)」になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

歩いた区間のうち、花丸峠から東側の区間は先週歩いた廃道と並行する形になりますが、標高はさらに高い地点を通過しています。また、先週歩いた廃道と違い、花丸峠を越える前後の区間の全線が今も地形図に記載されています。

東栄町大字振草字下粟代へとやって来ました。古道の入口から近い路肩に車を停めておきます。


右側の林道のような道が古道になります。


林道と変わらない道を進んでいきます。


ちょっとした広場に出ますが、そのまま奥へと進んでいきます。


広場までの道には、軽トラとおぼしき轍が付いていたりしましたが、広場を過ぎた先の道は轍も無くなり、廃道らしくなってきました。


岩や石が露出して少し荒々しくなってきました。


車が通行できないほど道幅も狭くなってきます。


谷筋の反対側に大きな石積み擁壁が見えてきました。


この石積み擁壁の区間へ入る前に、容量が少なくなったカメラの電池を交換。当然、じっと立ったまま交換していましたが、その隙にヤマビルが1匹長靴にちゃっかりとくっついていました。

さっそく塩水を噴射。キュ~と体を縮めたところを枯れ枝で払って取り除きました。「やはり立ち止まっているとダメか…。」と電池を交換する間、円を描くようにグルグルと歩き続けていました(笑)。

まあ結局のところ、今回の道中でヤマビルが現れたのはここだけでした。

気を取り直して先へと進みます。






苔むした道。踏んだ感触は「グニュグニュ」とした感じ。


道が荒れてきました。




そして、ついに道が埋もれてしまいました(これは事前にわかっていました。)。かすかに踏み跡が付いていたので、そこを通って越えます。


道はすぐに復活しました。


花丸峠に到着です。車から25分でした。峠の名前によるものか、かつて交通の要衝だったためか、自動車をまったく寄せ付けない峠ながら、訪れる人がままあるようです。自転車を担いでやって来る方々もいるようです。


この峠には石碑かあるので、さっそく確認してみます(いろいろあるようですが、確認してみたのは切通しに建っていた2つだけ。)。

端正な形の石碑です。彫られている文字は「祖方良意禅男位」でしょうか?禅とあるので、禅宗に帰依していた方の供養塔(立地からみてお墓ではないでしょう。)なのでしょうか?


右側面は「明治三十(か「三一」)年 六月五〇」(1897年か1898年)。


左側面は、「富山縣富山市稲荷町」と住所があり、


さらに「本名 茲原佐七事 ○○○○ 豊崎佐七 ○○四十一歳」とあります。


「茲」で正当なのかはわかりませんが、本名ともう一つ名前を持っていたのはどういう理由なのでしょうか?それから、なぜ富山市の方の供養塔?が奥三河の峠に建っているのか?この峠で亡くなられたのでしょうか?疑問は尽きません…。

もう一つの石碑。南無阿弥陀仏碑です。「南無阿弥陀仏」の文字の左右に「左は 粟代 右は 月」とありますので、道標でもあったわけです。


右側面には「元禄十三年」とあります。これは西暦1700年にあたりますので、320年前からこの峠に建っていて、行き交う人々を眺めていたのでしょう。


こちらは、設楽町大字神田へと下っていく「ふりくさ道(海老街道)」。さらにこの先、仏坂峠を越えて、現在の新城市海老に出て伊那街道と合流。新城、豊橋へとつながっていきます。


