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小林あにのブログ一覧

2020年06月14日 イイね!

【岡崎市石原町】旧田原坂を歩いてきました

2020年6月14日日曜日、雨がぱらつく中、岡崎市石原町の旧田原坂を歩いてきました。田原坂は、「たはらさか」ではなく「たばらさか」と読みます。

現在、岡崎市と新城市作手の間にある「田原坂」と言えば、愛知県道37号のくらがり渓谷から本宮山スカイラインとの交差点付近までの曲がりくねった急坂区間のことを指します。自転車乗りの方のブログなどによく見かけますね。

しかし、現在の自動車通行ができる田原坂ができる以前の「本来の」田原坂は、くらがり渓谷までは行かずに、手前1.5kmほど西側にある谷筋に入り、ほぼ一直線に作手まで登るルートを取っていました。今回はこの道を歩きます。赤色の線が今回歩いた区間になります。

※5万分の1地形図「御油」(明治23年(1890年)測図、大正7年(1918年)修正測図、昭和2年(1927年)鉄道補入、昭和4年(1929年)発行。)。

現在の地形図はこちらです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

県道37号から旧田原坂に重なる山道へと入ってきました。ほとんど車が通行しないのか、枯れ葉や枯れ枝が路上にたくさん散らばっています。


今のところ舗装されてはいますが、道幅は狭く、すでにけっこうな急坂です。


まずはこの谷川(「田原坂ノ沢」と呼ぶようです。)に沿って、坂の上部にある県道37号との交差地点まで登っていきます。


道を横切る沢に石積み橋台が残っていました。今歩いている舗装路より古い時代の道のものと思われます。




地図を見て予想はしていましたが、延々と続く急坂に序盤から足取りが重いです…。なまじスタスタと歩いてしまえる舗装路の方がかえってキツいです…。


石垣に囲まれた平場が続いています。かつては田んぼや畑だったのでしょうか。


分岐路が現れましたが、ここは道なりに直進です。


路肩の崩落箇所に岡崎市の三角コーンが置かれています。ということは、一応この道は岡崎市道ということですね(後で確認したら、岡崎市道田原坂線というそうです。)。


また分岐路が出てきました。ここは谷川を渡らない右側の道が旧田原坂と思われるので、そちらへと進入します。


舗装路から一転、荒れた道になりますが、じきに落ち着きます。




先ほど分かれた市道が交差してきました。知らぬ間に砂利道になっています。ちなみに旧田原坂の道跡は直進です。


短い区間ですが、幅広なU字型に道跡が残っています。


すぐに市道と再合流です。


また分岐路が現れました。ここも右側の道へと入っていきます。左側へと分岐していく市道とは、ここで完全にお別れとなります。


ちなみに、左へと分岐していった市道の先には、田原坂の集落跡があるようです(家屋は残っていないようです。市道もそこで終点となります。)。

分岐した後、坂を登っていくと作業小屋?があります。


小屋の先で左へカーブして、沢を渡ります。砂防ダムの工事に合わせて川が護岸されて、コンクリート橋になったようですね。


沢を渡ったら、今度は右に曲がります。この辺りは立派な石垣が多いです。これも廃集落の田んぼや畑の名残りでしょうか。




しばらく進んで、石垣に突き当たったら左へとカーブ。


今までと撮影方向が変わっていますが、ここは写真右側から登ってきて、写真左上側へと進んでいきます。実際の進行方向に合わて言うなら、この角は右折ということになります。


直進方向(写真手前側)にも廃道化した林道?が続いていましたが、今回の探索には関係ないので行きませんでした(入り込むと余計な体力を使うので(笑)。)。

ここまでは何となく軽トラくらいなら通れそうな道幅でしたが、ここからは古道らしい徒歩道になります。ちなみに、戦前の地形図で旧田原坂は、麓から峠まで全線が荷車の通れる道として表記されています。




