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小林あにのブログ一覧

2021年12月31日 イイね!

【高山市荘川町】軽岡峠の旧旧道と旧軽岡隧道(1)

2021年11月20日土曜日、岐阜県高山市荘川町の軽岡峠に残る国道158号の旧旧道と旧軽岡隧道を探索しました。

この旧旧道は、旧来の郡上・白川街道の峠道を明治36年(1903年)に改修した馬車道に由来し、昭和34年(1959年)に国道158号が新軽岡峠経由にあらためられたことにより、国道としての役目を終えました。

この峠と廃トンネルについては、インターネット上でそれなりの数の訪問記録がヒットします。いろいろな記事を読んでみて、今回は比較的接近が容易そうな高山市荘川町六厩側からアタックすることにしました。

峠までのルート図はこちら。現在の国土地理院発行の地形図には旧旧道も廃トンネルもきちんと記されているので(なぜ廃トンネルも記されているのかは不明ですが(笑)。)、目安になります。


戦前の地形図はこちら。

※5万分の1地形図「三日町」:大正1年(1912年)測図・昭和5年(1930年)要部修正測図。

当日は朝6時に自宅を出発。3時間かけて高山市荘川町六厩の旧旧道だった林道が分岐していく地点の近くへとやって来ました。


ここが六厩側の旧旧道入口。矢印を付けた未舗装路が旧旧道です。


まずは快適な林道散策といった風情でのスタートです。


東海北陸道の軽岡トンネルの坑口付近を通過していきます。


現在、軽岡峠は東海北陸道・国道158号ともトンネルで通過しているわけですが、名称は両方とも「軽岡トンネル」となっています。

熊笹に囲まれた道を進んでいきます。最近訪れる廃道は熊笹が多いですねぇ(笑)。


ヘアピンカーブが現れました。


この地点です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いて2つ目のヘアピンカーブ。


この地点です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一つ目のヘアピンカーブを見下ろしています。


緩やかな斜面でなぜヘアピンカーブを2つも設けているのかなと思いつつ歩いていましたが、こうやって見下ろしてみると、けっこう高低差があるのがわかります。それでも、今なら直線的に盛土をして通してしまいそうですけどね。