石垣に囲まれた平場。かつての峠の茶屋の跡らしいです。二つの街道が交わる峠ですから、往時は賑わっていたのでしょう。


それでは、東栄町大字月への古道をさらに進んでいきます。




峠からしばらくは、このような穏やかな道が続きます。


まあ、倒木が多いですが…。


こちらの道にも石積み擁壁が現れました。


また倒木が続きます。跨いだり潜ったりと面倒この上ないです…。




ここは何気に厄介な場所です。傾斜した硬い地面に小石が散らばっているので、注意しないと滑って落ちてしまいます。


いよいよ険しい地形へと踏み込んでいきます。










ここは、背丈よりも低い位置まで木々が覆いかぶさっていたり、路上に薮があるので、中腰でかき分けながら進みます。路盤がしっかりしているのは幸いです。




先週通った廃道ほど鋭くはないですが、こちらもなかなか峻険な道です。








開けた場所へと出てきました。


遮るものが無くなり、良い眺めです。日射しはきついですが、乾いた風が当たり心地よいです。


はるか眼下を通る国道473号。高低差は地図読みで170m程あります。法面に設置されている落石防護ネットの上端に、先週通った廃道があるはずです。


写真の中央部に谷底を流れる御殿川が小さく写っています。


視界が開けていたのはここだけ。

ふたたび急傾斜地の林の中を黙々と歩いていきます。








山の上までビッシリと石で埋まっています。なんか怖いですね。


道幅が広くなりました。ようやく林道に改修された区間へ出てきたようです。


状況確認のため、もうしばらく進んでみます。


完全に林道然となってしまいました。興ざめしてきたので、花丸峠へと引き返すことにします。


帰りの道中の写真。








花丸峠まで戻ってきました。


帰り道は、花丸峠から粟代・振草へと向かう「ふりくさ道(海老街道)」を下っていきます。この道は、愛知県道424号でもあります。


斜面を左右に大きく移動しながら下っていきます。今の峠道を見ると、最盛期の明治・大正期には一日に二百頭ほどの荷馬が行き来していた街道とは思えません。


振草村誌によると、1921年(大正10年)に東栄町本郷の別所街道与良木峠の直下に本郷隧道が開通したことで、振草から海老の間に花丸峠と仏坂峠の2つの峠が存在するふりくさ道(海老街道)ルートは運送業者から敬遠されてしまい、次第に寂れていきました。


それでも、鉄道の終点が豊川鉄道(現在のJR飯田線)大海駅だった頃は、別所街道沿いの人々が鉄道を利用するために峠を通行していたそうですが、それも1923年(大正12年)に鳳来寺鉄道(これも現在のJR飯田線)がさらに奥地の三河川合駅まで開通したことで、人の流れも別所街道に向かうことになり、完全に廃れてしまったそうです。

道の先に大穴が開いてしまっていますが、直前で左方向に向かう細い迂回路があります。


大した高低差はありませんが、S字カーブで勾配を少しでも緩やかにしています。荷馬の通行に配慮したものでしょうか。


沢を渡って直進します。


地面をU字型に掘った道があります。これも勾配を緩やかにする手段ですね。


石碑がありました。「一観良〇禅門」とあります。これも供養塔でしょうか?文政三年(1820年)の年号が彫られています。


こんな感じで路傍に立っていました。


川沿いの道に合流します。


分岐地点はこんな感じ。花丸峠への道は左側になります。


川沿いを進んでいきます。


対岸には石垣に囲まれた平場が段々になって続いています。かつては家でも建っていたのでしょうか。


町道との合流地点に着きました。この先も「ふりくさ道(海老街道)」は川沿いに進み、振草で別所街道(現国道151号)へと合流します。


橋を渡ってすぐにの所に車両通行止めの標識が立っています。


橋の名前は「花丸下橋」。花丸峠の下の橋ということですかね。


橋を渡って直進する道が県道ですが、パッと見には右側の道の方がよっぽど県道らしいです。


車へと戻ってきました。花丸下橋から30分ほど(道沿いの滝へちょっと寄り道していたので(笑)。)、全行程3時間半ほどでした。


今回の古道もなかなか良い道でした。先週歩いた廃道に比べて目立った危険箇所もなく、山歩きに慣れている方なら手頃な廃道ハイキングができそうです。ただ、ヤマビル嫌いの方は冬に来たほうがいいですね(笑)。
Posted at 2020/05/30 23:45:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年05月24日 イイね!

設楽町神田~東栄町月の廃道を歩く(2)

2020年5月24日日曜日、本日は北設楽郡設楽町神田と東栄町月の間に残る廃道を歩いてきました。現在、現地を通る国道473号の前身となる道になりますかね。

さて、車道区間が終了し、道路改良工事の標石を越えて、さらに奥へと進んでいきます。


現在の場所は青丸印になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

普通の山道(徒歩道)になってしまいました。戦前の地形図には「荷車ヲ通セサル部」の道路表記がされていたので、当然と言えます。


と思いきや、路肩に石積み擁壁が現れました。ということは、この道は単に斜面を削り込んで造っただけの山道ではなく、狭いながらも(幅2mくらい)それなりに資金と資材と労働力を掛けて整備された「道路」であった可能性が高くなりました。この先の展開にちょっと期待が持てそうです。




間もなくして切通しが現れました。地形図では、県道424号はここから切通しの左側上方にある花丸峠に向かって一直線に登っていきます(切通し付近に道案内らしきものは全くありません。)。よって、この先が廃道となるわけです。




ちなみに、確認できたブログなどでは、やはりここから左側の斜面を直登して、花丸峠を目指すことが主な目的になっていて、この切通しの先にある廃道については誰も言及していませんでした。

さて、切通しを抜けたところで、困ったことに道跡がわからなくなってしまいました。正面へ向かうのか、右側にある沢筋に沿って下っていくのか…。


しばらくこの辺りを右往左往しつつ確認してみたところ、右側の沢筋に沿って下っていくのが正解でした。


別の小さな沢筋に突き当たったら、今度は右へと針路を取ります。


ここからは、やや広くなった沢筋の左岸をしばらく下っていくことになります。沢筋の横を通るため道は荒れて苔むしていますが、道筋はわかります。




さて、沢沿いで湿っぽくなってきたこの辺りからヤマビルが現れ始めました。ふと長靴やジーパンを見ると1、2匹知らぬ間に貼り付いている感じ(その後、国道へ出るまで断続的に現れる。)。

