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小林あにのブログ一覧

2021年10月31日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(2)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

今回歩いた区間の地図を作ったので載せておきます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

赤線が今回歩いた「矢ノ川峠昭和道」のルート。青線は矢ノ川隧道から矢ノ川峠までの国道42号矢ノ川峠旧道のルート。矢ノ川峠から先は着色しませんでしたが(面倒くさくなった(笑)。)、峠からさらに続く灰色の実線が旧国道になります。

現在の国道42号矢ノ川峠ルートと比較すると、旧国道ルートが相当大回りして峠越えをしていたことがよくわかります。

それでは、その1からの続きになります。

南谷大橋を渡り、南谷の右岸側の斜面へと道は進んでいきます。


南谷大橋を渡ってすぐの所にある小橋の山側には小さな滝があります。




道が通る場所が日陰側に変わり、岩が苔生しているのが目立ちます。今のところは道の状態も穏やかになり、黙々と歩き進んでいきます。




路肩に立つコンクリート柱と取り付けられた金網。


廃道を歩いていて、路肩にコンクリート柱だけが何本も立ち並んでいるのは見たことがありますが、金網が取り付けられてあるのはこの道で初めて見ました。今で言うガードレールに相当するものなのでしょうかね。

ようやく入口から1km地点まで来ました。ここまで30分かかりました。


眼下に国道42号千仭橋が見えています。ということは、旧道は南谷を渡るために1kmも迂回しているわけです。


このような深さの谷でも明治時代にすでに橋を架けている場所もあるので(近隣だと旧熊野街道船木橋。)、技術的に架橋できなかったわけではないでしょう。ただ、現在の国道は千仭橋の先から長大トンネルで峠を通り抜ける前提でルート選定しているのに対し、昭和道は矢ノ川峠まで登って峠を越える前提なので、現国道の地点で橋を架けることは想定されなかったのかもしれません。

さて、1km地点から歩くこと3分、ついに一つ目のトンネルが見えてきました。


矢ノ川1号トンネルです。トンネル延長は22m。




岩に金具で取り付けられた碍子が残っています。


素掘りトンネルですが、トンネル内に落盤した石が転がったままになっているようなことはありません。一般車両は通行止めとはいえ、林業関係者や電力会社などの車は出入りしているでしょうからね。




反対側の坑口です。


この辺りはところどころコンクリート舗装がされています。




深い切り通しです。トンネルを掘るには「土被り」となる部分が薄かったのでしょう。


真下に国道42号のロックシェッドが見えています。このロックシェッドはそのまま矢ノ川トンネル(延長:2076m)につながっています。


広場へと出てきました。


路面が荒れています。表土が流されて無くなり、地山が剥き出しになったような感じです。


ここの沢に設置されている砂防ダムは新しそうです。


プレートを眺めてみると「令和元年度」とありました。


これも近年の集中豪雨多発の影響によるものなのでしょう。広場を造った土砂も、この沢からあふれ出たものなのかもしれません。

沢を渡り、先へと進んでいきます。




2つ目のトンネルが現れました。


矢ノ川2号トンネルです。延長は20m。


このトンネルはコンクリート覆工されています。開通当時からではなく、後年の補修によるものだと考えられています。




トンネルと外との境目の路面に石が並べられていました。洗掘対策ですかね。


反対側の坑口です。


トンネルを出てしばらく歩いたところに入口から2kmの案内板が立っていました。車を出発してからここまで約1時間です。


路肩にコンクリート製の枡があります。これは水槽なのか何なのか…?