石積み擁壁。用途的には道路用というよりは土地区画用でしょうか。


道の上を沢からの水が流れています。午前中まで雨が降っていたためでしょうね。


長靴なので、気にせずジャブジャブと歩いていきます。ついでに手や腕に水を浴びて冷やしました。


この旧田原坂、風の通らない谷底の沢沿いの杉林の中を通っており、しかも雨上がりのためかすごく湿度が高くて、眼鏡は曇るは、汗が止まらず上着はびしょ濡れだわと、ひどい状態で歩いています。まあ、こうなることも承知で来たわけですけどね(笑)。

道の先が明るくなってきました。


無事に県道37号へ到達しました。車からは約40分で来ることができました。


この地点で標高445 m。車を停めてきた辺りが標高220mなので、標高差約225mを登ってきたわけです。おおざっぱですが、歩いてきた距離が約1.8kmなので、平均勾配は12%といったところです。

この先は、元々、旧田原坂が使っていたルートを改良して現在も使用しています。


さて、初めはここで引き返そうと思っていましたが、もしかしたら戦前の地形図にすら載っていない古い時代の田原坂が、まだ沢沿いに上へと続いているのではないかと思い立ち、「ここまで来たらどこまで行っても一緒だな。」ともう少し進んでみることにしました。

どうやら、写真左側の部分から入り込むことができそうです。


県道37号を見下ろします。右カーブの内側にここまで登ってきた旧田原坂があります。


何となく平場がありますので、通り抜けます。


木々の間に通路のような穴が開いています。


木々の穴を出たら明瞭な道跡が現れました。右下側の沢底付近には道跡らしい平場は見い出せないので、これを田原坂の道跡と見込んでこのまま進んでみます。


道跡がやせている所に、罠のごとく腐りかけた倒木が何本も横たわっています。1本づつ慎重に跨いでいきます。




路肩に石積み擁壁を見つけました。これで、この道跡が古い時代の田原坂である可能性が大になりました。




この辺りは、20~30m上の斜面を県道37号が通っているので、道路から投げ捨てられたゴミが散らばっています。


沢にかく乱されてしまったのか、道跡がはっきりしなくなってきました。




谷を塞ぐように大きなコンクリートブロックを積んだ土留めが現れました。これで道跡を辿るのは不可能になりました。


県道37号はすぐ上に見えているので、何とか登っていきます。




見覚えのある平坦地へと出てきました。この辺りで標高530m。車を停めてきた場所から標高差310mほどを登ってきたことになります。


あの先のカーブを曲がれば、じきに本宮山スカイラインとの交差点です。車からここまで1時間10分程でした。


現在の県道37号が、勾配を抑えるためにくらがり渓谷から大回りするルートで作手まで登っていくところ、旧田原坂は沢伝いにほぼ一直線で作手側へと登ってきました。やはり徒歩道は最短距離で峠まで詰めますね。

さすがに途中の県道との交差地点から上は、荷車道に改修するには急坂過ぎるので、古い時期に放置されてしまったのでしょう(ざっくりと計算すると距離400mで標高差85mなので、平均勾配21%になります。)。

これで旧田原坂を踏破したので、車へと戻ることにします。県道を通って最初の交差地点まで戻っても良かったのですが、ここは狭い峠道ながら通行量が多いし、大回りすることで歩く距離も伸びるので、元来た道跡を帰ることにします。


途中、蒸し暑くて、何度も沢の水で顔や腕を洗っていたりしましたが、引き返し地点から15分程で県道との交差地点を通過。


足が疲れていたので、ペースは抑え気味にして急坂を下っていきます。


この作業小屋が見えてきたら、じきに車が見えるはず。


帰りは55分で戻ってこれました。急坂を往復した疲れもありますが、とにかく湿気の高さには本当に参りました…。


さて、あと1か所、見つけていた旧道の遺構を見に行くために、駐車していた所からやや下った場所へと移動。


分岐している道跡を追います。




突き当りに来ました。ここは左側に見えている「どろめき橋」の旧橋跡と思われます。


大きな石を積んだ橋台が残っています。


現道の橋から見下ろしています。写真中央の流れが泡立っている辺りに橋台があります。




最後に、県道37号から旧田原坂へと進入する道路の交差点です。正面の橋は石原橋。戦前の橋の親柱が残されています。




道中の下半分は舗装路でしたが、上半分は昔の道の雰囲気がよく残っていました。この谷の狭さと急坂では、自動車道を造る際に別ルートを選択したのも頷けます。その迂回する県道も、地形の険しさに未だに狭隘路が解消されていませんけどね。