花丸峠周辺の山にヤマビルが生息していることはわかっていたので、あらかじめ濃い塩水を作って、小さなスプレーボトルに入れて持参していました。貼り付いているのを見つけるたびに塩水を吹き付けましたが、これがなかなか効果があり、ヤマビルはのたうち回っていました(さすがにポロッと剥がれ落ちることはなかったです。)。

ここから沢筋を徐々に離れていきます。




沢筋を離れて山腹へ出てくると段々と地形が険しくなってきました。






石渠を発見。山側に流れのある沢は無く意外でした。




急傾斜地の中を石積み擁壁に支えられた道が続いています。








難所が現れました。本来は石積み擁壁でかさ上げして道を通してあったのだと思いますが、すでに道は無くなり急傾斜の岩盤が露出。その上に大量の落ち葉が積もっています。


「これはいきなりダメかな…。」と思いましたが、試しに片足で落ち葉を踏みしめてみたところ、落ち葉の下は枝か根が絡み合っているような感触で、荷重をかけても崩れたり滑ったりしません。

斜面の下側に木々のない最初の1mだけ慎重に通過すれば、あとは万一滑っても大丈夫そうだと判断して、落ち葉の上に踏み込みます。結果的には想像以上に足場がしっかりしていたので、無事に反対側へと通過することができました。

難所を渡った先から見返した写真です。こちらの写真の方が現場の状況を捉えてますね。




難所を越えたら左へカーブ。その先もまだまだ断崖絶壁に道が造られています。






岩を切り崩した切通しです。右側の岩には、真下を通る国道の法面の落石防護ネットのアンカーが打ち込まれています。


切通しから通って来た道を振り返ります。ここは道に崩れも乱れもなく整った状態をよく保っています。


これだけの高さの断崖絶壁を通る廃道を歩くのは、私としては鳥取県・兵庫県境の戸倉峠以来ですね。戸倉峠の明治期車道の廃道に比べるとスケールは小規模ですが、この場所に来るまで、まさかこんな立派な廃道が愛知県内にまだ残っているとは全く思っていませんでした。岡崎市明見町に残る廃道「旧宮崎街道明見坂」も、急斜面に石垣を駆使して通した古道ですが、また違う雰囲気があります。

この時点で予想外の光景にけっこう興奮していて、誰もいない山の中で一人笑いを堪えておりました(笑)。

岩の切通しを通り抜けていきます。




この道は一体いつ頃今残っているような道に改修されて、いつまで使われていたのでしょうか。今は市の図書館が休館中なので、こういった調べ物ができないのが残念です。




ここを歩いていて思ったのは、「この断崖絶壁区間の道路遺構だけでも保存対策してもらえるといいなぁ。」ということ。一地域の交通のために使われていた古道(里道)の難所に、これだけ立派な石造構造物を伴う遺構が残っているなんて素晴らしいと思います。

崩落地を横切っていきます。石の隙間に足が挟まることもあるので、足場を確認しながら通過します。


道幅が極端に狭い場所に出ました。正面の石垣がきれいに積まれているので、元からこの幅だったのでしょうか?


おそらく、ここも路盤が消失してしまったのでしょう。ここまでの道の造られ方からして、石積み擁壁を設置して道幅を確保していたはずです。もしくは桟橋を架けていたのかもしれません。