こんな山の中に防火水槽は考えにくいですし、車道として造られたこの道に牛馬用の水飲み場があるともねぇ…。ただ、戦後に入っても牛馬に荷車引かせているなんて普通にあったわけですし、あながち無いとも言えないのかも。

3つ目のトンネルが見えてきました。


矢ノ川3号トンネルです。延長は35m。天然なのか掘削したのか、とても深い切り通し状の地形の奥にトンネルは穿たれています。


坑口直前で撮った写真。坑口からせり出している天井の岩盤が重圧感を与えてきます。


このトンネルも内部はきれいに保たれています。




素掘りのトンネルながら天井を高くしてあるのは、トラックの通行を見越したものなんでしょうね。


反対側の坑口です。




トンネルから歩くこと程なくで橋が現れます。傳唐大橋です。


読み仮名は「でんがらおおはし」です。


親柱を見るとこの橋の架橋は昭和37年(1962年)7月。他に残っている橋は、この道の開通と同時期の年号が刻まれていますから、橋が流されるような出来事があったのかもしれません。


この橋が架かっている川は矢ノ川。矢ノ川峠の名前の由来となった川です。


江戸時代は、この矢ノ川をさらに上流へと詰めていって矢ノ川峠を越える「伝唐越え」と呼ばれるルートがあったようです。この橋の名前は「伝唐越え」から取られたわけです。

江戸時代に尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた道は、矢ノ川峠伝唐越えのほかには、八鬼山越え、曽根次郎・太郎坂、逢神坂峠、大吹峠などいくつもの峠を越えながら海岸沿いを辿る熊野古道伊勢路ルートがありました。

どちらのルートも歩き通すだけでも困難・苦労を極めたようで、尾鷲と木本を結ぶ航路も利用されていたようです。

さて、残るトンネルはあと2つ。その3へと続きます。
Posted at 2021/10/31 17:30:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年10月28日 イイね!

「矢ノ川峠昭和道」を歩きました(1)

2021年10月9日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越える国道42号の旧道のうち、通称「矢ノ川峠昭和道」と呼ばれる道を歩いてきました。「矢ノ川峠昭和道」は、国道42号千仭橋から分岐し、矢ノ川隧道(矢ノ川5号トンネル)に至る区間になります。

この道は、矢ノ川峠を越えて尾鷲と木本(現在の熊野市)を結んでいた明治時代に開削された県道(縣道熊野街道→府縣道津木本線。当時はまだ国道に指定されていなかった。)のうち、特に道路状況が悪かった尾鷲側の大橋から小坪の区間の改修を目指して新たなルートで建設されたもので、昭和9年(1934年)9月に着工し、昭和11年(1936年)9月に完成しました。

この道の完成により、尾鷲と大橋は小型乗合自動車、大橋と小坪は索道(ロープウェイ)、小坪と木本は小型乗合自動車というように交通手段を乗り継いで峠を越えていたものが、全区間を通してバスが運行されるようになりました。

その後、この区間を含む矢ノ川峠を越える旧道は、昭和43年(1968年)に矢ノ川(延長:2076m)・弓山(延長:137m)・大又(延長:1626m)の3トンネルで通過する現在の国道42号矢ノ川峠越えルートが完成するまで利用されました。

ここは国道42号千仭橋のたもとにある駐車帯。ここに車を停めて、「矢ノ川峠昭和道」へと向かいます。


こちらが国道42号千仭橋。深い渓谷である「南谷」を跨ぐために架けられた上路トラス橋です。


こちらがかつての矢ノ川峠越えの国道42号、通称「矢ノ川峠昭和道」の入口になります。現在は、路面の洗掘や崩落のため、一般車両は通行止めとなっています。


旧道へと入って程ない場所に立っている水準点を示すプレート。水準点は、大まかに言うと標高を測量するために全国の主要道路沿いに設置されている標識です。


昭和道に入って一つ目の橋、「懐古橋」です。


「かいこはし」とあります。


こちらの親柱には漢字で「懐古橋」と刻まれています。


懐古橋の全景。振り返って撮ったものです。


国道42号千仭橋。この橋を架けることで、深い渓谷を避けて南谷の上流側へと大きく迂回していたルートを短縮しました。


南谷の上流側を眺めています。この道は建設時に犠牲者を出す程の難工事でしたが、ご覧のとおり悪路の林道といった様相で、戦後の自動車交通の発達に耐えうる道路ではなかったことがよくわかります。