市の図書館で、旧自治体である額田町が出版した額田町誌を読んでみましたが、旧田原坂から現在の県道への付け替えがいつ頃行われたのかはわかりませんでした。くらがり渓谷の観光開発に合わせたのなら昭和30年代後半ですが、参考になりそうな路線バスの開業記事にも、くらがり渓谷から作手方面のものは記載されていませんでした(路線バス自体がなかった可能性も。)。

図書館で調べる以上のことまではやる気はないので、ひとまずはこんなところですかね。


※追記
額田町誌にこれという記載がなかったので、今度は田原坂の上の村である旧作手村の村誌を読んでみたら、旧田原坂から現在の県道ルートへの付け替えについての記事がありました。

一つ目は、「田原坂の改修については、昭和7年(1932年)に作手村内の改修が竣工したことで全線開通した。」という記事。

二つ目は、「府県道清岳~岡崎線が昭和7年(1932年)11月に竣工、昭和8年(1933年)宮崎村亀穴(現在の岡崎市宮崎町亀穴)の宮崎自動車会社が乗合自動車(6人乗り)を宮崎~高里(現在の新城市作手高里)で運転を開始。」という記事。

二つとも、改修工事が昭和7年に竣工したとあり、さらに昭和8年からは乗合自動車が運行。旧田原坂は、当然、自動車が通行できるような道ではありませんでしたから、現在の県道ルートへの付け替えは昭和7年で間違いないでしょう。

戦前の改修とは、現在の県道の田原坂も古い道だったわけですね。
Posted at 2020/06/14 23:09:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年06月09日 イイね!

TGRラリーチャレンジin高岡万葉が開催見送りに

TGRラリーチャレンジのホームページにおいて、2020年6月5日付けのエントラント向けインフォメーションとして、7月12日開催予定のTGRラリーチャレンジin高岡万葉戦の開催見送りの記事が掲載されました。

これて、2020年シリーズは第6戦目までが中止もしくは開催見送りとなってしまいました。

新型コロナウイルス流行に伴う緊急事態宣言が解除されたとは言え、未だに多数の都道府県では越境しての移動については自粛を求めており、単純に考えれば全国各地から参戦してくるモータースポーツの開催はまだまだ困難であると言えます。

それに、高岡万葉戦は毎年観客が多いので、なおさら難しいところでしょう。

WRCもフィンランドとニュージーランドの中止が決定し、全日本ラリーも秋田県での横手ラリーが中止になりました。

TGRラリーもそうですが、ラリー開催は大なり小なり地域振興イベントになっている面もあるので、地元にメリットの無い無観客開催はなかなか難しいでしょうし、これではなかなか先行きが見えてきませんね…。

次戦は、栃木県で8月23日開催予定の那須戦。ドライバーやすい氏からは、「念のため、宿は押さえておいた。」とメールがありましたが、どうなることやら…。
Posted at 2020/06/09 20:05:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2020年06月07日 イイね!