反対側から眺めた写真です。ここだけ狭いのはやはり不自然ですね。誰もが危険を冒さずに通ることができなければ「道路」ではありませんから。


路肩に落石防護ネットの上端が現れました。


こういう目の粗いタイプは初めて見ますね。


長い石積み擁壁の道を進みます。こういう場所は安心できます。


落石防護ネットを吊るワイヤーが廃道に立ちふさがります。下をくぐったり跨いで通過しますが、何気に体力取られるんですよね…。


眼下には国道473号。まだまだ国道との高低差は大きく開いています。


滑らかにカーブする石積み擁壁。設楽森林鉄道の廃線跡を思い起こさせます。


右側に削り残された岩がちょこんとありました。どうして残したのでしょうかね。


ようやく土の斜面が現れて傾斜が緩くなってきたと思ったら、


すぐに急傾斜面へ。


また道幅が狭くなっている場所を通過しますが、ここは普通に歩いていけます。




大きな沢に突き当たり、上流側へと歩き進めていくと石積み橋台がありました。今回歩いた区間では、唯一の石積み橋台です。


対岸にも石積み擁壁が続いています。ところどころで積み方が違っているのは、おそらく積まれた時代の違いによるものかもしれません。




沢の右岸側にある石積み橋台。沢の中に突出している割には、土石流などで破壊されることもなく綺麗に台形の形状が残っています。


この廃道中で最も高い石積み擁壁。暗渠も設けられています。路上から降りては近づけそうもなかったので、沢の中を真下まで降りてきて眺めました。


さて、対岸の道へと進んでいきます。




先ほどの暗渠がある石積み擁壁の上に来ました。


覗き込んでみると、暗渠の中は目詰まりなく貫通していました。


木々の中を通り抜ける廃道は、本当に倒木が多いです。


周りが開けてきました。これは嫌な予感…。


国道473号の法面の上に出てきてしまいました…。しかし、これだけの幅があるなら通り抜けできるかもしれません。


そう願って進んでいきましたが、残念ながら路盤は削り込まれて幅が狭くなっていました。さすがにこれを通過するのは無理です…。仕方がないので、ここで引き返すことにします。


赤線が車道区間の終点から歩いてきた推定ルート、赤丸印が現在の場所になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

延々と戻るのも大変なので橋台まで戻り、


ここから沢伝いに国道473号へと降りていきます。


国道へと出ました。この防護ネットの上端部を廃道が通っているわけですね。


国道を東栄町月方面へと歩き、次の沢でふたたび山の中へ入り込んでみます。


石積み擁壁がありました。先ほどの法面へと戻っていきます。


幹がボンレスハムみたいになってる。


法面に近づいてきました。


法面の反対側に出ました。よく見ると壁面にロープが渡してあります。しかし、どう見ても腐っていそうです。仮にワイヤーロープが掛けてあっても渡りませんけどね(笑)。


ふたたび国道へ戻り、山側を眺めながら進みますが、道跡らしき平場は見出だせません。

最後に見つけた痕跡です。何となく道跡が残っています。


おそらくはここで沢を渡った廃道は現国道ルートから外れ、山の斜面へと登っていたのだと思いますが、そのアプローチ部分は削り取られて消失してしまったのでしょう。


今回歩いた区間の最終的な推定ルート図になります。赤線のさらに先のピンク線が道跡が消失した区間、赤丸印横の緑線は国道へと下りた際のエスケープルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これで一応踏破できたので、ここから車までは国道で戻っていくことにします。狭い道ながら、けっこう車やバイクが通行するので気を遣いました。


引き返した地点から40分かかって車へと戻ってきました。車を出発してから5時間経っていました。疲れた…。


今回歩いた地区は、花丸峠を中心にしていくつかの廃道が存在しているようなので、これからもまだまだ歩き回ることになりそうです。

しかし、今回は本当に大当たりでした。まだまだ「無名の逸材」(廃道に使う言葉としては変ですが(笑)。)が眠っているんですねぇ。今の時期は木々に若葉が生い茂っているので眺望がほとんど効きませんが、冬になれば落葉して見通しが良くなりますから、どのような立地を通っているのかより実感できそうです。ということで、冬にもう一度訪れてみようと思います。
Posted at 2020/05/24 23:34:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年05月24日 イイね!

設楽町神田~東栄町月の廃道を歩く(1)

2020年5月24日日曜日、本日は北設楽郡設楽町神田と東栄町月の間に残る廃道を歩いてきました。現在、現地を通る国道473号の前身となる道になりますかね。

さて、設楽町神田(地図左側)と東栄町月(地図右側)を結ぶ現在の国道473号は、御殿川の渓谷沿いを通っています。

※地理院地図(電子国土Web)

しかし、戦前の5万分の1地形図「本郷」(明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行)によると、御殿川沿いには道路がなく、山腹を通る赤線のルートが設楽町神田と東栄町月を結ぶ道でした。


おそらく御殿川の渓谷が急峻のため川沿いに道を通せず、山腹へと迂回するルートを通っていたのだと思われます。今回はこの昔の山道を辿ってみようと思ったわけです。

ちなみに図中にある花丸峠(この廃道自体は花丸峠を通りませんが。)から西側は、自動車通行不能区間ながらも現在は愛知県道424号に指定されていますが、東側は現在の地形図からは抹消されてしまっています。ということは、東側区間は廃された道と見なされているわけで、西側区間よりも廃道色が濃厚なはずです。

県道に指定されている西側区間については、点線県道を踏破しようという目的で徒歩や自転車で通り、途中から花丸峠へと登っていく内容のブログなどがいくつかありました。

しかしながら、東側区間については、インターネットで検索してもここを踏破したというようなブログなどは見当たりませんでした。そのため、現在どんな状態であるのか何の事前情報も無いままに目指すこととなりました。