谷に沿って山の中腹部を緩やかに登っていきます。


小さな谷を迂回するようにヘアピンカーブを描いていきます。ここも今なら橋を真っ直ぐに架けてしまうでしょう。


晩秋に訪れたのは正解でした。ここまでひどい薮もなく、いたって快適な散策です。


山側に岩肌が露出しています。馬車道建設時に削り込んだものでしょう。峠までの道筋で、岩肌が露出しているような場所はここだけでした。




このカーブの谷側の路肩には、低い石垣が残っています。路肩を支える擁壁ですね。


ススキに覆われた広い場所へと出てきました。ちょっとした迷子ポイントの一つです。


もともと旧旧道(写真には「旧道」と記入してしまいました(笑)。)が真っ直ぐに通っていましたが、橋が無くなってしまい、現在の林道は右側から迂回しています。


旧旧道の橋跡を見下ろしています。


こんな構図となっています。


沢へと下りて、下から橋台を眺めてみます。




橋台の石垣は、よくよく見てみると石を積み上げただけの「空積み」ではなくて、隙間をコンクリートで埋めてあります。元からなのか後補なのかはわかりませんが。


3つ目のヘアピンカーブが現れました。


このカーブの上段に峠へと向かう道が通っています。


3つ目のヘアピンカーブの全景。




4つ目のヘアピンカーブ。




5つ目のヘアピンカーブ。




5つ目のヘアピンカーブには、さらに上段を通過していく道を支える石積み擁壁があります。この石垣はなかなかの高さがあります。


4つ目のヘアピンカーブを見下ろしています。ここは狭い場所に連続のヘアピンカーブを設けて、一気に高度を稼いでいます(と言ってもそれほどではありませんが。)。


6つ目のヘアピンカーブです。




連続ヘアピン区間の地図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

徒歩なら一気によじ登って行けそうな高低差ですが、馬車道としてはできる限り坂を緩やかにする必要があるので、このような造りになったのでしょう。

連続ヘアピン区間を通過すると薮がひどくなってきました。これが真夏だったらもっとひどいことになっていたでしょうね。


山側の路肩にある土留めの擁壁。


枡形の謎の構造物。多分、集水桝だと思いますが。


また広い場所が現れました。車の行き違いのために広くしたのでしょうか。




朝日に映える落ち葉のじゅうたん。この辺りの木々はしなって生えており、真冬の雪深さを感じさせます。




尾根の稜線が見えてきました。トンネルまでもう間近な雰囲気を漂わせます。


コンクリートの構造物が見えました。旧軽岡隧道です。旧旧道の入口からここまで約2.5km、時間は1時間でした。


旧軽岡隧道の竣工年は不明です。周囲の地形から、馬車道改修時の明治36年にはすでにトンネルが存在していたとする意見もあります。


現存しているのはコンクリート造りなので、少なくとも昭和に入ってから自動車通行用に改修を受けているはずです。

この六厩側の特徴は、圧壊してしまい坑口付近の構造物だけが橋のように残っていること。


そして、コンクリート内に木材が埋め込まれていることです。


昔のコンクリートトンネルは「無筋」も当たり前ですが、このトンネルはアーチ部の補強のために木材を埋め込んだのではないかと言われています。

かつてのトンネル内部の壁面を覗いてみます。古いコンクリートトンネルらしく、細い型枠の跡がたくさん付いています。


黄色の枠の部分には、坑門部に刻まれた石アーチを模した模様が残っています。


さて、黄色の枠内にある「闇」の部分を覗いてみます。


体をねじ込んでもこれが限界ですね。あまり斜面に力を掛けると土砂がさらさらと崩れてきますし…。


数年以上前にこの場所を訪れた方々の中には、まだ大きかったこの隙間から内部へと進入した人もいます。トンネルはこの先で完全に閉塞していますが、そこまでのわずかな空間は現役時のトンネルの原型を留めています。

トンネルの上部へと回り込んでみます。


表土が大きく凹んでいます。その分、トンネル内部へと土砂が流入しているのでしょう。




六厩側の坑口はこれくらいにして、次はトンネル上部の軽岡峠の鞍部を越えて、反対側となる荘川町三尾河側の坑口へと移動します。




※その2へと続きます。
Posted at 2021/12/31 03:22:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年12月26日 イイね!

セントラルラリーのサービスパークを見物してきました

2021年11月14日日曜日、愛知県豊田市の豊田スタジアムにてセントラルラリーのサービスパークの様子を見物してきました。

セントラルラリーは、11月13日土曜日と14日日曜日の2日間、豊田スタジアムを拠点として愛知・岐阜の両県にまたがり開催されました。本来は世界ラリー選手権(WRC)の2021年第12戦(最終戦)として開催される予定でしたが、新型コロナの影響によりWRCとしての開催が中止となり、その代替戦として規模を縮小して開催されたものです。

初めは見物に行こうか迷っていました。11月13日土曜日に兵庫県の竹田城跡までドライブに出かけていたので、「日曜日は家でのんびりしてようかなぁ。」と思っていたからです。

ただ、今年は毎年参戦していたTGRラリーがドライバーやすい氏の事情で開幕戦に出場しただけでしたし、時々観戦に訪れていた全日本ラリー選手権もやはり新型コロナの影響で中止や無観客開催ばかり。

「たまにはラリー会場の雰囲気を味わっておかないとな。」とドライブの疲れが残る体を起こし、電車に乗って豊田市まで出かけた次第です。

ラリーカーがサービスのために豊田スタジアムへと戻る時間帯を見計らって11時半頃に現地に到着。

サービスパーク内の様子です。














今年はランチア037ラリーがいました。おととしのセントラルラリー初開催時は、初日でリタイアして姿を拝めませんでしたからね。


グループBラリーカーが好きな私としては、デルタS4とか205T16とかスポーツクワトロS1E2なんかも見たいところですが、日本では無理かな…。

隣に停まっているフォード・エスコートは、サービスタイム中ずっとボンネットを開けて聴診器をエンジンに当てながら何か確認・調整していました。

弟とラリーへ出場していた時にお世話になっていたタクミクラフトさんがサービス担当している日産バイオレット。


サービスアウトしていくラリーカーを見送ります。




最後はスイーパーのスバル・レガシー。ワークス初期のカラーリング。ドライバーは舩木さんですね。


サービスタイムが終わって全車出発し、通路封鎖も解けたところで、タクミクラフトさんのサービスへ手土産を持って顔を出します。


いつも訪れる時はサービス後に訪れるので、余っているケータリングをたくさん食べさせてくれます(笑)。今回も「ノルマだから(笑)。」とサンドイッチにお稲荷さん、味噌汁とたらふくいただきました。