石積みの擁壁。根を張ることができなかった木が、石垣の表面に幾筋も太い根を這わせています。


二つ目の橋に来ました。「紅葉橋」です。


この橋の親柱は、先ほどの懐古橋の親柱と比べると単純な長方形で質素なものです。


側面には竣工年が刻まれています。摩滅していて読み取りにくいですが、「昭和拾年」とあるようです。


桟道区間を進みます。この場所は、盛土をしたり岩壁を削るなどして道路を造ることができなかったのでしょう。路肩部分は現代のガードレールに置き換えられています。


三つ目の橋に来ました。「瀧見橋」です。


左側の親柱はひらがなで「たきみはし」。


右側の親柱は漢字で「瀧見橋」とあります。


橋名のとおりで、橋の上流側には段々になっている小滝、橋の真下にも滝がありますが、うまく写真を撮れませんでした。

以前に一度この道を訪れていますが、その際はこの橋で猿と遭遇したため引き返しており(他所を訪れてからのついでに寄り道したので、無理をしなかった。)、この先へと進むのは初めてになります。

左側の路肩に大きな石碑が立っているのが見えてきました。


「矢ノ川峠開鑿記念碑」です。その文言のとおり、矢ノ川峠昭和道が完成したことを記念して、昭和15年(1940年)3月に建立されました。




記念碑が立てられている辺りの区間も桟道となっており、難工事であったことを偲ばせます。




四つ目の橋に来ました。「南谷大橋」です。ここでようやく南谷の対岸へと渡ります。


南谷大橋の親柱。半分埋もれてしまい、「南谷大」までしか見えていません。


橋を渡り、対岸の山腹をさらに進んでいきます。「矢ノ川峠昭和道」はここからがハイライトとなっていきます。




※その2へと続きます。
Posted at 2021/10/28 04:27:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 矢ノ川峠 | 日記
2021年10月21日 イイね!

旧熊野街道 船木橋・神瀬橋・ねじりまんぽの道路橋

2021年10月3日日曜日、三重県の旧縣道「熊野街道」に残る古い橋を3か所巡ってきました。初めは一人で出かけるつもりでしたが、母に「ドライブがてら一緒に行くか?」と声を掛けたら、姉も一緒に行くと言い出し、結局3人で出かけました。

初っ端、国道23号知立バイパスから伊勢湾岸道 豊明ICの料金所へ向かったところ、ETCゲートでストップした車があり立ち往生。仕方くなく一般ゲートへ回り、通行券を取って高速道路へと入りました。

通行券を取ったのは何年ぶりだろうか。覚えがありませんね。ただ、「デザイン、昔と変わってない気がするなぁ。」という感想が湧きました(笑)。


その後は、東名阪道、伊勢道、紀勢道と乗り継ぎ、大宮大台ICで下りて(一般ゲートに入り、料金収受装置にETCカードを挿入して精算しました。)1か所目の訪問場所へとやって来ました。

船木橋(旧舟木橋)です。全長は90.2mになります。


船木橋の開通は明治38年(1905年)。ただし、当時のまま残っているのは橋脚部分のみで、橋台・橋桁は昭和9年(1934年)に改修されています。


大紀町側の親柱には「ふなきはし」と刻まれています。


親柱に取り付けられた登録有形文化財のプレート。平成8年(1996年)に登録されました。


本橋は、宮川の深い渓谷を渡る高い場所(水面から20m程とか。)に架けられた橋ですが、昔の橋らしく欄干が貧弱かつ低いため、あまりにも川面までの見通しが良すぎて、私のような高い場所が嫌いな者にはとても困った橋です。