旧作手村戸津呂から和田までの旧挙母街道の峠道を探す

2020年6月6日土曜日、午後1時過ぎまでは設楽町の堤石峠以東の古道の探索を行い、続いて新城市作手地区南部の旧挙母街道の峠道の探索へと向かいました。走行時間約1時間の移動です。

旧挙母街道とは、平針(現在の名古屋市天白区平針)~挙母(現在の豊田市)~作手(現在の新城市作手)~新城を結んでいた街道で、明治12年(1879年)作成の愛知県内の街道名一覧表に「二等県道」として掲載されている路線です。

なお、「二等県道」とは、「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム(明治9年(1876年)6月8日太政官達第60号)」にある「二等 各府縣本廳ヨリ其支廳ニ達スルモノ」により認定された県道です。

平針から挙母までは国道153号の旧道、挙母から作手を経由して新城までは国道301号におおむね相当します。

こちらは探索地周辺の戦前の地形図です。赤色の線が探索した峠道になります。ちなみに、この区間の地図上の表示は「荷車ヲ通セザル部」であるので、峠道は荷車が通行できない徒歩道であったはずです。

※5万分の1地形図「御油」(明治23年(1890年)測図、大正7年(1918年)修正測図、昭和2年(1927年)鉄道補入、昭和4年(1929年)発行。)。

現在の探索地周辺の地形図はこちら。戦前の地形図にある旧挙母街道の峠道は全く見当たりません。

※地理院地図(電子国土Web)より。

現在の国道301号は峠越えをせず、山腹に沿って山塊を迂回するルートで戸津呂地区と和田地区を結んでいます。現道は対向2車線の快走路であり、自動車で走行すれば迂回していることなど全然感じられません。

さて、まずやって来たのは、国道301号戸津呂橋の旧道。ここへ車を停めておきます。




ここから和田地区方面へと向かい、旧道を通り抜けます。




そのまま国道へと出て、山側の様子を見ながら歩き進めます。

しばらく進むと、やや奥行きのある谷地形を見つけたので、山側へと入り込みます。実はこの時点ですでに進入地点を誤っていました…。


参考にしたのが、精度がやや不正確な戦前の地形図で、縮尺は5万分の1。本当はもう少し先まで歩いて確認すべきでしたが、奥行きのある谷地形を見つけてしまい、そのまま入り込んでしまったわけです。

山林の中へ入り込んでみると結構な急斜面。道跡があるにはありますが、明治時代に県道指定されていた街道にしては貧弱過ぎます。


「入り込む場所を間違えたな。」とすぐに気が付きましたが、「国道へ戻るのも面倒だし、次の谷へそのまま歩いていくか。」と踏み跡を進んでいきます。


隣の谷へ来ました。こちらは谷幅が狭く、沢には岩がゴロゴロ。道跡も当然なく、ここも違うとすぐにわかります。


この沢を越えて次の谷へと向かうのは面倒そうだったので、「ここからひとまず尾根まで登るか。」ということで、沢伝いに急斜面を登っていきます。


傾斜がさらにきつくなります。すでに堤石峠での疲労が蓄積してパンパンの足にさらなる追い込みをかけることになります(笑)。


踏み跡すらない山の斜面を登るのって、本当に疲れるんです(自業自得…。)。

山に入り込んで悪戦苦闘すること25分。林道へと転がり出ました。


「間伐道 向山線」とあります。


しかし、この標石の間近には、同じ道に「林道 向山線」と銘板が埋め込んでありました。事業目的の違いみたいです。


とにかく、この林道を東方向へと進んでいくことにします。歩き進めていれば、そのうち峠道と交差するはずという算段です。


だんだんと不安になりながら歩くこと約20分。林道左側の薄暗くなった林の中を眺めていると、ピンクリボンが点々と付けられている場所に気が付きました。目を凝らしてみると道形があります。