国道473号と県道424号の分岐点から東へ約700mの地点にやって来ました。道が狭くて、近くに車を停められるスペースが無かったのです…。


身支度をして、分岐点に向かい国道473号を歩いていきます(国道標識を入れたかったので、進行方向と逆を向いて撮っています。)。


県道424号との分岐点にやって来ました。もし車でやって来ていたら右へ鋭角ヘアピンターンなので、要切り返しですね(笑)。


入口には早々と幅員制限2.2mの標識が立っています。落石の直撃を受けたのか、くの字にひしゃげていますね…。


この路面の荒れ具合を見ていただければ、通行量は十分推し量れると思います。


程なく、車両通行止めの予告標識が現れました。あと600mしかありません。


標識では600m先から車両通行止めなわけですが、はるか手前で物理的に通行不能となっていました。


さらに進むと路面が完全に落ち葉に覆われてしまい、見た目では舗装道路であるのかどうかすらわからなくなります。


草に覆われた築堤区間が現れました。


ここの山側の路肩には、「L424B120←起点」というプレートを付けたデリネーターが立っています。「L424」は県道424号のことでしょうが「B120」は不明です。「起点」とあるので、この先は県道ではないということでしょうか?


ちなみに、まだ「車両通行止め」の本標識は現れていません。

ここから先は林道?廃道?然とした雰囲気になります。


路上に石がゴロゴロと転がったままです。


大きな土砂崩れも放置されたままです。山側に迂回して通り抜けられましたが。


やっと「車両通行止め」の標識が現れました。ポールに「新城」(新城設楽建設事務所)とシールが貼られていたので、一応愛知県が設置したもののようです。


今さらながらにガードレールが登場です。


路肩が崩落したためか、道幅がここだけ狭くなっています。分厚い擁壁で何とか路盤を維持している感じです。


ミニ築堤で沢を越していますが、沢を見上げるとはるか上まで石で埋め尽くされています。ちょっとした雨でも盛大に落石してきそうです…。




新しそうな崩落現場。


車両通行止め区間を歩いてみると、道幅を確保できる場所では何とか1.5車線分は取ってあり、一応、自動車道としての改良工事が続けられていたことが窺えます。


そして、自動車(が通行できそうな)道としての終端を迎えました。この苔むし方からして、工事をしなくなってから相当放置されていそうです。


現在地は青丸印になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

傍らに標石がありました。「34年施工・道路改良工事・起点」と彫られています。その通りに捉えるなら昭和34年(1959年)以降は自動車道としての改良工事は行われていないのかもしれません。


標石の先は昔ながらの山道となります。これが戦前の地形図に載っている道の本来の姿でしょう。


このあと、もうしばらく先までは、この道が国土地理院の地形図では県道になっています。

※その2へ続きます。この道の本領はここからなのです(笑)。
Posted at 2020/05/24 20:37:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年05月09日 イイね!

スタンフォード大学所蔵 戦前発行の5万分の1地形図

最近、スタンフォード大学が所蔵する戦前発行の5万分の1地形図がインターネット上で無償公開されていることを知りました。この地形図は、終戦後にアメリカ軍が接収したものに由来するそうです。ただし、津軽海峡周辺、関門海峡周辺、大阪府全域、和歌山県全域、京都府や奈良県及びその他地域の一部が欠落しています。

知ったきっかけは、たまたま古い時代の地形図を閲覧する方法について、インターネットで検索していたところヒットしたものです。公開自体は3~4年くらい前からしていたみたいで、もっと早く気付いていたらよかったなぁと感じでおります。

私の目下の趣味である廃線・廃道歩きですが、情報源は同じ趣味を持つ方々がインターネット上ですでに公開している探索記録がメインになります。他には、一時シリーズで発行された「鉄道廃線跡を歩く」(確か10冊刊行。)や「廃道本」の類い(4~5冊は刊行された。)、地元の方が執筆された街道や峠についての本も参考にします。

ただ、これらは当然、周知・既知な場所ばかりということになります。もちろん、私自身が踏み入れたことの無い場所を選んで出かけているわけで、現地を追体験したり、記載・掲載されていないことを新たに知ったり見つけたりすることもあるわけで、何ら楽しさを損ねるものではありません。

しかし、長らくこういう趣味をやっていると、ささやかなものでいいので、時には手垢の付いてない物件を自分で探し出して、こういう場所に公表したいという欲望も芽生えてくるわけです(笑)。

ここでようやく出てくるのが、今回の話の古い地形図。この地形図と現在の道路が通っている場所を比較することで、廃道がどこにあるのかが探し出しやすくなります。

例えば、現在の道路が川沿いに高く崖を削り取ったような場所を通っていた場合、かつてはその場所を迂回して、違うルートを取っていた可能性大です。そこで古い地形図と今の地形図を比較してみれば、本当にそうであるのか容易に確認することができます。