と言いつつ、今回も含めて4~5回は訪れていますけどね。ただ、姉が貧弱な欄干にもたれ掛かって川面を眺めている姿を見て、肝が冷える思いでした(笑)。

こちらは上流側。本流である宮川に支流の大内山川が左側から合流してきています。それぞれの川の水の色が明確に違っています。隣に架かっている橋は、国道42号の船木大橋です。


下流側の眺めです。


大台町側へと渡ってきました。


こちらの親柱には、読み取りにくいですが「船木橋」と刻まれています。


突然ですが一つ疑問があって、この橋の名称は「船木橋」、国道42号の橋の名称は「船木大橋」、大紀町側の橋名の由来になったと思われる地名は「船木」。にもかかわらず、登録有形文化財での登録橋名はなぜか「旧舟木橋」。

この事に言及しているブログやサイト記事は見当たらず、特に関心は持たれていない様子。まあ、いいと言えばいいのですが、何せ名称(=名前)のことなので、モヤモヤした感じは残りますね。

大紀町側へと戻ってきて、今度は船木大橋の下から船木橋の全景を撮ります。


ちょうどいい場所に大木が被さってしまい、何ともはや…。


橋のたもとから斜面を下りて、木々の隙間から撮ってみました。


本当は宮川の河原まで下りて、橋を見上げる写真や煉瓦橋脚の写真を撮りたかったのですが、ここ数年のうちに何度も発生した豪雨の影響で橋周辺の地形が改変されてしまい、今回訪れた時は河原まで下りることができませんでした。

こんな写真も撮っておきたかったです(この写真は2015年1月訪問時にガラケーで撮ったもの。)。




さて、母・姉が飽きてきたので、次の場所へと移動します。

国道42号を走ってやって来たのは、大台町神瀬にある神瀬橋。明治40年(1907年)竣工の煉瓦アーチ橋です。説明板には隣接地に紀勢本線が建設された際に二重アーチだったうちの一つを埋め立てたとあります。


橋の全景を撮影するには河原から見上げるようなアングルになるのですが、タイミングが悪いことにちょうど逆光…。撮影した写真データは真っ黒だったので、思いっきり明度を補正してあります。


橋の側面に取り付けられている銘板。「神瀬橋」とあります。


川の中を薮をかき分けて進み、橋の反対側へと出ました。いかにも煉瓦の塊が架かっている感じで重量感があります。


ちなみにこの橋、欄干部分がガードレールになっているため、わかっていないと道路から見ても煉瓦橋とは全然わかりません。

3か所目の橋の入口へとやって来ました。ここから橋までは400mほど歩きます。ちなみに、車を停めている場所が旧熊野街道になります。


前回ここを訪れたのは2012年5月。その時は車を停めた場所から砂利道が奥へと続いていた気がしたのですが、その砂利道が見当たらず、しばらく付近を探す羽目に。

自分が歩いていた細い舗装路の下側に薮に覆われた平場が続いているのが見えて、「もしかして完全に廃道になったのか?」とその平場へと下りました。

少し進むと何となく見覚えのある景色が現れました。どうやらここが旧熊野街道で間違いないようです。


採石会社の敷地に沿って進む道でしたが、この辺りの敷地は使われていないようで、9年前とは様相が一変していました。


これまた見覚えのある背の低い煉瓦の欄干が現れました。ねじりまんぽの道路橋に到着したようです。


この道路橋は当初「姉橋」と紹介されていました。旧熊野街道が通る以前にかつてこの付近には兄姉弟妹の名を冠した橋があり、この道路橋の架橋位置付近には「姉橋」が架かっていたらしく、そこから名称を取られました。その後も有志の方々が文献調査などを進めましたが、名称を確定できるような資料が発見できず、現在は名称不明となっています。