「やった!やっと見つけた!」とようやく安堵。

ここが林道と峠道の交差地点になります。実際には、後から造られた林道に峠道が潰されているわけですけどね。


林道右側の林の中を見ると、道らしき空間が直線状に見えています。


黒パイプの先へ降りてみるとここにもピンクリボンが。その先へと道跡も続いており、間違いありません。


堀割りが見えてきました。峠の前後にある堀割りは、できる限り均等な勾配になるよう、支障となる地形を削り込んだものです(と私は思っています。)。


お城の空堀かというほどの深い堀割り。これだけの土工を施されているとは、さすが県道指定を受けた街道だけのことはあります。






道跡に転がっていた石。見事に全面苔むして鮮やかな緑色になっています。何となく触りたくなりましたが、苔が剥がれると勿体ないので止めておきました(笑)。


和田地区側へと降りてきました。




道跡を塞ぐように獣害防止の柵が設置されています。よく見かける光景です。ロープをほどいて開けさせてもらい、出たらきちんと閉めてロープで縛っておきます。


道跡の真ん中に竹が生えてます。これはこれで何か味がある。


舗装道へと合流しました。もうしばらく直進します。


ここまで来たところで足を止めました。この先に見えているT字交差点を左へと曲がって進めば、国道301号へと合流するはずです。もしかしたら、道標や石仏などがあるかもしれませんが、もう疲れてしまったので引き返しました(笑)。


記録として、柵までにある分岐点を撮っておきます。何も知らずにこの道を見れば、近くを通る国道の前身となる街道だったとはとても思えません。




曇り空のため、どんどんと薄暗くなる中、深い堀割りを登り直していきます。




ふたたび林道へと出てきました。


写真中央の苗木の先が、旧挙母街道の続きになります。


先ほど林道から見下ろしていたピンクリボンがあります。ここから今度は戸津呂地区側へと峠道を下っていきます。


しかし、こちら側の道跡、何の拷問なのか、とにかく倒木が多い…。今は街道でも何でもありませんから、おそらく間伐した木をそのまま倒して放置してあるのでしょうが、跨いだり潜ったりと疲れが増すことこの上なし(笑)。






嫌気が差して一旦堀割りの上へと上がります。う~ん、降りたくない…。


しかし、そのままでは道跡を辿るという趣旨に反するので、歩けそうなところはまた堀割りの中を歩いていきます。




これは堀割りの外へ回避。




また道跡へと戻ります。


開けた場所へと出てきました。


小さな沢がありますが、橋台と言えるほどの明瞭な石積みは残っていないようです。


道跡は小さな沢を渡り、右へとカーブして山肌に沿って行きます。


古そうな石積み擁壁。いつの時代のものでしょうか。旧挙母街道は明治15年(1882年)に改修されているそうですが、その頃のものなのか、さらに後年のものなのか。


小さな沢を越えた先は道跡が不安定になっています。


道跡の先が明るくなってきましたが、ここで道跡はブッツリと途切れてしまいました。


山腹全体に治山工事が行われたようです。眼下には国道301号が見えています。


見てみるとコンクリートで施工されていましたが、時代が相当古い感じがします。現国道ルートに道路が建設された頃のものかもしれません。


具体的に昭和何年頃に開通したのかわかりませんが、戦前の地形図では、和田地区の北に少しだけ建設途中の現国道ルートの道が記載されています。

取りあえず、国道へ出ないと車へ戻れないので、法面を辿って降りていきます。




国道301号の廃道へと出ました。旧挙母街道の峠道もかつてはここへと繋がっていたのでしょう。




右へカーブしながら沢を渡っています。ということで、道路下の暗渠をチェック(笑)。


これは石造暗渠のようですが、天井板だけがコンクリート製ということもあるので、目前まで降りてみます。


全て石造の暗渠ですね。


中も覗いてみましたが、間違いありません。石造暗渠ということは、この廃道部分も由来は古いものなのかもしれません。


このまま廃道を歩き、




国道301号へと出てきました。


背の高い広報塔が出入口の目印になりますね(戸津呂地区方向を向いています。)。


何とか無事に車へと戻ってくることができました。全行程2時間20分程でした。


今回は、進入場所を間違うところからスタートしましたが、結論を言うと「結果オーライ」でした(笑)。きちんと国道301号の廃道から進入しても、あの改変されてしまった法面を最初に見ていたら、やはり峠道の把握にそれなりの時間を要したでしょう(おそらく、石造暗渠があった沢付近に道跡への入口がないか探していたかも。)。

新旧の地形図を見比べて廃道を探すという案はなかなか良いものでしたが、こんな罠もあるんだなということを実感しました。

※2022年2月26日土曜日、旧挙母街道の峠道のルートを地形図上に確定すべく再訪問してきました。

登山用アプリでGPSデータを取得して、地形図に起こしたものがこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤線は実際に街道跡を歩いた部分、青線部分は街道跡が欠落しているため推定したり、舗装路として現在も利用されている部分です。
Posted at 2020/06/07 21:55:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧挙母街道 | 日記
2020年06月07日 イイね!