そして小一時間、チームメンバーの方たちの楽しい話を聞きながら、まったりとした時間を過ごさせていただきました。

私にとっての今年のラリーはこれで終わりとなりました。来年はドライバーやすい氏がTGRラリーの活動を再開できるのか、まだはっきりとはわかりませんが、新型コロナが何とか許容できる範囲に落ち着くことを祈り、全日本ラリーやWRCの日本ラウンドを見物できたらいいなぁと思います。


2021年12月25日 イイね!

竹田城跡・神子畑鋳鉄橋・神子畑選鉱場跡

2021年11月13日土曜日、兵庫県朝来市の竹田城跡、神子畑鋳鉄橋及び神子畑選鉱場跡を巡ってきました。

出かけるきっかけとなったのは、弟から「11月13日の土曜日は仕事休みだから、兵庫県の竹田城へ行こう。」との話があったため。どこから竹田城のネタを仕入れたのかはわかりませんが、普段はドライブへ一緒に出かけることがない姉も「行く。」と言い、最後の最後まで迷っていた(長距離だから。)母も結局行くことになり、久しぶりに家族4人でのドライブとなりました。

自宅を早朝5時45分頃出発。国道23号知立バイパス→伊勢湾岸道→新名神→名神→新名神→中国道→舞鶴若狭道→北近畿豊岡道のルートで進み、北近畿豊岡道の和田山ICで下りて国道312号へ。

和田山ICからさらに走ること約2.5km。竹田城跡への最寄りの駐車場の一つである「竹田まちなか観光駐車場」に到着です。自宅から約5時間かかりました。


さて、竹田城跡は正面にある山の頂上にあるのですが、ここでちょっとトラブル発生。母は城跡があの高さの山の頂上にあったとは思っていなかったようで(一応説明したはずなんですが…。)、「(山の中腹まで巡回している)バスに乗っていく!」と聞かず、「本数が少ないから待っているだけ時間がもったいない。」と兄弟で説得。渋々、歩いて登ることに同意しました。

気を取り直して、城跡へと出発です。駐車場から「たけだ城下町交流館」の敷地を通っていきます。


敷地内にある煉瓦構造物。何も説明書きはありませんでしたが、ここはもともと酒造場の跡地(建物の一部は再利用されている。)らしく、一番下に焚口らしきものがあるので大型の竈か何かだったのでしょう。


敷地を通り抜けて、播但線の踏切を渡るとお寺が並ぶ街路に出ます。


右へと曲がり、しばらくこの街路を歩いていきます。


竹田城跡への登山道の入口に来ました。ここからの登山道は「駅裏登山道」と名付けられています。ちょうど播但線竹田駅の裏側にあたるからです。


ここからの道は、城跡を見物するために歩いていく単なる通路ではなく、まさしく「登山道」でした(笑)。




予想以上にハードな登山道を登ること約40分。「竹田城跡料金所」に到着です。城跡まではもう少し登りますが、ここで一旦小休止。


料金所で入場料500円を支払い、城内へと入ります。登ること程なくして石垣が目の前に現れました。


城内からの眺め。さすが「天空の城」と呼ばれるだけのことはあります。


眼下に見える竹田の街。


細長い山頂部の各所に石垣が築かれているので、景色を眺めつつ奥へと進んでいきます。




天守台の石垣が見えてきました。


これは播但連絡道のアーチ橋ですね。


天守台の上から北側の眺め。ここまでに歩いてきた城内を見ています。


こちらは南側の眺め。竹田城跡の紹介写真でよく見かける景色です。この高所によくもまあこれだけの規模の石垣を築いたものだと感心します。




天守台の南側へと下り、天守台を振り返って眺めた景色です。




城内の南の端まで来ました。これで竹田城跡とお別れです。


帰りは違う登山道で駐車場へと戻ります。「表米神社登山道」とあります。


この道が「駅裏登山道」よりもさらにすごい急坂(笑)。行きにこちらを選ばなくて良かったです。


道の名前になっている表米神社へと出てきました。


「せっかく来たから。」と母が参拝中。


「相撲桟敷」。中央に土俵があり(ブルーシートを被せてある所。)、その周りを半円形に囲むように石積みの桟敷が設けられています。兵庫県の有形民俗文化財に指定されているそうです。