欄干はフランス積みされた煉瓦にかまぼこ型に整形された石材が載せられています。


やって来た方向を眺めています。この橋を再発見した人はよく見つけたものです。


橋を渡った先にある広場まで進みます。ここから左方向へと曲がり、雑草に覆われた斜面を下りて河原へと出ます。


河原へと出ました。


真っ暗で申し訳ないですが、これが世にも珍しい「ねじりまんぽ」の道路橋です。前述したとおり、名称も来歴もわかりません。


ここからはフラッシュを焚いて撮りました。

煉瓦アーチの道路橋というものは、鉄道橋梁と比較して数は少ないですが、前述の神瀬橋のようにまずまず存在しています。


しかし、さらに全体的に数が少ない「ねじりまんぽ」に造られたものは、明治時代に開通した「鉄道」の築堤に設置された水路暗渠や人道通路として残っている(けっこう現役で使用・利用されている。)ものがほとんどです。


「道路が上を通る」煉瓦アーチ橋が「ねじりまんぽ」で造られているのは、福井県坂井市のえちぜん鉄道にある「眼鏡橋」と、この橋くらいだそうです。


というように希少な橋なわけですが、知名度はほとんどありません。地元自治体も文化財的な把握はしていないでしょう。廃道趣味の方々に多少知られているくらいであることは、ここへとやって来た道の状況を振り返ってもらえればわかっていただけると思います。


この「ねじりまんぽ」は、捩じり度合いはそんなにきつくありません。川に対しての橋の斜め度合いがきつくないからです。


昔はよくあることですが、クランクになったとしても、川に対して直交するように橋を架ければこんな面倒な施工は必要なかったでしょう。それでも「ねじりまんぽ」にしたのは、それなりの理由に基づく必然性が有ったはずですが、何にも記録が残されていないわけです。


橋の下流側を眺めています。橋の先に段差があり、小さな滝になっています。天然のものか人為的なものかはわかりませんが。


段差の縁のギリギリまで下がって撮りました。橋台部分はコンクリートで施工されていますが、元々は石積み橋台だったのでしょう。分厚く塗り込められているので、昔の様子は全くわかりません。


「ねじりまんぽ」の捩じり度合いが緩い場合、施工の精度を相当きちんとしていないと崩壊してしまうのだそうです。そういう点からしても、技術力のある建設会社が関与していそうですが、その線からも解明できないのでしょうね。


この橋のもう一つの特徴は、アーチ環の部分に縦方向に薄い化粧煉瓦を貼り付けてあること。この装飾も他所では見られない手法だそうです。




わからないことだらけですが、希少であり、建設レベルも高い橋、「ねじりまんぽの道路橋」でした。


帰りも廃道と化した旧熊野街道を歩いていきます。


路肩に「地下電話線あり」の注意看板が残っていました。かつての主要道路の旧道や廃道に電信・電話線が通っていることはありますが、今も電話線が残っているのでしょうかね。


車まで戻ってきました。母がトイレに行きたかったようで、相当焦っていました。


トイレのご要望のため、近くにある紀勢本線栃原駅へと移動。


ホームで写真を1枚。


落ち着いたところで、「どこか寄り道する?」と尋ねたら、姉が「『深野のだんだん田』というのが割と近い所にあるから寄ってみて。」ということで、向かうことにします。

松阪市大石町にある「深野のだんだん田」。段々田の一番上から眺めないと景色がよくわかりませんが、もうそこまでの気力がありませんでした…。




Posted at 2021/10/21 19:30:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年10月18日 イイね!