【古道】堤石峠から平山明神山登山口まで辿ってみました

2020年6月6日土曜日、北設楽郡設楽町の堤石峠から東側へと残る使われなくなった古道を平山明神山の登山口まで辿ってきました。

今回歩いた古道は、先週歩いた花丸峠付近の古道に連なる道で、設楽町田口と東栄町本郷を結ぶ里道を構成していました。

1934年(昭和9年)に堤石峠の南側に聳える岩古谷山の直下に堤石隧道(延長:536m)が開通し、ようやく峠を行き交っての自動車通行が可能となりました。

ただし、トンネル開通に伴い、堤石峠から東側のルートは、従来の大神田-平山-桑原-花丸峠-月から、黒倉-神田-神田川・御殿川沿い-月へと変更されてしまい、堤石峠と花丸峠は交通路としての利用が廃れていったものと思われます。

現在は、2015年(平成27年)に開通した岩古谷トンネル(延長:1287m)により、峠道だと感じさせることもなく一気に通過してしまいます。

堤石峠の周辺の戦前の地形図です。赤線が今回歩いた区間になります。右端の緑線が先週歩いた道。青線が先々週に歩いた道です。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入。昭和7年(1932年)発行。

ちなみにこちらが現在の地形図。堤石峠から東側の麓にある大神田地区まで、徒歩道の表記すらありません。

※地理院地図(電子国土Web)

ここは、岩古谷山への和市登山口にある第2駐車場。8時半頃に現地にやって来ましたが、第1駐車場(10台程度駐車可能。)はすでに満車でした。


こちらが、現在の堤石峠への入口となる岩古谷山の和市登山口です。


この山もヤマビル被害が顕著な所のため、入口にこのような注意看板が掲げられています。私も濃いめの食塩水を作って持参しました。


堤石峠へと向かう道は、至って普通の山道。


堤石峠に向かう道中、1か所だけ廃道があります。現在の登山道はそのまま急坂を直進していきますが、昔は左へとヘアピンカーブで曲がっていたようです。


奥にもう一つヘアピンカーブがあります。全く使われていないので、路上は落ち葉・枯れ枝で埋まっています。


登山道と再合流。登りに関して言えば、廃道を通ったほうが楽です(笑)。


峠の直下に来ると、ここから「十三曲がり」と呼ばれるつづら折りの道になります。


かつての交通路だった名残りか、「比較的」緩やかな坂になるよう造られているので、運動不足の私でも何とか息切れすることなく登っていけます(笑)。


堤石峠に到着です。25分程で登ってきました。峠の標高はインターネットで検索したら707mとありましたが、地形図での表示だと690~695mのようです。和市登山口が520m程なので、高低差170m余。


峠に立つ道標。


南側へと向かう道が岩古谷山への登山道で、現在のメインルートですね。道標にはありませんが、北側にも縦走路があり、平山明神山へ向かうことができます(こちらは初級者向けではないそうなので、道標には無いのかも。)。

もう一つ、「黒倉集落」とあります。黒倉集落は、堤石隧道の東側にある集落で、堤石峠からは南東にあります。距離も時間も表記されていませんが、これが古道を辿るルートの一部になります。

