2023年2月5日日曜日、愛知県豊田市平瀬町の古道を歩いてきました。
平瀬町周辺の現在の地形図です。現在、平瀬町の集落は愛知県道337号が貫いています。県道は集落の西側で巴川を渡り、その先で県道362号と接続しています。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
こちらは現在の平瀬町周辺の戦前の地形図。当時は東加茂郡下山村になります。県道337号の前身となる道が同じように平瀬集落を貫いていますが、巴川を渡った先で右折すると道が途絶えているように見えます。「平瀬」の写植の下敷きになっただけなのかもしれませんが、県道362号の前身道には、その道が接続されているような表記にはなっていません。

※5万分の1地形図「足助」:明治24年(1891年)測図・昭和3年(1928年)要部修正測図・昭和6年(1931年)発行。
その代わりに、巴川を渡った先で左折する道が、峠を越えた場所で県道362号の前身道と接続していました。この先は旧下山村の中心地であった東大沼(現在の豊田市大沼町)へと続いています。
今回は、県道337号の元となる車道が開通するまで平瀬集落へのメインルートだったと考えられる峠越えの古道と、平瀬集落を通過せずに巴川沿いを通っていた古道を歩いてみることにしました。
現地へとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
巴川に架かる県道337号の橋「千歳橋」へとやって来ました。ここで橋は渡らずに直前で右折します。
巴川の河原へと下りると、旧橋の橋台が残っていました。
それでは峠越えの古道へと進んでいきます。
道跡はしっかり残っていますが、誰も通らないので路上は荒れています。
石仏を見つけました。
僧形なので地蔵菩薩でしょうか。「新しい雰囲気の石仏だな。」と覗いてみたところ、光背の左側に「昭和三十一年(1956年)八月三日」の日付が彫られていました。そして右側には「法名釈尼…」とあります。お墓の代わりに祀られた石仏なのでしょうかね。
間伐された木々がゴロゴロ転がっています。廃道・古道を歩いていて悩まされる障害物の一つですね。
また路傍に何か立っています。今度は名号碑のようです。
「南無阿弥陀佛」とだけ読み取れます。年号などはわかりませんでした。
この辺りから岩が剥き出しの場所が現れて、地形の険しさが増してきます。
高い場所は嫌いですが、このような険しい感じの廃道・古道を通るのは好きなんですよね(笑)。
この険しい岩場に石仏がありました。
これは毎度おなじみの馬頭観音ですね。光背に明治四十二年(1909年)の年号が彫られています。険しい場所なので安全祈願で祀られたのか、実際に馬が転落して供養のために祀られたものかもしれません。少なくとも明治42年頃はまだこの道が地域の往来の道として現役だったという証になります。
所々、道が崩れて歩きにくい場所が現れますが、ようやく尾根に近づいてきました。
尾根への取り付き部は、堀割りの道で進んでいきます。
峠手前の分岐点に来ました。東大沼への道は直進。左折すると山を下って、巴川沿いへと出ます。巴川沿いへの道はこの後に向かうことにします。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この分岐点にも石仏がありました。
摩滅がひどく、姿ははっきりとはわかりませんが、頭上に馬頭型のような突起があるので、これもおそらく馬頭観音だと思います。
分岐点を直進すると間もなく舗装路へと出ました。ここが峠となります。左側には神社があります。
舗装路は神社の前で左へとカーブしていきますが、古道は真っ直ぐに斜面を下っていきます。
鳥居の横へ出てきました。社名は春日神社とあります。
もうしばらく下ると正面に県道362号が見えてきました。正面の鞍部を越えていくと東大沼になります。
下まで下りて峠越えの古道を振り返ります。立っている案内板は、峠付近にあった孫根城跡のものです。
巴川沿いの古道へ行く前に孫根城跡へ立ち寄ってみることにします。
峠を通過して、堀割り道まで戻ってきました。ここから孫根城跡へと続く道が分岐していくので、左側へと入っていきます。
孫根城跡です。案内板が立っているだけで、単なる雑木林にしか見えません。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
本丸の背後は崖になっているので、背後からの攻撃は難しい感じです。
これは「堀切」です。矢印部分が「堀切」になります。これは本来の尾根を削り取り、攻城方の進路を遮断するための防御施設の一種ですね。通路部分だけを細く残して、尾根をU字型に大きく削り込んであります。
城跡への出入口部分にある細い土手道。この細い土手道も、城攻めを受けた際には攻城ルートを制限する役割を果たしたのでしょう。
それでは峠手前の分岐点から巴川沿いの古道へと入っていきます。こちら側の道は、千歳橋から登っていった峠道よりも緩やかな道です。
倒木と路面のひどい洗掘。ここを通過するのは少し難儀しました。
川沿いの道跡は総じて不鮮明なことが多い気がします。増水に見舞われて洗われたり破壊されたりすることもあるでしょうし、植林で道跡を潰されていることもあります(植林で潰されているのは峠道でもよくありますが。)。
橋が見えてきました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
戦前には橋が無かった場所なので、そのまま真っ直ぐ進みます。
低い鞍部を越えていきます。
鞍部に神社がありました。
鳥居の傍らに石碑が立っています。
題名と文章から、用水路建設についての記念碑とわかりました。
橋が架かっていたと思われる場所に来ました。河原に下りて周囲を見渡しましたが、橋が架かっていた名残りはまったくありませんでした。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
これで今回予定していた探索ルートの踏査は終了。ついでなので、神社前の記念碑に記されていたものと思われる用水路を辿ってみることにします。
農閑期ということもあり水路が埋まったままの場所もありましたが、補修を加えながら現在も維持されていることがわかります。
取水堰堤まで来ました。
用水路は側溝のような細いものでしたが、堰堤は魚道も備えたしっかりした造りのものですね。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
帰りはこの橋を渡っていきます。
車へと戻ってきました。
今回歩いた道は、下山村誌によると東加茂郡が明治29年(1896年)に重要里道に指定した大沼街道という道の一部のようです。大沼街道は、東大沼から平瀬を経由して旧下山村を縦断していく道でした。ルート図は無かったので、平瀬集落を通る道か、集落内を通らずに巴川沿いを通っていく道か、どちらが大沼街道であったのかはわかりませんが、郡・村にとっては重要な道であったため、費用をかけて改修・保守を続けていたようです。
そんな道も、今ではすっかり存在を忘れられて、山中に寂しくその跡を残すのみです。