表米神社の参道を下っていきます。


播但線竹田駅に停車中のキハ41。


旧木村酒造場。


駐車場へと戻ってきたのは13時半過ぎ。

お腹が減ったので飲食店を検索しましたが、周辺に適当なお店が見つからず、結局近くにあったうどん屋で昼食。




これで今回のメインは終了しましたが、せっかくここまで足を伸ばしてきたので、私の希望で寄り道します(笑)。

竹田城跡からさらに南方向へと移動。同じ朝来市内にある「神子畑鋳鉄橋」へやって来ました。竣工は1885年(明治18年)。日本に現存する鋳鉄製の橋梁では最古のものだそうで、国の重要文化財に指定されています。


この橋は、さらに上流にかつて存在した神子畑鉱山の鉱石を運搬するため、1883年(明治16年)から始められた馬車道の整備に関連して架橋されました。


鋳鉄材は、当時の神奈川県横須賀にあった横須賀製鉄所で製作。兵庫県の飾磨港まで海上輸送されたのち、現地まで陸送されてきたそうです。


この後に見物した神子畑選鉱場跡の説明員さんの話では、どうしてこんな兵庫県の山奥の橋の材料をわざわざ横須賀製鉄所から調達したのかは記録が無いそうです。


ただ、「鉱山開発は明治政府としても重要なプロジェクトの一つだったのは間違いないので、政府が工事に関与していてもおかしくはないですね。」と言われていました。


最後に立ち寄ったのは「神子畑選鉱場跡」。


もともとは銀鉱山として運営されていましたが、資源枯渇により1917年(大正6年)に閉山。その後、1919年(大正8年)に山を隔てた場所にある錫鉱山である明延鉱山の選鉱場として、ここ「神子畑選鉱場」が建設されたそうです。


そして、1987年(昭和62年)に明延鉱山が閉山したことにより、神子畑選鉱場も操業を停止。その後も建物群が残っていたそうですが、これも2004年(平成16年)に解体され、現在の状態になったそうです。


なお、選鉱場内で使用されていた選鉱用機材は、解体の際に東南アジアなどの鉱山へ売却されたそうです。説明員さん曰く、「そこは中古でも日本製の高性能な選鉱用機材ですからね(笑)。」。

インクラインの跡。


トロッコ用のレールでしょうか。


明延鉱山と神子畑選鉱場を結んでいた鉱山鉄道に使用されていた車両。


「明延」と「神子畑」を結んでいたので「明神電車」と呼ばれたり、登山客などの部外利用者から運賃を1円徴収していたので、「一円電車」とも呼ばれていました。


「ムーセ旧居(旧神子畑鉱山事務舎)」。神子畑選鉱場跡や各種鉱山関係の資料が展示されています。説明員の方からの説明を受けることもできます。


弟と二人で見物していましたが(母と姉は車で寝てた。)、ほかに見物者がいなかったためか、説明員の方が事細かに熱心に説明してくれました。


シックナー跡。


「シックナー」を辞書で見ると、「液体中に混じる固体粒子を泥漿(スラッジ)として分離する装置。」とあります。よくわかりませんが(笑)、選鉱場の上部から砕いた鉱石を流し、比重選鉱→浮遊選鉱の順に選別していった後、下部まで流れてきた鉱石成分を含む液体をさらに有用な鉱石成分と不要物と水とに濃縮・分離するための最終装置ということのようです。

今となってはただただ巨大なコンクリート遺構です。








神子畑選鉱場跡にある鉱滓ダム。


鉱滓ダムはウィキペディアによると「鉱山の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱滓)を水分と固形分とに分離し、その固形分を堆積させる施設である。鉱滓堆積場とも呼ばれる。」とあります。

神子畑選鉱場跡周辺の地形図を見てみると、鉱滓ダムと思われる場所が3か所あります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

説明員さんが、「鉱山は開発を一度してしまうと閉山後も永久に管理をし続けなければいけません。」と話をしていました。

私「鉱毒などが漏れ出すのを防ぐためですか?」
説明員さん「その通りです。漏れ出すようなことがあれば大変なことになりますからね。今も三菱の関連会社の社員が常駐して監視や工事をしています。」
私「近くに大きなダムがあるのを見ましたけど、工事現場でよく見かける建屋がありますね。」
説明員さん「見られましたか。あそこのダムも管理されていますし、嵩上げ工事をしたりしています。」