先に言っておくと、この道標以降、黒倉集落への道標などは一切ありませんし、この先は正真正銘の廃道と化します。

それでは、古道区間へと歩を進めていきましょう。写真にあるこんもりとした低木の陰に古道があります。


谷側を見下ろしてみます。写真ではわかりにくいですが、緩い弓状の地形内につづら折りの道が段々畑のように続いています。


峠にある説明板には、峠の前後にそれぞれ十三曲がりがあると書かれていますが、地形にまだゆとりのある峠の西側と違い、東側は急斜面に道がひしめいているような状景です。

誰も通らなくなった古道になぜか「くずかご」が(笑)。このタイプはすっかり見かけなくなりましたね。多分、峠から転がり落ちてきたものでしょう。


この石垣が現れたら、峠直下のつづら折りの道は終了です。


沢に出てきました。左側には石仏があります。峠の出入口ということで置かれたものでしょうか。


この石仏は見た感じ、比較的最近置かれたもののようです。


こちらは、南無阿弥陀仏碑。見た限りでは、「南無阿弥陀仏」の文言以外は見当たりませんでした。


ここから先、道跡が不鮮明な箇所や分岐のたびに、確認のため立ち止まることになります。

二股の分かれ道。ここは左側へと向かいます。すぐ先で道が崩れていますが、迂回して、同じ高さの所を確認すれば道の続きがあります。右側が黒倉集落への道でしょうか。確認したわけではありませんが。


ガレ場を越えていきます。


道かどうか曖昧な二股の分岐です。ここも左側へと進んでいきます。


顔みたいな巨岩。


ナメ沢に出てきました。


石積み橋台が残っています。


橋台の上流側から沢へと下りました。枯れ枝がたくさん絡み合っていたおかげで道跡どおりに渡ることができました。


何となく細い平場が続いているので、歩き進めていきます。


岩に突き当たったところで、下側の縁に沿って迂回します。




道が戻ってきたかと思うと、またすぐに狭まったりします。


石積みがありました。精緻に積まれてはなく、野面積みです。


間伐材や打ち払われた枝で路上が埋め尽くされています。


今回の道中で一番大きな石積み擁壁。谷積みという積み方なので、明治時代以降に手を入れられたものではあるようです。


今回の区間は、花丸峠の東部と違い、山自体は土で覆われていている所が多く(所々、岩盤が露出してはいるが。)、斜面の傾斜も多少は緩やかなためか、石工により普請されている箇所は明らかに少ないです。

それゆえ、維持管理がされなくなると石積み擁壁で固められた路盤と違い、土の路盤では長年の風雨で流出していってしまい、結果、道跡が不鮮明になってしまっているのだと思われます。