煉瓦造りの水路トンネルと関西本線 蛇谷川橋梁

2021年9月25日土曜日、三重県亀山市加太にある煉瓦造りの水路トンネルとJR関西本線 蛇谷川橋梁を訪れました。

この日は、まず和歌山県紀の川市の旧池田隧道を訪問。そこからの帰路の途中、まだ時間に余裕があったので、名阪国道を下りて立ち寄りました。

車を国道25号猪本橋のたもとに停めます。


この猪本橋、実は橋脚が煉瓦積み。それもただ煉瓦を積み上げただけでなく、石材による隅石も設けられていて、なかなか見栄えがします。


本当は河原に下りて間近で撮りたかったですが、堰堤に付いている梯子を使わないと河原へ下りられないので、今回は止めときました(笑)。

猪本橋を渡り、しばらく国道を歩き進めると、写真の場所が現れます。


コンクリートの擁壁をよじ登ると、そこに煉瓦造りの小さな水路トンネルがあります。


トンネル部分は三重の欠円アーチ。そして、小さな構造物にも関わらず、笠石と帯石を表す焼過煉瓦の列と笠石の下段に煉瓦を斜めに並べた「雁木」の装飾。凝っています。


中を覗くと奥まで煉瓦積みで造られています。


さして長くもないトンネル部分の反対側へと回ってきました。こちら側はコンクリート造りになってしまっています。


階段と擁壁の隙間の水路部分に体を入れてトンネル内を覗き込むと、こちら側も煉瓦積みで造られています。


もしかしたら、コンクリート造りに改築する前はこちら側も煉瓦造りの坑門があったのかもしれません。

煉瓦構造物が多い関西本線(建設当時は私鉄の関西鉄道。)の影響を受けたのか、この周辺にはあちらこちらに煉瓦造りの水路トンネルが残されています。

さて、さらに国道を歩き進め、ちょっと強引に斜面を下り、並行して流れる加太川の河原へとやって来ました。ここから対岸へと渡ります。


加太川は流れが浅いので、長靴でも何とか渡渉することができます。


とは言っても、深い淀みがあったり、石に苔が付いていて滑りやすい所もあるので、慎重に歩いていきます。


対岸にある沢へと取り付きました。ここからは、この沢を奥へと進んでいきます。


この沢は流路部分の浸食が深く、わずかな距離を入り込むだけですが、歩き進めるのも一苦労です。


流路部分から上の段によじ登り、もう一つの表題の場所に到着しました。JR関西本線の蛇谷川橋梁です。


ここへ来るのは3回目か4回目ですが、いつも他所へ行ってからの寄り道で夕方に来ることが多く、周囲が鬱蒼としているため、いつも暗い写真しか撮れません…。


複数回訪れているのは、単に写真を取り直すためと言ってもいいでしょう(笑)。

この橋梁は、笠石部分に煉瓦をひとつおきに突出させて並べるティンディル(歯飾り)と呼ばれる装飾を施しています。


アーチ環は四重巻き。ちょっとわかりにくいですが、一番内側と外側は焼過煉瓦が使われています。


内部は側壁部分もアーチ部分も全て煉瓦積みとなっています。




アーチ内部も、側壁部分の下段に焼過煉瓦が3段挟み込まれていて、アクセントになっています。


沢の上流側に出ました。デザインは下流側と同じです。




橋梁付近の沢の地盤は、天然のものなのか、人工物なのか、いまいちよくわかりません。


流路部分をコンクリートで塗り固めたものが、水の浸食で抉れたようにも見えるんですが、抉れた部分を見るとこぶし大の礫がたくさん混じっているので、礫交じりの砂岩なのかという気もします。何にしろ知識が無いので謎です。


雨が降りだしてきたので、これくらいにして引き上げることにします。


猪本橋のたもとに停めた車まで戻ってきました。


蛇谷川橋梁は現在も現役で使用されている煉瓦アーチ橋梁で、もう少し紹介されていてもいい気がしますが、接近するのが難儀なためか(猪本橋から加太川の河原を延々と歩いてくるか、国道から急斜面を降りて加太川を渡渉して最短距離で接近するか、上流側の林道から架橋されている沢を辿って下ってくるか。)、あまり訪れる人はいないようです。

私はたまたま何度か訪れていますが、今回でそこそこレベルの記録写真は撮れたので、これで当分は来なくても良いかなというところです。
Posted at 2021/10/18 22:07:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関西本線 鉄道・廃線跡 | 日記
2021年10月09日 イイね!