一応、観光地での説明で、こんな裏側のことまできちんと話をしてもらえるとは思ってもみませんでした。なかなか良い勉強になりました。

何だかんだで16時半過ぎまで神子畑選鉱場跡でぶらぶら。母と姉が「いい加減にしてほしい。」という感じだったので、帰ることにいたしました…。

帰り道は播但連絡道へ朝来ICから乗り、福崎ICから中国道へ。時々、休憩を挟みつつ名神高速 大津SAまで進んでから晩御飯。


さらに新名神 鈴鹿PAまで進んだところでまたストップ。


ここで弟と運転を代わり、私のこの日の「営業」は終了いたしました(笑)。
Posted at 2021/12/25 14:10:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2021年12月18日 イイね!

旧三州街道 治部坂峠道を探索する

2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の阿智村側にある駐車帯から出発し、平谷村靭(うつぼ)まで断続的に残る廃道・旧道を歩き、ふたたび治部坂峠まで戻ってきました。


この時点で時刻は13時40分となっていましたが、そんなに時間はかからないだろうと踏んで、さらにもう一つの道跡を探索しに行くことにしました。旧国道ルートの前身である「旧三州街道」の治部坂峠への峠道です。

ちなみに旧街道の峠道に関する事前情報は全く無し。旧三州街道を歩いた方々のブログなどを探して読んでみた限りでは、国道153号の旧道・廃道を歩いて治部坂峠を越えたという内容のものばかりでした。

車道(荷馬車道)改修以前、まだ徒歩道だった街道が峠越えするルートは、峠付近までは谷沿いを通り、峠の直下まで来たら一気に峠へ向かって登っていくパターンが多い気がします。

そこで治部坂峠付近の地形図を見ていて私が推定したルートは下図のとおり。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷筋から峠へと登っていくルートは、一気に登っていくとは言っても、緩斜面があるならそこを通った方が少しでも楽だろうという見当によるものです。

まあ、もともと旧街道の峠道は今回探索するつもりはなかったのですが、前話の最後に歩いた旧国道の切れ端が残っていた場所がちょうど推定ルートにした緩斜面の上部だったので、「ついでに探してみるか。ハズレなら戻ってこればいいし。」という程度の感覚でのスタートです。

旧国道から少し斜面を下りてみると、明らかに人為的と思われる凹みがすぐに見つかりました。「これは旧街道によくあるU字型の堀割り道だよねぇ。」


ちょっと話は逸れますが、私のブログはよく旧道・廃道の写真を載せているわけですが、弟に時折「こんな木や林ばかり写っている写真なんか見ても、どこに何があるか全然わからん。」ということを言われます。

そこで、今回は写真に目印となる線などを書き込んでみました。黄色の線で描いたルートに道跡が見受けられます。


「これは期待できそうだから、もうしばらく下っていってみるか。」とさらに斜面を下りていくことにします。

なにぶん緩斜面なので、はっきりと言える程の道跡は残っていませんが、微妙な地形の凹凸や木々の生え方などを見極めながら進んでいきます。




「これはもうはっきりとした道跡なんじゃないか?」




「間違いないなぁ。これは進んでいくしかないなぁ。」。パッと見は単なる杉林と熊笹の海にしか見えませんが(笑)、もう確定ですね。




胸元ほどの高さになる熊笹の薮に分け入り、カメラを持ち上げてバンザイしながら進んでいきます(笑)。


ただただ笹薮をかき分けて道跡を進んでいく写真をしばしご覧ください(笑)。道跡は確かにありますが、特記するほどの「何か」までは無いのです…。




























ようやく熊笹などの薮の無い、はっきりとした道跡が見える場所に出ました。なかなか道幅が広いです。


幅広の坂を下ると一旦左へとカーブしたあと、すぐに右ヘアピンとなります。この辺りが緩斜面の下端部になります。








ここからは沢に沿った谷筋の道となります。この辺りで時刻は14時を回ったところですが、日射しはまるで夕方のようです。




道跡を断ち切るような深い沢が現れました。本来はもっと右側(上流側)に迂回して沢を渡っていたのだと思われますが、写真を撮った地点から上流側は崩落したのか道跡が消えています。


