2020年8月9日日曜日、新城市作手守義字小滝から北設楽郡設楽町三都橋までの古道を探索してきました。
戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「本郷」。明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入。昭和7年(1932年)発行。
赤色の線が今回探索した部分になります。青色の線は、現在の愛知県道35号岡崎設楽線のルートになります。今回歩いた古道は、県道35号と国道420号の前身の道になります。
現在の県道35号は、小滝集落からそのまま谷の左岸側を通り、当貝津川の「鳴沢の滝」の上で国道420号と合流していますが、戦前の地形図にある古道は、小滝集落付近から谷の右岸へとルートを取り、小さな峠を越えてから当貝津川沿いへと出て、設楽町三都橋の手前で川を渡って県道足助新城線(国道420号の当時の路線名。)と合流していました。
現在の地形図はこちら。赤色の破線が今回歩いたルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
車を国道420号と県道35号の交差点から、やや小滝集落寄りに入った路肩に停めます。
県道35号はこの地点は2車線道路ですが、小滝集落から奥の作手方面へは狭隘路となっています。
ここから斜面を降りて川を渡り、対岸へと向かうことにします。
ところが、川の水量が思いのほか多くて渡ることができません。
川岸をウロウロしていたら、下流側に橋があったので、これで渡ることにします。この橋は、近くの竜頭山への登山道のようです。
2つ目の橋が現れました。私は川沿いに進んでいくので、2つ目の橋も渡っていきます。
古道へと入りました。集落に近いためか、この辺りはそれなりに手入れされているようです。
川よりもやや高い所を通っていた古道が、沢を渡るために下っていきます。
沢を渡ります。流れの中には砂や泥が多く、今年の長梅雨での大雨で山から流れ出してきたのだと思います。
もう一つ、沢を渡っていきます。
川沿いの低い所を通っていますが、道跡はしっかりと残っています。
細い木が密生する緩斜面へ出てきました。石ころが多いので、過去の土石流などで出来た地形だと思います。ここで道跡がわからなくなってしまいました。
薮の中を直進していくとコンクリートで護岸された沢に出ました。これも跨いでいきます。
このまま真っ直ぐ進むのも大変そうだったので、山側へと移動していきます。
林との境目に作業道がありました。ちょうど良いので、この道で進んでいくことにします。
分岐点に来ました。右側を見上げると、地形図に載っていた峠が見えています。
右側へ曲がり、作業道を登っていきます。
ヘアピンカーブになったところで作業道は終わり、その先に徒歩道が続いています。古道も作業道と同じルートを通っていたようです。
ここに石碑や石仏がありました。
立っているのは1基だけで、他は倒れてしまっています。
最初に立っている石碑の碑文を読んでみます。
中央には「三十三所順礼観音」とあるようです。右側の枠の部分には「天和三癸年」でしょうか。天和3年ならば西暦1683年となります。左枠の文字は全く読めませんでした。
次にひっくり返っていた石仏2体を起こし、土を払います。
左側の石仏は、光背に刻まれている文字が摩滅してしまい、「□永五□□」としか読み取れませんでした。江戸時代のものでしょうから、寛永、宝永、安永のいずれかと思われますが、肝心な一文字目がわかりません。頭に乗せているのは馬の頭のようなので馬頭観音でしょうか?
右側の石仏の光背には「宝暦十辰年」と「十二月」とあります。宝暦10年は西暦1760年です。頭の上に乗せている動物は何でしょう?馬には見えませんが…。これはちょっとわかりませんね。
続いて、横倒しになっている石碑の碑文を確認してみます。さすがにこの石碑は起こそうとは思いませんでした。どう見ても一人では無理です(笑)。
碑文は「西国」だけが読み取れました。こちらも西国三十三か所巡礼にまつわる石碑であることは間違いないでしょう。
最後にもう一つ、うつ伏せになっていた石を起こします。こちらは、「馬頭観世音」碑でした。
右側に「明治四十二年□月立」、左側に施主なのか「松井藤太郎」とあります。
この道は、江戸時代には豊田市足助と新城市海老を結ぶ街道の一つで、明治時代には重要里道「足助道」に指定されていたはずです。
とは言っても、この小さな峠にこれだけ古い石碑・石仏があるとは全然予想していませんでした。読み取れた年号通りなら一番古いものは337年も前の石碑ですからね。今は誰も通らない古道ですが、往時はこのような石碑・石仏を置いて安全祈願するだけの往来があったのでしょうね。
結局、ここには20分ほど滞在してしまいました。私、仏像を見るのもそこそこ好きなのですが、このまま石仏にも嵌まっていってしまうんですかね(笑)。
探索再開です。ヘアピンカーブから先の徒歩道は崩落気味で、硬い斜面に小石が散らばる非常に歩きにくい道(実際には途中から道は消えてますが。)。転びそうになりました。
峠の切通しに来ました。風が通り抜けて、多少は蒸し暑さを和らげてくれます。
峠を越えた先は、源頭部でよく見かけるU字型の地形。こういう地形も道跡を追うのを難しくさせるんですよね。
踏み跡が一筋続いていたので、取りあえず辿っていくことにします。
念のために周囲を見渡しながら歩いていると、右側の斜面上に道跡を発見。登り直してから道跡を降りていきます。
沢の右岸側の斜面へと取り付きます。
しばらく進んでいくと道跡がはっきりしてきました。倒木が多いですが(古道・廃道はこればっかり。)、支障はありません。
沢へと出てきました。沢の中へ突出した低い土手があります。
側面から見ると石積みの築堤ですね。かつては板橋か土橋が掛けてあったのでしょう。
川の中から写真を撮ったついでに、この沢の水で顔や手・腕を洗って冷やします。
この辺りは道跡がよく残っていて、サクサクと進んでいくことができます。
また沢です。
対岸へと渡ってから振り返ると、けっこう高い石積み擁壁が築いてありました。
ここで道が二手に分かれていますが、左側の道はすぐに無くなってしまいます。本来は左側が本道だったようですが、崩落してしまったために迂回路を右側に付けたようです。
何となく付いている踏み跡を頼りに、杉林の中を進んでいきます。
切通しが現れました。峠ではなく、低い尾根を登らずに済むように削り込んだものですね。
もうこの辺りで、古道は当貝津川を渡って設楽町三都橋側へと向かっていたはずですが、それらしい道跡が全然見い出せません。
山の斜面が当貝津川へと迫る場所へと来ました。正面の斜面に街道を思わせるような道跡はありません。
当貝津川の副流を渡り、大きな中州をしばし探してみますが、こちらも道跡らしきものはありません。
地形図を見直してみると、古道はここまでは来ていないようです。引き返すことにします。
先ほどの切通しで、携帯を使って現在位置確認をしてみます。
この切通しの地点ですでに行き過ぎています。川沿いに上流へと歩いて、橋の遺構がないか探してみます。
橋の遺構らしきものは見つけられませんでした。この写真の範囲内で渡河していたと思われますが、川岸にすらそれらしい痕跡が無くお手上げです。
ここで探索を打ち切ることにしました。
さて、そうと決まればさっさと車へと戻っていきます。
小滝の集落が見えてきました。もう少しです。
最初に渡った橋をまた渡り、県道35号へと合流しました。ちょうど下小滝バス停の真ん前でした。
今回の行程は総歩行距離4kmちょっとで、かかった時間は3時間半でした(峠下も含めてけっこう止まっている時間が長かったので。)。
結果的には古道の真ん中の区間だけをつまんだような形になりましたが、峠前後の道跡が辿れたことと、峠下で石碑・石仏を見つけたことで、一応の満足感は得られましたから、まずまず良かったですかね(笑)。