【和歌山県紀の川市】旧池田隧道へ行ってきました

2021年9月25日土曜日、和歌山県紀の川市にある旧池田隧道へ行ってきました。

当日は朝5時半頃に自宅を出発。国道23号知立バイパス→伊勢湾岸道→東名阪道→名阪国道→西名阪道→京奈和道と乗り継いで紀の川ICから県道62号池田トンネル方面へと向かいます。

池田トンネルを通過し、旧池田隧道からはやや離れた林道へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧池田隧道を訪れるのは2回目。前回は2009年2月に来ているので、12年7か月ぶりになります。前回来た際は、旧池田隧道へと続く林道の出入口近くの駐車帯が使えたので、今回もそこへ停めるつもりで来たところ、不法投棄防止のためにガードレールで封鎖されてしまっていました。

そのため、何度も池田トンネル付近を往復して駐車場所を探しましたが見当たらず、県道から入り込んだこの場所へ駐車しました。

話がそれましたが、今回ここを訪れた理由は、トンネルの写真をデジカメで撮り直したかったため。前回訪問時は当時持っていたガラケーで撮影したため、今となっては不鮮明な画像データしか手元にないからです。

あとはもちろんトンネルの現状をこの目で確認したかったということです。

車を停めた場所からすぐにトンネルには向かわず、すぐ近くの林道の峠へと寄り道。下界の写真を撮っておきます(笑)。写っている街は、おそらく旧岩出町の市街地でしょう。


ここで悪い癖を出し、素直に道路でトンネル最寄りの林道へと向かわず、道ならぬ山の尾根伝いで雑木林の中を縦断。

1時間ほど無駄にして、旧池田隧道へと続く林道へと出てきました。この先は道なりなので、どんどん上っていきます。


林道の突き当りにトンネルが見えてきました。




旧池田隧道です。紀の川市神取側の坑門になります。


旧池田隧道は、明治19年(1886年)に竣工しました。当時、現在の紀の川市と大阪方面との往来に利用されていた大坂街道の急峻な峠道の通行を改善にするために建設されました。

なお、竣工年については、トンネルに用いられている技法や、トンネル建設に関与した人物の顕彰碑の造立年などから、明治33年(1900年)以降ではないかと疑義を呈する意見もあります。

坑門には、笠石(坑門の一番上部の帯状の突起部分。)と帯石(笠石の下段に設けられている帯状の突起部分。)が施されています。


笠石部分には、煉瓦を斜めにして並べる「雁木」が施されています。


アーチ環は、一番内側が一段凹んで積まれており、このパターンは旧池田隧道以外では見たことがありません。


坑門壁面の煉瓦は、「フランス積み」(同じ段の中に煉瓦の小口面と長手面を交互に並べて積み上げていく技法。)で積まれています。


坑門左側は、元々覆っていた土が流出してしまい、大きく隙間が空いてしまっています。


それではトンネル内部へと入っていきます。

入っていきなり変な光景が現れます。トンネル内部の一部だけ煉瓦の巻き立てがありません。


トンネルの坑口付近だけ煉瓦巻き立てをして、中央部は素掘りのままというのはよくあることですが、旧池田隧道については、素掘りのままなのはこの数mだけで他は全て煉瓦で巻き立てられており、どうしてこの部分だけ素掘りのままにしておかれたのかは謎です。

巻き立て部分を観察すると、基本は二重巻きのようです。岩盤とのすき間が大きい部分は三重巻きになっています。




東海道本線のきちんと煉瓦が整列したアーチを見慣れている目からすると、煉瓦の並びが微妙にうねっているのがどうも気になります。ただ、これもトンネルの「味」というものです。




謎の継ぎ目。東海道本線のような建設時期の古い路線だと、開通時は単線で後年複線化した際に、煉瓦アーチ同士を噛み合わせて接合してあるのをよく見かけますが、道路トンネルにそんなことは当然無いわけで、どうしてこんな継ぎ目があるんでしょうね。