目の前の沢を渡る一番簡単な方法は、写真に写っている橋を渡ることですが、どうにも渡る気になれませんでした…。橋自体は、高圧線鉄塔の巡視路用に架けられた金属製のものです。ただ、渡し板が木製で腐り気味…。踏み抜いたら3mくらい落ちることになるので、ちょっと洒落になりません。

結局、少し戻って道跡に並行していた沢に下り、沢の中を歩いて対岸に取り付くことにしました。




取り付きやすそうな斜面を見繕って、直登して道跡へと復帰します。


無事に旧街道の道跡に復帰しました。


復帰した場所からわずかな区間ですが、崖地のような険しい地形を通過します。


開けた場所へと出てきました。


真上を高圧線が通っています。そのために刈り払われているのでしょう。


しばらく歩くと左斜めへと分岐していく道筋があったので、そちらへと進んでいきます。




ここで今回初めて石仏に出会いました。この道跡が旧街道である大きな証拠になります。こういう時は思わず声が出ます(笑)。


初めは石仏が二体あるのかと思いましたが、石仏だったのは左側のみで(馬頭観音と思われる。)、右側は自然石のようです。


じっくりと見てみましたが、摩滅したようには見受けられず、程よい大きさ・形状なので、石仏の代わりとして祀られていたものでしょう(ただ、写真で見返してみると、摩滅や剥落があるように見えなくもないですね。)。

さらに進んでいくと、熊笹やススキが生える原っぱに出てきました。




熊笹が生い茂る野原を進みます。ここも高圧線の真下に当たります。


道跡はやがて急な下り坂となり、細尾根へと続いていきます。




中馬(馬を利用した輸送業者)が通った道である旧街道がこんな急坂やこんな細尾根を通っていたとは考えられません。石仏の前から熊笹の野原に出るまでの間で分岐していたであろう道跡を見失ったようです。

仕方ありません。両側がこれだけ明け透けに見える細尾根を歩くのもおもしろいので、このまま進んでいってみます。


尾根の終点に来ました。巡視路は右側の斜面を下りるように案内されていますが、どう見ても「崖」です(笑)。「こんなの下りられるか。」ということで、引き返します。


治部坂峠からここまで歩いてきた推定ルートです(GPSロガーなどの記録装置を持っていないので「推定」です。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

おおむね予想どおりのルートだったことに満足です(笑)。

細尾根に並行する林道へと下りてきました。


この林道を進んでいくと、旧国道の靭集落側の封鎖場所へ合流するはずです。


これでひとまず目的は達せられたので、車へと戻ることにします。林道で戻りつつ、見失った旧街道の道跡が斜面に残っていないかチェックします。

道跡を見つけることができないまま、沢を渡る橋が現れました。橋を渡ると治部坂峠と方向が違ってきてしまうので、ここで旧街道の道跡へ無理やりにでも戻ることにします。


橋を渡らずに熊笹の中を直進して、斜面へと取り付きます。


急斜面を強引に直登して出た場所は、ちょうど石仏の前でした(笑)。


これでスムーズに戻れる目途が立ちました。


原っぱを抜けたところで、旧街道の道跡から左側へと分岐する小道へと入ります。エスケープルートになります。


小さな別荘地の中を通り抜けていきます。ここへ来てこの急坂は堪えます…。


疲れが出てきましたが、何とか治部坂峠を越えて阿智村側の旧道分岐点へ。


ようやく治部坂峠の駐車帯に停めてある車へと戻ってきました。


今回歩いた全ルートはこちら。距離は地形図測定で9.2km以上、時間は4時間50分という行程でした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回、三州街道と記していますが、これは長野県側からの呼び方で、私が住む愛知県側からだと伊那街道や伊奈街道、もしくは飯田街道などと呼ばれています。

長野県の「七道開鑿事業」により、飯田町(現:飯田市)から根羽村までの区間の車道(荷馬車道)改修が完了したのが明治24年(1891年)のことですが、この時までには、治部坂峠を越える道も旧街道ルートから旧国道ルートへと切り替わっているはずですので、すぐには廃れなかったとしても130年前には役目を終えた道の跡を今回は辿ったわけです。

こういう旧街道の跡が地元の村などで手入れされて残されると良いのですが、メジャーな街道ではないですし、特別な遺構があるわけでもないので、このままさらに埋もれていくのでしょうね。
Posted at 2021/12/18 21:17:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2021年12月12日 イイね!