地元の愛知県内だけでも小まめに探せば、それなりの数の廃道を見つけられるでしょう。

まあ、厳密には地元の人や山歩き・街道歩きが好きな人がすでに何人も歩いてはいるけれど、その人達がたまたまインターネット等に紹介や発表をしていないだけという所も多々あるでしょうけどね。

他県へと出かけることができない昨今、せめてたまには県内の山の中の未発掘の廃道くらいは巡りたい…。とは言え、外出自粛の呼びかけはまだまだ継続されてますし、これからの季節は廃道歩きには向かないので(薮が深くなる、害虫・害獣に出会う可能性が高まる。すでにヤマビルには出会いました(笑)。)、せめて予定だけでも立てようかなと。

古い地形図、眺めているだけでも楽しいですけどね。
Posted at 2020/05/09 21:11:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 道路・廃道 | 日記
2020年05月05日 イイね!

愛知県道424号 自動車通行不能区間を歩く

2020年5月4日月曜日、北設楽郡設楽町大字神田と大字川合の間にある愛知県道424号振草三河川合停車場線の自動車通行不能区間(いわゆる「点線県道」というものですね。)を歩いてみようと思い、出かけてきました。

道中にある県道32号仏坂トンネル。1971年(昭和46年)3月の竣工で、延長は608.5mになります。






ここ仏坂峠も、トンネルが開通するまで自動車が通行できない峠でした。トンネル坑門の真上には旧街道である「ふりくさ道(海老街道)」の道跡が残されています。

仏坂トンネルから設楽町神田方面へ1.5kmほど下った所で車を停めます。


道路を挟んだ反対側に石仏がありましたのでごあいさつ。仏坂峠から神田までの「ふりくさ道(海老街道)」沿いには、西国三十三カ所霊場を模した石仏が設置されていたそうなので、関連する石仏かもしれません。


さて、何気に車を停めたこの場所。川へと向かって突出している形からして、どうも橋を架けようとした場所である感じがします。県道424号へ向かう前に、少し観察することにします。

川へと降りて眺めてみます。コンクリート擁壁で固められた短い築堤で、いかにもと言った風情です。石積みではないことから、あまり古いものではないでしょう。


対岸の斜面には何も手が加えられていません。


対岸の斜面を見上げながら少し下流へと進んでいくと、コンクリート擁壁が現れました。


全面鮮やかな緑色に苔むしています。治山工事により設置された擁壁である可能性もありますので、ひとまず上へと登ってみます。


上流側はわずかに平場が続くだけで、自然の斜面になっています。


一方、擁壁側を見ると、車が十分通行できるほどの平場があります(手前は崩れていますけど。)。


右側の岩壁は明らかに人為的に開削されていて、おそらく未成の道路だと思われます。


ほんの20~30mほど施工されているだけで、県道424号へと向かうはずの方向へ工事を進めた形跡は全くありませんでした。県道424号の自動車道として工事を始めたものの、何らかの理由により断念された名残りなのでしょうか?

それでは、本題へと進むことにします。

駐車場所からさらに下流へ100~200mほど向かうと幅の狭い橋が架かっています。歩行者しか通行できなさそうであるのに、造りは頑丈そうです。


これが県道32号と県道424号の交差点になります。いきなりこの地点から自動車通行不能区間が始まるわけです(笑)。橋のたもとには「車両通行止め」の標識も立っています(「ここから」の補助標識付き。)。

橋の名前は「田代橋」。小字の地名を取った名称のようです。一応「県道」ゆえの過剰スペックな造りなのでしょうか?


橋を渡るとすぐに未舗装の徒歩道になります(当然ですが。)。


標高約520m(国土地理院地形図による。)の峠に向かって、小さな沢沿いにグイグイと急登していきます。ちなみにスタート地点の田代橋は標高約410mなので、標高差110mといったところ。


沢頭まで来ると、今度はつづら折りの道になります。


途中にあった石積み。円形に積まれているようなので、炭焼き窯の跡かもしれません。


急斜面の杉林の中をジグザグに登り詰めていきます。運動不足のわが身には十分過ぎるほどに堪えます(笑)。




こんな山の中にビールの空き缶が。しかも2リットルサイズ(笑)。このサイズを飲みながら歩いていたか、仕事をしていた人がいたということでしょうかね(笑)。


まだまだ登っていきます。




ようやく尾根が見えてきました。


峠に到着です。田代橋から18分。思ったよりも時間はかかっていませんね。地図上では直線400~500mしか離れていません(その分、急坂なわけです。)。


峠には名称や案内の標識はありません。周辺には愛知県内でよく登山される山々が連なっていますが、この峠はそれらの山々への登山ルートや連絡ルートではないためかもしれません。古いものも含めて地形図にも峠名の記載は無く、何峠と呼ばれていたのかは今のところ不明です。