整備されていない杉林の中を歩くのも、なかなかに面倒です。


何と言っても困るのが、地面に敷き詰められた枯れ枝。弓なりになった枝が足に絡んできてはつっかえ棒のようになり、何度も転びそうになります。

沢に出てきました。当然、橋は無いので、渡りやすい所へと迂回します。


対岸に残る石積み橋台。隅石はきちんと角を取って、びしゃん仕上げがされています。


峠側の岸の石積み橋台。だいぶ不揃いになっています。


続いてすぐに小さな沢。細い丸太が架けてありましたが、不安なので、沢へと下りて渡ります。


渡ったところで、また二股の分岐があります。崩れていますが、ここも左側の道へと上がっていきます。




先ほど渡った沢のやや下流にも石積み橋台がありました。帰りに立ち寄ることにします。


「道と言われれば道かなぁ。」という程度の頼りない道跡を進んでいきます。






石積み擁壁が現れました。岩盤を削って野面積みしてあるようです。


擁壁の上の道。道幅は何とか保たれています。


歩き慣れてくると、これだけの幅があれば十分な気がしてきます(笑)。


ちょっとまともな道になってきました。


が、突き当りを左へ曲がったら道が流れてしまっていました…。また迂回です。


すっかりやせ細った道を進んでいきます。


尾根が張り出している所へ来ました。


尾根を跨いでヘアピンカーブしていきます。右側に下っていく道が分岐しています。この斜面の下あたりが大神田地区になるはずです。


斜面の下には町道が並走してきましたが、古道はまだまだ続いているようです。


小さな石積み擁壁。尾根を跨いだ先からはけっこうな急斜面です。


こんな所にガードレールが現れました。


階段を下りていくと、町道の巨大な法面の中腹に出ました。ちゃんと道が確保されていて良かったです(笑)。正面のポッコリ突き出している山が平山明神山のはずです。


この先、町道が真下に来る所にガードレールが設けられているようです。




コンクリート擁壁にしないで石積みのまま。


道の真ん中に低木が生えていて、何度か迂回させられます。




町道から登って来た道と交差したところで、古道は途切れてしまいました。


町道の交差点。右側へ行くと堤石隧道の近くへ出ていきます。


一旦、町道へと出て歩いていきますが、竹林の所から道跡らしきものが先へと続いていたので、入り込みます。


かろうじて残っている道跡を辿っていきます。


平山明神山への登山道へと出てきました。


先へ続く道跡がわからなかったので、すぐ下の登山口へと出てきました。


もう少しだけ町道を先へと進んでみましたが、山の斜面に道跡らしい平場は見い出せず、この先は町道に吸収されてしまったようです。

和市登山口からここまで2時間15分程。さて、車まで戻りますか…。

帰りはしばらくの間、町道を歩いていきます。先ほど通り抜けた法面を見上げます。上部の白いパイプガードレールの所が古道です。


町道を20分程歩いてきました。この先町道は、古道が通る山の斜面と離れていってしまうようなので、ここから古道へと戻ることにします。


楽をしたツケが大きいようですが、ここを登っていくしかありませんね…。


斜面を登っている途中で、古道が尾根を跨いでいる所で分岐していた道にぶつかり助かりました。


2か所連続で沢渡りした所の分岐まで戻ってきました。


沢沿いの道へ入り、橋台の所へ来ました。この先も、それなりの幅がある道が続いています。




路肩を石積み擁壁で固められた道が続いています。途中で堤石峠へ向かう道が分かれていればいいなと期待しつつ、沢沿いの道を下っていきます。


結局、峠方面の山側へと登っていく道は現れなかったので、ここで引き返しました。


この道自体は、おそらく黒倉集落へと向かう道だと思われます。峠からここまで黒倉集落方面へと分岐する明瞭な道はありませんでしたから(そうかもしれない分岐は堤石峠の真下にありましたが、確証はありません。)。それに道幅があって、造りもしっかりしていそうです。

峠直下の十三曲がりを登り、堤石峠へと戻ってきました。


峠へと戻ってきたら、ちょうど平山明神山方面から戻ってきていた老人の登山者と鉢合わせ。「この道は通れるの?」と聞かれましたが、「すっかり廃道になっていて、お勧めできませんよ。」と答えました。

峠の近くにある岩のピークからの眺め。こちらは峠の東側方面。


こちらは西側。麓に登山口のある和市の集落が見えます。


登山口へと戻ってきました。全行程4時間30分程になりました。往復で堤石峠を越えなければいけないのが、なかなかきつかったです(笑)。


「堤石峠の東側はどんな道だったのだろうか?」というのは、この趣味を始めてから漠然とは思っていましたが、なかなか目を向ける機会が無くて、ずっと放置していました(堤石峠の峠道が大変だし(笑)。)

この数週間、花丸峠周辺の廃古道を探索する中で、「せっかくなので、設楽町田口と東栄町本郷を結ぶ里道のもう一つの峠である堤石峠も見ておくか。」という気持ちが湧いてきて、ようやく今回の探索となりました。

まあ正直なところ、堤石峠のつづら折りの道の先、町道に吸収される区間までの間に、花丸峠の東側区間のような石工を駆使した場所があるのではないかと思ってやって来たわけですが(笑)、途中でも書いたように、それどころか道跡すらも怪しいか所が何か所もある状況でした。

「三匹目のどじょう」はいませんでしたが、これで設楽町田口と東栄町本郷を結ぶ里道の探索に一区切りつけることができました。
Posted at 2020/06/07 12:10:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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