国道153号 治部坂峠の旧道を歩く(2)

2021年11月7日日曜日、長野県下伊那郡平谷村に残る国道153号 治部坂峠の旧道を歩いてきました。治部坂峠の旧道を歩くのは、2008年5月11日・12日以来なので、約13年6か月ぶりとなります。

治部坂峠の旧道の平谷村側ルートを記した地図です。青線が今回歩いた区間になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その1からの続きです。

壊れた百葉箱がある短い廃道区間を通り過ぎて、現国道へと出てきました。


ここから現国道を横断して、右側にある山の斜面へ入り込みます。


2~3mほど斜面をよじ登ると旧道の小さな橋が残っています。


左側の親柱を見ると、陶器製の銘板は欠落しています。


右側の親柱にある銘板も欠けてしまい、「竣功」の文字だけが残されています。


前回に来た時はもう少し残っていたような気がしましたが、13年経過するうちに失われてしまったのでしょうか。

反対側の親柱の銘板もチェックします。

「〇太橋」だけが残っています。前回来た時は「栄太橋」とありました。


前回来た時も「栄」の文字の部分は割れていたので、親柱の辺りに転がっていないかと探したところ、すぐ近くの地面に裏向きになって埋もれていました。


泥を落として、割れた銘板を親柱へとはめ込み、もう一度写真を撮ります。


反対側の右側親柱の銘板の所在はわかりませんでした。一番下の文字が「澤」なので、多分「栄太澤」だったのではないでしょうか。


ということで、一つ目と二つ目に見た親柱の辺りの地面をよく探してみます。

竣功年月の銘板は、「昭和」と「二月」の部分を見つけましたが、肝心な「年」の部分が見当たりませんでした。


もう一つは、橋名のかな書き表記のものでした。ずっと「栄太」は「えいた」と読むものと思っていましたが、「えいだ」と濁るのが正しかったです。


栄太橋から平谷村方向を眺めると笹薮となっています。


橋梁に対する知識があるわけではないですが、橋の下側も眺めてみます。


この時、橋台の傍らの土の斜面に白い物が落ちているのを発見。竣功年月の銘板のかけらです。後で親柱に取り付けてみましょう。


橋台と橋桁が接する部分に薄い木の板が見えています。橋桁の表面に付けてあった板を剥がし忘れたものなのか…。ただ、橋桁の両端とも板が付いたままなので、わざと残したものかもしれません。


もう一度橋の上に上がり、先ほど見つけた銘板のかけらを親柱に取り付けて写真撮影。


栄太橋は昭和34年(1959年)12月に竣功したことがわかりました。少なくとも昭和34年頃、治部坂峠の平谷村側の峠道は自動車通行へ対応するために、橋梁の架け換えなどの改修工事が行われたようです。

割れていた銘板は、無くならないように親柱から外して、それぞれの親柱の傍らに置いておきました。


あとは大雨などに流されたり、誰かに持ち去られたりすることが無いことを祈るのみです。

さらに平谷村方向へと進みます。

次の廃道はほんのわずかに残っているだけでしたが、一応写真に撮っておきます。




次の旧道は、現国道の橋梁を迂回するように右側へと逸れていっています。現国道の橋名は、銘板が見当たらずわかりませんでした。


さっそく倒木が道を塞いでいます。


路肩にあった〇に「建」のマークがあるコンクリート製の標柱。建設省の境界杭のようです。


道路の両側から笹が繁殖して幅が一車線分ほどしか見えません。


橋が現れましたが、親柱も欄干もない簡易的な橋です。旧道の橋名から現橋名を推測しようと思っていましたが、これではわかりません。


橋を渡った先は酷い薮になっています。


谷積みで積まれた石積みの擁壁。緻密に石材を加工して積み上げていない様子から、昭和30年代の改修工事よりも古い時代のものと思われます(憶測ですが。)。


この辺りは現役時代の道幅を保持しているようです。


最後に薮を突き抜けて現国道へと出てきました。


現国道に出たところから100mほど進むと左側へと分岐していく道があります。


治部坂峠からここまでは、現国道と旧国道は並行したり交差したりしながら進んできましたが、ここからはそれぞれまったく別方向に分岐していきます(上下方向で重なる箇所はありますが。)。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今まで点々と歩いてきた区間は廃道と化していますが、ここから峠の下にある靭(うつぼ)集落までは、一般車両が通行不可なだけで、一応自動車自体は通ることができます。