また、県道指定されているくらいですから、おそらく古くから地元で使われていた峠道だと思うのですが、峠に付きものの石仏や石碑も全然見当たりませんでした(そういう物を期待していたところもあったのでちょっと残念…。)。

せっかくなので、峠のある尾根を少し探索。

峠から左側に少し入った所に大岩が顔を出していました。こういう場所に石仏とかがちょこんと祀られていそうなものですが、何にも無し。


続いて、右側の尾根を歩いてみます。

小さなピーク。ここもペグが刺さっているだけで何もありません。


しばらく奥へと歩いていってみましたが、ペグが点々と打ち込まれた歩きやすい尾根が続くだけだったので引き返しました。

峠に戻り、設楽町川合側(宇連ダム側)へと下っていきます。


宇連ダムの上流部になる設楽町大字川合は、現在は住民がいないそうです。インターネットで見ると、廃墟マニアの方々が家屋や小学校分校の校舎が残る大字川合字宇連の集落跡を訪れているようです。

こちら側もつづら折りの道が続きます。




峠を見上げます。なかなかの急斜面。この中をジグザグと降りてきたわけです。


先が明るくなってきました。


伐採地へと出てきました。


傍らに巨岩があったので、いろいろ眺めてみましたが、特に目を引くようなものはありませんでした。


伐採でかく乱されてしまい峠道がわからなくなってしまったので、ここからは谷底の作業道を歩いていきます。


峠を振り返って見たところ。左側の谷筋に峠があります。


作業道を塞ぐように地面が掘り返されて、そのまま土砂を積んであります。侵入車両を防止するためのものでしょう。辺りには土砂に混ざっていた木の幹同士が擦れたことによるものか、焦げ臭いにおいが強く残っていました。


ようやく宇連ダム側の道路が見えてきました。


ここが宇連ダム側からの自動車道の現時点での終点となります。


細いロープと虎柵が1つ置いてあるだけなので、気付かないとそのままジャンプしてしまいそうです。まあ、そんな車はいないでしょうが(笑)。


宇連ダム側で最初に現れた橋、中山橋。平成6年(1994年)2月竣工。終点からはあまり離れていないので、26年前の時点で道路の延伸工事は中断しているということですね。




次は、中山橋から200~300mくらいの所にある平和橋。平成3年(1991年)10月竣工。




平和橋に立っている勾配標識と車両通行止め標識。




今回歩いていた区間で、標識以外に愛知県が管理していることを明示している唯一の物件。


路肩には若木が育ち始めています。これだけでもこの県道の現状がわかります。


愛林橋。1984年(昭和59年)12月竣工。ここは竣工年が西暦表示ですね。




岩佐橋。昭和56年(1981年)3月架設。和暦に戻りました。「竣工」ではなく「架設」という文言を使っています。




終点から岩佐橋までは地図読みで1km弱。これだけの距離を延伸するのに13年もかかっています。その後、さらに26年放置されているわけですが、今また大規模に伐採をしている意味は何なのでしょうか?

伐採自体は「収穫」以外の何物でもないでしょうが、終点の脇にあった工事内容の掲示板には「地形改変を伴う県道改修工事」というような名目が書いてあったと思います(写真を撮らなかったのでうろ覚えですが。)。峠越えはしないまでも、行ける所までは整備しておこうということなのでしょうかね。山林管理に治山・治水と建設理由はいくらでもありますからね。

林道との分岐点に来ました。


「林道平田線」です。一見、舗装林道に見えますが、カーブの先の路上は土砂で埋まっているようです。


伐採地に降りてからここまで、ずっと小雨が降り続いていたので、体は雨と汗でずぶ濡れです(長時間探索するつもりはなかったので、カッパも傘も持ってこなかった。)。

この先、宇連ダムのダム湖まで行ければと思っていましたが、この直線を見たところでこれ以上進むことを止めました(この後にまた峠を越えて車まで引き返さないといけないことを想像して、心が折れました(笑)。)。


伐採地の突き当たりまで戻ってきました。もしここに自動車道を通すならば、最低600~700mくらいのトンネルを掘るしかなさそうです。


トンネルができれば、設楽町の中心部から三遠南信道鳳来峡インターチェンジへと出るための連絡路にふさわしいルートになるでしょう。ただそのためには、あわせて県道32号と宇連ダム湖岸道路の大々的な改良も必要になりますが。

峠まで戻ってきました。相当息が切れています(笑)。この峠、どうして切通しにしていないのか不思議でしたが、ご覧のとおり尾根に岩脈が露出しているので、掘り下げるのが大変だったんでしょうね。