これについては「煉瓦の調達の遅れで一気に巻き立てができず、このような継ぎ目ができたのでは?」という意見があります。妥当な意見だと思います。

この部分では、先ほどの継ぎ目とは違い、明確にアーチの境目ができています。これはあらかじめ段取りでここまでを巻き立てし、また間を置いて次の巻き立てを始めた名残りかもしれません。




トンネル内部を歩いているうちに、寝ていたコウモリたちを起こしてしまいました。私を威嚇しているのか、何度も目の前を飛んでいきます。


反対側、紀の川市重行側の坑口です。この辺りのトンネル形状は、鉄道でよく見られる馬蹄型に似ています。


重行側の坑門です。南側で日当たりが良いためか、木々や雑草に囲まれています。


トンネル前にある土留めの石垣。道の曲がりに合わせて造られています。


こちら側の坑門には扁額が取り付けられています。


一部は剥落していますが、扁額には「池田隧道」とあります。鏝絵の要領で造られたものだと思われます。


この扁額は、通行人から見やすいようにしたのか、文字面を傾けて取り付けられています。このように角度を付けて取り付けられた扁額も、このトンネルでしか見たことがありません。


こちらの坑門も、笠石部分に「雁木」が施されています。ただし、帯石は設けられていません。


そして、坑門壁面の煉瓦は「イギリス積み」(小口面の段と長手面の段を交互に積み上げていく技法。)です。


アーチの最下部は、アーチ面よりも出っ張っています。


トンネル内の路面は石が敷かれていたようです。石が剥き出しのままだったのか、石の上に土や砂をかぶせて固めていたのか。見たところ、整形された石材ではないので、石の上に土や砂を敷いてつき固めてあったのではないかと思われます。


神取側の坑口へと近づいてもまだコウモリが乱舞しています。仕方がないので、刺激しないようにしばらく静かに突っ立って、トンネル中央部のねぐらに戻ってもらいます。


素掘り部分へ戻ってきました。


煉瓦アーチを見ると、坑口側に向かっては基本が一重で、隙間に合わせて煉瓦を詰め込んだり、二重にしたりしているようです




坑口側の煉瓦を見ていたら、変な部分を見つけました。赤枠で囲ってある部分、坑口側へに向かって煉瓦の列が1列増えています。アーチの巻き立てが不正確で隙間ができたために、1列挿入したのでしょう。


以上、旧池田隧道でした。


一地域の利用に供するために造られた小規模なトンネルながら、多様な技法が用いられていて、なかなか興味深い煉瓦トンネルです。ただ、今のところは地元自治体などが文化財や近代土木遺産としと保護・活用しようとする様子は現地では見られず(もちろん把握はされているし、ネットで情報提供もされている。)、このまま朽ちるに任せる状態です。

まあ、私としては、管理のためにフェンスで閉鎖されて、外観のみを指を咥えて眺める羽目になるよりもずっといいんですけどね(実際、三重県南部の旧熊野街道の煉瓦トンネル群の内、廃物件となっていた三浦・相賀・尾鷲の各トンネルは、次々にフェンスで閉鎖されてしまいました。安全のためには仕方のない事ですが…。)。

煉瓦トンネルなどの見方について、特に知識が増えたわけではないですが、いろいろな場所で現物を見たり、他の方々の情報を見聞きすることで、見方はだんだんと変わってきたと思います。

1回目の時は、煉瓦の継ぎ目などには全然気付いていなかったわけで、その時と比べれば、様子を細かく見るようにはなりました。

さて、これで写真もしっかりしたものが撮れたので、旧池田隧道にはまた当面来なくなりますね(和歌山県は自宅からはちょっと遠いイメージがあるし。)。トンネル内部に変状は無いようですし、まだまだ現状を維持してくれるでしょう。
Posted at 2021/10/09 23:23:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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「草津志賀高原ルート「雪の回廊」を見に行ってきました http://cvw.jp/b/1796277/48482706/
何シテル?   06/12 23:30
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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