とは言え、日常的に通行する車両が無ければこんな状態になります。一応、路面に轍は付いています。


山側の路肩に残る石積み擁壁。先ほどの廃道にあった石積み擁壁と石材の形状や積み方が同じ雰囲気です。


旧道を跨いでいく現国道の第2上野橋。


古い時代の道路である旧道は地形に逆らわずに造られていますが、昭和末期から平成初期にかけて道路改良された現国道は、橋梁や高架橋を駆使し、できるだけ直線的な線形(その分、急坂が多いですが。)で造られています。

靭集落までの旧道区間で一番目立つのがこの廃タイヤの山。山の斜面を覆い尽くすように積み上げられています。






こんな奥深い山中で大量の産業廃棄物を目の当たりにすると気分が萎えてしまいますが、これだけ大量のタイヤをよくもまあきれいに積み上げたものだと感心する部分もあります(笑)。

笹に侵略されながらも何とか一車線分の道幅を維持しています。


ボロボロの「すべりやすい」の警戒標識。治部坂峠付近の標識の設置者は「建設省」でしたが、この標識の設置者は「長野県」とあります。


通常、国が指定した区間以外の国道の維持管理は、都道府県や政令指定都市が担っています。国道153号は、名古屋市天白区から長野県飯田市までの区間は国が指定する区間(いわゆる「直轄国道」。)になっていて、国土交通省(旧建設省)が維持管理を担っています。

いつ頃、国道153号の一部が直轄国道となったのかわかりませんが、この場所にある標識は直轄国道となる以前に設置されたと考えられます。

旧道の靭集落側の封鎖場所まで下ってきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

振り返っての撮影。左側が旧国道。右側の門扉がある道は林道です。


これで今回歩こうと決めていた治部坂峠の旧道区間を踏破しました。あとは峠の駐車帯にある車まで戻るだけです。

治部坂峠のスノーシェルターの手前まで戻ってきました。スノーシェルターの中には歩道はないので、帰りも旧道を歩いていきます(笑)。


この写真の場所でふと反対側の斜面の中腹を眺めた時に問題が発生しました。何と道路と思われる平場が見えています(笑)。


しばらくこの場所で立ち止まり考えます。

「峠と麓を往復して疲れているから、今日のところはもう帰ればいいだろう。」

「いやいや、もしかしたら今まで自分が知らなかった治部坂峠の道跡かもしれない。そうだったらこのまま見過ごすわけにはいかないだろう。」

残念ながら、後者の意見が勝りました(笑)。

ここまで上ってきた旧道を引き返し、現国道の路肩を歩き、反対側の斜面をよじ登ります。

「ああ、これは間違いなく道跡だわ。」。道跡を辿ることにします。


路肩に低い石積み擁壁があります。やはり旧道に関連していそうな感じです。


はっきりとした道跡が一直線に続いています。




そして、現国道へ斜めにぶつかり、道跡は削られていました。


木々のすき間から現国道の反対側を覗くと、旧道が直角に曲がっている場所が見えています。


この道跡は何なのかと考えてみると、やはり現国道により切り離されてしまった治部坂峠の旧道の一部と思われます。

地形図に書き込んでみるとこんな感じ。赤線が切り離されてしまった旧道のルートです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もともと、旧道は大きく蛇行するようなカーブを描きながら治部坂峠の頂上へと向かっていたのでしょう。それが、峠の頂上へと一直線に切り裂くように現国道が造られたため、残存した旧道と迂回路をくっつけたいびつな道が今に残る「旧道」となったのでしょう。

※このブログをアップしてから、あらためて国土地理院のホームページで航空写真を検索したところ、ちょうどバイパス建設中の頃に撮影したものがあり、旧道だと確認できました。

もう新しい発見はないかと思っていた治部坂峠の旧道歩きでしたが、思わぬ発見で(再発見ですかね。)満足度がアップしました。


国道153号 治部坂峠の旧道探索はこれにて終了。この時点で時刻は13時40分。

ちょっと欲が出てきて、旧道を歩いている最中に「見つけることができないかなぁ。」と考えていた別の物件を探索しに行ってみることにします。
Posted at 2021/12/12 20:55:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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