今度は下り坂です。実際には写真よりももっと薄暗くなっています。




田代橋までようやく戻ってきました。けっこう時間がかかった気がしていましたが、計算したら2時間ちょっとでした。いやぁ、いい運動になりました。




ここを訪れると決めた時、最初は峠で引き返すつもりだったんですけどね(笑)。

車に戻ってきました。


ここで長靴を履き替えようかと足元を見たら、ヤマビルが何匹もくっついていました(長靴の中で踏まれて団子状になっているものもいましたが…。)。ほとんどは指で弾き飛ばしましたが、長靴の内張りに喰い付いてなかなか剥がせないものもいたので、そういうのはティッシュペーパーでつまんで草むらへ返しました。

血を吸われていなかったのは幸いでした。吸われると何時間も血が止まりませんからね。過去に靴下を真っ赤にしたこともありますので(笑)。

さて、帰宅してから今回歩いた峠道のルートを地形図で再確認してみたところ、どうにも違和感が。徒歩道の峠道を一直線に表示していることはけっこうあることなので、その点はいいのですが、県道32号と田代橋との交差点が谷筋一つ分ずれているようです。

実際に歩いたルートは、おおむね赤線になりますね(つづら折りの部分は適当なので雰囲気だけということで。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆したもの。

地形図上の渡河地点は、おそらく車を駐車していた場所。そう、架橋予定地点ですね。ここから峠を越えて、宇連ダム側の谷底道と一直線に結んだ線を点線(徒歩道)県道として表示してあるようです。現地の実態は無視していますが、県道の計画は無視していないのかなと思いました。


ここからは、裏付けのないお話を少々。

さて、この峠は両側とも設楽町ですが、現在の主な移動手段である車で大字川合から大字神田や設楽町の中心部へ行くためには、隣の市町へと迂回していくしかありません。今の見方からすると、同じ川の流域ならともかく、峠を挟んだ集落同士がどうして一緒の町になったのか理解しがたいところです。

しかし、大字神田と大字川合が一緒の村になったのは明治22年(1889年)のこと(現在の東栄町振草までを含めた「振草村」となった。)。まだまだ徒歩で移動するのが当たり前の時代。

特に大字川合側としては、渓谷である宇連川沿いに長距離の移動を要する下流の村と一緒になるより、たとえ急峻であっても峠を越えさえすれば、より短い距離で行き来できる大字神田側と一緒になったのは当然と言えるでしょう。

もっと言えば、大字神田と旧振草村の中心であった東栄町振草も、間に峠はありますが、前述の街道「ふりくさ道(海老街道)」を介して繋がっていて、山越えの徒歩道が村内の各集落を結んで縦貫することで、当時は一つの村として十分機能できていたことが窺えます(現在は、神田と振草の間にある峠「花丸峠」も県道424号の自動車通行不能区間となってしまいましたが。)。

県道424号は1972年(昭和47年)に指定されたそうですが、車社会となった時代にどうしてわざわざこういうルートで県道指定したのかは意図を図りかねますけどね。国道151号の迂回ルートとして整備する考えでもあったのでしょうか?

安城市の図書館には旧振草村の村誌があるので、図書館が再開したら、峠名の確認も含めて読み込んでみますかね。


※追記:市の図書館が再開したので6月14日日曜日に行ってきました。

振草村誌には神田と川合の間の峠道について、

・「宇連道」:印地から高畑峠を越え、赤目沢を過ぎて宇連へ。
・「ワランボ道」:かわぶちより、かわぶち(側淵)峠を越え、ワランボに出て三輪村川合へ。

と2つ記載がありましたが、いかんせん、添付の周辺図に地名や道名、峠名の記載がなく、さてどうしたものかと書架を探してみると愛知県の峠をまとめた本を発見。

さっそく閲覧してみたところ、「ワランボ道」のかわぶち(側淵)峠とわかりました。これで一つすっきりしました(笑)。

あと、振草村誌には、花丸峠と仏坂峠についてはトンネル開通を期待する声が載っていましたが(実現したのは仏坂トンネルのみ。)、かわぶち峠については特に何もありませんでした。

まず、かわぶち峠は、村内のかつての主要道路であった「ふりくさ道(海老街道)」とは関係のない峠だからでしょう(繋がってはいますが。)。峠を越える「ワランボ道」も、古い地形図を見る限りでは、人家のほとんど無い山間地(ルート上に宇連ダムが建設された時、水没したのは6戸だけ。)を通り抜けるだけの道のようですし。

ただ、村から最寄りとなる現JR飯田線三河川合駅まで鉄道が延伸された1923年(大正12年)から村内に乗合バスが乗り入れる昭和初期までは、徒歩道の峠とは言え、駅のある三輪村川合への最短ルートだったわけで、それなりに利用されていた時期もあったかもしれません(全くの憶測ですが。)。

なので、かわぶち峠を越えるワランボ道区間の県道指定については、地元側の要望ではなく、県側の都合で指定されたものかもしれませんね。
Posted at 2020/05/05 08:25:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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